連載「寄せ場考」 92〜93年えつとう

 

@今日から本格的な「越冬闘争」に入ることになる。ことさらに、このように切りだすのは、みんなもよく知っているように、「医療センター」軒下での野営が早くから始められているからである。

 そして、誠に残念な事ながら、12月初めの早朝の冷え込みで、高齢の仲間が体温を奪われ、野営地で死亡している。

 釜ヶ崎を取り巻く経済環境は、ことのほか厳しく、また、この冬の寒さもことのほか厳しいと予想されている これまでに、5ヶ月、6ヶ月と長期に渡って野宿を強いられてきた仲間の命は、まさに「風前の灯火」といった情況に追いやられている。

 そのような情況に追いやっているものは、誰か。「経済不況」は仲間を死に追いやることの免罪符となるのか。答えはすでに明らかである。今越冬では、行政責任が追求され、当然の権利として対策が要求される。

 我々の主張が正当なものであるにもかかわらず、実現が困難であることの背景を、「寄せ場」の言葉を通じて考え、闘い続ける意志を支える一助としたいものとの目標を持って、連載「寄せ場考」を開始する。

 

A「寄せ場」という言葉について考えることが、なぜ我々の正当で切実な要求が社会に心よく受け入れられないかを明らかにすることに結びつくのかは、回を追うに従って明らかにする。

 今回は、取りあえず言葉そのものを、追い掛ける。

 「寄せ場」という言葉は、多くの仲間は目にし、耳にすることはあっても、自分の口で使うことは少ないのではあるまいか。

 「日雇全協ニュース」のもっとも新しい号(第66号12月15日発行)の一面二段目に、「寄せ場(青空労働力市場)」とあり、同じ記事内に、「各地・各寄せ場」、「全国寄せ場」との表記もみられる。

 「西成労働福祉センター」が一階フロアーに流しているアナウンスでは「寄り場」を使っていることは、日常耳にするところである。その「センター」の1966年事業報告で、当時の大阪府労働部長は「センター寄り場の新設の具体化を立案」と書いており、「就労あっせん事業」の項では「センター寄り場に集まる日雇労働者は、この地域の全労働者でなく、約その三分の一ぐらい」と書いている。

 

B「寄場」と書かれていれば、なんと読むであろうか。1964年10月発行の『SCI通信誌第6号』に日雇労働者の相馬六郎さんが「最近の釜ケ崎」という記事を発表しているが、その中で「大阪も暑かった夏には西成労働福祉センターの裏の寄場で青かんをしている労務者が沢山(百名余り)居りました。」と書いている。  

 また、吉田英雄という人が自身日雇労働者として働きながらまとめられた『日稼哀話――日傭労働者の奴隷的労働とそのどん底生活の記録』という本の「労働市場」という項には、「富川町労働市場」を説明して、「これ等労働者の寄場は一寸見ると何の秩序もない様に思われるが、実は労働の種類により夫々の寄場があり、一定の場所に一定の労働業態の労働者が集まっているのである。――略――大阪の今宮のそれも多少の統制はあるが此迄に整然たるものではない。」と書かれている。

 これによると、1930年代初期にはすでに今宮――釜ケ崎――に「寄場」といわれるものがあったことになるが、それを「寄せ場」と言っていたのか、「寄り場」と言っていたのかは字面だけでは判らない。古い人によると両方の言い方が混在していたようではあるが。

 

C「寄場」をどう読むかに、今一度こだわる。

 『大言海』という辞典では「寄場(よせば)――人ナド集メ置クトコロ」、「寄場(よりば)――人ノ寄リアツマル場所」となっている。

 『江戸語辞典』では、「深川岡場所で見番の称。芸娼・幇間等の出勤を扱う」として「寄場」を「よせば」と「よりば」の項で取り上げている。ただし、使用例が違う。「よせば」では「寄場へいって板をみて来やしたが、いい子どもしはさっぱりさ」の使用例が紹介されており、これは客が、芸娼の出勤札を見に行っての報告の言葉と思われる。「よりば」の使用例は「お園はあんばいが悪い故、サア、寄場へおことわりはございましたけれど」と、店の者が客に説明しているらしい言葉が紹介されている。

 これによると、「寄場」との関係性、その場に集まる人たちとの関係性によって、「よせば」と言い、「よりば」と言っていたように推察される。そのような使われ方のせいか、『日本語大辞典』では「よせば(寄場)――@ひとの寄り集まる場所。人を寄せ集めて置く場所。」とし、『大言海』のようには分けていない。

D『大日本語辞典』は、『大言海』のように「よせば――人など集め置く所」、「よりば――人の寄り集まる場所」を区別せず、ともに「よせば」の語意に含めていることを紹介したが、「よりば」の項がないわけではない。

 「よりば(寄り場)――@江戸時代、米市のたつ場所。米市場。A明治・大正期、正米市場のこと。B駕篭舁((か)きの集まっている所。(轎夫社・カゴフヨリバの標記例あり))とし、Cとして「よせば(寄場)を見よ」と指示している。

 さて、「寄せ場考」の連載は言葉の詮索をするのが目的ではなかった。我々の正当な要求が、中々認められにくい背景を明らかにするのが目的であった。そろそろ本筋に入るが、その前に、もう一度『大日本語辞典』の「よせば」の項を……「C江戸時代、無宿や放免された囚人で引取人のない者などを、人足として使役するため収容した場所。江戸佃島、その他に設けられた。人足寄場」使用例として歌舞伎のセリフが紹介してある。「さあ、行き所がなけりゃ召連れ訴へをして、寄場(ヨセバ)へでも遣ってやろう」

 「よせば」とは無宿人の収容所を指すのだった。

 

E江戸時代の後半期においては、「寄せ場」とは無宿人の収容所を指すと、前回、紹介したが、収容所の言葉から、釜ケ崎で現在行われている「臨時宿泊所」を連想して、困窮者の居食を助ける施設と思うかもしれない。

 しかし、そのようなものの江戸時代版は、「介抱小屋」とか「無宿養育所」あるいは「御救小屋」とかいうもので、「寄せ場」とは異なるものである。

 では、「寄せ場」あるいは「人足寄せ場」とはどのようなものであったのだろうか。

 「人足寄場」の発足当時の正式名称は、「加役方人足寄場」といい、石川島と佃島の間に設けられた所から、俗に石川島寄場とも佃島寄場とも呼ばれた。収容された無宿は、正式には「加役方人足」と呼ばれるが、寄場人足とも、あるいは柿色水玉の半纏・股引を着せられていたことから、水玉人足とも呼ばれていたようである。

 「加役」というのは、徳川幕府の職制では「先手頭」に加えられる職名で「火付盗賊改役」のこと。「御先手(さきて)」は先鋒の意味で、「先手頭」は戦時には徳川軍の先陣の指揮をとるのだが、平時には火災や町方騒動の鎮圧などに出動、恒久化して「加役」となった。

 

F池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』を読んだことのない人でも、テレビ・ドラマの『鬼平犯科帳』を見たことのある人は多いのではなかろうか。主人公が実在した火付盗賊改役長谷川平蔵をモデルとしていることはよく知られているだろうが、その鬼平が人足寄場の企画を練り、運営を軌道に乗せた人物であることは、あまり知られていないようである。

 長谷川平蔵を人足寄場取扱に任命した老中筆頭松平定信は、大意、次のように書き残している。

 「寄場が出来た。享保の頃から無宿というものが、様々の悪業をなすことが問題となり、一囲に入れれば良いという意見もあったが解決しなかった。安永の頃養育所といものが出来たが、これもうまくいかなかった。それで、皆に尋ねたところ、盗賊改をつとめる長谷川がやってみようといった。佃島に無宿を置き、縄ない、又は米つきなどさせて収入をはかり、これを公用として無宿には米金を一年に幾らと決めて与えた。これによって、今

前は町々の橋ある所には、無宿がその橋の左右につらなっていたが、今はない。盗賊なども減った」

 寄場では原則として仕事が与えられ、賃金が払われた。

 

G人足寄場にどのような仕事があったかというと、当初は精米・炭団・牡蛎殻灰の各仕事場、のちに油絞場や大工・建具・塗物などの手業場もできた。また、一環しておこなわれていたものに、各普請場から木切れを集めてタライや桶をつくる、ホゴ紙を集めて紙を漉く、そして各方面に売るといったことがある。構外作業は主として官の土木・普請人夫で、幕末、品川湾の堤防や横須賀の埋立工事などが盛んにおこなわれた時には、多くの寄場

人足が使用され、町方与力にも二人の人足寄場常掛を置いたほどであるという。

 労賃は、製品売却代金の二割を諸経費として差し引き、残りの三分の一を預かって寄場を出る時に渡し、三分の二は月に三度に分けて渡していたそうだ。

 作業の他に「外使(そとづかい)」という制度があり、寄場の用を果たすために外に出れた。

 人足寄場が舟でしか渡れぬ場所にあり、施設は丸太矢来で囲まれていたこと、部屋には炉があり、喫煙や煮炊きも許されていたが、夜には鍵がかけられたこと、そして、強制収容であったことなどと作業内容をあわせると、ほとんど、現代の刑務所に近しいといえる。

 

H寄場は現代の刑務所に近しいと前回書いたが、江戸時代に「懲役刑」はなかった。普通刑罰体系は、磔――獄門――死罪――遠島――重追放――中追放――軽追放――江戸十里四方追放――江戸払――所払――手鎖――急度叱・叱、であり、過科もあった。「盗賊御仕置段取」は、入墨重敲――入墨敲――入墨――重敲――敲を定めていた。

 世に有名な小伝馬町牢屋は、本来、未決拘留のための施設であり、有罪判決を受けた者を刑の執行まで拘置する場所であった。未決囚を主とするから作業が科せられることはなく、交談自由な雑居拘禁であり、喫煙は禁止されていたが、事実上出来たし、その日常は各自の犯罪歴を誇りあい、博奕・囲碁・将棋等で遊び、あるいは宴会を開き、私刑を行うものであったという。

 寄場へ収容される者への申渡状は次のように書いている。「其方ども儀、無罪の者につき、佐州表に差遣すべきところ、このたび厚き御仁恵を以て、加役方人足にいたし、寄場へ遣し、銘々仕覚え候手業を申付け候はば、旧来の志を相改め、実意に立帰り、職業出精致し、元手にもありつき候様致すべく候、身元見届け候はば、年月の多少に構いなく右場所を差免し、云々…」

 

I人足寄場には無罪の無宿が収容されたのであるが、では、無宿とはどのような人を指していたのであろうか。

 簡単にいえば、「人別帳」から除外されている者のことで、たんなる「ヤド無し」のことではない。

 江戸藩幕体制が、体制維持のために士農工商エタ非人の身分制度をつくり、エタ非人を賎民として差別の対象としていたことはよく知られているところであるが、その身分把握のために、「人別帳」が利用された。

 (この時代に形成された差別意識は現代にいたるも生き続けており、つい最近も広島の中学校教師が、結婚相手として選んだ女性が被差別部落出身であることを理由に周囲から結婚を反対され、差別を克服するのではなく結婚を破談することを選んだことから、相手の女性が自殺するという、許しがたい差別事件が新聞で伝えられている。寄せ場に対する差別もこのことと無縁ではない)

 人別帳から外されるのは、親から勘当された者あるいは刑罰として追放刑を受けた者、そして、村での生活が成り立たなくなって離村した者などである。テレビの時代劇などで「何々の国無宿誰兵衛」と言うのは、生国に人別はあるが、今、生活している場には無い者を言う。

 

J無罪の無宿を捕らえて寄場へ送ったのであるが、江戸のすべての無宿を対象として無宿狩りをおこなったわけではない。いや、実情をいえば、あまりにも無宿が多すぎて取り締まれなかったのである。

 例えば、江戸で長年奉公し、見立てられて女房を持ち、世帯を持つことになり、江戸の人別に載せようとすると、国元からの免許状が必要とされていたが、その免許状は中々発行されなかった。それで、そのうち免許状を取寄せますといったまま、無宿の男女が家も持てば結婚し、子供を産むということもあった。また、奉公人・同居人・長期滞在の旅人も人別に載せなかった。    

 そういった手続き上のことと同時に、江戸の町自体が無宿の存在なしには成り立たなかったこともある。 大名が公儀御普請を受請わされたことはよく知られているが、その時の普請人足は「役之衆(家中の侍・小者)、百姓、日用」であったとされているし、町人身分に科せられた人足役も早くから金銭で納められ、日用が雇われていた。また、武家奉公人の中間・小者――乗物かき・水汲・薪はこび・などの単純労働に従事した――の多くは臨時の日用として雇われていた。

 

K江戸には無宿が数多く存在し、その多くは「人宿」――現代的に言えば人夫出し・人材派遣業者といったところ――などに依拠した日雇労働者であったが、その全てが無宿狩りの対象となったわけではなかった。対象となったのは、「往還をさまよい」「物貰い」している無宿であった。よって、「無宿野非人」、「野非人」と把握された。元来「物貰い」は非人の専業とされており、非人の人別に載せられている者を抱非人と言っていたので、非人頭の統括を受ていない物貰いする無宿を野非人として区別したのである。野非人となった理由を紹介する。

 「(越後奥州筋から奉公稼に来て、働き口がなくて野非人になった由)且又、所々武家方中間部屋又は宿屋などにいる間に、奉公勤め難き病気となり、少々の手当てをもらって出された者が、手当てを使いきり、よるところ無く物貰い致し、野非人に相成候類も之れ有る由。

 御当地場末の町家に住居候其の日稼ぎの者共、食べ続けるも相成兼、その上家賃等相払候儀も致し難く、余儀無く無宿に成、野非人同様物貰い致し居候者も多分に之れ有る由。云々…」

 釜で野宿を余儀なくされる事情によく似ている。

 

L人足寄場はどうしてつくられたのだろうか。

 人足寄場の成立は1790(寛政2)年、松平定信が将軍補佐となったのが2年前の1788(天明8)年。その前年の天明7年には、江戸で大規模な打ち壊しが起こっている。浅間山の噴火などの自然災害によって引き起こされた米価の高騰で、「買い占め・売り惜しみ」を噂された米屋・豪商が襲われた。その数米屋980軒、その他の商家8千軒以上といわれる。そのさまは「無事なる時には奉行を恐るべし。此節に至りては、何の憚ることあらん。近付けば打ち殺すべしと、口々にののしりし故に、両奉行もすごすごと引きとりき」といったものであったという。

 1733年に「惣町中名主共」の請願は次のような文面であった。「此度町方困窮つかまつり、べつして裏々の者、諸職人日用其他其日稼ぎの者必至と難儀いたし候に付、御救に御普請等おおせつけくださりそうらわば有り難い云々…」ようするに、公共事業をおこせと要求。

 打ち壊しの主力は、無宿・日雇い労働層であったのであり、天明7年の打ち壊しが、大阪から都市伝いに東上して江戸に至ったのも日用層の流動性によるとされる。

 

M老中筆頭となった松平定信の第一の仕事は無宿対策であった。

 無宿人が佐渡の金山へ水替え人足として送られていたこともあったが、送るのに手間がかかるのと、人数に限りがあるので、無宿を送るのはとりやめとなっていた。佐渡に送られた無宿で生きて帰れたものは少ない。

 松平定信が老中筆頭になった時には、無宿狩りされた無宿は浅草の非人溜りに預けられていたが、一年に千数百人預けられた内の千人は病死するという有様であった。無宿を預けるための経費は、幕府が負担していた。

 いずれにしても、無宿狩りに会うことは、死刑を宣告されるに等しいこととして、当時の無宿が感じていたであろうことは、容易に推察されし、そういった無宿層が打ち壊しの原動力となったであろうことは、昨年10月の市更相前を思い起こせば、容易に理解できるであろう。

 松平定信は、治安維持を計りつつ、無宿にとっても幾ばくかは利益となる対策を探らざるを得なかったのである。職を与え、独立資金も与える、農民ならば農地を世話する、という将来を約束しての収容という長谷川平蔵の案は、それに合致したものであった。

 

N人足寄場設立の翌年1791(寛政3)年には「江戸町会所」が発足している。江戸の警察力の弱さを、町の地主・家持層の財力で補おうとするもので、飢餓や災害時において町会所が実施した「臨時御救」とよばれる大規模な窮民救済の対象には「其日稼の者」が挙げられている。具体的には、初めて臨時御救が実施された時(1802年)の実施基準7項目の内の第1項「棒手振、日雇稼、其日暮之者」として示されており、臨時御救の対象として先ず第一に日用層(日雇労働者)が挙げられていることが確認できる。また、のちには平時にも町会所の御救が恒常化し、その対象は日用層とほぼ同義である鰥寡孤独の者――日用はほとんど男性の単身者だった――の内の窮乏部分に特定されていた。

 ようするに、日雇いの現役・半現役部分については町会所が対応し、野宿を余儀なくされるまでに追い詰められた者については、人足寄場で対応するという、治安維持管理体制がとられたわけである。

 寄場は江戸以外にも、関八州の主な村につくられたし、1842(天保13)年には、浅草非人溜裏の空地に「非人寄場」もつくられた。山谷との関係は判らない。

 

O「寄場」の言葉を考えることから、二百年前の日雇労働者に対する社会的対応の転換点に話はたどりついた。

 二百年以前の日本と現在の日本は、違う。格段に警察力が強化され、社会の余裕資金のほとんどは個人の手を離れて法人の手元にある。行政・官僚制度が整備され、社会福祉制度は市民の手の届かないものとなっている。

 しかし、にかよった面もある。パート・フリーターなどの不安定就労層の増大――不況時の使い捨て構造の強化――であり、闘わない――声を出さない――者の見殺しであり、住民票の有無による行政差別――無宿・非人化――である。差別も厳然として、存在している。

 二百年以前も今日も、社会を管理する「役目」を持つとされる人々は、日雇い層を扱い自由な労働力としか見ないし、治安対策としてしか対策を考えていない。ようするに、騒がない程度のことをすればよく、それ以上のことをするのは社会的経費の掛けすぎと考え、その間でのみバランスを考えて対策を立てるのだ。日雇いが何人死んだとか、どのように困っているとかの事実で対策を立てているわけではない。そうであれば、我々のとるべ

き道も、江戸も今日も同じ道しかないことになる。