《労務者》概念と差別の起源

松繁と申します。先に報告された平川さんは、20分で報告は終わるといっていたんですが、その倍ぐらいはやったものですから、私の時間はたいして残っていないようです。小柳さんは、「きょう、突然いわれてすぐだから・…・・」といいながらも立派な報告をなさったのに対し、私は半年前からわかっていたんですけども十分な準備ができてなくて、いったいどうなるんだろう(笑)と。だから、まあ、時間は短いにこしたことはないと思ってます。

私がしゃべることは「《労務者》概念と差別の起源」という麗々しい題名になっています。
 

釜共闘(暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議)の運動が起きたころ、鈴木組との裁判闘争のなかで、検事が被告の職業を「労務者」といったことがありました。被告側が「労務者とはいったいなんなんだ、その意味するところを明らかにせよ」というと、検事は説明しきれなくなり、結局「労務者」という言葉を取り下げてしまった。その当時には、運動として《労務者》の使用を許さないということがあった。そのことが、私が《労務者》という言葉にこだわる理由のひとつです。

 しかし、身勝手なようですが、自分たちの側では《労務者》を堂々と使っていた。私たちは『労務者渡世』という雑誌を作っていたわけですが、他人に使用を許さない言葉を、自分たちは使って販売していた(笑)という、ひじょうにおかしなことをしていたことになります。けれども、べつにおかしくはないんです。もともと『労務者渡世』というのは、釜ヶ崎の労働者向けに「アンコのつくるアンコの雑誌」として、釜ヶ崎の新聞販売店などで売っていた。それがたまたまマスコミの知るところとなり、読みたい入がいるからということで外へ流れただけの話。もともとが労働者のもの、自分たちのものだから、そういう呼び方をしたということです。

ただ、ほかの人が《労務者》という言葉を安易に使うのは、どうもおかしいんではないかと長いこと思っていたんですが、それを他人に対して合理的に説明できてなかったような気がします。きょうは、他者に対してできるだけ合理的に説明するにはどうしたらいいか、ということを念頭に置いて考えたことを、うまくいくかどうかわかりません、話してみたいと思います。
 

話のきっかけに、ひとつの事例を挙げます。

1986年12月26日号、『朝日ジャーナル』の「犯罪季評」―これは別役実さんと朝倉喬治さんが対談しているものですが、そのなかで、国鉄が解体させられることについて、「国鉄労働者って、最後の労働者のイメージがありました」「ナッパ服着て、ツルハシかっいで線路際を歩いていく」ということを語ったあと、大阪の四天王寺境内で少年たちが、野宿を余儀なくされていた労働者たちをエアガンで撃った話題に移りました。

そして朝倉さんの発言―「大阪・天王寺の浮浪者襲撃ってあったでしょう」に丸カッコが続いて、「四天王寺境内で野宿していた労務者を三人組が襲い……」と説明が付けられていました。ここでは《労働者》と《労務者》とが、明確に使い分けられているわけです。

誰が使い分けたかというと、これは担当した編集者がそうしたんですね。読んですぐに『朝日ジャーナル』の編集部に電話したんですが、宮本さんという方が「カッコのなかは私が付けました」と答えています。なぜ両者を区別したのかと聞くと、「いま指摘されるまでわかりませんでした。指摘されて初めて“あっ、使い分けしてるんだな”と思いました」と。

もうちょっとしっかりした答えがほしいと思って、〈釜ヶ崎差別と闘う連絡会議〉で相談し、朝日新聞の東京と大阪の本社、そして『朝日ジャーナル』の編集部に質問状を出しました。

そもそも、対談で話されてること自体が成り立ってなかったんです。さっき山田委員長もいいましたが、国鉄が解体されるときには、もはや現業労働者というのはあまりいなかった。82年か83年の新聞に「国鉄の余剰人員を下請けや関連会社が引き受けると約束した」という記事が載りました。これはえらいことだと思い、大阪の国労の組織部に電話して、「こちらは釜ヶ崎日雇労働組合の者であるけれども、いったい何人ぐらいが流れてくるんだ」と尋ねたら、「いや−、うちのところには現業部分はほとんどいませんので、関連会社に行くといっても設計や監督であって、日雇労働者の方に迷惑を及ぼすような人は流れていかないと思います」なんていってる。

実態的に、もう国労には現場労働者部分はほとんどいなくって、全部、社外工か下請けになっていた。その段階で、国鉄労働者こそが最後の労働者のイメージだといっても、それは単なるインテリの郷愁だけであって、実態はそうではなかったわけです。闘う労働者のシンボルとしての、ナッパ服を着た国労の隊列―対談者が国鉄労働者を最後の労働者のイメージでとらえるにあたっては、このような思い入れもあったかに想像されます。

現在的にいえば、実際にツルハシを担ぎ、みんなで弁当をワッと食うというイメージは日雇労働者のものであっていいはずなのに、そうはならない。そうはならないで、実態約にはちがう国労の労働者が、《労働者》のイメージを代表するものとして語られる。そして、彼らのイメージからいえば、最もふさわしいはずの存在は《労務者》と表記されている。
 

私には、その使い分けのなかに、「区別」とはいいがたい「差別」があると思えました。

さて、朝日新聞社からの回答はどのような内容かというと、まず大阪の朝日新聞は、当時の長谷川社会部長の名前で、「「労務者』という用語は、貴団体が指摘される通り、差別感を生み出しやすい言葉と考え、相当以前から『労働者』『日雇い労働者』等に言い換えるよう努めてまいりました」と回答しています。

大阪の朝日新聞というと、先ほどの平川さんの報告で紹介された柴田俊治さん、61年1「暴動」前後の釜ヶ崎で仕事をされ、のちに編集局長になられた方ですね。それから現在の編集局長も、かつて釜ヶ崎を担当されて、労働者と同じ格好をして天王寺公園なんかで酒飲んで寝て、若干ながらでも被差別体験を味わうということをしている。要するに、釜ヶ崎について関心のある方が多かった。たぶん、そういう背景があってのことだと思いますが、大阪の社会部はそういう回答になってます。

一方、東京の朝日新聞―主要には「『朝日ジャーナル』の編集部が回答してるわけですが―は、《労務者》という使い方について、「『労働者』にくらべて就労条件等においてより不安定、劣悪な状態におかれていると思われる人ぴとを包括的に指すものと考えています。これはむろん、それらの人びとをおとしめ、世の差別感をあおるためなどではなく、現在否応なくそうした立場におかれている実態を直視しようという意図です」と書いておるわけですね。要するに、世の中には劣悪な状況に置かれている人がいる、だからその人たちのことを忘れちゃいかんということで、あえて《労務者》という言葉を使うんだ、というわけです。

ところが、『朝日ジャーナル』の差別問題担当編集委員の千本さんという方がおみえになって、土方鉄さんを交えて解放新聞社の部屋でお話ししたときに、尋ねたんですね、「じゃあ、あなたたちの編集部のなかで、どれぐらい山谷や釜ヶ崎のことが視野にあるのか。かつて『朝日ジャーナル』で釜ヶ崎のことを載せたのは、72年の岩田秀一の連載だけじゃないか」と。そしたら千本さんは、「実際いえば、山谷とか釜ヶ崎のことは視野にありません。東京のなかにあって、山谷なんてないようなものです」てなことを堂々というんです(笑)。そういうことをいいながら、回答では、その人たちの存在を忘れないためにそういう言葉を使ってるんだという。

『朝日ジャーナル』編集部の人たちには、個別具体的に山谷や釜ヶ崎の労働者のことは取り上げていないが、全体的な視野から山谷や釜ヶ崎の労働者、一般的に下層労働者と概括される人びとの問題に、身を入れて仕事をしているという自負があるように思えます。しかし、個別具体としての山谷や釜ヶ崎を視野に入れないで、そのような仕事が可能であるとは、私には考えられません。

『朝日ジャーナル』の回答は言い訳でしかないんですが、しかし、世の中ではそういう言い方がまかりとおってしまう側面がある。一般的にいえば『朝日ジャーナル』の言い方がとおってしまう。とおってしまうけれども、それはおかしいんじゃないか、ということを考えてみたいと思います。
 

考えるにあたって、差別は言葉を使い分けする発想そのもののなかに認められるのですが、具体的には言葉の問題として現れていますので、“言葉狩り”のように受け取られることを危ぶみながらも、まず、言葉を取り沙汰しなければなりません。

さて、《労働者》なり《労務者》なりという言葉は、いったいいつから、どういうふうに使われたのか。そうしたことを、辞書を繰って調べてみました。《労働》という言葉自体はずいぶんと古いもののようで、江戸時代の『養生訓』(1713年)のなかに、〔身体は日々少しずつ労働すべし〕というような言葉が出ていると、小学館の『日本国語大辞典』に記されています。

それが《労働者》という言葉になるのはいつのことなのかと調べてみると、『明治のことば』という本にぶつかりました。これは明治時代に出た辞書などをとおして、ある言葉についてどのような意味づけがされていたかを羅列した本です。

それによると、1998(明治31)年の『ことばの泉』という辞書では、《労働者》について、〔骨をり仕事を職とする人。職人、力役者〕と説明されており、国木田独歩の1907(明治40)年の小説『窮死』では、〔先客の二人も今来た一人も皆土方か立ちんぼう位の極下等な労働者である〕というように使われていることが紹介されています。また、独歩の小説と同年に発行された『最新商業辞典』の《労働者》の項は、〔Labourer.Worker.―労働に従事する人を云ふ。労働の意義を広義に解して官吏民吏教師の如きを含有するものあるも、経済学上に於ては労務に服するもののみを労働者と謂ふ〕となっています。

つまり『明治のことば』を見るかぎりでは、《労働者》という言葉は、日雇労働者というか、下層の労働者について使われていた。明治時代では、そういった使われ方がされていたように思われます。

では、《労務者》という言葉はいったいどこから出てくるのか、ということになります。《労務》もずいぶんと古い言葉でして、中国春秋時代の『呂氏春秋』という書に〔その苦愁、労務、この生に従う〕というような形で載っていると、大修館の『大漢和辞典』に記されています。意味はよくわかりませんが(笑)、中国の漢籍のなかに《労務》という言葉があるわけです。

《労務者》を先ほどの『日本国語大辞典』で引くと、〔労働に従事する人。おもに肉体労働に従事する人。労働者〕とあって、民法624条に初めて出るんですよ、ということが載っております。その民法の条文は「労務者ハ其約シタル労務ヲ終ハリタル後二非サレハ報酬ヲ請求スルコトヲ得ス」というもので、制定されたのは1896(明治29)年です。しかし、この条文は現行の民法と同一で、いまも六法全書を開くと、ここに《労務者》という言葉を見ることができます。

ところで、1896年制定の民法で《労務者》と記された対象は、どのような人びとが想定されていたのでしょうか。

1896年希掟の民法に先行して、もうひとつ民法がありました。1890(明治23)年に、民法をつくって近代国家にならにゃあいかんということで、いったんは民法が制定され、公布されています。しかし、あまりにもフランスとかそのへんの真似をしすぎる、過激すぎる、日本の現状に合っとらんという議員の巻き返しの反対があって、公布されたものの、施行されないまま廃止されています。廃止したものに代わって出てきたのが、現行の民法の土台となっている1896年制定の民法というわけです。

この公布されたけれども施行されなかった民法には《労務者》という言葉は出てきませんが、「使用人、番頭、手代、職工其ノ他ノ雇傭人ハ 年、月又ハ日ヲ以テ定メタル給料又ハ賃金ヲ受ケテ 労務二服スルコトヲ得」ということが書いてあります。たぶん、ここに挙げてある人びとの総称が、《労務者》という言葉となって新しい民法のなかに使われたのだろうと思われます。

そうしますと、小学館の『日本国語大辞典』は、誤った説明をしていることになります。『日本国語大辞典』では、《労務者》は〔おもに肉体労働に従事する人〕となっているわけですから。『明治のことば』で見たかぎりでは、この説明は《労働者》にあてはまるものであったはずでした。

くどいようですが、もう一度確認しておきたいと思います。明治時代の辞書『最新商業辞典』の《労働者》の項は、〔Labourer.Worker.―労働に従事する人を云ふ。労働の意義を広義に解して官吏民吏教師の如きを含有するものあるも、経済学上に於ては労務に服するもののみを労働者と謂ふ〕となっていました。

現代の辞書『日本国語大辞典』の《労務者》の項は、先ほどから何度も引き合いに出していますので、ここで目先を変えて、岩波の『広辞苑(第二版)」を見てみることにします。それによると《労働者》は〔@肉体労働をしてその賃金で生活する者。A労働力を資本家に提供し、その対価として賃金を得て生活する者。肉体労働に限らず、事務員などをも含む。賃金労働者〕となっています。一方、《労務者》は〔(主として肉体的な)労務に従事する者。労働者〕となっています。

もうおわかりだと思いますが、明治時代と現代では、《労務者》と《労働者》の言葉が指し示すものが入れ替わっています。なぜ、そうなったのでしょうか。
 

それを考えるのはひとまず置いておきまして、もう少し、法律用語としてどういう言葉があったかを紹介してみたいと思います。

1897(明治30)年に農商務省が、労役法および工場条例を作ろうという動きを行なってます。しかしこの法案は、いくたびか議会に出そうと段取りされたんですけれども、資本家の側が、そうした法律を作るのは時期尚早だとか、労働者は元来頑丈なものであるから酷使されているとは感じていないとか、夜業しなければ機械のロスが起きるとか、そういうようなことをいいまして、結局、工場法なるものは、ずいぶん先まで日の目を見なかったわけです。

そんなことをすったもんだやってるうちに、治安警察法が成立します。このなかに、民法同様、《労務者》という言葉が出てきます。

「第17条左ノ各号ノ目的ヲ以テ他人二対シ暴行、脅迫シ若ハ公然非毀シ又ハ第二号ノ目的ヲ以テ他人ヲ誘惑若ハ煽動スルコトヲ得ス

二 同盟解雇若ハ同盟罷業ヲ遂行スルカ為 使用者ヲシテ労務者ヲ解雇セシメ 若ハ 労務ニ従事スルノ申込ヲ拒絶セシメ 又ハ 労務者ヲシテ労務ヲ停廃セシメ 若ハ 労務者トシテ解雇スルノ申込ヲ拒絶セシムルコト」

ストライキを煽動したり、スト破りのために雇傭しようとするのを阻止したりしてはいけませんよ、というような労働争議弾圧の法規です。これが1900(明治33)年にできて、そのあとに工場法ができる。工場法では「職工」という言葉が使われてます。

1919(大正8)年には、北海道庁の庁令で「労役者取締規則」というのができます。ここには「本令ニ於テ労役者ト称スルハ 道路、鉄道、灌概溝其ノ他ノ土木工事 及之二付随ノ雑役二従事スル労務者ヲ謂フ」とあります。現代的な読み方でいえば、ことさらに《労務者》―『朝日ジャーナル』の言い方でいえばですよ―を《労役者》と呼んでいる。二重規定というんですか、屋上屋を重ねるような条文のように思えるわけです。しかし、先ほど『明治のことば』で確認したことに照らして読めば、ここでいう《労務者》は現代では《労働者》にあたり、《労役者》が《労務者》にあたると判読されて、屋上屋を重ねることにはなっていないことが理解されます。

1925(大正14)年、先ほどの治安警察法第17条が削除される前年になりますが、「労働者募集取締令」ができ、削除された年には「労働争議調停法」ができます。ここで使われている《労働者》というのは、現代の用法より狭い、肉体労働者のみを指しているということは、もうおわかりのことと思います。

「労働者募集取締令」第一条は「本令二於テ 募集主トハ募集シタル労働者ノ雇主タルベキ者ヲ謂ヒ」とあり、第二条では「本令ハ左ノ各号ノ一二該当スル場合ヲ除クノ外 職工、鉱夫、又ハ土工夫其ノ他ノ人夫ノ募集二之ヲ適用ス」とあります。

「労働争議調停法」の第19条は「現ニ其ノ争議ニ関係アル使用者及労働者 並其ノ属スル使用者団体及労働者団体」となっています。どうも、当時は、争議を行なうのは肉体労働者だけで、事務職員などは争議を行なわないものと決めつけられていたかのごとくに思われます。

戦前の法律における《労働者》と《労務者》の使われ方を、もう少し確認しておきたいと思います。中国への侵略が本格化しはじめた時期に一挙に飛びます。

1938(昭和13)年「職業紹介法施行令」第二条では、「道府県市町村ハ職業紹介所ノ紹介二依リ雇用セラレタル日雇労働者二対シ」と、《日雇労働者》という言葉が使われています。また、《日傭労務者》という言葉も使われています。1940昭和15)年「職業紹介業務規定」第27条に、「国民職業指導所ハ 求職ノ申込ヲ受理シタル者ノ中 相當期聞二亘リ日傭労務二反覆縦事スベキモノニ付テハ 必要二応ジ之レヲ日傭労務者臺帳二登録スベシ」とあります。

ついでに、1938(昭和13)年の「国家総動員法」を紹介しますと、第六条は「政府ハ戦時二際シ 国家総動員上必要アルトキハ 勅令ノ定ムル所二依リ 従業者ノ使用、雇入若ハ解雇、就職、従業若ハ退職又ハ賃金、給料其ノ他ノ従業条件二付必要ナル命令ヲ為スコトヲ得」となっていて、もはや《労働者》も《労務者》も使われず、雇われて働くものすべてをひっくるめて《従業者》と称されています。この《従業者》について、1941(昭和16)年の「国民労務手帳法」第一条は、「本法二於テ従業者ト称スルハ年齢一四年以上六十年未満ノ者ニシテ 命令ヲ以テ定ムル技術者又ハ労務者トシテ 左ノ各号ノ一二該当スル事業二使用セラルルモノヲ謂フ」としています。侵略戦争遂行のために、生産体制への国家の統制・管理力轍底される過程で、現場で汗して働く労働者への国家の注目が高まり、ついに《労務者》は、ある特定される層の名称となったといえるのではないでしょうか。

「国民労務手帳法」と同年の「職業紹介規定」第五章日傭労務者ノ職業紹介中第三十三条は、「日日他人二雇傭セラレ筋肉労働二従事スルヲ例トスル者 及 臨時二他人二雇傭セラレ筋肉労働二従事セントスル者ノ 職業紹介ハ本章ノ定ムル所二依ル」と、現代に直結する《労務者》の使用例を示しています。

その翌年、1942(昭和17)年には、政府が「大日本労務報国会設立要綱」を地方長官宛に通牒し、具体的に「日傭労務者統制」が開始されます。また、閣議で「華人労務者内地移入に関する件」を決定しています。「華人労務者」というのは、説明の必要はないでしょうが、中国大陸から、日本国内の炭坑や軍事関連の土木建設現場で働かせるために、強制的に連れてこられた人びとのことです。この《労務者》の使用例も、現代に連なっていると思えます。

戦後について簡単にふれますと、日本の敗戦後、アメリカを中心とした占領軍は、日本の民主化のためとして、封建的労務関係の改編を行なおうとし、さまざまな労働関係法規の制定を日本政府に要求しました。それらの法律で使用された言葉は、《労働者》のみでした。そして、この《労働者》は、日本の高度成長の上昇気流に乗ることができました。上昇気流に乗ることのできなかった、いや、それから意図的にはじきだされた炭坑労働者、そして日雇労働者は、それから外れたものとして、《労務者》として留まりました。

だからこそ『労務者渡世』は、『労働者渡世』でなく『労務者渡世』であったわけです。突如、脈絡のないことが飛び出しましたが、再び明治に戻りたいと思います。
 

ここまでは辞書や法律を見てきましたが、これから、知識人がどのような言葉を使っていたのかを見ていきたいと思います。

仏学塾中江兆民に就いてフランス学を研究し、農商務省仏國パリ大博覧会事務官として渡仏した酒井雄三郎という人がいまして、ベルギーのブリュッセルで開催された社会党大会に日本国代表として出席し、帰国後は社会問題研究評議員になっています。この人がヨーロッパに行ったのは1890(明治23)年で、『国民の友』という雑誌にヨーロッパの労働運動の紹介を書いています。ヨーロッパでは社会問題が跋扈しており、社会党なる勢力が世を引っくり返そうとしているが、日本の人びとにそれを伝えるので、よく勉強してそうならないようにしなきゃいかん、という立場でですね。

そこでは、最初のころは一貫して《労役者》という言葉を使っています。たとえば、渡仏した1890年の『国民の友」第82号「社会問題(二)」では、〔夫れ今日の労役者は固より古昔の奴隷に異なり、雇ふ者も雇わるゝ者も等しく斯世に生存するの権利を有し、等しく其安楽福利を求むるの権利を有せり。――略――日耳曼(ゼルマン)にては、今を距ること二十余年、有名なる社会党の首領カルル、マルクス氏の創立に係る萬国労役者協会に於ても亦同一の説を唱へ・…・・〕となっていて、マルクスがこしらえたのは「萬国労役者協会」という名前になってるわけです。この名前は、同年の『国民の友』第89号では「国際労役者協会(アツソシヤシヨン、デ、アンデルナシヨナール、デ、トラヴイユール)」となっています。

ところが、1893(明治26)年『国民の友』第197号の「『社会問題』と『近代文明』との關繋に就きて」という文章のなかでは、どういうわけか、この人の用語が《労働者》に変わります。〔貧困なる労働者が、その飢寒を支ふるに急なる、先を争うて各自の労働を資本主に供給するが故に、此「活動する商品」は常に市場に溢れて、その價を低落し…〕というように。この人のなかでどのようなことがあって、《労役者》という用語から《労働者》という用語に変えるに至ったのかよくわかりませんが、ひとついえることは、ヨーロッパの事情報告から理論の紹介に移った時点で用語が変わっているということです。
 

1898(明治31)年に「工場法」の原案が作成され、第3回農商工高等会議に諮問されましたが、添田寿一という政府側委員は、法案の早期採択を力説するなかで、「私ハ此ノ問題二熱心ナルノ余リ、多少各工場ノ実際二就キ、随分労働者ノ側カラ観察シタルコトガアリマス」と、《労働者》という言葉を使っています。金井延という農商務次官は、「我輩ガ職工杯二対スルニ保護ヲ適切ナル範囲内二於テ主張スルハ、――略――国家全体ノ生存ノ上二、労力社会ノ健全デアリ」と、「労働社会」ではなく「労力社会」という言葉を使っています。

矢野龍渓という人は、《労役者》と《労力者》という言葉を使っています。1899(明治32)年の『新社会』という本のなかで、次のように使われています。〔通例の事業は、資本家と労役者と格別に分離するが故に、之を「力、資、分離」の仕組と称すべく、資本家と労役者とは全然分立するの仕組なり、然るに「コ、オペレーション」なるものは之に反し、資本家と労力者と相結合して事業を組成するものにて、労力者は半ば資本家の性質を有す、之を目して「力、資、結合」と称するも可なり〕と。

幸徳秋水の『社会主義神髄』は、1903(明治36)年で、〔工業の発達熾んなる丈け、夫れ丈自由独立の労働者は漸く迹を絶ちて、所謂賃金労働者なる者、日に多きを致せり〕というように、《労働者》を使っています。つまり、堺利彦と『平民新聞』に「共産党宣言」を訳したときには《平民》という言葉を使ったわけですけれども、その翻訳の苦心談というか披露話のなかで、プロレタリアを平民と訳したが労働者と訳すも可なり、というような言い方をしておって、翻訳の過程で《労働者》という認識を持ったことを示しています。「共産党宣言」の『平民新聞』への翻訳、掲載が1904年で、翻訳しはじめたのはその2、3年前からでしょうから、それ以前から幸徳秋水とその周辺は《労働者》という言葉を使っていたのではないかと思います。

さて、外国の事例を日本に持ってくる人にとって、もともとは同じ《プロレタリア》という言葉にちがいない。その言葉に、《労役者》という訳がついたり、《労働者》という訳がついたりするのはなぜなのでしょうか。
 

発生からいえば、いちばん早いと思われる《労役者》について、まず考えてみたいと思います。なぜ《労役者》が使われるようになったかについての、ひとつのヒントが、『明治前期の労働問題』という御茶の水書房から出ている本のなかの「明治初期における労働者の状態」という論文にあります。

ここには、不熟練労働者とはどのような人たちであったかが書かれてます。明治初期、囚入労働で有名なのは鉱山、そして北海道の開拓事業ですね。そういったものでは知られてましたが、この論文で引用されている史料には次のようなことが書かれています。

〔不熟練労働者としての人足・運搬業・雑業に従事する人々は、主として臨時雇や純粋の日雇労働者であった。彼等の多くは極貧農であり、浮浪者であり、また時には囚入が使用せられた。例えば横須賀製鉄所においては、早く明治初年から縷々「管轄庁ノ監獄二繋留セル軽罪囚徒ヲ以テ製鉄所ノ役夫二充ツル」ことが計画せられ、明治十三年には「従来本所二於テハ日々日雇人足三四百人ヲ使役シ居リシモ多クハ近在農民ナルヲ以テ農事繁忙ノ季二際シテハ其数減少シ自然工業ノ遅滞ヲ来スヲ免レ」ないという理由で「是等農民二代フルニ懲役人ヲ以テスルトキハ充分ノ人足ヲ得ルノミナラズ賃金モ亦幾分減額シ得ペク、且懲役人ニハ取締人付添フニヨリ怠惰ノ憂モ少キヲ以テ・…・神奈川県ト協議ノ末明七日ヨリ臨時人足二懲役人ヲ交へ使役ス」ることになったと称せられている。〕

このなかで使われている言葉では、「役夫」「懲役人」が注目に値すると思います。簡単にいえば、エ場を新たにこしらえたけれども、工場で働く雑役夫を近隣の農村の出稼ぎに頼っていては、農業が忙しくなると誰も出てこなくなって生産性が上がらない。しょうがないから囚人を使うんだ。それが実際に許可されたので、あすから工場で働かせることにする――と。そういう事例が紹介されている。当時、囚人の仕事は労役とか懲役とかいわれていたわけです。その一方で、まだ日本の労働者階級というものは存在していなかった。つまり工場のなかで賃労働をするような存在として、まず最初に囚人をもって補填されなければならなかった、というのが当時の日本だった。そうした状況では、西洋の《プロレタリア》の概念を訳そうとすれば、その訳者は「あの連中のことだろうな」と思うのではないか。労役に従事している者だから労役者、そういう訳になったのではないかと思うんですね。
 

同じく『明治前期の労働問題』に載っている「明治前期の労働力市場形成をめぐって」という論文でも、やはり次のようなことが書かれています。

そこでは、〔職工中比較的単純労働に従事するものも含め、当時「雇人」「労役者」「力役者」或は「人足」等と呼ばれ、工場・鉱山・土木建築場・港湾等に使役せられる労働力を包括して一般的労働力と考えて――略――、とくに恒常的・可動性ある労働力の創出について考察を加える〕として、次のように事例が挙げられています。

〔まず横須賀製鉄所では慶応元年敷地土木工事に寄場人足二〇〇名を使用したとあり、――略――また長崎造船所では明治三年頃「其使役する処の人夫は浮浪無頼の悪徒多」(本木昌造・平野富二伝)くとある――略――。神戸についてもニー三年頃、――略――「新運命を求めんとする先発者中細民の多数をみ」、「諸職の労働者四方より鳥合群衆」し、土方人足、仲士となり、沖仲士は「仲士其他の土方労働の如く手足の力量を要せざるがために、他労働者の如く最初より労働を目的となし神戸に入る者に非ず、多くは一時の失敗者或は無産にして体力弱き者」から転化したという。これらは初年においての新興都市の賃労働力が主として直接農村から流出したものでないことを意味するのではあるまいか?

勿論このことは農村から全く流出しなかったというのではなく、農村よりの流出や出稼労働の存在を全的に否定するのでなく、それが主体ではないというにとどまるのである。〕

これも簡単に要約すれば、近代国家を作るために横浜を開いたり神戸を開いたりしているけれども、実際にそこで働いているのは都市から流れてきた浮浪者――ここではそういう言い方をしています――であり無産者である。そういう者がどんどん入ってきて労働力となったんだ、と。当時の労働者層と呼ばれる者のうち技能工的な部分については、職工学校などに行って養成された者や、江戸時代に職人職でやっていた者などで構成され、それとは別固の単純労働者については、主要には都市下層の部分から補充していたことになる、ということが書かれているわけです。

そういった当時の状況をふまえて、もう一度整理すると、《プロレタリアート》という言葉を訳そうと考えた場合、その人の持ってるイメージ、あるいはその当時の一般的なものの見方で、まず訳語をつけると思うんです。
 

江戸時代、無宿者――農村では生活できなくて都会に出てきた者――は罪を犯さなくても捕まえられます。捕まえ、ずいぶんむかしは佐渡ヶ島に送って水替人足なんかに使った。だけどそれでは不経済なので、「其の方、無罪の無宿に付、非人手下に遣わす」でしたか、江戸だったら車善七の手下に入れて町内の整理をさせたりする。あるいは人足寄せ場のほうに入れるという形で、要するに無宿であるだけで犯罪人だという見方が強かった。それが明治前期まで続きます。そうすると、その当時の人は、すべての下層労働者はならず者のような人間である、肉体労働者はすべてならず者に近い人間である、という見方が固定してあったと思われます。

これは産業革命期のイギリスにおいても同様で、農村から土地を囲いこまれた結果、都市に流出せざるをえなかった農民が「浮浪化」し、これへの対策で感化院に「狩り込」まれ、劣悪な労働条件・環境で働かなければならない工場内労働者へと「矯正」された。日体においても、イギリスにおいても、新しく登場した近代的産業構造内における肉体労働従事者は、まずもって蔑みの目で見られました。

それらの反映が、《労役者》や《労力者》という名称に現れていると思います。
 

しかし、近代的産業構造の拡大にともなって、事情も変わってきます。

以下は、1928(昭和3)年に春秋社から出された『大思想エンサイクロペヂア』の第30巻『社会辞典』を参考にしながら、考えていきたいと思います。これは堺利彦の売文社に入り、「資本論」を全訳した高畠素之が、1919(大正8)年に堺利彦や山川均等と分かれて雑誌『国家社会主義』を発刊したのちに、国家社会主義の旗の下に集まった人たちとともにこしらえたものです。

そこでは、日本の労働運動の端緒について、次のように紹介されています。

〔日本労働運動――日本に於ける賃金労働者の階級的運動は、明治五年政府が富岡製紙所其他の工場を設立してからのことである。富岡製紙所其外の模範工場が成立してから工場制工業が次第に普及し、賃金労働者の数も増して来たが、明治二十年頃までは労働運動の影さへも見られなかつた。――略――

明治二十二年鉄工小澤辮藏が其弟と共に労働組合組織運動を起し、東京両国の井生村楼に数十名の鉄工を集めて懇親会を開いた。然し、演説中に居睡をする者、睡気ざましに博奕をする者等があり、宴を開いて酒が廻ると吉原遊廓へ繰込む動議が成立し、直に実行に移されて流連数日に及ぶ状態だつた。故に女房連の反対に逢ひ、第二回の会合を開くことが出来なかったと傳へられている。――略――

明治二十六年一月には大阪市天満紡績会社で、斯形勢の下に日本最初のストライキが行はれたのである。

一方、二十三年の夏アメリカ、サンフランシスコで高野房太郎、澤田半之助、城常太郎等の苦学生が「職工義友会」を組織し、アメリカ労働同盟会の組織方法を模していたが、彼等の多くは明治二十九年帰朝したので、三十年六月、神田青年会館で我が国最初の労働間演説会を開き、東京に「職工義友会」を創立した。〕
 

また、《プロレタリア》の言葉が指し示す中身の変遷については、次のように書かれています。

〔プロレタリア(Prolétariat)―フランス語にしてラテン語のプロレタリウス(Proletarius)から出ている。プロレタリウスとは子を産む外に国家に貢献することの出来ない人々を指す語であるから、プロレタリアも初めは極度の貧窮者を意味していた。けれども転じて今日では何等の資本を所有せざる者即ち無産者を意味するやうになっている。プロレタリアという語が多くの場合無産階級と訳されているは其為である。

蓋し資本主義社会に於ける無産階級は資本を有せざるが故に資本所得を得ることが出来ない。彼等は其生活を支へる為に知識的乃至肉体的労働力を売る外は無いのである。そこで彼等の大部分は必然的に賃金労働者となるわけである。

故に今日では労働階級といふ語とプロレタリアといふ語とが同一の意味に用いられることが多い。此意味はプロレタリアの大部分を占める者が賃金労働階級だからである。〕
 

以上の紹介をふまえて、再び酒井雄三郎に戻りたいと思います。酒井雄三郎が《労役者》から《労働者》に言葉を改めたのは、くしくも日本最初のストライキが行なわれた1893年のことでした。ヨーロッパの事情を見、理論の紹介に取りかかった酒井は、きっと、マルクスが革命の主勢力と想定した、大工場で規則正しく働き、組織性を身につけたプロレタリアなるものが、自分が思い、現に日本にあるものではなく、近い将来に立ち現れるものであることに気づき、訳語を改めたのではないでしょうか。

一方、労働運勧を弾圧する側・政府は、弾圧法規を整備する必要を感じ、実施しました。それが、1896年の民法のなかにあり、1900年の治安警察法であったわけです。その際に、労働運動を推進しようとしている人びとが使っている用語、革命闘争の紹介などで使われた用語は、それを使うだけで、労働運動、革命闘争に思いをいたさせると考えて、なんとか別の語をあてたいとして採用したのが《労務者》であると思われます。

いってみれば、《労役者》《労力者》は、まだ江戸時代からの感性を色濃く残した命名であり、《労働者》《労務者》は、近代的労働者の登場に備えて考えられた命名であると考えられるのではないでしょうか。

そして、近代的労働者の量的拡大また質的変化にともなって、保守の側も革新の側もその中身を細分化していく。保守の側は分断支配の必要から、革新の側は労働者の置かれている立場を現実に即して把握し、個別の闘争諜題を明らかにする必要から。
 

 しかし、革新の側でいえば、不必要な分類もあったように思えます。いわゆる「ルンプロ規定」がそれです。

〔ルンペン・プロレタリア(Lumpenprolétariat)―裾褄プロレタリアなどとも訳し、社会の屑を意味する。即ち自活自立し得ない乞食、不具者、嬾惰なる貧民、淫売婦、各種犯罪者などを包括する。

彼等は等しく無産者には相違無いけれども、自己の労働に依って立派に自活し、生産的括動することに依りて社会に貢献し、健全なる肉体と精神とを有する労働者、農民などと同一には見難い所から、特にルンペンの形容詞を附けて普通のプロレタリアから区別するのである。

此語が普及するに至ったのはマルクスの使用に始る。マルクスは此社会の屑を目して、啻にプロレタリアの社会革命運動に有用でないといふばかりでなく、常に反動運動の素材たり反革命の傭兵となる性質を持つ有害なる存在だとしている。〕

この分類は、一見事実関係に基づく分類のように見えますが、じつはある一つの価値体係―保守・革新に共通する規範とでもいえるもの―による区別、いや、差別・排除だと思います。

このような分類を前提にして、闘う組織労働者、これを《労働者》として持ち上げていくわけです。『朝日ジャーナル』の対談の朝倉さんや別役さんのように。そして、働かない、というか組織に入らない者、これはどうしようもないルンプロだというふうに一殺下げて置く。組織化され、工場でギッチリ勤めているような者を《労働者》というんだ、会社に勤めている月給取りは《俸給者》といって、これは俸給者問題であって労働運動とは別固のものなんだ、というふうな分け方を、この本を晋いた人たちはやっている。現に、そういう考え方があったんだろうと思います。

 

中国の毛沢東も「中国社会階級の分折」において分類を行なっていますが、プロレタリア階級のなかに〔都市の苦力労働者の力も大いに注目すべきである〕とし、〔波止場の荷役人夫と人力車夫がその多数をしめ、汲みとり人夫、道路掃除夫などもこの分類にふくまれる。かれらは二本の手のほかには、なに一つもたず、その経済的地位は産業労働者に似ているが、ただ産業労働者ほどの集中性も、生産上の重要性もない〕と説明しています。そして、〔数のすくなくないルンペン・プロレタリアがいる。土地をうしなった農民や仕事にありつけない手工業労働者がそれである。かれらは、世の中でいちばん不安定な生活をしている。かれらは、各地に秘密紐織をもっており、(それらは)みなかれらの政治的経済的闘争の相互援助団体であった。これらの人びとをどうあつかうかは、中国のむずかしい問題の一つである。これらの人びとは非常に勇敢にたたかえるが、破壊性をもっている。うまくみちびけば、革命の力になりうる〕と述べています。中国と日本では、いうんな意味でちがうわけですが、ここには、「ルンプロ規定」のように、ただ切って捨てるかのごとき姿勢は見受けられません。

《労役者》は使われなくなり、《労働者》がもっぱらとなった。しかし、「ルンプロ規定が新しく加わった。そして《労役者》のイメージが「ルンプロ」と習合して、《労務者》となった。そう思われます。

《労務者》という言葉は、法律のほうで最後まで残りました。戦争中、実際にその言葉が指し示したのはなにかというと、「朝鮮人労務者」であり、「華人労務者」であり、日雇いなどに持たせた「労務手帳」であるわけです。肉体労働者のみに限定して《労務者》を使い、ほかの人聞については《職工》とか《雇員》といった形の、会社なりの等級をつけたものを使っていた。先ほど紹介した「国民労務手帳法」が、「技術者又ハ労務者」と分けていたことを思い出してください。
 

このように《労働者》と《労務者》の使い分けはむかしからあった。それは、そういう立場にある人びとを忘れないがために《労務者》という言葉をつけてきたんじゃなくて、一等下に置くためにつくったんです。

「歴史学研究」534号のなかの、江戸時代の都市下層民の生活を書いたものによれば、当時の「日用」層の存立構造は、無宿が人夫出しの部屋に入ったときにのみ寄子となって無宿ではなくなる、というものだった。だから非人と寄子のあいだを往ったり来たりするような還流構造があったわけです。現在の釜ヶ崎でも野宿と現役の往ったり来たりという点があるわけでして、そういうものの見方が現在にも尾を引いており、《労務者》といえば、ならず者、犯罪人まがいの者というような区別の立て方が一般化しているのではないか。

《労務者》という言葉は、不十分な立場の入たちを単に指し示すものではない。その言葉が持つ文化的な背景を背負ったまま使われているんだということを、十分に考えていかなければならないと思います。そういう背景を考えるならば、『朝日ジャーナル』の記者が無意識に《労働者》と《労務者》を使い分けたのは、やはり差別意識によるものではないか、といわざるをえないと思います。

ということで、なにかしっちゃかめっちゃかでしたけども、それぞれ資料は確かなものですから、自分で読んで、ホンマにあいつのいったことは合うてるんやろかというのを考えていただきたいと思います。終わります。

(テープ起こしした原稿に、時間の都合ではしょった引用や説明不足を補った。しかし、完成稿とはならなかったのは、私の及ばなかった点で、論証不足・資料不足の解消に今後も努めたいと思う)

 

引用文献

朝日ジャーナル  1986.12.26号・犯罪季評

明治のことば  1986.  惣郷正明・飛田良文編 東京堂出版

日本国語大辞典  1976.  小学館

広辞苑  1969.  第二版  岩波書店

日本の歴史・29  1976.  労働者と農民  中村正則  小学館

労務統制法規総撹  1942.  大同書院編集部  大同書院

監獄部屋  1950.  戸崎繁  みやま書房

治安維持法小史  1977.  奥平康弘  筑摩書房

旧法令集  1969.  編集代表我妻栄  有斐閣

社会運動大年表  1986.  法政大学大原社研編  労働旬報社

現代日本文学全集・39  1930.  社会文学集  改造社

明治前期の労働問題  1977. 改装版  明治初期における労働者の状態 遠藤正男明治前期の労働力市場形成をめぐって 渡辺徹 御茶の水書房

大思想エンサイクロペヂア・30 1928. 社会辞典 高畠素之・神永文三他編集 春秋社スクリーン労働論 1984.  佐藤忠男   凱風社

歴史学研究・534 1984. 日本近世都市下層社会の存立構造  吉田

 

小倉 これで報告はすべて終わりまして、あと残る時間、少し議論をしていきたいと思い1ます。まず最初に質問があれば出していただいて、それから全体の議論をしていこうと思います。ご質問その他、遠慮なく出してください。
 

池田(京都大学) もしかしたら聞きもらしたのかもしれないんですが、松繁さんの資料で「法律用語としての『労働者』『労務者』」というのがありますね。ずうっと1942年まで、さまざまな法律なり政府の通達なりから、実際に《労務者》という言葉、ないしは《労役者》という言葉が確認されるんですが、現在の民法や労働法では、やっぱり《労務者》のまま残ってるわけですか?
 

松沢 労働法では《労働者》ですね。
 

松繁 民法では残ってます。

 

池田 民法では《労務者》が残ってるわけですね。

 

松繁 大学で使うような一般的な解説書によると、現民法のそこの規定は、要するに、お手伝いとか家政婦とかいった人たちに対して適用されるのであって、その他の者については労働法の規定があるのでほとんど空文化している、というふうに解説されていますね。だからいま《労務者》というのは、法律ではお手伝いさんを指すことになります。

 

池田 お手伝いさんは《労務者》ですか(笑)。

 

松沢 ただ、条文として残ってはいるんですね。

 

池田 さっきいわれた、《労務者》は《労務》が終わってからでないと賃金をもらえない、というのもまだ残ってるわけですね。

 

松繁 そうです。

 

小柳 その話でいえば、たとえば香港では、フィリピンから来てる人たちが中心になって、それこそお手伝いさんの労働紐合をつくったわけですね。すると日本語に訳すときは《労務者》の組合ということになる(笑)。

 

小倉 司会から松繁さんに質問したいんですが、『朝日ジャーナル』の記事の話が出てますね。ここで朝倉喬司が「浮浪者襲撃」という表現を使ってるんですが、これに関してはべつに指摘しなかったんですか。

 

松繁 いや、それも質問状を出したんですが、話が重複するので、その分については今回はふれなかっただけです。

 

小倉 マスコミ用語だけでなく、一般的にも《浮浪者》と表現されているようですが、この言葉についても、歴史的な流れをキチッと追ったほうがいいんじゃないでしょうか。

 

松繁 要するに「浮浪罪」というものがあるんです。現刑法では軽犯罪法のなかに「一定の住居なく」うんぬんという条文があります。そうした罪は、その前の明治の時代にも設けられており、さらにその前には、さっきいった人足寄せ場へ入れるとかがあって、ずうっと遡っていくと律令体制にまで行きつく。むかしは田畑を貸し与えて、そこから作物を吸い上げて国家が成り立ってたでしょ。そうすると、うろうろされると農民がいなくなっちゃう。そこで、自分のところを遠く離れる者を「亡(ぽう)」といい、そこからまだ税金を納めてない者を「浮浪」という、と。これを見つけるとムチで10個たたく、という規定があるんです。これは「捕亡律」といいます。そのときから《浮浪》という言葉は使われているんです。だから国家が成り立って以来、国家の管理を外れる者を《浮浪者》といって糾弾することになっているわけです。

 

小倉 ほとんど意味は変わらずに残っているということですか?

 

松繁 《労働者》も、言葉は変わっていますが続いているんです。同じ律令体制のなかに「賦役」というのがありまして、賦役として使役される者を《人夫》といいます。国家的事業で、ここへ都を造るとか、あるいは戦争をやるためにここに砦を造るとかいうときに徴収する人聞を《人夫》《人足》といってるわけです。現在でも―まあ放送用語では禁止ですが―土木工事の労働者に使いますね。そしてこの言葉の意味は《労務者》と一緒なんです。公のために肉体をもって使役される者ども、ということ。《労務》も「労」で「務める」ですから、肉体の労働をもって務める者なんだ、と。「労務報国会」なんてものはそういう趣旨でできてるわけでしょ。肉体労働者は公のために使役される存在でしかないんだ、無権利な状態、使い捨てできる存在、だからこそ意味があるんだ―ということはむかしから連綿としてあるわけなんです。それに反抗したり、労働権を―もっと別の言い方で―主張したりするんですが、インテリゲンチャはそこをいろいろと階層分化して捉えるんですね。革命の本体だとか主流だとか、あるいは足引っ張りだとか、そうこういってるうちにズタズタになっちゃう。

 

小柳 『山谷―やられたらやりかえせ』の最後に出てくるインドネシア語での「ロウムシャ(ROMUSHA)」、あれはなんで残ったか、そのへんはどうなんですか? あれは、軍部に対する《労務》という形で残ったのか…。日本軍がインドネシアの人たちを戦争遂行のために使ったという、いちばん厳しい部分、それが「ロウムシャ」というインドネシア語になった。その関係でいえば、いま出稼ぎに来ている人たちは、軍隊じゃないけれど、まさに「ロウムシャ」の延長線上にいるといえるんじゃないか。

 

池田 正式には《労務者》という遥葉を使わなくても、可能性として、徴用して働かせる日本軍のメンバーが《労務者》という使い方を一般的にしてたのかもしれないですね。

 

松繁 いや、「華人労務者取締規則」とか「朝鮮人労務者取締規則」とか、それぞれの方面に向かって取締規則みたいなものがあったんですから、やはり「南方労務者」という形であったんじゃないですか。

 

池田 そうすると、直接、軍に徴用するということと結び付かなくても、それは使われたということですか。

 

松繁 向こうで徴用の必要といったら、飛行場をこしらえたり塹壕を掘ったりということですから、軍の使役と土方仕事と、内容はまったく同じわけですね。だから全部《労務者》といってたんじゃないですか。日本人の意識がそうでしたからね。

 

小柳 インドネシアには『ロウムシャ』という映画まであるんでしょ。田中角栄が行ったときにその上映運動があったけど、インドネシア政府が禁止しておクラ入りになったので誰も見てない。軍政下の日本人による強制労働を批判した映画です。

 

松沢 ただ戦争中になって《労務者》とか《労務》って使ってるのは、ほとんど労働者一般を指しているんですね。とくに肉体労働という感じじゃなくて、かなり単一になってる。やはりここでいちばん問題なのは、1920年代のことなんです。1919年に北海道では《労役者》といって、6年経った25年には「労働者募集取締令」になってる。この25年にいってる《労働者》の中身は、明らかに《土工》《人夫》です。19年の《労役者》と同じ者、同じ実体だと思う。だから、ここらへんで法律的、体系的に整備されなかったということであり、もっというと、肉体労働がすべての労働のなかで、どういうふうにか変わっていったかという問題があるんじゃないか。中川昭義さんは、20年代ごろに労働者は、実態として特殊なものではなくなった、だんだん生活も上がってきたような状況がある、というようなことをいってるんで、世の中の労働者の状況がよくなったこととかが関係しているんじゃないか。

 

松繁 さっき説明し忘れたけれども、信濃川ダム工事で死体が流れてきたとか、朝鮮から調査団が来て報告集会を打ったとか、そういうことが重なった時期に、世論が高まりすぎたからどうにかしなくちゃいかんという、もののはずみでできたやつ、それが1925年ごろに《労働者》と付いた法令なんですね。たしかにいろんな職種について「労務手帳」というのものができて、その「労務手帳」を持つ職種というのがずうっと挙げられてるんですけど、それはふつうに職工という、まあ技能工の範疇で、その意味では《労務者》という呼ばれ方をしてたと思うけども、それは生活概念のなかで自分たちがそう思ってたかというと……。

 

松沢 それはかなり難しい問題だけど、とりあえず外的にどうだったかということをフォローして、どこらへんに転換点があり、それがどういう意味を持つかということでしょ。だから初期は、翻訳して導入されたものは、みんな《土工》とかでしょ。これはもう労働者自体が、いまの《労務者》と同じわけだったんだし。

 

小倉 言葉の問題を現在の話に引き寄せていくと、いまの社会情勢のなかでは《労働者》という言葉より、むしろ《勤労者》という言葉を使おうとする傾向が一方で出ている。他方で《労働者》という言葉を肉体労働に限定して使うような傾向が、たとえばマスコミなんかにあるような気がするんですね。だから外国人労働者といっても外国人勤労者とはいわない。さらに《勤労者》じゃなくて《サラリーマン》とカタナカで呼んでみたり、たとえば職業欄に「会社員」と書いたりとか、いろいろ分化していってる。言葉が分化するだけに、そのなかに一定の序列なり価値の差別なりがあると思うんです。その《勤労者》という言い方と《労働者》という言い方のあいだに、ある種の大きな差異なり差別なりというものが作られているという気がするんですよね。

 

松繁 まあ、もう《労働者》というのは極少の左翼だ、《勤労者》は一般の市民だ、という分け方になるな(笑)。《労務者》はもう問題外、と。

 

山田 統計なんかの資料でも「就労者」と「勤労者」にわけてますね。「就労者」というのは旧来の労働者で、「勤労者」はサラリーマンや小生産者も含めた人たち。大企業の社長までは入らんかもしれんけど(笑)。だから勤労者総数と就労人ロ総数はちがいがある。

 

池田 実際、よく「勤労者会館」という建物がありますね。自治体が作ったやつは、だいたい「勤労者会館」になってる。

 

小倉 「勤」という字が行政は好きみたいですね(笑)。

 

松繁 そういうふうに分けて考えるのは、運動を実際にやる側でなくてインテリなんやな。理論を構築する側が「婦人労働者問題」とか「職業婦人問題」とかいう。そのふたつはどうちがうんだというと、《婦人労働者》は肉体労働する婦人で、《職業婦人》は知的な労働する人なんだ、と。《職業婦人》というのは元来、中産階級の出が多くて、じつは婦人労働者ほどゼニはよくないんだけれども、持ってる教養とか見栄とかで肉体労働はしないんだと、そういうようなことが書かれてる。だから分けるときに、分ける人間の価値判断でやってるから、読んだ入はそれに囚われて、概念がますます分離するみたいなところがある。

《労働者》と《労務者》の分け方は、左翼の側で分けたのと保守の側で分けたのと、ふたつが相まっている感じがしますね。左翼のほうは「闘う労働者」と「ルンペン・プロレタリアート」というふうな分け方をして、いろいろと対策を考えるためにそのなかでまた細分化していく。保守の側も《勤労者》または《俸給生活者》と肉体一般の《労務者》に分ける。そして戦争中のように体制が固まれば、外で働く人間は公に対して労で務める《労務者》という形で統一していく。

プリント資料のいちばん最後に、佐藤忠男の『スクリーン労働論』という本の一章「私は労働者?」を入れておきましたが、彼は工場で働いている職工というか、そういう身でありながら占領軍の政策で労働組合を作ろうといわれた、そのときのことを、〔「労働組合だって?」「俺たちは会社員じゃないのかな?」……と。労働者というのは日雇いか何か力仕事をする人たちだけのことだと思い込んでいたからである〕というふうに回想しています。あれ、わしらは労働者かいなと思ったというのは、たぶんそのとおりでしょう。それくらい労働運動がつぶされていって、一方的な政府の統新下で、労働者というのは《労務者》だけだ、自分たちは《会祉員》なんだということになってしまう。現代は、またそれなんですね。労働者というのはばかばかしくなる。

 

藤田(東京外語大学) 歴史的な話としてはわかったんですが、いまひじょうに問題なのは、まさにこの《労務者》概念というか、《労務者》という言葉がよく使われているという現状です。そうした場合に、いまおっしゃった《労務者》という訂葉、概念を、現在の状況のなかで、松繁さんはどういうものとして捉えているのか、またそれゆえにどうされていくのかをお聞きしたいんですね。そのことをはっきりしないと《労務者》と《労働者》の分け方があいまいになるのではないか、と思うのですが。

 

松繁 そこらへんが難しくて、自分でもよくわからんのですけども、社会存在の規定を指し示す意味と文化的な系列で語られる意味とが、ひとつの言葉―記号のなかに収まっているというような気がするんです。要するに、安い労働力として使い捨てにされる社会的存在というのは、さっきいった律令体制の《人夫》《人足》から現在の《労務者》までずっとあって、そういう存在形態を指し示す言葉としては、《労務者》であれ《労働者》であれ、それはなんでもいいだろう。そういう状態の人があることはたしかなんだから、それを指し示す言葉があれば便利だろう。その点では、たしかに『朝日ジャーナル』のいうことは正しいわけです。

けれども同時に、そういった流れのなかで《労務者》というものは、主要なイデオロギーを垂れ流してきた支配者層の考え方、そういう記号で示された人びとに対する見方、見られ方というものが、深くこびりついてる記号でもある。とすると、ただ単純に、そういう人たちがいるということを指し示す言葉としてだけは見れない場面も出てくるわけです。たとえば《労働者》と《労務者》がひとつの記事のなかで使い分けされていれば、とりわけ敏感にそういわざるをえない。ただ、その概念をどういうふうに思うのか、どの系列でどう思うのかということでいうと、ぜんぜん別の言葉、これこれのものはこういうんだというような新しい言葉を作ってしまうとか(笑)、どうするのかは自分でもよくわかってないんですね。

 

小柳 池田さんに聞きたいんですが、たとえばドイツ語の世界ではそういう細かい分け方はあるんですか。

 

池田 ドイツ語で《労働者》は、みなさんよくご存じの「アルバイター(Arbeiter)」ですが、戦後の西ドイツ―東ドイツでもそうなんですが―ではアルバイターはだいたい肉体労働者に使うようになっていて、日本語の《勤労者》に相当するものとしては「ヴェルクテーティゲ(Werktätige)」という言葉があります。ヴェルクというのは英語のワークですね、テーティヒ(tätig)はドゥイングの意叫もふたつを合わせて《仕事をしている》という形容詞を名詞化したヴェルクテーティゲ《仕事をする人》という言葉。これが《勤労者》に相当するんです。だから、やっぱりドイツの場合でも《労働者》はいわゆる肉体労働者にしか使わなくなってきている。

それともうひとつ、これはまったく日本語の僕の感覚でひとりよがりの考えかもしれないんですが、《労働者》と《浮浪者》というのはあまり強く繋がらない。ところが《労務者》と《浮浪者》は、いわゆる一般の取り方で、すぐに繋がってくると思う。けれども《浮浪者》というのはどうやって出てきたかというと、ずっと前に石川恒太郎という人の『日本浪人史』という本で読んだんですが、「浪人」というと僕らは侍の浪人を考えるけれども、もともとはさっき松繁さんがいわれた、律令制度のなかから外されていく者を「浪人」といってたんですね。山窩(さんか)とか海人(あま)とか、そういう天皇制の農耕社会のなかからはみ出していった人が、もともと浪人として出ていった。こういう人たちは戸籍がない。逆にいうと、ほかの戸籍に縛られた人間は移住の自由がないのに、彼らは移住の自由があったわけです。

ヨーロッパでも同じようなことがあって、今年は200周年だそうだけど、フランス革命のなかで初めて好きなところに住む自由というのができたんですね。それまではヨーロッパでも好きなところに住めなかった。だからむしろ《浮浪》というのは、ほんとは人間の権利なんです。文字どおり民主的な権利。それがそうじゃなくて、いまは家があって、労働でもちゃんとした会社(笑)に属していて、というものがプラスの価値になってる。《浮浪》というテーマは、人間にとっての本来の価値はなにかというところまで、掘り下げて考えていくことができると思、うんですね。ドイツ語では、《浮浪者》に対して「フォーゲルフライ(Vogelfrei)」という言葉があります。フォーゲルというのは鳥なんですね。フライは英語のフリー。《鳥のように自由な》というわけですが、しかし、行き倒れになって《鳥が自由についばむ》ままにゆだねられる、という意味に使われ、これが定住してない人を指します。ですから字引を引くと《鳥のように自山な》とは訳してない。《法の保護の埒外に置かれた》というんです。つまり《カゴのなかにいない》ということ。カゴのなかにいないと法律は護ってくれない。これはドイツ語としてはおもしろいことだと思うんだけども、鳥のように自由だと、いつ、どんな殺され方をしても文句はいえない。それは《無宿人》がそうでしょ。そのへんで、さっきからドイツ語のことで考えていたんです。