28回越冬闘争とは――その1――(26日朝)(97〜98 日刊えつとう 連載)

 

4月67,194人、5月58,418人、6月52,490人、7月55,891人、8月68,775人、9月71,089人、10月75,685人、11月59,768人。

 この数字は、西成労働福祉センターが把握した今年4月から11月までの現金求人の数である。

 今更こんな数字を挙げなくても、釜ヶ崎の労働者という労働者が、毎日の生活の中で、仕事の少なさを身にしみて感じている。

 冬の厳しさだけが労働者を殺す厳しさではない。今年の釜ヶ崎は、4月以降、冬の厳しさを上回る厳しさにさらされ続けてきた。

 それゆえ、今年の越冬闘争は緊張感を欠いたものとなっている。6月のセンター開放、11月末からの緊急越年対策要求闘争、緊張の連続であつたが故に、恒例とも言える「越冬闘争」開始は、緊張をさらに高めるものでなく、日常的な平穏感すら呼び起こす。

 仕事のない厳しさも、冬の寒さも「越冬闘争」以前からあったし、その後も続く。臨時宿泊所の期間延長も、年明けのセンター再開放も決まっている。

 では、なぜ「第28回越冬闘争」なのか。今回の越冬闘争の特徴を考えてみたい。

 

28回越冬闘争とは――その2――(27日朝)

 

 越冬闘争の毎年掲げられるスローガンは「仲間から1人の死者も出すな」である。

 1970年の暮れから、万博後の仕事の落ち込みからセンターの周りで野宿を余儀なくされる仲間が増えたことから、路上死・「凍死」が増えることを心配した仲間が、とりあえずおにぎりを持って夜回りを始めたのが「越冬闘争」の始まりである。

 その翌年から、大阪市が既設の施設を活用しての臨時宿泊所が開設されるようになった。

 しかし、総ての野宿を余儀なくされる仲間が臨時宿泊所に入れることはなく、平行して四条ヶ辻公園(現花園北公園)テントを張っての本格的な「越冬闘争」が行われた。

 「越冬闘争」の歴史の中では、臨時宿泊所の中で団交を行い、期間延長を勝ち取ったこともある。

 しかし、越冬闘争の重点は、労働者や支援の自主活動・団結で、仲間の命を守ることに置かれてきた。

 度重なる要求にも関わらず、行政側が十分な対応を行わなかったという事情があったとしても、「スローガン」からすれば、それは限界を伴ったものであった。

 医療センター軒下の野営地で、仲間が死亡していたということも、事実としてあったのであるから・・・・。

 

28回越冬闘争とは――その3――(28日朝)

 

 第28回越冬闘争は、11月17日の大阪府・市に対する「緊急越年対策要求書」の提出から始まった。

 11月24日から始まった大阪府庁前での野営、西成労働福祉センター前での座り込みを経て、例年の越冬突入集会の開催される12月25日までには、臨時宿泊所の定員枠の拡大(1,700名)と開設期間の延長(1月16日)まで、臨時宿泊所開設期間を除いたセンターの夜間開放などがすでに決まっていた。越冬闘争史上希有のことである。

 それは勿論、釜ヶ崎日雇労働者の置かれている状況の厳しさが希有のものであることと、多数の仲間の粘り強い要求行動への参加がもたらしたものである。

 しかし、それでも越冬闘争のスローガン「仲間から1人の死者も出すな」は、今回越冬闘争では達成できないものとなった。

 なぜなら、センター正式夜間開放の2日目の夕方、センターのシャッターがいったん閉まる前、センター3階西成労働福祉センター前付近で、1人の仲間の「行き倒れ」死亡があったからである。

 目前のことで言えば、限られた期間とはいえ仲間の命を守ることができるのは、臨時宿泊所への入所であるといわざるを得ない。

 

28回越冬闘争とは――その4――(29日朝)

 

 「仲間から1人の死者も出すな」の越冬闘争のメインスローガンが、現実的には常に虚しいものであったことは、越冬期間中も「行き倒れ」死亡の仲間が絶えなかった事実が示している。

 しかし、このことは、多くの仲間の努力、仲間から1人の死者も出すまいと積み重ねた努力が虚しかった事を意味するわけではない。越冬闘争がなければ、もっと多くの仲間が「行き倒れ」死亡にさらされたであろう事は確かであろうから。

 そのことを確認した上でなお、今越冬闘争は虚しさが際だつ。「行き倒れ」死亡にさらされている仲間の数が極端に多く、「行き倒れ」死亡にさらされる期間も越冬の概念を越えて長期にわたっているからである。

 であるからこそ、大阪市も、臨時宿泊所の増員と期間延長を打ち出したのである。

 釜ヶ崎の現実から言えば、これは小手先の対応に過ぎない。釜ヶ崎の現実は、常設の避難所・仕事の創出を必要としているのであるから。

 だが、理屈でなく、1月16日までは、寝る場所と食事が、最低確保できる事実は重い。

 とりあえず、臨時宿泊所で体力と、新たに闘う気力を養い、もっと積極的な行政施策の獲得行動に備えよう。

 

28回越冬闘争とは――その5――(30日朝)

 

 29日、センターで寝ている仲間の動きはあわただしかった。午前2時半頃から市更相の前に移動する仲間が増え始め、3時半にはほぼ全員起床していた。

 何のために早朝から市更相の前に並んだのか。臨時宿泊所受付の整理券をもらうためである。

 大阪市の職員も早起きしたようで、3時40分には整理券の番号は740番になっていた。

11時にはその日に対応できる人数を超え、2,500番以降は30日面談となった。整理番号は臨時宿泊所の定員をも越えた。

 現実が想定を越えた。これが第28回越冬闘争の特徴である。労働者の生活感覚だけが正しく現実をとらえている。臨時宿泊所の定員が増員されても、決してゆっくりはしていられない。きっと、それ以上の入所希望者が殺到するからと・・・・。

 大阪市の「越年対策」はパンクするのか。果たして整理券をもらっただけで、何の対策にもあずかれない仲間は何人に上るのだろうか。それでも、今日は、まだ、行政の努力に頼るしかない。多くの仲間が、野宿から一時的にもせよ脱するために。市更相へ!

 

28回越冬闘争とは――その6――(31日朝)

 

 臨時宿泊所の正式受付が終わった。受付の結果に限定して言えば、大阪市が努力したと評価されるであろう。

 しかし、臨泊受付の状況を見て、「とても自分は入れないだろう」と考え、歩いて神戸まできた労働者がいる、と神戸で越冬を闘う仲間が伝えてきたし、臨時宿泊所に入った仲間の数だけずいぶん減ったけれども、まだ野宿を余儀なくされている仲間がいる。

 また、年明けの五・六日以降、臨泊から出てくる仲間の先行きについても、不安がある。

16日以降については、なおさらである。

 第28回越冬闘争実行委員会は、例年より早く、反失連と共に行動を起こした。行政の側も、積極的にとは言いにくい面もあるが、一定程度、手厚い対策を行っている。

 それでもなお釜ヶ崎労働者の不安は去らない。

 行政の「越年対策」を越えた課題が、先送りになったまま残っているのである。

 「越冬闘争」も「越年対策」も、季節の寒さと、昔ながらの「十日戎を過ぎるころには仕事が出てくる」という「常識」を前提としている。その枠組みでは、今越冬は比較的「うまく」こなされているが、その枠組みを越えたところに、今越冬の課題はある。

 

28回越冬闘争とは――その7――(1/1日朝)

 

 年が改まったが、そのことで釜ヶ崎の状況が変わるわけではない。

 30日夜、医療センターの軒下と三角公園のテントで寝た仲間は、100人を越えなかった。勿論、野宿を余儀なくされている仲間が、その人数に限定されているというわけではないが、臨時宿泊所開始の効果は大きかったと認められる。

 今は、その事実を元に話を続ける。31日の炊き出し(年越しそば)の列・その夜の宿泊状況には触れない。

 問題は、大きな効果を発揮した臨時宿泊所が、なぜ、例年と同じ時期にならないと開設されなかったかだ。臨時宿泊所受付終了日夜の状況は、釜ヶ崎における行政が果たす役割の大きさを、改めて再確認させた。それがなぜ、昨年6月のセンター夜間開放の時に発揮されなかったのか。なぜ、期間をわずかに延長するだけで臨泊は閉じられるのか。

 大阪市や大阪府には、釜ヶ崎の仕事が大きく増えるという自信があるのだろうか。

 そうは思えない。臨時宿泊所終了後のセンター夜間開放はすでに決まっているのだから。

 臨時宿泊所に入った仲間は、反失連の要求「各区にリサイクルセンターを設け、各100人、計2,300人の仕事を確保せよ」で挙げた数字に近い。これが実現すれば、臨泊同様、目に見えた効果を上げることは間違いない。

 

28回越冬闘争とは――その8――(1/2日朝)

 

 2,200人臨時宿泊所に入った。そして、31日の三角公園の炊き出し(年越しそば)にはおおよそ800人を越える仲間が列を作った。そのうえ、野宿層として定着したと言わざるを得ない仲間の数は、変わっていない。

 釜ヶ崎周辺には野宿を余儀なくされている仲間が多く取り残されており、偏見と差別に基づく迫害にさらされている。だから、今越冬でも周辺地域を含めてのパトロールがおこなわれている。一部(大阪府警・西成署)でデモと勘違いしているむきもあるようだがそうではない。

 ようするに、この時期に限って言えば、行政対策の効果がはっきりと出る層と、行政に頼るほどではないがいくらか援助を要する層、そして、全くこれまでと違った枠組みで対策を考えなければならない層の、おおよその人数的把握ができるということである。

 97年(昨年)なみの仕事量で有れば多少増えるかも知れないが、おおよそ3,000人分の仕事を確保するか、年間を通しての無料宿泊所を開設するかすれば、現状以上の水準での、市内で野宿する人々、行き倒れで死亡する人々を出さなくてすむということである。

 それとは別に、すでに長く野宿層として定着している仲間への対策が考えられなければならないのである。

 

28回越冬闘争とは――その9――(1/3日朝)

 

 今期越冬における臨時宿泊所開設の効果は、景気の波を吸収するものであった。(もちろん、行政に期待することを「諦めたように見える人たち」を切り捨てた見方であることを確認した上での評価である。)

 少なくとも、三角公園・医療センター軒下の野営地の状況は、そう言いうる。

 このことを何度も何度もしつこいぐらいに確認しているのは、行政側の人々を喜ばそうと考えてのことではない。やれば成果が上がると言うことを確認したいがためである。

 単純に言えば、今越冬では、「まず、状況がある。その状況で最も苦難を感じるものが、声を挙げ、体を動かす。そのことを多くの人に伝える。当事者の声と周囲の人々の声が、行政の動きを促す。」という流れがうまくかみ合ったといえる。

 大阪府労働部も、「地域関係者や多くの府民から早期解決を求める意見が寄せられており、さらに、地域住民も一定の理解を示されるに至った」ことを、センター夜間開放に応じる理由の一つに挙げている。

 それでも、今の越冬期間中の状況は「越年・越冬」の枠内でのことである。世間が仕事を軸に動き始める時期以降の釜ヶ崎の状況は、昨年越冬以前と変わらないものとなる。今一度、流れを作らねばならない。

 

28回越冬闘争とは――その10――(1/4日朝)

 

 次々善の策である「センター夜間開放」と臨時宿泊所増員・期間延長を軸とした今越冬の骨組みができたのは、それを必要とする仲間の粘り強い行動と周囲の人たちの協力のお陰である。

 これはすでに、過去のことである。人が生きると言うことは、今日と明日の話である。今日と明日の衣食住が確保されて人は生きることができる。

 人は生きるために努力をする。仕事がなかったら、仕事を探そうとする。それでもなかったらどうするか。「今日」のことで言えば、残飯やコンビニの残りなどで「食」(ことさらに、仲間たちはエサという)を確保し、「明日」につなぐ。その明日の行く末は、路上での「行き倒れ死」の可能性が高い。

 法制度上は、「今日」のために市更相がある。早朝、センターで仕事を探す努力をする。仕事がなかったら市更相に行き「援護」を求める努力をする。個人的にできる努力は、日々積み重ねられなければならない。

 原則は原則として、それで「今日」の問題は解決するか。最初から諦めるのは最もよくないが、解決を得られる仲間は少ないことであろう。「明日」の問題はなおさらに・・・・。

 ここで、個人の問題が集団の問題となる。

 

28回越冬闘争とは――その11――(1/5朝)

 

 釜ヶ崎に仕事がない事態は今年も続く。個々人の仕事を求める努力、福祉「援護」を求める努力は更に強化されなければならない。その努力が報われる仲間もいることだろう。

 しかし、野宿を余儀なくされる仲間が多数に上ることは、避けられない。大手ゼネコンがつぶれ、何十万人もの労働者が建設・土木産業からはじき出されようと言う状況は、個人の努力では覆しようがない。

 では、転職は可能か。あいりん職安は職の紹介をしてくれず、中高年男性が多くの産業・職場からはじき出されているこの時代に、釜ヶ崎労働者が個人の力で転職をはかることは、かなり困難なことであろう。それでも、個々人の努力は大切である。

 が、個々人の努力が実らないとき、黙って路上で野宿し、行き倒れ死することはない。

 多くの仲間が、同じ状況にあるとき、千人も、二千人も、三千人も、一万人も野宿に追いやられようとしているとき、問題は個人の問題ではなく「社会」の問題になる。

 ただし、そのためには個々人が行う努力とは別の努力が必要となる。集団での要求行動である。個々人で市更相に行くのも、毎日数百名ということになれば、集団の力となる。その上でさらに、集団行動で要求行動を行えば、社会に対して広がりを持つことになる。

 

28回越冬闘争とは――その12――(1/6朝)

 

 個々人の努力を背景に集団の行動を行う。勿論、集団行動の人数は多ければ多いほどいい。そして要求は、釜ヶ崎の総ての仲間、日雇以外の人々に対して分かりやすいものでなければならない。

 「路上で死にたくない」「野宿をしたくない」――これほど分かりやすい主張があるだろうか。数百人・千人・二千人・一万人の仲間がこの主張を掲げて行動すれば、個人の努力を越えた問題であることが、誰にでも伝わるであろう。

 個人の努力は大切である。放棄されてはならない。その上に、集団での要求行動を積み重ねることは更に大切なことである。

 分かりやすい主張とは具体的な要求を伴うものである。

 「臨時宿泊所施設を当面、単泊施設として活用せよ」

 多くの仲間が仕事を探すのに、「援護」を求めるのに日々努力を積み重ねる。しかし、実とは限らない。釜ヶ崎とほど遠いところにあるのが難点だが、いまはやむをえない。労働者の努力を支えるために、臨泊施設は、単泊施設として活用されるべきである。それができなければ、ドヤでの居宅保護を開始すべきである。

 

28回越冬闘争とは――その13――(1/7朝)

 

 「今日」の課題である「住」と「食」は、「今日」解決されるべきものである。

 路上での野宿は最悪の選択である。

 センターの夜間開放はそれに次ぐ最低の選択である。それでも、路上で個々人が野宿するよりはいくらかましである。緊急避難としてはやむおえない選択である。

 だが、センター夜間開放は、最終目標ではない。あくまでも「今日」の課題を緊急的に応急処置するために、一時的なものとして求めるのである。センター夜間開放は固定されてはならない。誰もそんなことは望まないだろう。センターはあくまでも労働・就労を軸とした場でなくてはならない。

 多くの仲間は、「今日」の課題である「住」と「食」の問題の解決を求めると同時に、「明日」につながる「職」を求めている。職についても、釜ヶ崎労働者総体の要求が掲げられなければならない。

 建設・土木産業での就労は回復しないであろう。だとすれば、我々は、「明日」を生きるためにどうすれがいいのか。

 新たな産業を興すしかない。「リサイクルセンター」の要求は、産業を立ち上げようとするものである。

 

28回越冬闘争とは――その14――(1/8朝)

 

 釜ヶ崎には仕事がなく、建設産業全体の先行きも見えない。仕事が少ない上に、世間一般に仕事を探している人間だらけで、就労するのに競争が激しい。

 これではいつまでも仕事の心配をしていなければならない。それどころか、野宿から抜け出せない仲間も増えてくる。

 この状況を打ち破るには、釜ヶ崎労働者が新しい産業を見出し、育てるしかない。それが「リサイクルセンター」である。

 京都で国際環境会議瓦解際されたことを知っている仲間は多いだろう。あの会議のテーマと我々の要求は、同じものである。

 ただ単にものを集め移動する廃品回収業者ではなく、集められたものを再生可能な形に再分類するサービス業、それが「リサイクルセンター」の構想である。

 ドイツは、分別収集とリサイクルを徹底することで、百万人分の仕事を作り出したことで有名である。

 日本も、かって70年代に行き詰まったときに「省エネ産業」立ち上がった。今は、「環境産業」を立ち上げるべき時である。これは、釜ヶ崎だけでなく人類の未来のための要請である。

 

28回越冬闘争とは――その15――(1/9朝)

 

 今、55歳以上の仲間のために、数は全く足りないが「清掃事業」の就労対策が打ち出されている。この枠を300人に拡大することが、当面の目標となっている。これが実現すると、月に半分の就労で600人が、なんとか生活できるようになる。

 清掃事業は、年齢や病気などでやや体力の落ちた仲間のための仕事として、考えられ、要求し実現した。

 現在の状況では、もう一つ別に、体力も十分にありながら仕事に就けない仲間の仕事づくりが必要とされている。そのために「リサイクルセンター」を各区に作り、当面、釜ヶ崎から各百人計2,400人が、徹底した分別を行って、再生資源として業者に引き渡す作業を行う場とすることを、要求項目として掲げている。

 大量生産・大量消費の時代は、少なくとも「先進国」といわれる国々では終わろうとしている。生産の段階から、各部品や製品の構成要素の再利用または再生資源として容易に回収できることを検討する時代となった。つまり、本格的な「生産―消費―回収」の時代の到来である。「生産―消費」のサイクルから排出されたものを、ゴミとして燃やし、埋め立てる時代は終わった。

 「リサイクルセンター」は決して夢物語ではない。

 

28回越冬闘争とは――その16最終――(1/10朝)

 

 釜ヶ崎から野宿を余儀なくされる仲間をなくし、路上で死ぬ仲間を亡くすために、清掃事業の拡大、「リサイクルセンター」の創設を要求している。

 しかし、「今日」の解決には成らない。そこで、仕事以外のことでは、野宿を余儀なくされる仲間のために、臨時宿泊所でなく「常設の無料宿泊所」が必要となる。ドヤでの居宅保護の開始か、ドヤ券・パン券の発行の方が、より現実的かも知れない。

 この福祉施策は、仕事面での要求が実現すれば、自然と縮小されるものである。変わって、低家賃住宅の要求となる。

 以上のことを実現するためには、釜ヶ崎の労働者の行動が必要なことは言うまでもないが、それ以外の多くの人の理解と協力が必要である。

 釜ヶ崎の商店主やドヤ主・食堂の経営者などからも、地域を活性化し、自分たちの生活を守ることにつながる事として行政に要求してもらい、府会議員や市会議員、国会議員などの協力も得てようやく見通しが立つようになる。

 死を回避するための緊急課題と、未来に結びつく課題とを、不可分なものとしてとらえ、諦めることなく行動を積み重ねることの必要を「第28回越冬闘争」の過程は示している。