大阪自彊館設立の切掛けとされるエピソードの真実
「事実の定着」過程は興味深い
視察-問題の発見-解決の試案-実施-発端の視察の時期-民生委員制度発足と「夕刊売り親子」-恩赦と免囚保護
釜ヶ崎の南の方に、社会福祉法人大阪自彊館がある。2025年10月現在は7つの救護施設を運営するほか、短期休養施設「生活ケアセンター」・介護事業(デイサービス・訪問介護サービス)なども行っている。釜ヶ崎の労働者と縁の深い法人である
その創立は、1912(明治45)年6月。私設の「慈善宿」として出発した。=syousi-5.jpg=
大阪自彊館の創立に関わるエピソードに、「自彊館ができるきっかけは、釜ヶ崎への内務省のお役人やら小河滋次郎らの視察であり、問題解決の取り組みを中村三徳が託された」とするものがある。
そのエピソードは、『弓は折れず : 中村三徳と大阪の社会事業』(大阪社会事業史研究会刊1985年4月)、或いは『大阪自彊館の17年』(1928年11月大阪自彊館刊)で、三徳自身の「語り」として伝えられている。(『弓は折れず : 中村三徳と大阪の社会事業』該当部分=yumi-ore-1.jpg)
『弓は折れず』という本は、「あとがき」(大阪自彊館吉村靫生当時理事長)によれば、中村三徳が関わった八尾隣保館が創立50周年を迎えるのを機に、創立70周年の大阪自彊館も加わって記念の小冊子をつくることになり、執筆を元毎日新聞大阪本社編集委員尾崎直敏に依頼したという。
『弓は折れず』には初版以外に、「改訂版」(1992年10月)と改訂板を復刻した「複刻版」(2016年12月)がある。著者による「改訂板について」によれば、改訂したのは、①題字を現在の大阪府知事のものに変えた②文章を読みやすいように直した。③70周年以降の10年間の主な事柄の記事・年表・写真などを追加した、であり、初稿内容に大きな変更はないようである。今回の引用は特に断らない限り初版による。=kaiteiban-1a.ipg=
尾崎直敏は「編輯雑記」に
『資料がほとんどないということは、最大のネックであった。生前に交わりのあったわずかな人たちを訪ねて聞き取りに頼るほかはない。思い悩んだ末、選んだのが、ノン・フイィクション・ストーリーの形だった。/うわ面をなでただけ、というそしりは免れないと思う。しかし、読み進むうち、もう少し突っ込んだことが知りたいと思う人があれば、これに過ぎることはない。』
と書き記している。
ちなみに、中村三徳は、『弓は折れず』発行の21年前、1964年8月10日に90才で亡くなっている(『弓は折れず』巻末年表)。
それゆえ、『弓は折れず』は、自彊館創設に直接関わった人達より後の世代の人が、資料と聞き取りによってまとめたものといえる。著述に当たって当然、『大阪自彊館の17年』所収の中村三徳の署名入り文章『思ひ出』は参照したであろう。『弓は折れず』冒頭のエピソードは、『大阪自彊館の17年』所収の『思ひ出』、あるいは『自彊館小誌』(1990年版)所収『館の生いたち(中村三徳先生遺稿)』から着想を得ていると思われるが、引き写しただけではなく、「ノン・フイィクション・ストーリー」として膨らましがあるようだ。
その膨らましが、何に基づくものかはあきらかではない。巻末参考資料を丹念にあたればあるいは解明できるのかも知れないが、今は、何らかの根拠があって筆を進めたであろうと推察するにとどめる。
(一つの事例。『弓は折れず』54頁に「大阪自彊館昭和8年度第23次 事業報告書はしがき」の記述からの引用風に、『同村(今宮村)は百余戸の大小木賃宿が軒を並べて太陽なき室、汚物の流れ出た便所、雨天にはいつも通路と下水とが合同する。』との記述がある。第五回内国勧業博覧会開催は明治36年3月からで、その開催準備の影響(長町の裏長屋の今宮村・釜ヶ崎への移転)を述べている箇所だが、この記述を視察の情景の膨らましに、三徳の「思ひ出」とは別に参照したと思われる。)
国立国会図書館で「著者=大阪自彊館」で検索したところ「大阪自彊館の17年」=1928年から「弓は折れず」=1985年までの間に、「大阪自彊館50年のあゆみ」=1962年、「大阪自彊館55年小史」=1966年、「大阪自彊館小誌」=1983・1990年が存在することを確認できた。
尾崎直敏が全てを目にしたかどうかは別にして、それらの中で、「視察が発起のきっかけ」というエピソードを訂正した記述があれば、尾崎は、『弓は折れず』に反映させるべく努めたであろうと考えられる。
さらに、『弓は折れず』より28年後の2013年に刊行された『大阪自彊館百年のあゆみ』でも、第1章11頁で
『明治44年、内務省の一行が釜ヶ崎を訪れました。衛生面・治安ともに劣悪な釜ヶ崎の状況を視察するためと思われます。この時に案内役を務めたのが、当時大阪府警察部(現、大阪府警察)の保安課長だった中村三徳であり、この視察こそ当館誕生のきっかけとなりました。』
としている。創立に関するエピソード(視察⇒設立発起)は、百年変わらず引き継がれていると見なせる。
釜ヶ崎視察の時期は何時か?
ところが、その視察の時期が定かではないようである。
『大阪歴史博物館特別展「百周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」展示解説図録』(飯田直樹・2018年10月、大阪歴史博物館刊)の38頁に紹介されている、『ドヤ街釜ヶ崎の変貌』の中で、村島帰之は、視察の時期について「確かな月日は判明しない」と記している。(『ドヤ街釜ヶ崎の変貌』=jikyou-chu-2a.jpg=は、大阪社会福祉協議会機関紙『大阪の社会事業』に1959~1962年にかけて村島帰之が連載した「大阪の社会事業昔話」の22回目の題名。『展示解説図録』では、掲載機関紙を写真製版したものを印刷掲載している。)
視察の時期については、『弓は折れず』が「明治44年のこと」、『大阪自彊館の17年』=jikyo-17nen.jpg=では「明治44年の春」としている。なるほど、44年であることは一致しているが、月日は明らかではない。村島が「確かな月日は判明しない」としたのは、それ故のことかと思われるが、じつは、月日だけのことではなく、年についても疑問があったようだ。
村島は『大阪の社会事業』に連載記事を書くにあたって、関係者に郵便で問い合わせを行い、改めて事実関係の裏付けをとることに努めたようである。
先に紹介した大阪歴史博物館展示解説図録の資料編183頁に、中村三徳から村島帰之への返信が紹介されているが、視察の時期について、「明治44年」でなく、「明治43年」と書いている=jikyou-chu-1b.jpg=。それにゆえに村島は「確かな月日は判明しない」としたのであろう。
それらを踏まえた上で、飯田直樹は、自分なりに年月日を特定しようと努めたようである。しかし、特定し得る資料に出会えず、別に入手した「愛染橋保育所日誌」に記載されている視察記事(明治44年5月29日)を傍証に、自彊館開設のきっかけとなった視察も同時期にあったとしている(展示解説図録183頁=aizenbasi-44.jpg=)。
が、なにやら歯切れが悪い感じは否めず、事実の混同があったのではないかと言いたげであるようにも思える。
視察団のメンバーで名前が挙がっているのは、『弓は折れず』では、池上四郎警察部長・小河滋次郞博士、中村三徳、『大阪自彊館の17年』も池上四郎警察部長・小河滋次郞博士・中村三徳であるが、「愛染橋保育所」視察の方は、内務省小川滋次郞(注:小河と小川の違いがある)・難波署長・大阪府属川村・大阪市慈善主事稲田穰・大阪府警察部(保安課長)中村三徳で、池上四郎警察部長の名が見えていない。
もうひとつ、なんとなく違和感があるのが、「湯澤規子氏は、この視察を明治44年のこととしている。」というわざわざの飯田の指摘である。三徳の手紙が「明治43年」とあることから、「明治44年」を強調するためにわざわざ参照として示したのかもしれない。あげた参照元は『胃袋の近代』47頁=ibukuro-2.jpg=の記述である。ついでに、47頁の記述のさらに参照元となった小野修三の本(『監獄行政と官僚と明治日本-小河滋次郎研究』慶應義塾大学出版会・2012年)も確認しておく=kangoku-6.jpg=。
湯澤が参照した小野の本の当該部分(127頁)は、小河の司法省退職の時期についてであり、視察時の様子などについては、『大阪自彊館百年のあゆみ』によったもののようである。『大阪自彊館百年のあゆみ』の記述と小野修三の示す小河滋次郞の履歴からして、視察はこの時期としか考えられないということであるのかも知れない。
飯田は、この湯澤規子の説によって村島が明記しなかった視察年月日を、明確な資料のある愛染夜学校視察と同じ時期としたものと思われる。同じ時期とするに留め、同一の可能性に言及しなかったのは、視察メンバーに池上四郎警察部長の名がないことによると思われる。
飯田直樹は、また、2018年の『展示解説図録』以後、2021年に部落問題研究所から『近代大阪の福祉構造と展開-方面委員制度と警察社会事業』を上梓しているが、同書53頁においいて視察時期を「9月」と明記している。
当該箇所は以下である。
『内務・司法両省で監獄行政を担当する官僚であった小河は、清国の獄政顧問を辞した後、1911年5月12日に内務省嘱託に就任した。小河は、その二週間後の5月28日から6月2日にかけて、関西方面の救済事業を視察している。(注26)先に触れた5月29日の愛染橋保育所・同夜学校の視察はこの期聞に行われたものであった。また小河は同年9月頃、内務省一行とともに釜ヶ崎を視察した。この視察が警察事業の一つである大阪自彊館のきっかけとなったと言われている(注27)。』=iida-1.jpg=
(注:監獄行政の変遷を小河の所属で見ると、明治26年=内務省警保局監獄課員、明治30年=内務省監獄局監獄事務官、明治31年=内務省監獄局獄務課長、明治34年=司法省監獄局獄務課長(『職員録』各年による)となる。司法省所属から再び内務省所属となるについては、小河の考えが省議とことなり、司法省内に居場所がなかったことによる。『予が帰朝後欧米を漫遊するの真意は、日本に帰るも予に適当なる地位なきに由る』=北京での送別会での挨拶。上田郷友会月報 第285号 明治43年7月28日発行)
ここでも、参考元は、湯澤規子『胃袋の近代-食と人びとの日常史』が挙げられている。(『(27)湯澤規子『胃袋の近代-食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会、2018年)47頁』)
ただし、当該頁は先に紹介しているとおりで、『1911年(明治44)』との記述はあるが、『9月』とは書かれていない。飯田が『9月』とした根拠は、説明されていないといわざるを得ない。
『大阪自彊館の17年』が「明治44年の春」としていることからすれば、それを「9月」と訂正するにたる資料の提示が必要であると思われる。その必要は飯田も承知のはずで、湯澤の本に明記されていると勘違いしたか、参照資料を挙げるのを失念したかのいずれかであろうと思われる。
視察が行われたのが何月であったかの詮索は一旦置き、視察の行われたのが明治44年であることは、疑い得ない事であるとされているように思える。また、視察が切掛けで大阪自彊館誕生となったことについても、疑問はないとしているようだ。
要するに視察が先で、自彊館設立が後とする因果関係には飯田・湯澤の両者とも疑いがない。
しかし、丁寧に点検すると、矛盾が見える。
『大阪自彊館の17年』では、視察の時期と自彊館発起の時期が共に、44年とされている。ただ、時期については、「春」と「早春」の違いがある。語感から言うと、「早春=自彊館発起」(「沿革」)の方が先で、「春=視察」(「思ひ出」)の方が後のように思える。これでいくと、因果関係が逆転しているように思える。
大阪自彊館の発行物の中で、年月が明らかな確かな資料としては、「寄附金募集願」が『大阪自彊館百年のあゆみ』11頁=kifukin-bosyu1.jpg=に示されている。願い出の日付が明治44年9月11日、許可が同年10月3日となっており、発起からほどよい頃合いの「寄附金募集願」提出と見受けられる。ほどよい頃合いを、半年、6ヵ月と仮定すれば、3月発起となり、「早春」の表現にふさわしいとも思える。
とすれば、発起に先立つ視察の時期は、1~3月のことということになる。この時期を、年明け早々、又年度末近くで気ぜわしいと考えれば、中村が村島に書き送った「明治43年」も考えられなくもないという気もする。そもそも、視察の年が誤り伝え続けられてきたということであろうか。
『弓は折れず』は、書き出しのエピソードとは別に
『練習所を無事に修了した三徳は、その年の十一月、保安課長に就任する。初めての課長職である。/それから約半年、内務省の調査団が、釜ヶ崎の実情を視寮に来ることになり、一行の案内役を勤めるように、という池上の指示があった。これが冒頭に紹介した、大阪自彊館設立に至る、いきさつであった。』(114~115頁)
と、書いている。保安課長就任が明治43年11月、視察案内が半年後とすれば44年5月。愛染橋保育所視察の時期に合致する。中村が村島へ手紙で書き送った「明治43年」は、記憶違いであろうか。
また、『弓は折れず』は、30頁で
『資金づくりも始まった。まず慈善興行を打つ。興行も主管は保安課、お手のものだ。堂島演舞場で芸者の手踊りを行った。これが七月十日のこと。釜ヶ崎視察から百日も経っていない。』
とも書いている。7月10日から100日前は、4月となるが、いずれにしても、4月であれ5月であれ、「慈善宿」の発起が明治44年「早春」=1~3月であれば、設立のきっかけとなった調査の方が、時期的に後ということになるように思える。中村の「明治43年」は、記憶違いというよりも辻褄合わせであるのかも知れない。
ここで少し余談。
「寄附金募集願」の届出が明治44年9月11日、許可が同年10月3日=kifukin-bosyu1.jpg=であるにも関わらず、7月に寄付集めの目的で「芸者の手踊りを行った」のは、先走りというものではないか、警察が関わった事業で可能なことなのか、という疑問を抱くが、『正式の一般的寄附なんぞ募らないで、個人的の寄附一點張りで行』くという方法もあったようである。
1921(大正10)年に大阪労働運動学校の設立運動があったが、経過の報告に募金活動と寄附金募集願の関係が詳しく書かれている。(『大阪労働学校十年史:自1921至1931』大阪労働学校十年史編纂委員会編・1931年・12~13頁)
『一般に寄附を募るためには、その筋の許可を得なければならぬことが判明した。『寄附行爲願』といふものを保安課に出さねばならないのだ。西尾氏はこれがために保安課へお百度を踏んだが、時あたかも、阪神地方に爭議頻發の際ではあり、且つ勞働會舘の建築が、勞働運動の一大城砦となるべきことも豫測されたので、官憲は容易にこれを許さうとはしない。』
『いつまで待つてゐても仕方がないので、兎に角、内輪から、ぼちぼち寄附を募つて行かうではないかといふことになり、大正十年十一月、そのために左の如き「勞働學校設立趣旨書」なるものを作つた。/この印刷物が大分諸方へ配られた。新聞紙上にもこれを報導した。十數口の寄附申込があつて、早くも百何十圓かの淨財が集つた。』
『保安課の寄附行爲願は何だ、かんだと七面倒なことのみを命じて、一向、らちが開きさうもしない。最も努力してゐた西尾氏なども、すつかり業を煮やして、モウ正式の一般的寄附なんぞ募らないで、個人的の寄附一點張りで行かうといひ出した。』
結果は、賀川豊彦から『死線を越えて』の印税の残り5,000円余が寄付されて『金は出來た。寄附は公募しなくても、これだけあれば開校に要する諸種費と、少くとも三年分ぐらゐの人事費は出るぞ、-西尾氏と村島氏は、歸りの阪神電車の中で喜び合つて話したとのことだつた。』と。
日付が明らかなのに因果が逆転して伝わる事例
方面委員制度の発足と「夕刊売り親子」
さて、歴史上の「事実」を論じるのに、「思う」とか「気もする」だとか、えらくあやふやで不適切この上ない言葉の連発であるが、「定説」にはつきもののようである。
たとえば、方面委員制度の誕生と夕刊売りの話がある。林市蔵が淀屋橋の散髪屋で夕刊売りの親子を見掛け、その事情を巡査に調べさせて報告を受けたことが、方面委員制度の発想の元になったという「神話」である。実際は、夕刊売りの話は、方面委員制度告知の2日後のことで、「神話」は前後関係を逆転させて成り立っている。
少し安直に過ぎるが、『林市藏の研究-方面委員制度との関わりを中心とし』(小笠原慶彰 著・関西学院大学出版会・2013年)の書評(社会福祉学 第54巻第2号2013・ノートルダム 清心女子大学人間生活学部 杉山 博昭)から少し引用。
『第二部第八章の「夕刊売り母子の挿話」である、社会福祉史を語る者はこうした美談を好んで、一般向けの文献などで広げていくことがある。しかし、いかに感動的な話であっても、史実に基づかないかぎり、決して益にならない。ことに、「夕刊売り母子」は意図的な誤用がなされてきた経緯がある。挿話が権威づけられ、「皇室の御聖慮」と絡む過程を分析し、天皇制的慈恵と民生委員剃度との親和性にまで議論を進めている』
これについて、もう一つ、
『動機と結果という歴史的説明のなかに持ち込むことは、批判されねばなるまい。/-それは歴史ではなく、みすぼらしい母子の夕刊売りのエピソードを方面委員制度誕生の核に据え、当該制度の効果的運用を図らんとの行政担当者の意図である。歴史ではなく、そうした意図を読み取ることのできる歴史的文書なのである。』
とする小野修三の「解釈」を紹介する。(『公私協働の発端-大正期社会行政史研究』小野修三著・1994(平成6)年4月28日刊・時潮社・125~126頁)
『大正7年10月7日という「方面委員規定が大阪府告示第255号をもって制定された」日付けと、同年10月9日という「夕刊売り母子の件が知事の指示によって当時の淀屋橋派出所の巡査七藤健之助が、上司に復命した」日付けである。この二つの日付けの出来事に関して、当の大阪府知事林市蔵が10月9日の、淀屋橋派出所の復命という出来事を10月7日の、方面委員規程制定の動機として説明しており、その説明の仕方をそれから半世紀後に「大阪市方面委員民生委員創度五十年史」は「期日の違いということがあっても、この(母子の夕刊売りの-小野補)挿話の真実柱に対しては、五十年余も以前のことで今さらそのことに、疑義をはさむこともないとおもわれる。/済生(ママ)顧問は済生(ママ)顧問であり、方面委員は方面委員である。といわれるように、真実は真実である。」と述べ、林市蔵による五十年前の説明の仕方に疑義を投げ掛けることにむしろ反発を示し、そのまま受け入れようとしている。方面委員の任務を理解してもらうためにはまさに《打ってつけ》なりと林自身がおそらく膝を叩いて採用した、街頭で夕刊を売るみすぼらしい母子という事例は、他人ではなくまさに林が遭遇したものであったことは間違いなくとも、そのことを動機と結果という歴史的説明のなかに持ち込むことは、批判されねばなるまい。
言い換えれば、林市蔵も『大阪市方面委員民生委員五十年史』の執筆者も歴史を書いてはいない、ということである。それは歴史ではなく、みすぼらしい母子の夕刊売りのエピソードを方面委員制度誕生の核に据え、当該制度の効果的運用を図らんとの行政担当者の意図である。歴史ではなく、そうした意図を読み取ることのできる歴史的文書なのである。』
小野に「『大阪市方面委員民生委員五十年史』の執筆者も歴史を書いてはいない」と指摘された執筆者の一人に、『どんぞこのこども-釜ケ崎の徳風学校記』の著者碓井隆次がいる。
碓井の言い分は、『淀屋橋畔の林市蔵先生記念像-大阪府方面委員制度の由緒』(『社会問題研究』19巻3号・1970年1月15日・大阪社記事業短期大学社会問題研究会)によって知ることができる。
『(林知事が)理髪店で夕刊売母子を見たのは事実だが、それによって制度の着想の機会を得たとするのは明らかに誤りである。/-/誤りは後世に残すべきではない、とはいえ、あの記念像(淀屋橋畔の林市蔵先生記念像)は虚偽でもなく、無意味でもない、ただ、記念すべき意味を改めるべきである』=usui-1.jpg=
『淀屋橋畔の林市蔵先生記念像は、知事自らが執行のいとぐちを切った「方面委員扱いの最初のカード」として記念すべきものと考えられる。』=usui-4.jpg=
碓井は、前後関係をいいかえるウソは良くない、それは訂正されるべきだ。それはそれとして、夕刊売母子のエピソードも事実であり、制度の活用のありようを示した事例1号として林市蔵が重視し、広めたことは否定される理由はないとしている。
『誤りの文章上の最初、またそれを広めたと思われるのは、村島帰之『善き隣人-方面委員の足跡-』(昭和4年)である。-方面委員の認識を広めた功績ははなはだ大きい。-あえて誤り伝えるほどの意志はなかったと思うが、このエピソードでは、林知事が夕刊売り家庭の悲惨に感じて方面委員制度を創案したことになっている。-村島氏の功績は認めると同時に、その筆のはずみによる誤りは誤りとして訂正すべきものである。』=usui-3.jpg=/rinjin-1.jpg=rinjin-2.jpg=houmen-1b.jpg=
ようするに、『善き隣人』は、『歴史を書いてはいない、ということである。それは歴史ではなく、みすぼらしい母子の夕刊売りのエピソードを方面委員制度誕生の核に据え、当該制度の効果的運用を図らんとの行政担当者の意図』を広めようとしたものである、と肯定的にいっていることになる。
碓井隆次は、言う。
『このことは既に「大阪府民生委員制度四十年史」(昭和33年、大阪府刊)においても指摘されているが、今回、筆者たちが「大阪府民生委員制度五十年史」を編集するに当たっても問題になったところである。/誤りは後世に残すべきではない、とはいえ、あの記念像は嘘偽でもなく、無意味でもない、ただ、記念すべき意味をあらためるべきである・・・このことを明らかにするのがこの一文の目的であるが、そのためには資料を再検討し、「由緒」をたずねる必要がある。/そうすることは、単に誤りを訂正するばかりでなく、制度発足の趣旨を明らかにすることにもなる。』=usui-1.jpg=
碓井は、前後関係の誤りは、村島だけの誤りとしているが、飯田は『展示解説図録』の中で、林市蔵の村島への手紙を紹介しており、それを見ると、何やら共犯関係があるように思われる。少なくとも、方面委員制度の実質を知らしめる事例としての活用について、「なりふり構わず」の共有があったといってもよさそうである。=hayasi-5a.jpg=
小野修三は、制度普及に資するために誤った「神話」の宣伝に努めた林の「独占欲」についても指摘している。
『前章において大正六年末に着任した林が大正二年から続けられてきている救緕事業研究会の経験を無視する態度で府政に臨んだ事実を指摘し、それが林における利益、つまり救済課の創設から方面委員制度の発足に至る、大阪府政の業績の独占欲に発するものであろうと示唆したが、林という人物の内面には府政における新機軸の導入イコールこれまでの行き掛かりの一切の切り捨てという方程式が据えられていたとすれば、これまでの小河を無視することとこれから小河を重用することとは何ら矛盾とは感じられなかったであろう。また、林においては自己に係わる新規事業の効果的運用のためには、後述のように、相当の脚色も許容されると考えられていたように思われる。』(『公私協働の発端-大正期社会行政史研究』小野修三著・時潮杜、1994年・104頁)
『弓は折れず』の著者尾崎直敏も、「夕刊売り親子」のエピソードに触れている。
『このエピソードは当時、毎日新聞記者だった村島帰之がその著書「善き隣人」の中でとり上げている。大阪の社会事業に関心のあるものなら、だれでもが知っている実話である。これが制度公布のキッカケになったと信じる向きもあるが、林が制度公布の同年十月十二日の第六十五回救済事業研究会の席上の講演で「両三日前のできごと」として紹介し、一躍有名になったのである。両二日前は十月九日である。講演の中で、方面委員制度の精神についての例として話したのであって、これが発端になったとは述べていない。-/前後いずれにしてもよいことである。要はその「精神」をくみとることこそ、本旨であろう。』(『弓は折れず』134~135頁)
大阪自彊館創立期の「視察」と「発起」の前後関係についても、尾崎にはこだわりはなかったのかも知れない。
少し、夕刊売りの話とはそれるが、自彊館創立エピソードに関係が有るような無いような話が、碓井隆次の論考に出ているので、紹介しておく。
先ず年代の確認、『大阪自彊館の17年』刊行が1928年。その10年後の『社会事業研究』(1938年3月号)に林市蔵が『二十年の印象』として山口県知事から大阪府知事に転任した当時(大正6年=1917年=暮)の回想を書いている。その紹介である。
『大阪は田舎とは違ふ位の考えはあったが、その実情には全く盲目であった。それで、早速勉強を始め、先づ民衆生活の底を見たく、行李は其の儘として、警視中村三徳君の案内を頼み、大晦日の晩長屋街を方々あるいた。寒さに足袋を穿かない子女達の気の毒な姿など、この時の深刻なる印象が、窮民達に対する私の理解の温床となったかも知れぬ。』
林が視察した『長屋街』がどこであるのか具体的には知り得ないが、中村三徳が、立場上、数多く貧民街視察の案内役を務めたであろう事の例証の一つといえる。場所が「釜ヶ崎」であっても不思議ではないと思う。
このような思い出話に、前後関係・登場人物其の他に混同があっても不思議ではないといえる。自彊館の創立時のエピソードも中村の個人的「思い出」に基づいて「伝承」されたものであり、前後関係・登場人物其の他に混同があっても不思議ではないといえるが、出来るものならば、整理したいと思う。
「事実」を再構築する
大阪自彊館創立のきっかっけとなった釜ヶ崎視察の時期が特定しがたいことを見てきた。その「不特定」は異例であると思われる。
『弓は折れず』には巻末に「略年表」(359~376頁)がある。年表というものは、事項が年月日順に整理されているものを指し、把握できる限り、月、日を明記するのが通常であると思われる。
「略年表」は縦に四段に分かれており、最上段が「年(和暦と西暦併記)」で、年ごとに縦線で区切られている。二段目が「中村三徳とその事業」で、多くは「月日」が明記されている。三段目は「社会事業の動き」、項目末尾に「月」が記されている。四段目は「社会のできごと」、三段目と同じく項目末尾に「月」が記されている。
二段目の「中村三徳とその事業」で、「月日」が記載されていないのは、「明治23(1890)年高砂運送店に住込む」と「明治44(1911)年内務省調査団の釜ヶ崎視察を案内。」の二項目だけである。三段目には「月」の記載のないものはなく、四段目には「明治23(1890)年米価高騰で各地に暴動」のよう月日を特定出来ないかあるいは時期が拡散しているもの、相当期間に亘るものについて幾つか見受けられる。
住み込みの下りは、本文に、
『こうして四年間、(京都の私立普通教校で-98頁)苦学を続けるのだが、遂に力が尽きた。退学届けを出し、知人を頼って大阪に出たのである。高麗僑畔にあった運送店、高砂屋に住み込んだ。仕事は帳場に座っての帳付けである。』(99頁)
とあり、「略年表」では、「明治23(1890)年京都普通教校中退(9月)/高砂運送店住み込む」とあるので、明治23年9月、同じ月のことであると解することができる。
(注:「私立普通教校」は龍谷大学の前身の事であると思われる。『龍谷大学三百年史』=竜谷大学 編 出版年 1939 出版者 竜谷大学出版部(真宗・本願寺)=646頁に「普通教校の設立と発展」の項があり、明治17年9月奨学條例の改正、翌年4月18日に開校とあり、6年生(修業年限=上下二等各3年合計6年。英語科(綴字・読方・文法・歴史・地理・書取・作文)もあった。中村三徳が警官となった後通訳の試験に合格しているのは、この時の勉学が役立ったものと思われる。)
しかし、視察に関しては、本文中では「何日後」とか「半年後」と書かれているが、「略年表」では、明治44年には「内務省調査団の釜ヶ崎視察を案内」と「石原美加と再婚(6月19日)」しか記載がなく、再婚と視察案内は、学校中退と就職・住み込みほど月日に前後の因果関係がともなわず、視察の月日ついて推察する手がかりにはならない。こういう宙ぶらりんのまま放置することは、著者尾崎としても望むことではなかったろうと推察するが、余程裏付けに困ったあげくのことであろう。
先人先学が特定し得ない日付に拘泥するのは愚かしくも非生産的というものであろうが、ひょっとして、「方面委員制度と夕刊売り」のエピソードのように、「不特定」の影に隠された意図があるという気づきに結びつくかも知れず、事実関係の確認を行っていきたい。
まず、『近代大阪の福祉構造と展開-方面委員制度と警察社会事業』(飯田直樹・部落問題研究所・2021年・53頁)から小河の大雑把な視察日程を再確認。
『内務・司法両省で監獄行政を担当する官僚であった小河は、清国の獄政顧問を辞した後、1911年5月12日に内務省嘱託に就任した。小河は、その二週間後の5月28日から6月2日にかけて、関西方面の救済事業を視察している。先に触れた5月29日の愛染橋保育所・同夜学校の視察はこの期聞に行われたものであった。また小河は同年9月頃、内務省一行とともに釜ヶ崎を視察した。この視察が警察事業の一つである大阪自彊館のきっかけとなったと言われている。』
これに関連した、新聞報道二つ。
★1911(明治44)年5月28日 大阪朝日新聞/慈善事業講演
法学博士小河滋次郞氏が内務省の嘱託を受け、京阪神の慈恵救済事業調査中なるを機とし、大阪慈善協会は27日午後4時博士を聘して、府会議事堂にて左の講演を聞けり=犯罪者減少のため感化事業の強化・児童・乳幼児の保護の必要を説き、個人の善意に頼るのではなく国家的事業として経営すべきと
★1911(明治44)年6月4日 大阪朝日新聞/博士と警務長の富田部落視察
内務省の命を受けて貧民部落を視察中大阪、神戸を終わって京都に向ふ途中茨木富田村の貧民部落に向ふた小河博士と共に池上警務長は3日午後零時半頃から出掛けて視察した
時期は一年後になるが、内務省警保局長が犬塚知事、池上警察部長等を伴って大阪の「施設」を「巡回視察」したことを報じた新聞記事もある。視察先には、開館直前の大阪自彊館も含まれていた。
★1912(明治45)年6月15日古賀警保局長談(大阪朝日)
内務省警保局長古賀廉造氏は14日午前来阪し直ちに犬塚知事と同道して府立修徳館及び私立職業紹介所、特殊部落、貧民学校等を視察
修徳館を見たるが-設立については自分は一種の理想をもって計画し 其の設置に際しては専ら自分が設計したり この事業の困難なるは第一に悪児童の感化に従事する立派な指導者を得る事なり、最初36年頃より再三設立を企て居たるが 遂に41年新刑法の実施は是非とも此の事業の設立を必要とする折柄 幸い大阪にて適当なる感化者を得たるを以て-設立したり
今宮の職業紹介所を見たり まだ不完全なるも誠によき事業なり 従来人夫は親方なるものが其の労銀中より必ず頭を刎ね親方自身は坐しながらにして利益を得居れるが この職業紹介所にては 従来親方の刎ねたる金額は依然之を控除し 其の一部は積立金とし一部は貯金して労働者慰安の途を講ずる資となすの必要ありと自分は云い置きたり
特殊部落及び貧民学校を観たり この学校の生徒は宛然野犬の如し、しかし悪少年にもやはり教育を授け なるべく悪事を未然に防ぐ方針を以て養育せざるべからず 一度悪事を為して後 感化院とか修徳館などに監置して懲治するよりも 未だ悪事を為さざる前に於いて悪事を為さざるよう導くことは其の方法に於いても亦其の結果に於いても非常に優れり、尚同学校付近の貧民窟には久島、大田両医師が殆ど競争的に貧民のために無料施療を為し居れり 是れ全く救貧の目的に適ひ居れり
★1912(明治45)年6月15日古賀警保局長談(大阪毎日)
古賀警保局長は14日午前来阪、直ちに犬塚知事、池上警察部長等と共に十三の修徳館を視察、午後今宮の浮浪人収容所自彊館および難波の有隣、徳風の両貧民学校を巡視
現今生活難の声高く今や社会の大問題となり居れるが予等当局者も之について大いに研究し居れるが 慈善事業は姑息の方法を以ては到底救済する能はずと信ず 東京においては目下5万の労働人あるが彼等が職業に就くにあたりては請負人なるものありて賃金の幾割は請負人の腹を肥やす事となり労働者の実収は大いに減少せらるるを以て 予は政府の手にて職業紹介所を設け賃金全部を彼等の収入たらしめ而して一半分を以て彼等の衣食費にあて 一半を貯蓄して病気その他養老等の資にあてんと計画し居りたるも 経費なきため実行するに至らず 今回大阪市の自彊館を見て大いに得るところありたり 今後は浮浪人の寄宿舎たるに止まらしめず貯蓄方法をも講じ労働者永久救済の実を挙げんと切望に堪えざるなり
なお、6月26日の古賀警保局長の巡回視察に中村三徳が加わっていたかどうかは明らかでない。視察の一行が大阪自彊館を訪れた時刻に、中村は「堂島市場」に臨検していたと伝えられるので、少なくとも大阪自彊館の視察には、立ち会っていないと思われる。
★1912(明治45)年6月15日警官の堂島市場臨検/保安課長以下4名の出張(大阪朝日)
政府はあらゆる調整策を出し尽くし最早種切れとなりて施すに策無く この上は買い方検挙等の高圧手段を執らん方針なるにや/昨午前数名の刑事は買い方仲買商店に出張して取り調ぶる処あり/午後は中村保安課長以下4名市場に臨検して階上より売買を監視せり
当時の新聞記事で、小河と池上の組み合わせは6月4日に見られるが、場所が茨木富田村では、釜ヶ崎を回るにしては遠すぎる。日付は、5月28日と6月4日で、飯田が『小河は、その二週間後の5月28日から6月2日にかけて、関西方面の救済事業を視察』と指摘した範囲内であり、飯田が視察の時期とした9月は見当たらないようである。
やはり、「視察」の日時を確定するのは難しいようだ。
では、設立の日時はどうであろうか。
『大阪自彊館の17年』6頁「沿革」第1項は「明治四十四年早春 中村三徳、藤本友信の両氏発起設立。明治四十五年二月宿舎その他の建築に着手、私立大阪自彊館と称し同年六月二十五日宿泊救護及授産事業開始。」とある。=jikyou-17nen-b.jpg=
設立の事情(きっかけとなった視察や土地を借りた話、資金集めのことなど)は、中村三徳の「思ひ出」に詳しいが、なぜか「沿革」に設立発起の一人として名が見える藤本友信については言及がない。『弓は折れず』では34頁に、『設立名儀人には、これまでも、援助を惜しまなかった理解者の一人、帝国漁油株式会社専務、藤本友信の承諾をとりつけて届け出た。』とあるだけである。
視察当日の天候について、『大阪自彊館の17年』中村の「思ひ出」が視察の日は『おり悪しく雨降りで』としているのと異なり、『弓は折れず』では『雨が降っているわけではなかった。雨上がり、というのでもなかった。/日差しも結構強い、初夏も近い季節である。』としている。
同じ『弓は折れず』54頁に、『汚物の流れ出た便所、雨天にはいつも通路と下水とが合同する。』との記述を昭和8年度事業報告から紹介しているにもかかわらず、冒頭視察の記述では、初夏の晴天の日でも泥濘と化すと表現している。
尾崎直敏は、「事実」に即してまとめるつもりは、元々無かったようである。
32頁に『明治四十五年初夏六月、建物は完成する。木造ながら、二階建ての堂々たる建物である。六月二十五日、共同宿泊所、無料職業紹介所の看板を掲げ、事業は長い歴史への、第一歩を踏み出した。その名は「大阪自彊館」-三徳の命名であった。』これは、「私立大阪自彊館」のことであり、
33~34頁に『三徳も毎日、事務所へ顔を出した。不慣れな職員にあれこれ指示を下すのに忙しい。設立名儀人には、これまでも、援助を惜しまなかった理解者の一人、帝国漁油株式会社専務、藤本友信の承諾をとりつけて届け出た。初代館長には典獄(現在の刑務所長)をしていた中村襄を据えている。しかし実務は三徳一人がやらねばならない、』これは、「財団法人大阪自彊館」のことである。
「藤本友信」は『これまでも、援助を惜しまなかった』とあり、『大阪自彊館小史』に掲げられた届出書類の活字復刻からも、「私設」の時から「財団法人」になるまで関わりがあったことは確認できるが、財団法人の役員の中に藤本友信の名は見えない。=syousi-2.jpg=
大阪自彊館の開館を報じる当時の新聞記事によれば、『帝国漁油会社重役藤本有信氏発起にて中村府保安課長が万事肝煎役』とあり、『同館の主事綱尚庸氏はもと奈良県保安課長』ともある。当時の新聞記者の取材に基づく認識では、発起人は藤本有信氏で、館の責任者は綱 尚庸氏ということだったようだ。
★1912明治45年6月26日開館したる自彊館(大阪毎日)
帝国漁油会社重役藤本有信氏発起にて中村府保安課長が万事肝煎役になり 昨年10月より府下西成郡今宮村萩の茶屋にて工事に着手し居たる慈善宿大阪自彊館はコノほど竣成し 25日開館せり/コレは先年払下げになりたる曾根崎、難波両署の古建物をソノまま譲り受け改築したるものにて 総建坪320坪2階建て8棟あり 上下30間に仕切り 衛生上の設備に注意し畳夜具など一切新調し6~7百名を収容し得る予定になり居れり/尚ほ同館の主事綱尚庸氏はもと奈良県保安課長たり ソノ後府の防疫事務にも従事し 貧民救済に趣味をもてる人なる由にて 同館は生活に困る無職者を取調べたる上収容し男子は工場へ通はせ女子には裁縫、ミシン縫など適当の職を与ふる筈
(注:『大阪自彊館の17年』13頁に「開館当時-建坪340余坪、定員限度150人の収容能力」とある。新聞記事の収容予定数は過大である)
(注:帝国魚油精製株式會社は、ダイナマイトの製造に必要な材料・グリセリンを国産化することを目指して、明治44年に設立され、後に日本グリセリン工業株式會社と改名。明治42年『日糖事件』(砂糖官營を目指した政治家買収事件)の余波さめやらぬ砂糖業界の関係者を中心に設立された。)
(大阪自彊館に土地を貸した「木村權右衛門」について、『弓は折れず』では「鬼の權右衛門」「今宮で有名」などと記しているが、鶴橋村猪飼野で代々続く豪農。先祖は木村長門守重成といわれる。また、大塩平八郎の門下生に「東成郡猪飼野村木村権右衛門倅木村熊次郎」の名がある。『日本組合教会便覧 明治42,43年』-1910年日本組合基督教会事務所-によれば、天満教会の信者。)
こういうときは、話を元から整理してみるに限る。
1)自彊館設立の元は、釜ヶ崎の木賃宿視察であった。
『釜ヶ崎方面-木賃宿を七八十軒も一軒々々に出たり入ったりした-この何とか出来ぬものかという一語が財団法人大阪自彊館の生れる動機となった。』(『大阪自彊館の17年』「思ひ出」中村三徳)
2)そこで指摘されたのは、居住環境の悪さであった。
『中には暗室のように暗くって昼でも人の居るか居ないか分からぬような部屋もあった。便所が一ケ所で屎尿が流れ出ている。通路は田のように泥濘である。-「兎てもヒドイ、何とか出来ぬものか」』(『大阪自彊館の17年』「思ひ出」中村三徳)
3)木賃宿街の居住環境改善のために、考え出されたのが「モデル」としての宿泊所建設であった。
『私立大阪自彊館と称し同年(明治45年)六月二十五日宿泊救護及び授産事業開始。』(『大阪自彊館の17年』「沿革」)
ところが、「寄附金募集願」に表された趣旨は、少し趣が違っている。
目的 自彊館と称する慈善宿を設立し浮浪徘徊せる貧民を宿泊せしめ、漸次産業に就かしめ兼ねて国法違反者を予防するを以て主たる目的とす」(『大阪自彊館百年のあゆみ』2013年・11頁写真説明)=kifukin-bosyu1.jpg=
尾崎直敏は、このあたりを、『これ以上はない不潔さ、ドン底からはい上がろうという気力さえ、失わせてしまう怠惰な生活。この木賃宿が醸す空気を一掃する宿泊所を作り、規則正しい生活で、更生への道を開く事業を始めよう、というのが池上の話だった。』(『弓は折れず』28頁)と表現している。
ようするに、陽当たりや風通し、排水の悪さという「物的要素」を問題にしながら、それに直接、木賃宿や通路・便所の配置など街全体の改造として手をつけるのではなく、居住環境の悪さから派生すると彼らが考えた、「ドン底からはい上がろうという気力さえ、失わせてしまう怠惰な生活」を改変するために必要な「宿泊所」をつくり、個々人の更生をはかるという「精神運動」へと方向が変わっている。
1921(大正10)年5月5日、自彊館開設から9年後に主事として入館した吉村敏男は、
『大阪市に於て常時最もドン底生活者の集窟ともいはれる、釜ケ崎附近はこれ等落伍者の聚落地であり、その日常生活は全然不規律無節制で、取分け是等の人達が起臥する多数の木賃宿の光景は、真に汚穢そのもののやうな状態であつて、兎ても人間の這入るやうな所ではなかつたのであった。/斯したやうな暗黒街の真ん中に本館は出来た、いふまでもなく、人生に希望を抛棄した人々、若くは頭を擡(もた)げんとしても、金槌の川流れのやうに浮む瀬のない人々のために、甦生の大精神を鼓吹し、飢へた者には糧を與へ、徒食の者には職を授け、或は疾病を治癒して、活社会に送り出し、更に進んでは環境浄化の大旗をかざして、こうした方面の改善を企画したことは、慥かに世人から驚きの眼を以て見られたのであつた。』(『大阪自彊館の17年』11頁)
と、創業の志を語り、『附近の木賃宿も之に倣つて追々其の設備を改造して、-少なくとも外観上は、年と共に面目を一新するに至つたことは、単に是丈でも地方改良のため貢献し得たといふことが出来ると信ずるのである。』と成果を誇っている。(前書12頁)
吉村敏男は大阪自彊館の位置について『暗黒街の真ん中に本館は出来た』と書いているが、『弓は折れず』34頁には、『当時の大阪市境だった関西線ガードから南へ一キロ弱を隔てた、ネギ畑の真ん中にポツンと建っている。』とあり、創業9年後とはいえ、位置関係や周辺の様子が大きく変わったことを示す資料も見当たらないので、「暗黒街の真ん中」は筆のスベリと思われる。「木賃宿も之(大阪自彊館)に倣つて追々其の設備を改造-外観上は、年と共に面目を一新するに至つた」というのも、時代の変化と見なすべきもので、大阪自彊館の手柄とするのは、身びいきというものであろう。
ただ、大阪自彊館が『人生に希望を抛棄した人々、-金槌の川流れのやうに浮む瀬のない人々のために、甦生の大精神を鼓吹』するための施設という認識は、創業者ではない吉村敏男にも共有されていた様である。
中村や吉村が「更生」の対象と考えた人々(『浮浪徘徊せる貧民』)を、「収容」して訓練するという考え方は、古くからあったようだ。
山口 正著『社会事業史』(社会事業叢書 第15巻・1938年12月・常磐書房)によって確認する。
『明治五年十一月の監獄則第十條には懲治監を規定し、平民その子弟の不良を憂へてこの監に入れんことを請ふものにはこれを許すことに定められた。これは江戸時代に浮浪少年の取締は、彈左衞門の幕下非人頭に一任して、役業に就かしめたるに比して一段の進步』(119頁)
『維新以後にありては諸制の改革とともに刑罰にありても體刑減じて專ら自由刑が課せられることになり ために在監囚人が增加した。殊に明治十五年發布の刑法によりて主刑滿了後引取人のない被監視者は、悉くこれを別房に留置することとなつたために、在監人の數は頓に激增するに至つたのである。しかるに當時監獄費は地方税の負擔であつたから、留置人の增加は忽ち地方費の膨脹を來たしたために、在監人減少の聲は一般の輿論となつてきた。ここにおいて大阪の小林佐兵衞、神戶の關の浦清次郞、東京の岩谷松平ら、拘束を受けたる刑餘者に産を授け職を與へもつて營業の資になさしめんとして人足部屋のごときものを設くるに至つた』(117~118頁)
『(明治)二十二年には監獄則を改めて、刑期滿限の後賴るべきところなき者は、その情狀に由り監獄中に留め生業を營ましむることを得る條項を撤廢した機會に、内務省は「若し彼の刑餘賴る處なき者をして其爲すに一任するときは直に復た罪を犯すに至るの恐れあり、依つて彼輩を保護して自營の道を得せしむるの設計あるを要す、既に各地方にも往々其企ありと雖、尚此際一層此に注意し有志の慈善者を奬勵して保護會社を設立するか、又は其他の方法を以て保護すべき」ことを奬勵したから、爾後各地に保護施設が設置され、そして三十年英照皇太后陛下崩御の大赦減刑令を契機として、同年には更に四ケ所の新設をみ、刑餘者保護發達史上一新紀元を劃したのである。』(117頁)
『監獄改良事業の双生兒の一である刑餘者の保護事業は、明治三十年英照皇太后陛下の崩御といふ悲しき機縁によつて一新紀元を劃し、三十三年監獄の主管が司法省に移さるるとともに司法保護事業もまたその主管となり、四十年に至りてはじめて國庫より奬勵費が交附された。そして四十五年には圖らずも明治天皇崩御の恨事あるや大赦の行はるるに當り、司法內務兩省が勸誘奬勵の結果多く新設されて、第二段の發達をみるに至つたのである。』(134頁)
突如、監獄やら免囚保護やらが出てきて、大阪自彊館がいくら「寄附金募集願」に『国法違反者を予防するを以て主たる目的とする』と掲げているとしても、余りにも唐突ではないかと首をひねる向きもあろうが、創立者の意識としてはそうでもなかった様である。
『大阪自彊館小史』(大阪自彊館・2007年1月・48頁)において、中村三徳は、「明治天皇崩御と大赦」の項で刑余者の保護事業に就いて触れている。=syousi-4.jpg=
『 明治天璽崩御の大赦
明治四十五年は明治天皇崩御の年であった。従って大赦が行われたので恩典に浴する人々が多かった。反面には杞憂を抱く人々もないではなかった。しかし恩赦は全部の受刑者に及ぶわけではもちろんないのであるが、私は当時大阪府の保安課長兼刑事課長であったから、恩赦を受けた入々の保護観察については挙国一致で、それらの人びとの再犯防止についての例規を設けたことは、記憶に新たなところである。
大阪自彊館ならびに和光寮の開館五十周年の今日、これらの事業と一脈相通ずる刑余者の保護指導のために、陰に陽に肺肝を摧き、斯業に榦掌し続けたことは、素より万全ではなかったにしても欣懐とするところである。なお本法人の初代館長中村嚢氏は元典獄である。』
中村三徳に大阪自彊館の運営を託された吉村敏男も、「むかし話」(『弓は折れず』237頁)で開館当時の職員について
『自彊館の初代館長は元典獄さんで、-その職員も元の部下であった看守か、或いは警察職員の経験者で謂ゆるおいこら式の指導法が採用されるので、利用者には一番いけすかないタイプで寄りつき難く、職員もまた同じ思いで長続きしない。私が来たとき三十九番目の職員で、平均在職六ヵ月であった。』と記している。
大阪自彊館の開館が明治45(1912)年6月、明治天皇の死去が明治45年7月30日、この二つだけを単純に比べると恩赦の対策の方が恩赦の原因より先行していて、夕刊売りの話の様に前後が逆転している様だが、そう単純ではない。
明治天皇には持病があり、『明治37(1904)年末に糖尿病が発見され、39(1906)年1月末に慢性腎臓炎を併発して』いた。『天皇の病気は公表されておらず、侍医と徳大寺実則侍従長以外は元老の山県有朋しか知らないことになっていた。』(『明治大帝』飛鳥井雅道・1994年・筑摩書房23・19頁)
しかし、日常の行動から、健康状態の悪化は推測されていた。その経過は、『明治天皇の御日常』(日野西資博・祖国社・1953年)に詳しい。
『(明治)42(1909)年10月の伊藤公の遭難の後ころから、全くここでお段がつきまして御弱りあそばした』(124頁)
『岡山大演習(注:明治43・1910年11月)のころから、どうも陛下の御健康が御宜しくないやうに拝せられました。』『久留米大演習(注:=明治44年11月)の時なども御疲れのひどいのが私どもにもよくわかりました。』『この時の事です。還幸の際、私は御先着で、名古屋離宮に御待ちしてをりましたが、御予定の時刻より一時間あまりも遅れて御着きになつたので、何か途中故障でも起ったのかと思つて聞きましたら、舞子から僅か名古屋までの御汽車が御からだに障つたとみえまして「かう揺れてはどうもならぬ。運転が下手ぢや。早過ぎる。もつとゆっくりやらせ」と仰せられたので、供奉の北條侍従が「これで普通の速力でございます」と申上げると「お前は鉄道の肩を持つ」と言つて叱られたりしたので、結局速力をゆるめたために御予定に遅れたのだといふことでした。』(158~162頁)
ちなみに明治天皇は1852年11月生まれ、1912年7月死亡なので、数え年で61才、満年齢で59才。「完全生命表における平均余命の年次推移」を見ると、明治24年~31年の間に40歳であった男子の平均余命は25.7歳、つまり、65歳までとなっているので、明治天皇は平均より早死にといえる。それからすれば、一般的には「崩御」を心配される年齢ではなかったといえるが、病状を知り得る立場にあった人々は、それぞれに対応しようとしていた様である。
たとえば陸軍は、45年度の大演習の計画を44年12月に立てたが、それは44年大演習で天皇の健康がかなり悪化していることに気づいた事を踏まえ、東京近郊で短期間に終わるものであった。(『明治大帝』飛鳥井雅道・1994年・筑摩書房19頁)
大阪自彊館の方はどうかというと、『明治44年早春 中村三徳、藤本友信の両氏発起設立。明治45年2月宿舎その他の建築に着手、私立大阪自彊館と称し同年6月25日宿泊救護及授産事業開始。』(『大阪自彊館の17年』6頁「沿革」)
これが「恩赦」、免囚保護に備えようとしたものであるかどうかは、関わった人の立場と入手できる情報を検討することによって判断を下せるものと思われる。
中村三徳は、『当時大阪府の保安課長兼刑事課長であったから、恩赦を受けた入々の保護観察について――例規を設けた』(『大阪自彊館小史』2007年)としているが、恩赦の発表が大正元年9月26日で、大阪自彊館の開館が明治45年6月26日、明治と大正で大きく時期が違うように勘違いしがちだが、西暦では同じ1912年で、わずか3ヵ月、大阪自彊館開館の方が先行しているにすぎない。
ちなみに、大正元年11月創立の司法保護団体「大阪佛教和衷會」の創立沿革は
『大正元年 先帝陛下の御大喪に際し、優渥なる恩赦の勅令を發布し給ふや、大阪市內各宗寺院中の有志僧侶協同して、同年十一月本會を組織するに至れり。次で翌大正二年七月一日司法省より下附せられたる金參百圓と有志者の寄附金とに因り、現在の地に事務所を建設し、同時に定員三十名を收容するに足るの設備を完ふ』(『大阪慈恵事業の栞』大阪府・1917年・318頁)
となっており、9月恩赦発令から、事務上の設立に2ヵ月、実務上の設備を整えるのに8ヵ月かかっている。
恩赦発令を受けて保護団体の準備が始まり、実際の受け皿が整うまでの期間は、「大阪佛教和衷會」の場合8ヵ月であったが、大阪自彊館も恩赦に備えたものであったとすれば、相当早い時期から、明治天皇の病状について情報を得ていたと想像されるが、事前に情報を得ることは可能であったのであろうか。
中村は『刑余者の保護指導のために、-幹掌し続けたことは、-欣懐とするところである。なお本法人の初代館長中村嚢氏は元典獄である。』(『大阪自彊館小史』2007年=syousi-4.jpg=)とも述べている。大阪自彊館創立当時にも、刑余者保護が念頭にあったといわんばかりである。
中村三徳が言う初代館長の「典獄」とは何か。少し、説明が必要であろう。明治36(1903)年の『監獄官制』第4条に「典獄は典獄の長となり司法大臣の指揮監督を承け監獄の事務を掌理し所部の所員を指揮監督す/典獄は判任待遇職員の任免を專行す」とあり、「典獄は典獄の長」が同義反復のようで分かりにくいが、先の「典獄」は職制上の地位を示し、後の「典獄」は施設=「監獄・刑務所」を指している。なお、典獄は奏任官で、判任官との違いは、天皇の介在の度合いによる。判任官は、天皇に任命権を任された人(この場合は典獄)に任命される人又は官職のこと(この場合は看守など)で、奏任官は、天皇に名簿を見せて承諾を得た後に任命される人又は官職のこと(この場合は典獄)。
大阪自彊館の初代館長中村嚢は、明治32年職員録(甲)によると、当時は警視庁監獄書記であったとされているが、同書所収の「警視庁官制」に『第四部に於いては監獄に関する事務を掌る/部長は典獄を以て之に補す』とあり、監獄の長が必ず典獄と称されるわけではなかったようである。
ようするに「慈善宿」の代表者が元刑務所長で、現場の責任者「綱尚庸氏はもと奈良県保安課長」というのでは、いくら『国法違反者を予防するを以て主たる目的』としているとしても、民間「慈善宿」としては念が入りすぎているように思える。
(注:中村嚢は小河滋次郎と結び付きの強い人で、共著があるほか小河が発起人として開かれた明治31(1898)年1月の第一回監獄茶話会で幹事を務めている。また、小河同様清国へ招聘されて行き、帰国後の明治43(1910)年に免官となっている。)
(注:綱尚庸は、奈良を退職後大阪で防疫事務の関わった時に、縁ができたと思われる。当時の警察は保健所の機能も担っていたので、防疫事業にも組み込まれていた。自彊館設立時には防疫体制が縮小時期にあったと思われ、次の職を斡旋する意味もあったかも知れない。=pesuto.jpg=)
肝煎役の『中村府保安課長』が、視察を切掛けにしてではなく、恩赦の備えとして企画を立てた可能性はゼロではないと思うが、そう言える根拠を示せるかどうかが問題ではある
中村三徳が保安課長になったのは明治43年11月のことで、当時の大阪毎日新聞にいわゆる「新聞辞令」、取材に基づく人事情報速報のごときものが掲載されている。新聞辞令はあてにならないものの代名詞として使われることが多いが、この場合もそうであった。
★1910(明治43)年11月1日 大阪毎日新聞 保安課長の後任
本部の天野保安課長は難波署長に栄転せしに就き 其の後任には現警務課長岸本警視、又警務課長には 中村会計主任 栄転すべしとのことにて 本日頃 発表せらるべしといふ
記事中の天野保安課長は、警部から警視に昇進して難波署長に転任し、明治44(1911)年6月に徳風小学校を開校までに導いた天野時三郎である。
記事では、警務課長岸本警視が保安課長になり、中村会計主任が警務課長になるとされているが、これが「新聞辞令」で誤報である。実際には、岸本蔦次警視は、群馬県警察部部長に転任しており、中村三徳が保安課長に就任している。
岸本蔦次は、少し変わった経歴の人のようで、明治37(1904)年度判事検事登用試験及第者20名中にその名があり(『法政大学三十七年度第一学年講義録雑報』1904年、37頁)、その後、
明治40年 関東都督陸軍部 法官部 部員 七等十給 従七位、勲六等 岸本 蔦次
明治41年 第17師団(岡山) 法官部 部員 七等八給 従七位、勲六等 岸本 蔦次
明治42年 大阪府警察部 警視 警務課長 六等五級 正七、勲六 岸本 蔦次
(職歴は国立国会図書館デジタルコレクション『職員録』(甲)または(乙)各年による。)
大阪府警察部警務課長は、中村会計主任の直接の上司であったと言うことになるが、これによれば、岸本は軍部とつながりがあり、天皇の健康状態が伝わってくる一つのルートとして想定されうる。
なお、中村三徳は、『当時大阪府の保安課長兼刑事課長であった』(『大阪自彊館小史』2007年)としているが、中村三徳が保安課長であったのは明治44(1911)年から大正2(1913)年であり、大正3年に衛生課長となった翌年に警視に昇進し、難波署長となっている。『職員録』を見る限り刑事課長兼任の記述はない。ただ、大正2年には大阪府警察部に刑事課長の職名がなく、刑事課長心得が置かれているので、実質上は中村三徳の兼務ということであったのかも知れない。
「出獄者」対応の「慈善宿」に警察が取り組むには、日常業務の軽減という側面もあったと思われる。
当時の警察の業務に、「要視察人」の点検があった。「要視察人」というのは、
1 假出獄者及刑の執行猶豫者/2 禁錮又は懲役の刑を受けたる者/3 犯罪常習者/4 微罪不檢擧に付したる者/5 感化院より退院したる者及適當の親權者ありたる爲め感化院に入院せしめさる者/6 擧動不審者/7 無産無職者/8 其の他惡評あり視察を要すと認むる者
等で、視察対象者が相当数にのぼったであろう事が想像される。それら全てに対して、管区巡査が毎月2回以上視察し、定められた名簿の各項目について確認し、変動がある場合に訂正をすることが求められていた。(『警察法規類典 : 加除式 第3巻』神奈川県警察部編・ 1925年・帝国地方行政学会による)
神奈川警察の例(「要視察人取扱規定」明治41年十月6日内訓第六號/改正 明治44年3月内訓第三號)であるが、大阪府警察でも同様の規定があったと考えられ、『大阪府警察史』299頁に明治23年10月10日地方官制改正時点での「警察部各課所事務分掌」では、保安課の分掌に『司法警察及監視仮免執行囚人護送変死傷検視』が挙げられており、当然、中村保安課長も担当したと考えられる。
大阪自彊館の「大正元年12月16日付大阪府知事宛事業概況報告書」=syousi-3.jog=によっても、警察業務の補完としての機能がうかがわれる。
その説明として、ここで、免囚保護事業に就いて一般的な紹介を取り上げておく。
『日本社会事業年鑑大正8年版』(大原社会問題研究所、1926年)92頁に「免囚保護事業」の項があり、『出獄当時に於ける一時的援助(一時保護)または収容所(直接保護)若しくは家庭に於いて適当なる保護(間接保護)の途を講ぜられて居る。』と説明されている。
一時保護を詳しく説明して、『出獄の際一時宿泊せしめ、或いは職業を紹介し或いは衣食、雑品又は旅費を給与し、或いは親族故旧の許まで同伴する』とある。
大阪自彊館も、宿泊場所を提供し、職の斡旋をする。貯蓄を奨励して生活を建て直す指導まで行うというのであるから、保護会と変わらぬ形態であると言える。免囚保護事業を正面掲げて取り組めば良さそうであるが、そうは行かない事情があったようである。
『今宮町誌』は1926(大正15)年9月発行であるから、自彊館創立時の事情を探るには少し時期が遅いが、「免囚保護」の項(304頁)があるので参考までに見ておきたい。
『監獄決第百六十九條に依り、典獄から出獄人中保護を要するものとして通報を受けた者は警察署長と協力して適当な保護を加へ、之が指導誘掖に努めた、さうして親族故旧ある者は是れをして授産を図らしめ、其縁故なき者は、本人の体質抜能資力の有無を斟酌して授産方法を講じ、保護者名簿を作成してふだん観察してゐる、只出獄人保護会を組織する計画の今に成らぬを遺憾としでゐる。』
ようするに、今宮町としては名簿を作成し、警官の視察に委ねている以上のことはしていないということであろう。免囚保護事業に対する社会の理解が十分でなかったことの証が他にもある。
1922(大正11)年当時、「西成郡ノ内粉濱村津守町玉出町今宮町歸住者」の免囚保護を担当していたのは、北河内郡友呂岐村三井本嚴寺内に本部を置いていた「仁濟會」であった。この「仁濟會」の創立は1909(明治42)年と古く、本問法華宗の僧侶が私財をなげうって事業を続けていたという。1915(大正4)年事務拡張の必要から会員組織に変更したが、『一般社会未だ保護事業を解せず、援助を得ること能わず』、1615(大正6)年再び個人経営に戻したという。(『司法保護要覧 上』(司法大臣官房保護課、1924年)
『司法保護要覧 上』には全国の保護会の名簿が納められているが、大阪府下には13の保護会が確認される。その内7か所の所在地が寺院内とされている。
仏教会と監獄制度の結び付きが確立したのは、1881(明治14)年の監獄則改正(法文上に監獄教誨を規定)で、それ以後、教誨堂の建設、専任教誨師の常置が全国化した。
その端緒は、『日本監獄教誨史』(間野闡門・1900年・法蔵館7~9頁)によって知ることが出来る。
『廃仏毀釈の暴論、頻りに我が教界を襲うの時、果然日本監獄教誨の新事業は東本願寺僧(東本願寺淺草別院輪番箕輪對岳)なるものによりて発生せり。』
教導職を拝命した仰明寺住職が、獄中に入り罪人に説諭することの許可を、教部省に取り次いでくれるよう、大谷派本願寺管長に依頼したことに始まるが、申し出の趣は以下。
『西洋各国の政府国禁法律を犯せし民、之を獄に繋ぎ、教師其中に至り懇々説諭し以て先非を悔悟せしむと、-然るに我国未だ其の如きの法あるを聞かす、故に罪人解縛の日、復法則を破るに至る、是れ教諭なきが致す所と嘆息斯に年あり、今や幸に朝廷より教導職に補せられ候に付、仰冀くは囚獄所並に徒刑塲に至り犯罪人に對し、切に教論を加へ度奉存候 此段教部省へ御出願被成下 早速御許可相成るべく樣 御取計之程 幾重にも奉懇願候』
この願いが聞き届けられて、監獄教誨が始まり、ついには、免囚保護も宗教界の責任と云わんばかりにいたる。その極まりを、大正元年七月三十一日内務省宗教局長発の「免囚保護事業實施に關する訓諭」に見ることが出来る。
『今日の囚徒は大概佛教各宗派寺院の檀徒にして 之をして縲紲に繫縛し囹圖に呻吟するに至らしめたるは平素教導の充治ならさるに職由し 其の責全く教家に存す 是を以て出獄人をして良民に復し正業に就かしめ長く其の堵に安し信念を培養し再ひ罪惡を犯さしめさることは誠に是れ教家本然の務なりと謂ふへし』
しかしながら、出獄人に対する世間の目は冷たい。
『さうすると村の人々はその住職に對し前科者を引き寄せる事は、農村の平和を亂し、延いては淳風美俗を破壊するものであるとの反對を受けた』(『荊を分けて』司法保護協会・1940年・16頁)
『先頃も仙臺在の者で、三十八歳の男が、詐欺取罪で三年の刑に處せられ、家には妻もあり、七歳の子もあることとて、放免の後郷里に歸つた處が、親戚家族は「前科者」だというて寄せつけない。此んな冷い世の中なら、いつそ家族も親戚も殺した上で自殺しようと思ひ、それにしても、三年ほど遇はなかつた仙臺の或る親友に、一度挨拶して來てからの事にしようと、同市に出て行つた際、圖らずも救世軍の野戰に通りかゝり、立つて聞くうち、深く心に感ずる所あり、會館について行つて悔改め、基督の救にあづかることゝなつた。』(『救世軍一夕話』山室軍平 編・救世軍出版及供給部・1928年)
是等を勘案するに、寺院という基盤がなければ、保護会を立ち上げることは困難で有り、大阪自彊館は「慈善宿」として立ち上げるほかなかったということであろう。
その必要性を説明するエピソードとして「貧民窟の視察⇒なんとかならぬか⇒三徳への下命」が流布されたということではなかろうかといえば、勘ぐりすぎということになるであろうか。