アンコ考研究ノート ー愛隣地区を中心としてー
A Study on ”Anko”:A Case in the Airin District

                           釋 智徳 Chtoku Shaku   (奈良保育学院研究紀要・1983年1月)

はじめに/1.愛隣と釜ケ崎 ・(1)地形の名称 ・(2)入江説 ・(3)塩釜神社説 ・(4)官庁名称 ・(5)朝風呂順番説・(6)入質説・(7)地震・火事説 /2.愛隣小史/3.スラムとドヤ ・(1)スラムとは・(2)ドヤ街とは /4.アンコの語源 /5.全国的に見るアンコの呼称 /引用文献/参考文献

はじめに

 『第一次釜ケ崎騒動事件』からすでに20年が過ぎた。その間、幾つものトラブルが発生したが、他方ではようやく問題への関心が拡がり世間一般の理解も事件前に比べれば、かなり深まってきた。対策面では残念ながら飛躍的展開はないが、幾つかの施設.機関が創設された。それに伴って現場の担当者たちも、いわゆる腰かけでなくじっくりと落着いて愛隣と取り組むようになり、派手なプレーは見られないが、それなりに地味な努力を続けているのが現状である。
 当地区は去る昭和48年以来は騒動事件と称するものは発生していない(○○事件と公式に発表されるのは西成警察署に本部が設置された事を示す)。しかし筆者は騒動が発生しないことを素直によろこぶことが出来ないばかりか、むしろ心配すらしているわけである。その理由は、騒動事件発生を見ないために、当愛隣地区が平和で、社会福祉・保障・保険・人権の確立が行われたと一般の人たちが信じることである。
 なるほど、本部を設置するまでの事件はないが、放置しておくと事件に発展する『事案』は毎月平均して20件は起こっている。特に8月・12月・1月は毎日起こっているのである。この事案のうちに『科学的道具』とアンコにいわれている街頭テレビがキャッチし、機動隊員が出動するわけである。このような大阪府警最大の規模を誇る西成署の圧倒的警備力と、一方、警察機構としてはめずらしくソフトムードの『相談コーナー』の地味な活躍によって、騒動事件の発生が押さえられているといえよう。コーナーの内容及び歴史、活動については次のチャンスにゆずりたい。
 次に、愛隣地区が『ドヤ街かスラム街か』という区別というのか分類は今日なお幾多の疑問があるが、少なくとも今なお全国に推定800地区のスラム街が存在し、その規模が縮小するどころか増加傾向にある状態である。この中にあって大阪愛隣地区は第一次釜ケ崎騒動事件発生(昭和36年8月1日)以前は、スラム街、すなわち貧民街というイメージが強かった。しかし昭和50年以降においてはスラム的要素が減少し、ドヤ型形式(簡易宿泊所街)に移行している。今日はその移行の過渡期に当たり、筆者はあえてこの愛隣地区を『ドヤ型スラム』と規定したい。近年愛隣地区では、かつての簡易宿泊所というイメージが次第に姿を消し鉄筋7〜8階建のマンション風のドヤが増加している。もちろんエレベーター付冷暖房 完備である。それに伴って人口過密は大阪府下第一はいうまでもなく、日本一にまで膨張している。
 施策面で見ると昭和42年労働省は愛隣地区総合対策事業の一環として約4億3千万円で、同地区にマンモス労働公共職業安定所を含む『労働福祉施設』を設置した。この愛隣総合福祉センターを中心として関係機関が協力して、労働者(かっては労務者)の正常な就労と福祉の向上をはかっている。しかしこのように堂々たる施設を作っても、それを利用するか否かのカギは労働者と求人業者が握っているわけである。オープン以来この施設を利用するグループと全く見向きもしないグループとがはっきりとしている。
 しかし何といってもこの地区を際立って印象付けているものは、未明に職を求めて公道上に集まる5千数百人のアンコの群れであろう。夏期においては午前4時前後、冬期は5時前後にドヤ街は凍てついた道にヒタヒタと鳴る地下足袋の音でうずまるのである。彼等の中には熟練労働者も多く、建設業・製造業・運輸業等にあって、これを支える労働力として重要な役割を担っているのは事実である。このために愛隣地区には各種産業の多数の求人者が集まり、文字通り日雇労働者の一大青空市場が展開されるわけである。それに加えて最近のマラソン不況・慢性不況さては構造不況下にあって、地方から大阪を目差してやってくる生産人口は後を断たない。
 愛隣地区に止まらず大阪府下特に大阪市内の人口集中は激しく、結果として住宅不足、宅地の高騰等が都市過密化と共に切迫し、そのシワ寄せはやはり低所得階層の住宅事情に集中的に具現化されてくる。この現象は又新しいタイプの『スラム街』を形成する傾向にあり、例えば大阪府下の川西市・豊中市等には劣悪な手抜建売住宅が拡がっている。これらは建築した時から、いわば構造的・衛生的・社会的にスラム化しているといえよう。それに建築法違反ばかりか下水・排水・屎尿処理・上水道が不備であり、過密住宅で火事の危険性はもちろんのこと、不衛生でもある。
 筆者は過去20年間に愛隣に関する論文のみに精力を注入して来たが今回は、全く触れていなかった分野について述べてみたい。つまり大阪における日雇労働者=アンコについて、その語源を中心として大阪地方の習慣等も含めていわゆる研究ノート的に展開を試みてみたい。

一、愛隣と釜ケ崎

 いったい大阪人いや浪速の人々にとって愛隣という呼称は、情感的にぴったりこない。元来『釜ケ崎』という地名には一種の愛着があり学者、役人が考える程に差別感、偏見感はない。大体いつ、だれが一方的に変更したのであろうか。今を去る15年前の昭和41年6月15日、大阪府公安委員会主催の大阪府・大阪市・大阪府警本部の会議が開かれた。このトップ会議の中で、釜ケ崎という地名は『変えんならん !! 』ということが議題にのぼり、色々と考えた末、『愛隣』と改称されてしまった。その日の各種夕刊は一面に大々的 に新生愛隣とアピールしたものである。しかし夕刊発行後、時ならずして当地区には次のごとき落首が数十枚張り出された。すなわち『土地の名は、愛する隣りと変れども、腹をみたすにゃ釜が崎(先)なり』と書いてあった。ある日突然、2〜3名の現地を知らぬトップによって一方的に押しつけられた名称に対する抵抗があり、今日なおアンコ自身はむしろ誇らしげに肩いからせて『ワイラは釜のアンコやで !! 』といっている。さて次に当地区をなぜ釜ケ崎と呼んだかについて考えて見よう。現在までに巷(ちまた)では多くの諸説が流布されているが、歴史的及び史実に照らして、これが決定版だとするのがない。以下2〜3の例を挙げて見たい。
(1)地形の名称
 江戸時代初期の当地は、一帯が湿地帯でありその先端は、ちょうど『鎌』の先のようになっていたという。その辺りに貧しい人たちが肩寄せ合ってひっそりと暮らしていたという。その貧しい人たちの一群を当時『鎌ケ崎』の住人と呼んでおり、後に鎌が釜に変わったと伝えられる。
(2)入江説
 少し下って江戸末期には、湿地帯も次第に陸土となり、あたかも入江のようになり、その奥まった所に貧民たちが居住していたといわれる。一体日本列島には入江が多く存在しその名称は、○○岬(崎)というのが多い。その例によって釜ケ崎となったという。
(3)塩釜神社説
 江戸初期、浪速の窮民たちは四天王寺西門(極楽浄土への入口といわれた)を下った湿地帯に住みついていた。現在でいえば一心寺から天王寺動物園までに当たるわけである。彼等の一部は一般民家が捨てた古い釜を拾って来てそれに海水を汲み、古材を集めて焚き、水分を蒸発させて塩を作り、それを売り歩いて生活の糧にしていたという。元来使用不能となった古釜であり、しかも海水を焚くのですぐボロボロになってしまう。しかし彼らはその釜を捨てることなく一定の場所に集め早朝一番に拝んだという。後にその場所に社を建立し『塩釜神社』となるわけである。もちろん御神体はポロ釜であった。このように当地区の人々が何よりも釜を大切にしていたので、一般地区の人々と区別して『釜ケ先(崎)』の住民と呼ばれるようになったという。
(4)官庁名称
 明治30年4月1日、第一次大阪市々域拡張で、当地区の名称を正式に『水渡釜ケ崎』とした。これを見ても前述における入江説、鎌説のごとく水と崎との関連が濃く現れている。その後、町名変更で『今宮村大字釜ケ崎』となり、更に大正14年の第二次大阪市々域拡張で公式名称としての『釜ケ崎』は消滅してしまう。あとには小字として『入船町・曳船町・東入船町・西入船町』という名称のみが残される。そして俗称として今日までの一帯をひっくるめて、『釜ケ崎』と呼んでいるわけである。
 次に述べる5・6・7番の説というか話は、大阪落語界の第一人者である桂米朝師匠から直接筆 者が聞いた話である。
(5)朝風呂順番説
 あいりんの人間は24時間起きて働いているといわれている。つまり昼勤・夜勤・深夜勤・オールナイトという事である。このような勤務体制であるために当地区に一か所ある朝風呂は彼らにとって大変貴重な存在となる。勤務明けのアンコ、バクチ帰りのヤクザ、仕事を終わったバーテン、ホステス、ホスト、売春婦、おかま等種々雑多な職種の人たちが早朝5時オープンを待って行列している。大男のアンコ、彫りものをのぞかしたお兄さんたちにまじってやさしい『おかま』たちもシナを作って待っている。五時前ノレンが出ると列を乱して我れ先にドット押し入るので『おかま』は列外に飛ばされてしまう。それを番台のオヤジが見て『オイ !! ナニサラス、可愛相におかまを先に入れてやれ !! かまがさきや !! 』とどなったからだという。
(6)入質説
 大阪のみに止まらず明治前期における貧民街の惨状は想像を絶するものであった。これは横山源之助による『日本の下層社会』に具体的に説明されている。当時の釜ケ崎住民は四畳半に十人家族というのが普通であったといわれる。彼らは朝食(もちろん目玉粥)後の暖かさの残る『鍋・釜』を入質し(おどりと呼ぶ)僅かばかりのバラ銭を老人や子供の昼食代に与えて、夫婦は別々に日稼仕事に出る。女房は帰りに米・ミソ等を買うが、質草を請出す銭は残らない。そこで貧乏長屋のはしに出て亭主の帰りを待つ。その内一パイやった亭主がフラフラと帰るのを待って、ハラマキより小銭を掴み出し質屋へ走ってゆく。その後姿を見て亭主が『オーイ !! 釜を先に出して来いよ』と大声で叫んだからという。
(7)地震・火事説
 第6説の人々は少くとも入質出来る鍋・釜を持っているが、更に貧しい人は、隣人が炊事の終わるのを待ってそれを借り飯を炊くわけである。このため不意の地震・火事があった場合は自分の持物より、借物の鍋・釜をまっさきに持ち出したという。このために彼らを『釜ケ先(崎)』の貧民と呼んだという。
 以上地理的に考えたり歴史的な見方もしたが、やはり決定的な説には至っていない。かって釜ケ崎が騒動の街であったころ、有名な諸先生がその事件発生の分類は行ったが、この地名には全く触れられていない。落語家の咄といえばそれまでであるが、筆者としては捨てがたい気持があり、あえて文章にしたわけである。そしてこの咄の中に大阪の、浪速の庶民というか民情を垣(かい)間見たのは筆者だけであろうか。

二、愛隣小史

 あいりん地区の沿革を述べるには、やはりその前段階的な大名護町(名呉・那呉・長町・奈呉・那古・名児)の歴史に触れねばならない。先ず推古天皇元年(593)聖徳太子が四天王寺建立の際、合わせて四箇院(敬田.施楽・療病・悲田)を難波荒陵の地に作ったことにはじまる。当時すでに氏族扶養の枠外にはみ出たいわゆる社会的貧困者を対象とした最初の試みであった。
 そして名護町は元来海であり、その海が次第に陸土と変化しそこに道を作り家を建て、ついに一つの町を形成したわけである。元録十四年刊の『摂陽群談』により総合すると南より北へ向かって茅淳海・浅香浦・出見浜・利津.那呉海.鋪津浦.三津浦と浜が続いており、那呉海は現在の生魂辺より住吉に至る一帯の海を称していたようである。そして以上の津々浦々を総称して浪速の人たちは『大江の岸』と呼んでいた。当時の海辺は風光明媚(び)で風流人が詩情を三十一文字に託したとも伝えられている。
 その後、浜には人家が作られ天正11年5月(1583)豊臣秀吉は池田信輝に代わって大を治め、6月2日信長の一周忌を京都大徳寺で営むわけである。秀吉はまもなく大の地は海陸共に交通至便でしかも西国の群雄をよく制御し、東北の雄をも制すことが可能な上に都に近接する点を大いに買ったようである。そのため天下統一に絶好の地であると考えここに『大城』を築く決心をするのである。その時代の名護町は附近一帯に松が繁り、姿はかわったが景色は以前に劣らず大の人たちはここを『那呉の松原』と称し一種の遊び場となっていた。大域でもこの松原を域外の馬場として一部使用していた。
 ところがこの地がちょうど南海道の入口に位置しているため、人の往来が次第に多くなりついに出店等が現れ、ついで掛小屋が建ち人が定住し、一つの町が出来上がった。 名護町誕生の二つ目は、この地に『旅寵屋(はたごや)』の営業が許可されたことであり、ためにこれら旅人宿が次第に増えて行ったことであろう。この名護町誕生の原因となる旅寵屋に関しては、当時の大町奉行である『久貝因幡守正俊』と、その後任奉行である『石丸石見守定次』の二人が深く関連してくる。久貝因幡守は元和5年9月に東町奉行に任ぜられ大の地に旅人宿制度を公認したことは重要である。
 このことが大に『旅籠屋株』を生じさせた原因であり、その場所は名護町(南海道)と片町八軒屋(東海道)、そして曽根崎新地(西海道)の三か所で、総株数23であった。その後、寛文三年(1663)石丸石見守の代に入り諸国より大坂の地へ出稼ぎに来る『力役者』(出稼人足・行商人・酒造人・米搗人・油絞人足等)の増加が激しくなった。石丸石見守はこうした力役者のために名護町に木賃宿(旅人自ら米を携え、薪代のみ支払って泊る、つまり木賃だけで泊めた下等宿で、関東では、モクチン宿と呼ぶ)たる一種の旅籠屋を許可している。その数およそ30株であり、大に集まる力役者宿泊の専用権を所有しいかなる事情があっても力役者はこの30株の木賃宿以外には宿泊を許さない規約を作っている。
 しかし大の規模が天下の台所として増々増大するに従って、力役者も増加する一方で、その便利を計って石丸石見守は更に『足溜屋』(雇人受宿的なもの)を設け、これに力役者を宿泊せしめた。そのかわりこの新設の足溜屋から名護町の『木賃宿仲間株』へ五百文を支払う取り決めを行っている。その後名護町は日々繁盛を続け諸国 よりの流入者も多く、特に西国巡礼・非人・乞食の類が増加し天王寺村字合邦ケ辻周辺は、いつも非人や乞食の野宿場と化していた(天王寺村誌)。
 時代は下って享保17年(1732)ごろの名護町のむさくるしさを随筆タッチで表現したものに上田秋成の『癇癖談(くせものがたり)』が有名である。更に文久2年(1862)名護町6〜9丁目に限り木賃宿30株を特別に許可しており、ここに『ドヤ街』への歴史がスタートするわけである。
 下って明治元年(1868)7月、大府は布令をもって長町木賃宿まがいの『宿屋取締ノ件』として、無宿者の悪業を働く者等が長町の木賃宿に巣食うのを予防する一方、貧民街の拡大を抑制しようとした。更に明治3年2月には『木賃宿ポン引き・不正身元引受』を禁止し、木賃宿泊りは長町に限るとしている。また同19年(1886)12月『宿屋取締規則』(布令第63号)を制定して厳しく取締ろうとしたが、長町では日家賃を取る長屋形式をとり擬装して営業を続けた。この長町貧民街の実情を明治21年、時事新報記者である鈴木梅四郎は『大阪長町貧民社会の実況紀略』として詳しくレポートした。
 翌22年(1889)大市制の実施によって通称長町は南区に属し、同30年の第一次大市々域拡張に伴って、長町に隣接した問題地区であった今宮村・天王寺村は同じく南区に編入された(天王寺村誌・大市域拡張史)。この前後がいわゆる『封建的スラムより近代的スラム』への移行期に当たるわけで貧民人口は大体9千〜1万名前後であった。続いて明治36年天王寺茶臼山において開催された第五回内国勧業博覧会のために、長町表筋に面した不潔住宅は一方的に取り壊され、もちろん一銭の保償もない時代の貧民たちは追っぱらわれ次の場末を求めて移動していく。その跡をたどるならば即ち千日前スラム〜広田スラムと移行していった。
 大正期に入ったころの木賃宿は約39軒で、同6年毎日新聞社会部記者である村島帰之はこの期における貧民の実生活を『ドン底生活』に詳しくえがいた。現役の記者によるだけに今日読んでも感動させられる文章である。翌7年12月29日は飛田遊廓の開廓式があり、木賃宿は51軒に増えている。大正9年には職業紹介事業における権威者、八濱徳三郎が『下層社会研究』を発表した。本書は職業紹介という面から貧民の労働及び生活を分析した一級の本といえよう。その後昭和を迎えるまでに大全市に労働者を止宿させる簡易宿泊所(下等宿・木賃宿)は350軒を数え、口入屋(桂庵)等も70軒を越えていた。一方日雇人足(アンコ)たちは大盛メシ7銭、朝食10銭、昼食14銭という生活で、大南には歓楽と貧困とが隣り合い縞模様のように通天閣を遠まきにして各々発展していくわけである。
 昭和4年(1929)の大府警今宮警察署(現浪速署)特別警備事報によると、貧民人口7,800人とある。同5年吉田英雄の『日稼哀話』には、大阪の立ん坊、先曳、鮟鱇について詳しく、同 9年武田鱗太郎の『小説釜ケ崎』もおもしろい。同11年草間八十雄の『どん底の人達』は、東京における細民生計費についての労作である。
 その後昭和20年3月14日の大大空襲で釜ケ崎は焼野原となる。敗戦後9月9日の梅田厚生館(現在は新阪急ホテルとなり、機能は市立更生相談所が引き継いだ)の開設、今宮保護所(郡昇作所長)の閉鎖とあわただしい時代に入る。しかし不死身の釜ケ崎ドヤ街は、戦後の大にあって戦前にもまして複雑な人間模様を内部に秘めつつ先ずヤミ市場(梅田・天王寺・上六)のトップを切って力強く立ち直っていく。この間のプロセスは郡昇作の『釜ケ崎無宿』及び『日本の玄関釜ケ崎』に余す所なく再現されている。廃虚の街にドヤ・メシヤ・サカヤがいわゆる『スラム企業』の雄として根を張るのに時間はかからない。
 昭和35年2月には西成警察署調査(「釜ケ崎の実態」)によるとドヤは182軒とある。もっとも当時のドヤはカイコ棚式という名の個室方式と、追い込み方式という名のザコネであった。そこに宿泊するアンコたちは、18,000人〜20,000人である。この年8月には東京山谷で第一次山谷事件が発生し全国民に、労働者のエネルギーを確認させた。次いで昭和36年8月1日、一人の老アンコの交通事故処理をめぐって発生したのが『第一次釜ケ崎騒動事件』となったわけである。

三、スラムとドヤ

 現代日本における資本主義社会には、人間各人に個人病理があるように社会病理現象が存在する。すなわち資本主義社会の病理とは貧困・犯罪・非行・病気・公害等が挙げられよう。スラム街、ドヤ街とかいわれているものは通常、都市病理現象と呼ばれておりそれは一般的に次の二つに大きく分類出来よう。第一は都市地域の病理といわれ、その地域自体の病状を示す。第二は都市社会の病理といわれ、これは都市地域の病理をも包含している。しかし狭義にはそうした病状によって引き起こされた『第二次的な社会病理』といってもよい。すなわち地域性の歪みによって引き起こされるもので、例えば前述のスラム街・ドヤ街・犯罪・非行・非衛生等と呼ばれているものがこれに当たるわけである。
(1)スラムとは
 元来Slumberつまり『まどろみ、静かなところ』から来たといわれているように、当初は大都市の露地(路次)裏に静かに眠っている、ひっそりとしている貧民街というイメージを持っていた。それが現代では次のごとくいわれるのが通例となった。すなわちGhetto・Skidraw・Blight area・Gray area 等と呼ばれる。しかしスラムとは抽象的用語であって具体的にはその前に○○という固有名詞がついて、○○スラムと称されるのが一般的である。
 次にスラムの特質であるが、スラムの概念や性格はその時代における社会的、経済的変動によって変化していく。すなわち、
(A)物的環境の荒廃性
  例えば老朽家屋、過密住宅、生活環境の不備と共用の問題及び非 衛生面。
(B)生活状態の低劣性
  収入の不安定さ、低さから来る生活水準の低さ等。
(C)全体社会からの疎外性
  一般社会の住民がいわゆる偏見と差別意識で○○スラムを疎外する。
(D)生活意識の低下・逸脱性
  社会的な協調性、連帯性のなさ及び規範性の低下がこれに当たり、更に本名を互いに言わないという匿名性がこれに当たる。
(E)社会的構造の特異性
  男女のアンバランスが先ず挙げられる。そして年齢のバラツキがあり、職業の特異性、流行、政治への無関心等がこれに当たる。
(F)単身移動労働者
  これは人間関係の疎外状態と労働条件的疎外状況を示す。更に予備飯場的機能の提供、ヤミ労働市場の提供をも含んでいる。
 以上のごとき特質、性格を踏まえて戦後における日雇労働力の推移を考察する(江戸より戦前までの推移は華頂短大研究紀要第12号より25号の拙稿を参照されたい)。
 昭和30年代(1955〜64)の高度経済成長期において、都市の基幹産業を支える新しいタイプの労働力が必要となって来た。それは港湾荷役・建設労働・陸上運輸・製造工場の下請等の非熟練的労働力(臨時的・重労働的)である。このため若い労働力の需要が急増し、賃金も正規の職安ルートより大幅に上昇してくる。もちろん月給制とか保険、保障には無関係の日雇賃金である。
 この外における諸原因としては産業構造の近代化政策の進行につれて第一次産業の『斜陽化・転業・転職』のチャンスが増加した。また生活維持に現金収入が必要となった農山漁村から臨時出稼者・転業を余儀なくされた生産人口が、丁度この新しい非熟練的労働力の急激な需要増加に見合うものとなった。
 そして頼る身寄り、保証人も持たない地方の出身者たちは大都市のスラム街に集まるようになり、そこが大阪における釜ケ崎、東京の山谷であった。
 これらの地域はやがて暴力団支配による一大ヤミ労働市場にと発展していく。大阪の場合約600メートル四方に暴力団の事務所が90か所も存在した時代がありその収入はいわゆるヤクザの『本家筋』へと流れていく。釜ケ崎における手配師(手合衆)は、就労とドヤのあっせんをエサに地方出身の若者たちを現代版タコ部屋又は暴力飯場に追い込んでいく。この時期が戦後における第一期のドヤ増改築期に当たる。
(2)ドヤ街とは
 宿の逆語としての『ドヤ』は劣悪な構造、設備と不安定な居住形態に対する差別的用語といえる。形式的には昭和23年制定の旅館業法に規定された安直な『簡易宿所(旅館)』である。ドヤは壮年の独身男子を中心とした日雇労働者たちが生活の基盤を置く場所(住居)として利用される。
 住居とはいえ形式的にはあくまで一泊単位で計算される『宿所』に過ぎない。彼らは非常に不安定(雇用 形式、天候、景気等)な労働条件に加えて、更に住居条件も精神的情緒的安定性に欠けるわけで、二重に彼らを苦しめている。
 東京では山谷.南千住・高橋ドヤ・深川であり、横浜では寿町、大阪の釜ケ崎等が代表的存在である。ドヤは大都会における貧困、犯罪その他諸々の社会病理現象の吹きだまりといえよう。このことをある有名な都市問題評論家は、社会問題のデパートであるともいい切っている。
 学者、評論家が何と規定しようとも彼らは日本の主要都市において各種産業に重要な労働者(力)となっているのである。またドヤ街は突発的な事件を引き金として群集行動を取り巨大なエネルギーを爆発させる『暴徒(動)の街』にも変わる。
 次に少しドヤの歴史を見ることにしたい。簡易宿所としての『ドヤ』は伝統的な木賃宿の再生的復活として昭和23年以来、前述の旅館業法に明記された。それは和式旅館と滞在下宿のいわば中問形式で、日払式の賄なしの下宿に近い。つまり『多人数共用の安直な簡易宿所』と筆者は規定したい。
 ここで問題にしているドヤは全国的に散在する伝統的な商人宿・遍路宿・山小屋・季節旅館・民宿等のいわゆる一見旅行者専用の簡易旅館とは別の類型である。つまり『日雇労働者専門の簡易下宿』というのがここでいうドヤである。それは一応『宿』という名前はついていても、そこは滞在者の多い素泊合部屋の『準旅館的』な労働者専用下宿と考えられる。もっとも大都市地域の特に東京の山谷、大阪のあいりん地区におけるドヤ街には『短期宿泊型旅人専用簡易旅館(安宿)』が存在し更に『長期滞在型労働者専用下宿』という二種類の簡易宿泊所が、これらの地域に先に触れたメシヤ・サカヤ・雑貨店・古物店等と混在しているのが現実の姿である。

四、アンコの語源

 昭和30年代前半における釜ケ崎のハヤリ歌に次のようなものがあった。この中に現存の有名会社名が出るがお許し願いたい。これはもう過去の歌であり、現在のアンコたちは恐らく知らないだろう。すなわち、『鬼の上組、蛇の間口、情知らずの日通か、鬼の上組二度来るやつは親の無い子か前科者、親の無い子は泣き泣き暮らす。親は草葉のかげで泣く。港アンコはタコ部屋ぐらし、いつもボーシンの目が光る』といわれたものである。時代は変わり人間の力をあまり使用しない今日でも『港湾で危いが通るかい!!』といわれている。
 一体『アンコ』の語源とは何であろうか。いわゆる『日雇労働者』つまり日々雇用される労働者を呼ぶのに全国各地で種々な名称が使用されている。
 以下代表的なものを列挙して見よう。日稼人足・日稼人夫・不労人夫・もうろう人夫・ゆうれい人夫・日雇・土方・先曳・鼻引き・風太郎・夫太郎・河太郎・あんこう・立ちあんこう・へたりあんこう・立ん坊・石炭軽子・河岸軽子・追っかけ・流し・方角・ごも・たこ(他雇)等である。
 一体このように本籍を離れて諸国を流浪する一群の人々は、古く王朝時代にすでに存在していたといわれている。すなわち聖徳太子時代(574〜622)におい ては船泊労働者、農業労働者としてその生計を立てていた。また、一転して現代社会においては鎌棒・イ草刈人夫.田の草日雇.養蚕日雇等がこれに該当するであろう。これらはいずれも手工業労働者であり、強いて求めるならば傭定夫・丁役夫・.雑役夫ぐらいであろう。
 さて時代は逆上り大阪冬の陣、夏の陣が終わり豊臣方がほろび徳川の天下がやってくる。徳川家康は天下を手中に納めると諸侯を懐柔するために盛んに土木工事を起こした。特に江戸城修理は間断なく行われ、また、江戸市中における建築工事も断えることなく行われていた。これを地方の人たちは、『江戸普請・.町普請』と呼び、諸大名は度重なる労役を余儀なくされ、その度に多額の出費を要したわけである。
 この諸大名の労役に狩り出される人足を『千石夫』、と呼んでいた。江戸幕府の政策により労働力の需要が盛んになり次第にこれを専門に扱う職業というか職種が確立していき、これが『労働力需給専門機関』として独立していくようになる。
 大阪地方に限定して見ると日傭宿・宿主・日傭座・請宿.口入屋(関東の桂庵)・日傭周旋・町人寄子・武家寄子・下郎寄子等と称する私設職業斡旋機関が完備し、その度に日傭労働者が増加していく。映画、テレビの時代劇に出る大名の華麗な参勤交代の行列も、国元よりあの姿で来るわけではない。品川の宿あたりまでは国元武士(郷武士)中間のみで質素であり、ここで口入屋、後には御用掛口人屋が必要な人足を集め、大名の石高に応じたスタイルを作り上げたわけである。石高の多い大名筋を多く専属にするとその利益は大きくなり自然勢力を張ることとなる。
 この時代でいう日傭人足とは俗称で『ワラジ稼業』のことを指し、この中には土木工事人足、一般荷役人足がありいずれも宿場の片すみに生きている貧民窟の人たちを斡旋していた。ここでいう口入屋・口入宿・桂庵等はもちろん営利目的の周旋業者であり、江戸中期においては先述の町人寄子斡旋業者の代表は、テレビでおなじみの侠客ー幡随院長兵衛(塚本伊織の長男、幼名塚本伊太郎)をボスとするいわゆる『町奴』であった。これに対して武家寄子斡旋で有名なのは旗本白柄組の代表-水野十郎左衛門であった。この白柄組は町奴に対して『旗本奴』といわれ共に侠客ということになっているが、実質は町民にとってはダニ的存在であった。
 日傭いという言葉を歴史的に見ると日傭者・.日用者・日傭取・日用人足・日用労働者・日傭労働者等と呼ばれている。中でも日雇取という名称は豊臣時代の法令に現れており、その内容としては徒士・足軽・若党・小者・陸尺・六尺であると規定されていた。
 江戸以来の歴史的、社会的、経済的背景を通じてこうした日傭労働者のことを関西、主として大阪では『アンコ』と呼んだ。関東、手として東京では『立ん棒・立ん坊・風太郎・夫太郎』と称し、北海道では『ごも・タコ』と呼んできた。大阪ではこのアンコという宰を『鮟鱇』と書かせ、アンコーと語尾を少し引っ張って発音させている。大阪における魚の鮟鱇というのは、横着魚で自らエサを求めない魚の代名詞であり、それに日傭をダブらせているわけである。更に大阪鮟鱇はいわゆる『浜(港湾・沿岸荷役専門)』専門の立ん 坊を呼称していたが、下っては親方を持たないゆうれい土方・仲士たちを総称するようにかわってくる。この浜専門の鮟鱇をその作業内容で分けると、港湾における『雑貨仲士・雑役仲士』に分類出来る。つまり何にでも使役させられるという意味で別名、『雑貨の手』とも呼ばれていた。また、蔑称としては何をやらしても半人前ということを前提として『二個一・入れ方』とも称されていた。

五、全国的に見るアンコの呼称

 この項目においては『アンコ』という三つの発音を分解して『アン』と『』に分けて漢字は別として、発音がアン又はコと付くものを集めてみた。本来ならば全国各地におけるアンコについて分類整理すべきであるが今後多く出る予定なので今回はその一部を列挙するのみに止める。整理するまでしばしの時間を与えていただき、次のチャンスを待ってほしい。
(1)芸能関係
  クロ・ブタイ・カゲ=舞台の裏方。
  アン=安来節の字余り。
  飛=ドサ廻りの役者。
  踊=ショーガール。
  お茶=大阪道頓堀にあった芝居茶屋におけるおはこびさんの娘。
(2)特別な事例
  アン=刑務所における同性愛の女役。
  アン=刑務所での男色のこと。
  ネッ=刑務所内でのタバコのこと。
(3)家族関係
  荒・荒仕=下男、作男、下働き。
  部屋=次、三男のこと。
  家郎・名・引=本家分家の関係。
4)文献関係
  鮟鱇=昭和28年12月刊の昭和大阪市史第六巻社会編で、屋外労働者のことを鮟鱇と呼んでいる。
  部屋=昭和38年刊、岩井弘融著『病理集団の構造』で、飯場における労働者のことを示している。
(5)職種の名称
  友・手・堀・家の・大手・中手・穿(カルコと呼び、佐渡の銀山の堀子)=以上はすべて銀山関係の言葉として使われた。
  綱・乗・船=漁業関係の用語。
  地・馬=江戸時代宿場町で、参勤交代に出る地元人足の名称。
  挽=山林労働者で下働きの人足。
  刺・針=和裁の下働きの婦人。
  ヒキ=明治20年代における大阪の人力車夫のこと。
  アン=左官職の道具で、こねた壁土を木製円筒型の中に入れ、入り口は斜めに切ってあり肩にかついで持ち運んだ。
(6)歴史的名称
  切=1846年、薩摩藩主島津公は政策の一つとしてガラス製造を手がけ、その製品であるカットグラスを切子と呼んだ。
  雑・陵・官=646年、大化改新当時の貧民の呼び名。
  水=江戸時代中期頃、貧しい人々の間で行われた口べらしで殺されていった子供たち。
  町=江戸時代の町衆。
  寄=口入屋が斡旋する日傭人足。
  アン=江戸時代の岡場所における最下等の女郎で、別名を夜鷹という。
(7)一般的名称
  アン=まんじゅうの餡。
  アン=安固と書き、しっかりしているという意味。
  アン=伊豆大島の方言で、娘のこと。
  アンー=鮟鱇と書き、深海の魚。
  チャン=相撲料理。
  店=大家に対して入居者をいう。
  負・しょい=背中で荷物を運ぶ道具。
  メン=子供の遊び道具の一つ。
  ヘ=男子用下帯のこと。
  えん=遠足、河童の二つの意味。
  どん=頭の大きい魚の総称。
  軽=下働きの男・女をいう。
  シン=漬けもの。
  ハン=印鑑。
  ゲン=げんこつ。
  センー=先生。
  ゴッ=子供の遊び方法の一つであり、前に○○と名が付くのが通例。
  アン=相撲取りで腹の大きく出るタイプをアンコ型といい、筋肉質なのをソップ型と呼ぶ。
  アン=古書店の店先に高く積まれた本が傾くので、古新聞を折って直す。この紙のことをアンコと呼ぶ。
  浮・沈=韓国漁船のトロール方式で海上に浮かすガラス製の玉を浮子と呼び、また、網を垂直に保つためのおもしを沈子と呼ぶ。
(8)地方別名称
(A)北海道。
  タ=ドサンコ以外の人足。
  アン=兄弟喧嘩の末、負けた弟が兄に向かって叫ぶ言葉。
  アン=旭川周辺では、若者特に精神的青二才を呼ぶ。
  山=山仕事を求めて地方山間地にある飯場を渡り歩く人夫。
(b)東北地方
  あだ=女の下働きへの総称。
  ヤッ=秋田市土崎のトラケ山に住みついている乞食。
  おぼ=又はアネで、お嫁さん。
  あん=青森・岩手で兄のこと。
  あん=秋田で、若者のこと。
  イタ=奥羽地方の巫女。
  エジ=農作業中、乳児を入れるワラ製の籠。底には灰を入れその上にワラを敷いてあるので尿をしても吸収する。
 以上の外に津軽地方では、郷土愛的な表現でもって語尾に『コ』を付ける習慣がある。例えば馬っ、牛のことをべごっ、稲っ
(C)関東地方
  穿=佐渡銀山の下働き人足。
  ままっ=群馬地方で先妻の子ども。
  あん=千葉県で、ひき蛙のこと。
  ふ=先述の東北地方におけるエジと同目的なものを福井県三方郡ではふと呼び、外枠はワラでなく竹製である。
(D)関西地方
  あん=和歌山県で、飛び魚の子ども。
  作り=大阪府下で小作人、出稼人。
  アン=大阪の日傭、出面取。
  植=奈良県で田植に傭われる女性。
  あん=京都府北部で、山淑魚のこと。
  ナナ=舟子と書く国鉄今津線の駅。
  デン=滋賀県の甲賀地方では、電気工事の人夫を呼ぶ。
  ヤマ=滋賀県で、見栄を張る、無理をすることをヤマを張という表現をする。
  アン=三重県北部での蔑称。
  ヘン=兵庫県豊岡周辺では、ガンコ者、へそ曲り者を呼ぶ。
  さん=兵庫県下で部屋をちらかして汚すことを、さんにするという。また、触れて汚すことをさわりにするという。
(E)中国・四国地方
  あん一=岡山南部で、バカのこと。
  あらし=岡山南部で、わんぱく坊主。
  カシ=土佐のカツラ漁船における一本釣人夫の見習。
  しっ=四国で、小便のこと。
(F)九州地方
  アカ=熊本地方で、赤ちゃんのこと。
  オナ=熊本地方で、女性のこと。
  ベエ=熊本地方で、牛の赤ちゃん。
  焼き子=対馬で山にこもり炭を作る人。
 以上全国的に見れば極く僅かな事例であるが引続き調査を続行している。なお今回は特別に男女性器に関する言葉と男女の交合に関する言葉は意識して列挙しなかったことを記しておく。

おわりに

 以上大阪における日雇労働者=アンコに関して研究ノート的に述べて来たが、結論としてはその語源ははっきりしない。筆者があいりん地区を知り、働き、研究を始めてはや二十二年が過ぎた。この間あいりんに関連する多数の論文あるいは発表、テレビ・ラジオ出演によって、ある意味では多くの人々に正しいあいりんの姿を知ってもらったといえよう。
 この『アンコ』という言葉の醸し出す大阪的ニュアンスは、とても活字に現すことが出来ない。当の日雇労働者たちはこの『アンコ』という言葉、発音に対して必ずしも不快感を持っていない。むしろ互いに親愛の情と仲間同志であるという気持を現すと同時に一種の誇りを持って『わいらは釜のアンコやで !! 』と胸をはっている。さらに彼らの誇りとは、汚いスタイルで世間から疎外されても、ヤクザ・極道とはちがうという。それは自分で働いて喰っているということ、また、お上(国・府・市・役人)の世話になっていないということであってそれを彼らは端的に男性的とに『わいらは働き人(ど)』だという表現をしている。このセリフは二〇〇軒前後ある立ち呑屋で必ず聞かれるもので筆者の大好きな言葉の一つである。
 この点から考えても『アンコ』という言葉は支配者層、権力者層から強制的に付けられたものではなく、彼ら仲間内から時代を経て自然発生的に出たものと思われる。一方『アンコ』の『コ』は労働の最小単位ではないかと思われる。それはいわゆる血を分けた親子の場合は、その頭に生みの○○という言葉を付けて区別している。一方海上労働力について見るならば、カコ(人夫)・フナコ(船子)・アゴ(網子)等といっている。ここでは『コ』は一種の奉公人であるといえよう。一体労働の指導者であり指揮者である『オヤカタ』に対して、これに下属する労働力提供者あるいは働き手を『コ』と呼称する習慣は古来より存在する。例えば農村における作・田・名に止まらず木挽大工・屋根屋・樽屋・植木屋その他の職等にも広範に見られるところである。この外に狩・水主・山・船・馬・職・縫等もこれに類するわけである。
 各種の呼称もさることながら昭和20年の敗戦以後、数百万人の失業者が街頭にあふれ、彼らはその日の糧を求めてどんな仕事にも飛び付いていった。朝鮮動乱をチャンスに日本資本主義経済は高成長をとげるわけで、景気の変動と日雇労働者の数はその賃金の波動性等と密接に関連しつつ上昇して行った。
 日雇という形式のもとに出稼工・下請工・社外工・臨時工・季節工等とたとえその呼称は変わっても不安定就労であることは間違いない。現代の独占資本主義体制下の経済にあっては、彼らはその体制内から生み出された『日雇就労・アンコ稼業』である。
 最後に論文・研究ノートには異質な大阪弁が相当入ったが、その方があいりんムードをより正確に伝えられると考えた上でのことでお許し願いたい。また、未完成なノート方式で恥ずかしい次第で大方の御叱正と御教示をお願いする次第である。

1981・3・13  自坊紫雲山金剛福寺社会福祉研究所にて


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