生活保護と自立支援

はじめに

 釜ヶ崎支援機構は、野宿生活者と野宿にいたるおそれのある人々の支援活動を目的として設立された特定非営利活動法人です。釜ヶ崎支援機構としては、野宿生活者が野宿に至る最大の原因は失業であると考えていることから、野宿生活者の支援は、原則として就労の機会を提供し、野宿生活者が収入を得られるようにする事であると考えています。実施している事業の中でも、就労に関わる事業(高齢者輪番就労事業)が大きな比重を占めています。

 しかしながら、事業に参加する野宿生活者一人ひとりにとっては、極僅かな収入をもたらすにすぎない現状にあります。輪番就労によって得られる収入によって、簡易宿泊所やアパートに居所を確保し、食を確保できるにはほど遠く、野宿状態のまま就労に来ます。これまでも、就労に来て詰め所で亡くなる、救急車で運ばれて亡くなる、入院して長期に意識が回復しないなどの人がでています。それ故に、就労を軸とした活動の中でも「生活保護法」との関わりが生じます。

 その関わりからいえば、現在の生活保護制度は機能不全をおこしているように思えます。「稼働能力の活用」が保護の開始に当たって問われますが、法の趣旨からいえば、保護開始後の「就労指導」として行われるべきものであると考えます。また、「稼働能力の活用」が保護の要否判定で大きな比重を占めることになっているのは、生活保護制度が「最後のセーフティネット」としてではなく、「人生の終着駅」として位置づけられているからであるように思われます。経済的困窮時の一時的緊急避難として活用し、被保護者の条件を整え直す期間の後に経済的自立を果たして生活保護から抜けるという積極的な側面が、今の生活保護制度にかけていると考えられます。

 また、釜ヶ崎支援機構が関わった、加齢を理由に生活保護を受けることになった人々の多くは働くことを求めています。それは経済的自立を果たすほどに働けない人もそうです。それらが満たされない不満を抱えています。一般的に高齢者の生きがい就労といってもいいかもしれません。個々人が、努力して見つけ出すものであるといってしまえば、そうであるかも知れません。しかし、ケースワーカーの「就労指導」の中に、他施策と連携して、社会参加を保障する助言が含まれれば、生活保護制度に精神的にも依存している人々を、もっと活力を保持した精神的自立度の高い存在へと変えていくことができるのではないでしょうか。生活保護受給が、敗者の印とならないために、必要な改変だと考えます。

 生活保護制度の見直しがいわれ、担当地域の被保護者の類型化ごとの自立支援プログラムの策定とそのプログラムの方向性に基づき、被保護者個別の状況を斟酌して作成される個別支援プログラムの整備と実行が試み始められています。

 個別支援プログラムの内容は、「就労自立の支援に関する個別支援プログラムのみならず、社会生活自立の支援及び日常生活自立の支援に関する個別支援プログラムについても適切に整備することにより、多様な対応が可能となるよう配慮する。―生活と福祉・2005年6月号・18頁」とされており、今後の成り行きは注目に値すると感じています。それでも、制度活用の入り口の所での「稼働能力の活用」に絡んでの排除は大きな問題として残るように思います。

 以下に、具体的に考える一助にして頂ければと考えて、釜ヶ崎支援機構の活動を紹介させて頂きます。

1.釜ヶ崎の中の釜ヶ崎支援機構

 釜ヶ崎支援機構は、日本国内でもっとも多く野宿生活者がいる地域(大阪市西成区)で、活動をおこなっています。

 20032月、「ホームレスの自立支援等に関する特別措置法」に基づいて実施された全国概数調査で把握された野宿生活者は、25,296人でした。その内の26.1%(6,603人)が大阪市内在住です。東京23区内在住は、23.4%で5,927人でした。大阪市内の野宿生活者が、日本国内では最大であることを示しています。

 全国概数調査では、大阪市内の区ごとの集計はありませんが、19988月に、「大阪市立大学都市環境問題研究会」が実施した大阪市概数調査では各区集計があります。それによると市内全域で、8,660人が把握され、もっとも野宿生活者が多かったのは、西成区で22.1%に当たる1,910人、二番目に多かったのは、浪速区18.3%(1,585人)でした。全国概数調査と大阪市概数調査を単純に比較すると、5年間で約2,000人減少したことになります。この数字上の減少が実態を反映したものであるか、調査方法の違いによるものであるかは、検討の余地があると思います。ただ、野宿生活者が西成区にもっとも多いという傾向には、変化がなかったように思われます。200510月に実施された国勢調査では、野宿生活者を別集計する試みもなされているようです。最新の概数として、公表が待たれます。

 釜ヶ崎支援機構が活動する地域は、大阪市内西成区の北東部に位置し、一般的には「あいりん地区(釜ヶ崎)」の呼称で知られている全国最大の日雇労働者の街、簡易宿泊所街です。人の面では建設土木産業で日雇いとして働く単身男性が多く、建物では簡易宿泊所が多いという特色を持っています。住民の多数を占める労働者の年齢が若く、求人がそれなりにあった時代には、日雇労働市場の維持再生の場として機能していた街でした。

 そういった街でこれまで中心となっていた課題は、暴力手配師や賃金不払い・労災もみ消しなどの労働問題であり、不安定就労から派生する一時的野宿や病気などの問題に対応する福祉施策であったと思います。

 1980年代から梅雨時を中心とした仕事の減少が顕著になり、高齢労働者などの野宿が目立ち始め、1995年以降は、中高年齢労働者の野宿が極端に増加しました。釜ヶ崎に、これまでの課題のうえに、長期的に野宿を余儀なくされる労働者の問題が、大きな比重を占めるものとして登場してきたのです。日雇労働者の雇用保険手帳(白手帳)所持者の内、年度末有効数は、関西新空港建設着工の前年である19863月末の24,458人を最高に、20058月末の6,662人へと、大きく減少しています。西成労働福祉センターが把握している年度ごとの日雇求人数の最高は1989年度の1,874,507人、2004年度は110万人減の702,642人でした。

 野宿生活者問題の大きさ、重さを端的に示すものは「路上死」であると思います。2000年に行われた「大阪市における野宿者死亡調査」−大阪府立大学教授や大阪府監察医などの共同研究−が対象としたのは、大阪市内で路上死した213例です。発見場所を区単位で見て、最も多かったのは西成区61人、ついで浪速区27人、中央区24人と続いています。具体的な場所では、路上が111人、公園が51人で、9割を占めています。

 死亡時の所持金で最も多数だったのは100円未満の34人、ついで100円以上500円未満が13人で、一食すらまかなうことができない所持金しか持たないで亡くなった人が多数である事を示しています。

 死因では、餓死が17人、凍死が19人、自殺が29人等が目を引きます。標準化死亡比で言えば、総死因で、野宿生活者は、一定の居所を確保して安定した生活を送っている人々と比べ、3.56倍死亡確率が高いと言うことになっています。具体的な死因では、自殺が6.04倍、結核はなんと44.42倍にもなっています。総じて言えば、路上死というのは、本来まだ死ぬべきでない人が、路上で死んでいるということを示すということになると思います。

 釜ヶ崎(あいりん地区)の野宿生活者について、1993年から2000年まで、日々、把握されているものを年間合計し、調査日数で割って年ごとに一日平均を出すと、次のようになります。1993334.4人、1994368.5人、1995265.4人、1996249.8人、1997430.2人、1998646.4人、19991,064.0人、2000873.1人。

 釜ヶ崎地区内の把握された野宿生活者数は、1993年と1999年を比較すると3倍になっていることがわかります。1995年と1996年の減少は、阪神淡路大震災の影響です。阪神淡路大震災の影響は日雇労働者への一時的求人増となって現れ、野宿を余儀なくされる労働者が若干減少したことを示しています。

 釜ヶ崎が抱える課題は就労面だけではありません。2000年国勢調査によれば、大阪市の老年人口(65歳以上)が全人口に占める割合は17.1%ですが、西成区は23.2%となっています。釜ヶ崎では、おおよそ20%が老年人口です。60歳以上ではおおよそ35%になります。もし、釜ヶ崎に仕事が戻ってきても、高齢化による課題は残ることとなります。

 釜ヶ崎は、野宿生活者の数、老年人口比で突出しているだけでなく、生活保護世帯の割合でも目立っています。20053月現在、大阪市の生活保護率は3.94%(全国の同年2月は1.13%)ですが、西成区の生活保護率は15.47%です(世帯でいえば24.1%)。あいりん(釜ヶ崎)地区内での簡宿転用アパートを中心とする生活保護世帯は、約3,200世帯といわれています。

2.就労機会提供事業を軸に−釜ヶ崎支援機構の関わる事業(1)

 釜ヶ崎の中で生まれた釜ヶ崎支援機構は、野宿を余儀なくされる労働者が求めるもの――第一に仕事であり、寝場所であり、食事である――を、現実化する役割を担おうとしています。

 1980年代初頭、仕事の端境期でもある梅雨時に高齢者を中心に野宿を余儀なくされる労働者の姿が目立つようになった時、「日雇労働者の未来をかけて」、運動体側から西成労働福祉センターへ「高齢就労窓口」の設置と仕事出しが求められました。仕事出しは実現しませんでしたが、「高齢就労班」が設けられ、高齢者向けの仕事の開拓と紹介をおこなうようになりました。

 「バブル期」の雇用が増え続けた時期でも、産業や企業ごとに繁栄と衰退があり、職を失う人も増えていたので、拡大を続ける建設産業が失業の受け皿となっていました。製造業から建設業への労働力移動の結果、失業率の上昇は緩和されていましたが、そのしわ寄せは、日雇い労働市場で長年働いてきた高齢日雇労働者の就労機会が狭まり、野宿を余儀なくされるという形であらわれていました。梅雨期の「アブレ地獄」だけの一時的野宿ではなく、通年野宿の層が目立つようになっていたのです。

 「バブル経済」崩壊後は、釜ヶ崎反失業連絡会(釜ヶ崎就労・生活保障制度実現をめざす連絡会)が「仕事よこせ」闘争を展開し、最初は庁舎の玄関で要求書を受け取って貰うのがようやくという段階から、部屋を設けて話を聞くという段階に進み、大阪府・市が「仕事出し」をおこなうにいたりました。1994年、大阪市が単費事業として開始した「高齢者清掃事業」の受け皿となったのは社会福祉法人大阪自彊館でしたが、実際に仕事現場で労働者と共に働いたのは、自分達が要求を出して実現した事業を守り育てようと考えた反失業連絡会のメンバーです。

 登録輪番制による「高齢者清掃事業」は、期間を区切っての実施が通年事業となり、年々、少しずつ拡大されましたが、「誇りうる成果(野宿を余儀なくされている人々が、就労によって生活できる収入を得ることができる)」というにはほど遠い規模でしかありませんでした。

 19997月に国予算の「緊急地域雇用特別交付金」が決定し、同年9月に大阪府の認証を受け法人登記した釜ヶ崎支援機構が、基金を使っての事業の委託を大阪市から受け、11月から具体的に事業実施することで、少しは「就労機会提供事業」の形が整いました。

 西成労働福祉センターに登録した高齢者(55歳以上・2005年度登録者数2,783人)を対象とする就労機会提供事業は、「あいりん日雇労働者」向けの対策とされていますが、前記事情から市内に拡散している高齢日雇労働者も多数存在することから、実際には梅田周辺の路上や大阪城、天王寺公園でテント生活している人も含まれています。

 釜ヶ崎支援機構に委託され、2004年度に実施した就労機会提供事業の雇用延べ人員は107,033人で、約9億円の規模でした。2005年度予算では約6.8億円となっています。「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」ができ、大阪府・大阪市に実施計画ができて、「雇用の確保が重要」との視点は確認されているにもかかわらず、国の「雇用創出基金」が使えなくなり、大阪府・市の予算だけとなったので、大幅な減額、従って就労数の減となりました。

6.8億円の金額だけを見ると大きいように見えますが、大阪市内6千人を超える野宿生活者の規模、そして現に登録している数を考えれば、必要とされている事業規模(日々の就労人数)より格段に小さく、野宿生活者の生活を支えるには至っていません。

 1日の日当5,700円(弁当代400円込み)。登録した番号順に一日の就労人数が紹介される登録輪番制により一人平均月3回の就労、月に15,900円の現金収入をもたらすだけにとどまっているからです。それでも、「高齢者清掃事業」が始まった当初や、毎年新規登録で新しく加わった人たちが、初めて実際に就労し、賃金をもらった時の表情や言葉は、本当に感動的なものです。

 「これで、久しぶりにお金出して、人間らしいものを食べられるわ」、「今日は風呂に入って、ドヤに泊まろか」。就労に来たものの、体調がすぐれず、休憩していた人は、皆から病院へ行ったらと勧められたのに、「いや、このところロクなものを食べてなかったから、今日は、帰りに通天閣の下に行ってスシでも食べて栄養つけますわ」と答えていました。

 現実的な現金収入の面だけで、輪番労働者が喜び、助かっている訳ではありません。輪番労働者が働く現場は、市有地や市の管理施設内の除草・道路の清掃・児童遊園の美化作業、府有地や府の管理施設内の除草・府下幹線道路や河川敷の清掃などですが、定期的に「労働」することができ、仲間とわいわいできることで得られる働く人としての誇りの確認や満足、「輪番就労」という社会の中の一つのシステムに参加していることで得られるなんとはなしの安心感。これらが野宿生活者には得がたいものであるのです。

 「輪番登録」は年度が替わるたびに、再登録と新規登録がおこなわれ、番号も振り直されて登録カードも新しいものが発行されます。釜ヶ崎支援機構では、毎年登録者の顔写真を撮影し、カードに貼り付けることにしています。2005年の登録者は2,783人でしたから、2,783人の顔写真を撮影し、2,783人のカードに貼り付けたことになります。釜ヶ崎支援機構の作業量も多大ですが、輪番登録者の時間もいくらか拘束することになります。繁雑な作業が毎年混乱もなく続けられているのは、輪番登録者の協力があるからです。顔写真を貼る目的が、二重登録や他人のカードで就労することの防止など、登録輪番制の公正さを保つことにあると言うことが理解されていることもありますが、他にも協力的な理由があります。

 野宿生活者は、アルミ缶や廃品回収を行うために、夜間、行動することが多いのですが、たびたび警察官に呼び留められそうです。そういったときに、顔写真付の登録カードを見せると、警察官が何となく納得して「気をつけてな」ぐらいですむといいます。実際に、顔写真を始めた年には何人かに、「いいこと始めてくれた、助かるわ」、と声を掛けられました。登録カードが、居所も健康保険証も持たない野宿生活者の「身分証明書」の役割を果たしているのです。

 輪番就労で働く、労働者であるという、証明。社会的に認められた集団に、帰属していることの、証明。野宿生活者が、登録カードに見いだす意味づけは、野宿に至るまでの過程で、また、日々の野宿生活の積み重ねの中で失われたものを補填するものであるといえます。

3.寝場所を求めて−釜ヶ崎支援機構の関わる事業(2)

 野宿生活者にとって「食べること(働いて収入を得ることも含んで)」は切実な、日々解決を迫られる課題ですが、「寝る場所」の確保も、日々解決を迫られる課題です。

 野宿生活者の多数は、アーケードのある舗道上で段ボールや新聞紙などを敷き布団代わりにして寝ています。掛け布団は毛布一枚。段ボールで囲いその中で寝たりもします。線路沿いや公園や河川敷にブルーシートでテントを張ったり、仮小屋を建てたりして寝場所を確保する人もいます。

 1998年夏に、長居公園で出会ったテント生活者は、テントを張るまでのことを話してくれました。

「釜ヶ崎で働いていたが、仕事が無い日が続き、ドヤ代(簡易宿泊所の宿泊費)も払えなくなって、なんか生きるのが嫌になって、長居公園まで歩いてきた。ええ枝があったら、ブラさがろうと思うて。来てみたら、ブルーシートのテントがいっぱいあって、煮炊きしてる者もいた。どうやって生活しているのか話を聞いた。アルミ缶を集めて売ること、コンビニから賞味期限切れの弁当が出ること。やってみたら、なんとかなった。生きられる自信がわいた。そりゃ、みんなの公園だから、住みつくのは悪いことだと思ってる。だから、目立たないところ、なるべく邪魔にならない所を選らんでる。周囲の掃除もしてる。他に仕様がなくやってることを判って欲しい。」

 こんな思いでテント生活に入っても、「安定」した生活が得られるわけではありません。テントや仮小屋の中で死亡して発見される野宿生活者は後を絶ちませんし、公園や道路を管理する行政機関からの立ち退き勧告や少年たちによる襲撃があります。テントであれ路上・公園などでのごろ寝であれ、ロケット花火を打ちかけられたり、石を投げられたり、テントや野宿生活者自身にガソリンをかけられて火をつけられたり、「寝ること」が命がけの行為というべき状況があります。

 善意に基づくのでしょうが、訪れる人から「市民と野宿生活者の共生を実現するにはどうしたらいいでしょう」と聞かれることがあります。私は、そんなことは考えるべきではない、と答えています。なぜなら、野宿生活者の多くは、やむをえない選択として野宿しているのであり、死ぬまで公園で生活したいと望んでいるわけではないからです。「市民と野宿生活者の共生」は、市民社会からの野宿生活者排除にほかなりません。野宿生活者の路上や公園での放置であり、緩慢なる路上死に追いやる道であると、私は考えています。野宿生活者の市民社会への再包摂とは、野宿状態のままで市民として認め、野宿状態の現状を追認するということではないはずです。

 釜ヶ崎反失業連絡会は、発足当初から、仕事要求を軸にしながら、就労で居所を確保できる収入が得られるようになるまでの対策としての「寝場所」対策も要求していました。

 1997年、釜ヶ崎地区内で最大の空間を有する「寄り場」を夜間だけ寝場所に使う「センター夜間解放」が実現します。コンクリートの上にブルーシート・ゴザを敷き、毛布にくるまって寝るだけでしたが、台風の日には1000人近くの野宿を余儀なくされている人々が利用しました。大阪府は場所提供、大阪市は緊急災害時用の乾パン支給を分担しましたが、必要なブルーシート・ゴザなどは民間で準備し、毎日の準備、後片付けは釜ヶ崎反失業連絡会の呼び掛けで野宿者の中からボランティアを募っておこなわれました。

 19988月と11月に、野宿生活者が少しでも休養をとれる機会を提供する目的で、自彊館三徳寮内「臨時ケアセンター」が実施されました。145名利用で、2泊3日、三食・風呂の付いた2段ベッドの寝場所でした。1,430人が利用しました。この時、整理券を配り、受付し、臨時ケアセンターまで引率したのは釜ヶ崎反失業連絡会のメンバーでした。

 1998年には大阪市が敷地を提供し、釜ヶ崎反失業連絡会が大小のテントを張って320人の寝場所を確保することになりました。1999年には、大阪市が大阪府からあいりん職安南分室跡の敷地を借りて大テントを設置し、釜ヶ崎反失業連絡会が運営することで、大テントでの寝場所確保は約500人規模になりました。これらの試行錯誤の過程を経て、ようやく20004月から、センター夜間開放などの代替措置としての「あいりん臨時緊急夜間避難所」開設にたどり着きます。

 「あいりん臨時緊急夜間避難所(夜間宿所)」は、大阪市が設置し、反失業連絡会の運動の中で産み出され、99年に設立した釜ヶ崎支援機構が運営の委託を受けているもので、2階建てプレハブが4棟、1棟が管理棟で宿所棟は3棟です。1フロアーに2段ベッドが100人分設置されており、全体で600人が利用できます。シャワー20機と大きな給湯器3機があります。利用時間は、午後6時から午前5時までで、毎日、利用券が配布されています。2004年、「夜間宿所」は、地区内の他の場所にも設置され、全体として1,040人の規模になっています。

 「夜間宿所」の利用が開始されて、人というものは日常生活において安定を求めるものだと、改めて認識し直す出来事に出会いました。寝場所を求める人に対してベッドの数が少ないのですから、整理券を配る場所には、配ることになっている時間よりかなり前から、長蛇の列ができます。安全な寝場所を確保するためです。それは、理解できます。しかし、整理券をもらって、寝場所確保が確定しているにもかかわらず、皆、夜間宿所まで小走りに向かいます。しばらくの間、その理由がわかりませんでした。何人かに理由を問うて、判りました。「昨日と同じベッドを確保するんや」。安定した居所を維持している人は、寝る場所、マクラの向きは、毎日決まっていることでしょう。特に意識しなくてもそうなっているはずです。毎日、寝場所を変える、マクラの向きを変えるという人はそう多くないのではないでしょうか。

 野宿生活者も、夜間宿所利用者も同じ事です。できる限り、昨日と同じ場所・同じベッドで寝たい、自分の場所・空間と思えるものを持ちたい。だから、走るのです。その思いは重々判りながら、ベッド番号を指定した整理券を配ることにしました。ベッドが選べなくなった結果、走る人はいなくなりました。なぜ、ベッドを選べなくしたかというと、事故が起きたからです。

 夜間宿所の利用には年齢制限がありません。平均年齢は55歳半ばですが、60歳以上の高齢者も沢山います。野宿生活者は、身の回りのものを鞄や手提げ袋に入れていつも持ち歩かざるを得ません。整理券を配るときは、列をなして順次券を受け取るのですが、券を受け取るや競争で宿所に向かおうとするので、団子状態になります。一人の高齢者が倒れました。後に続くものは、将棋倒れになることを避けるために、よけたり、止まったりすることができませんでした。大腿部を踏まれ、骨折し、救急搬送されて入院しました。

 夜間宿所は、現状では必要、十分役割を果たしているものではありますが、野宿生活者が求める「日常生活の中の安定」を満たすものではありません。「あいりん臨時緊急夜間避難所」は、必要最小限度の規模に縮小されるべきであり、1日も早く閉鎖されるべきです。「寝場所対策」から「居所・住宅対策」への重点移行こそが、野宿生活者が求める「日常生活の中の安定」を満たすものであるといえます。

 4.福祉相談事業−釜ヶ崎支援機構の関わる事業(3)

 釜ヶ崎支援機構は、就労機会提供事業や寝場所提供事業を通して野宿生活者と日常的なつながりがあります。就労の受付で、夜間宿所で、顔を合わせます。その人達が元気な人ばかりであればいいのですが、病気であったり、高齢で足下がおぼつかなかったりする人もいます。就労現場から、救急車で運ばれ、亡くなった人もいたのです。

 委託を受けた事業を、事故無く遂行するためには、病人は医療機関に結びつけ、働く体力のない人は生活保護法による施設入所や居宅保護に結びつける福祉相談事業が必要だと考えました。

 入院を要するほどの病人は、救急車があるし、救急受け入れ病院も釜ヶ崎にあります。釜ヶ崎地区内の簡易宿泊所に住む単身労働者の福祉窓口である大阪市立更生相談所を通じ、大阪社会医療センターの診察を経て入院することができます。通院で済む場合も、大阪市立更生相談所を通じて、大阪社会医療センターや他の病院で診てもらうことができます。

 しかし、入院するほどでもない病人や、高齢者への対応は困難でした。施設は常に定員数を超えている状態で、待ち行列が長くできていました。大阪においては、稼働能力を問われない65歳以上については、居所さえ確保できれば、居宅保護を受けることができましたが、野宿生活者には居所を確保するだけのお金がありません。釜ヶ崎支援機構の福祉相談で対応できる範囲は、ごく限られたものでした。

 2000年6月、福祉相談で対応できる選択肢が一つ増えました。不況で日雇労働者の多くが野宿を余儀なくされているということは、簡易宿泊所のお客が減ったということでもありました。そこで、野宿生活者をお客として呼び戻すことができれば、再び経営が成り立つようになると考えた簡易宿泊所のオーナーが、敷金なし、入居月家賃後払いというアパートに転業したからです。これで、65歳以上であれば、入居その日の内に生活保護申請し、生計費を前借りして野宿生活からアパート生活に移行する事ができるようになったのです。

 元々が3畳一間の簡易宿泊所です。アパートになってもその広さには変わりありません。テレビ・小さな冷蔵庫・布団は簡宿時代のものがそのまま置いてあります。開業にあたっては、高齢者の集住するアパートになるので、和式トイレばかりだったのを一部洋式に変える、手すりを付ける、共同リビングを設ける、ケアスタッフを配置するなどの配慮がなされました。その後、同様の形式で転業する簡易宿泊所や改装せずそのまま転業する簡宿が増え、現在は3,000人以上が住み、生活保護を受けていると言われています。経営を立て直すための転業ですから、3畳の部屋を2つぶち抜いて1部屋にするという改造に取り組んでもらえるところはありません。

 「福祉アパート」の登場は、野宿生活者がアパート生活に移行しやすくなり、ケアを必要とする人々の受け皿として機能しているという点では大いに歓迎すべきことでしたが、萩之茶屋地区の生活保護受給世帯が3,000を越え、今後も転業するであろう簡宿がすべて3畳のままということになると、地区の人口密度が緩和されず、新たな問題を生み出すことになります。

 福祉相談は、野宿から次の生活への移行をサポートすれば終わりというわけではありません。アルコール依存を克服するための応援、介護保険申請、年金手続き、借金の清算手続き、病院訪問、日々の金銭管理など、再び野宿に戻らなくてすむように、様々なサポートが継続して必要となるのです。続ければ続けるほど、関わる対象(現在約1,000名)は増えますが、限られた人員で不十分な対応しかできていないのが現状です。

 2003年9月までの福祉相談の中心は、65歳以上の稼働能力が問われない人を、敷金の必要でない賃貸住宅に入居して貰って、生活保護申請するというものでしたが、「ホームレスの自立の支援等に関する基本方針」の告示と同じ日付け(2003年7月)で、厚生労働省が通知【ホームレスに対する生活保護の適用に当たっては、居住地がないことや稼働能力があることのみをもって保護の要件に欠けるものでないことに留意し、生活保護を適正に実施する―厚生労働省社会・援護局保護課長。保護開始時において、安定した住居のない要保護者が住宅の確保に際し、敷金等を必要とする場合で、必要な額を認めて差し支えないこと―厚生労働省社会・援護局長。】を出したことにより、稼働年齢にとらわれない生保申請が受理される可能性が高くなった事を受けて、野宿生活者に、新たな厚生労働省通達を含めて、生活保護の手続きについて情報提供すると共に、賃貸住宅についても情報提供し、60歳以上を中心に生活保護申請のサポートを開始しました。

 しかし、本来、生活保護法による保護の要否判定は、困窮の事実に基づいておこなわれ、稼働能力を問うのならば、保護を開始して後、就労指導をおこなうのが筋であるであると考えられるのですが、大阪においては、「稼働能力の活用が十分にはかられていない」との理由で60歳未満の生活保護申請が却下される例があります。一つ一つ押し戻しをはかっているのですが、輪番登録の中で60歳以上が1,000人以上いることもあって、対応能力の問題から、現状では60歳以上を中心に「野宿生活者のための生活保護申請手引き」を配布し、野宿から生活保護への移行を勧めています。

 野宿生活から生活保護を受給しての生活へ移行するに当たっての困難は、保護の実施機関である各区支援運営課(旧福祉事務所)の対応にばらつきが大きいこと、大阪市の財政難や職員配置の問題なども絡んで被保護世帯の抑制に傾いている事があります。この傾向は、生活保護費の国庫負担割合引き下げの厚生労働省方針が発表されたことで強まるものと考えられます。

 野宿生活者の側にも、移行を困難にする要因があります。一つは、野宿生活者の少なからぬ人たちが「情報弱者」の立場にあることです。「生活保護申請手引き」を十分に読み取ることができず、手続きの流れが理解できない、ハローワーク(職安)の端末(パソコン)をさわることができない。「わからない」と意思表示されれば、サポートの仕様もあるのですが、それを心よしとしない人もいます。

 今一つの要因は、「働く意欲」が強いことです。年齢や体力から考えて、早く生活保護申請した方がいいと思える人も、「いや、まだ頑張れる、特掃とアルミ缶でなんとかなる」と頑張る人がいます。多くの野宿生活者は、「生活保護の世話にならないで、頑張れるだけ頑張りたい」と考え、生きているのです。本当は、生活保護でなく、「仕事の提供」を待ち望んでいるのです。

 そのことは、すでに生活保護に移行した人々についてもいえます。50歳代ならば、就労指導によって仕事探しに駆りたてられます。そのことは当然のことなのですが、就職できる条件は厳しいものがあり、なかなか職にありつけない人に焦燥感をもたらし、精神の安定を損なうことになります。就労指導がない高齢者も、仕事をしていた頃を懐かしみ、なにか仕事をしたいという気持ちを抑えきれないでいます。それが満たされないまま、酒やギャンブル、医者通いに入れ込む人や鬱症状をきたす人がいます。

 高齢者の、仕事、生きがいづくりは、元野宿生活者特有の課題というよりは、高齢率の高い西成区全体の課題でもあります。

5.求職相談事業−釜ヶ崎支援機構の関わる事業(4)

釜ヶ崎支援機構は、2005年4月から、「お仕事支援部」を設けました。大阪ホームレス就業支援センター運営協議会から委託を受けた事業と、大阪市(市民局雇用・勤労施策室)から委託を受けた事業の2つに取り組むためです。お仕事支援部は、三角公園西(南海電車高架寄りに50メートル)にある旧あいりん職安南分庁舎を事務所として再利用しています。

大阪ホームレス就業支援センター運営協議会から委託を受けた事業は、次の3つです。

◎就業支援相談事業−就業に関する相談・指導等に関すること

◎就業開拓事業―求人開拓、求人情報収集、職場体験講習受入事業所等開拓、仕事開拓(企業からの請負受注、内職仕事、公共施設管理者等からの受託仕事)及び企業啓発等に関すること

◎就業支援事業−就業機会の提供及び求人情報の提供等に関すること

 無料職業紹介所の看板を出す準備をしている途中なので、仕事の紹介をすることはできず、情報提供に留まることになりますが、それも大した情報量ではありません。

 仕事探しの相談があると、まず謝ることから始まります。なぜなら、皆、その日から、あるいは翌日から就ける仕事、できれば現金払いの仕事を探しに来るからです。そんな仕事を提供できるなら、苦労はないのですが、今のところ、極たまにしかありません。それで、謝ることになります。そこから、相談が始まります。どんな仕事を探しているか、ハローワークにいったことはあるか、民間の無料配布している求人雑誌は見たことあるか。

 釜ヶ崎支援機構お仕事支援部事務所の2階には、インターネットで求人情報を検索するためのパソコンが2台あります。ハローワークの求人情報でこれと思うモノが見つかれば、番号を控えて、ハローワークへ紹介状をもらいに行きます。履歴書の書き方になれていない人は、聞き取りながら下書きをつくります。添付用の写真は、デジカメで撮影し、印刷して渡します。

 連絡先のない人は、お仕事支援部の住所と面接結果を受けるための携帯電話番号を、履歴書に記入します。貸し出し用のプリペイド携帯電話数台準備しています。

 ハローワークや近くに面接にいく人のために、自転車の貸し出しもおこなっています。電車賃のない人が多いので。

 職が決まっても、交通費や生活費がない人もいます。事情により、交通費や生活費の貸し付けをおこなうことになります。しかし、特別に予算があるわけではないので、極少数に限られます。ですから、比較的若く、自立支援センター入所経験のない人には、自立支援センターへの入所を勧めることになります。60歳前後からは、当面のこととして生活保護の活用を、勧めることになります。

 ネット検索や履歴書の配布・写真の撮影などは日々の記録がありませんが、相談受付記録をまとめると、表(相談分類)のようになります。

 

 

 

 

 

 


 「生きがい」というのは、生活保護や年金で暮らしている人の求職相談。「就労」というのは、求職・転職相談。現金や契約で「今は仕事に行けてるけど、先のことを考えると不安で、定まった仕事に就きたい」という相談が結構あります。腰や膝が痛くなって力仕事は無理になってきたので、転職したという相談が一番多いかも知れません。「就労・福祉」というのは、生活保護申請を前提とした「稼働能力活用」の証明を兼ねた職探しの相談です。職探しの相談に来た時に、身体の調子などを聞く中で、福祉相談を兼ねた相談に切り替わる人も含まれます。「福祉」というのは、病気などの理由により、仕事探しは無理で、最初から福祉相談に絞った人です。

 相談者の平均年齢は、54.3歳で、45歳未満が29人います。

 相談者の居所で、最も多いのは夜間宿所です。野宿を加えると、49.4%になります。施設とあるのは、自立支援センターや生活保護施設入所者です。

 

 

 

 

 

 収入別では、釜ヶ崎支援機構で就労機会提供事業としている輪番就労(特掃)に登録している人が一番多く(36.3%)、次いで現金・契約で仕事に就いている人(12.5%)となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 相談の結果で判っているものが、表(結果分類)です。

 

 

 

 

 

 

 

 「パート就労」は、短時間の仕事に就いたもの。清掃が多い。「期間就労」は、期間の定めある仕事に就いたもの。最近は、工場への人材派遣会社からの問い合わせが数件あります。「就職」は、フルタイムの仕事に就いたもの。町工場やビル管理の仕事などです。「半就労半福祉」は、1日4時間の清掃の仕事に就いたのを機会に、生活保護基準との差額を申請したもの。「自立支援センター」は、自立支援センターへの入所が確認できたもの。ちなみに、相談者の内これまで自立支援センターを利用したことのある人は17名で、まだ利用したことのない人に利用を勧めたのも、17名でした。このうち、入所確認できたのが2名ということで、実際はもう少し多いと思います。「福祉」は居宅保護を申請し、アパート生活に移行した人です(お仕事支援部の数であり、福祉部門の件数はもっとあります)。

お仕事支援部でも、極僅かですが、就労機会を提供しています。仕事の依頼を受け、仕事を実施した就労延べ人員は631人です。事業種別では、清掃・除草作業=222人、塗装等作業=113人、ポスティング=212人、車両運行84人となっています。また、内職センターでは、毎日12〜3人が従事し、1日8001,000円の収入となっています。新しい内職仕事の開拓も、数件あります。

相談者や内職従事者に、即時的な現金収入をもたらす災害備蓄用飲料アルミ缶再生には、143人が従事し、一人1日平均2,960円の収入をもたらしています。

 釜ヶ崎支援機構には、何の力もありませんが、夜間宿所やテントで生活しながら、本当に自力で努力し、なんとか新たな生活を切り開こうと努めている人が多いことによって、貴重な成果があがっています。逆に、面接は受かっても、保証人が立てられないためにあきらめた人や、仕事について3日目にテントからの通勤が雇用主の知るところとなり、クビになるという、努力が報われなかった例も、数多くあります。

来年度予算の厚生労働省概算要求には、「ホームレス就業支援事業の拡充」として4.6億円が計上されています。その内容は「個々のホームレスの就業意欲等の把握・見極めを行うとともに、基礎的な労働・生活習慣の体得等を支援する事業を実施する」とされています。その内容に沿ったものとして、大阪ホームレス就業支援センター分散寮や大阪ホームレス就業支援センター付属職業訓練校といったものが認められれば、もっと多くの野宿生活者が就労自立することができるようになると考えているのですが。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

6.仕事・生きがいを軸にした生活の再建のために

 釜ヶ崎支援機構の野宿生活者対策の方針を短く言い現すと、まず仕事=収入の確保、安定した居住の確保、社会のシステムへの再参入支援、ということになります。生きがい就労を含めていえば、生活保護受給者も似たようなものだと思います。さらに、若年失業層も。

 大阪市健康福祉局保護課は、「自立・就労及び保護の適正な実施に向けた各種事業」以下の事業を挙げています。

(1)自立・就労を支援する事業

@被保護者就職支援事業=民間の再就職支援会社に被保護者の就職支援、決定、定着を委託。

A区における就労支援強化事業=区において、就労相談会、セミナー等を企画・立案の上実施。

B被保護者就労支援強化事業=ハローワークOBによる就労支援。

Cキャリアカウンセラー派遣事業=就労意欲向上のためのカウンセリングを実施。

D被保護者自立意欲喚起事業=精神保健福祉士や臨床心理士による専門的なカウンセリングの実施。

E被保護者雇用促進助成事業=被保護者の雇用に協力できる事業者を名簿登録し、一定条件を満たした雇用がなされた場合、事業者あて助成金を支給。

(2)保護の適正な実施を推進するための事業

@被保護母子世帯自立支援モデル事業=厚生労働省から依頼を受けた母子世帯を対象とした自立支援プログラムの策定と、その実施、当該プログラムの評価・検討を行う。

 対象ごとにきめ細かな事業が行われることは効率がよいように考えられますが、それが就労に絞られるとき、その事業への参加が印付けになるおそれが強くなります。就職にあたり、母子世帯の母や野宿生活者は、個人の能力で判断される以前に、母子世帯の母やあるいは被保護世帯、野宿という状態で判断される傾向があります。それは、当人にとっては不本意なことであり、不利益をもたらすものです。

 また、これまでに就労支援について、ケースワーカー個々の体験は別として、組織として何の経験の蓄積もない支援運営課(旧福祉事務所)が取り組み主体となることや措置決定機関が稼働能力の活用状況判定に直接関わることに疑問もあります。

 就労支援を必要とする人を対象とした総合的窓口「ジョブカフェ」が区役所の中に新設され、労働市場へ参入するにあたっての個々人の不利な条件を解消するための手助けをするという、一般施策として取り組まれることが望ましいと考えられます。

 その上で、仕事・雇用の創出に取り組まれる必要があります。釜ヶ崎支援機構のお仕事支援部にしても、大阪市の被保護母子世帯自立支援モデル事業にしても、就労先の雇用形態の多くは、パート・アルバイトといった不安定雇用です。正社員としての採用は、本当に一握りです。将来設計が可能な雇用ではありません。「オール日本釜ヶ崎化」の状況にあります。景気がよくなって、失業率が下がっても、不安定就労層、就労貧困層が増えるばかりです。若者も、結婚して子どもを育てるという、一般的な将来設計に見通しが立てられ状況に置かれています。

 今、就職困難な状況にある人々の、現状のままの労働市場に再参入を促進することは、競争の激化を招き、就労貧困層が増加し、社会の不安定さが増すばかりです。新たな雇用の創出が望まれるゆえんです。

 例えば、経済原理によるコスト問題が優先されて、なかなか進まない資源リサイクル・リユース事業に資金提供して活性化を促し、雇用を拡大することが考えられます。

 大阪市では、容器包装プラスチックの分別収集を、実施しています。収集された容器包装プラスチックは、委託業者により容器包装プラスチック以外の異物を除去したうえ、製鉄所の高炉において、コークス・石炭の代替原料(還元剤)として利用されているようです。しかし、なかなか分別の習慣が拡がらず、分別収集の実績は低いようです。コークス・石炭の代替原料以外に、再生資源として使うためには、もっと分別の精度を上げる必要もあるようです。ここに雇用拡大につながる仕事があります。

 容器包装だけでなく、粗大ゴミを手入れしてリユースすることや分解して再生資源にすることなども視野に入れれば、人手はもっと必要になるはずです。野宿者の雇用場としてだけでなく、分別・リユースの普及員としての高齢者の生きがい活動や実際の作業を行う生きがい就労としても機能するでしょう。

 大阪・ミナミでは、「アメリカ村」を中心として生ゴミリサイクルへの取り組みが検討されています。繁華街の飲食店から出る生ゴミで発電所を、という大きな計画ですが、生ゴミもいろいろなものがあり、廃食材はペットフードの材料になりますし、はねられたものは堆肥にできます。分別作業で人手がいるだけでなく、できる堆肥で市内の空き地を使い農業を興すというアイデアにまで拡がりを持つ計画です。堆肥を軸に過疎地との交流が始まり、援農や移住も考えられます。

 リサイクル・リユースは、ゴミ問題だけに固有の考え方ではありません。街の中にある個人営業の様々な業態の店舗が、採算性を残しながら、経営者の高齢化、後継者難のために廃業しています。高齢者の多く住む町では、身近な小規模店舗が必要です。ご用聞きし、配達・出前する小規模店舗は、見守り介護の役割も果たしうる可能性があります。街の再生の視点で小規模店舗の役割を見直し、てこ入れをおこなえば、雇用拡大に結びつきます。

 地球温暖化の影響は待ったなしで、海温の上昇の影響で、西日本は高温多雨となって日照時間が減り、農業や自然に大きな変貌が起こりつつあります。過疎地に人を入れ自然と折り合う努力を積み重ねなくては、都会地での生活も成り立たなくなることは確かなことだと思います。

 国営明石海峡公園事務所が管理する「あいな里山公園」では、里山や棚田の復元・維持管理に民間ボランティアグループの活力を活用して取り組んでいますが、近く、拡大して復元・維持管理について公募するといわれています。現地を見に行きましたが、とてもではないがボランティア活動では容易ではないと感じました。せめて、ため池の復元、棚田の基礎的な復元は有償労働として取り組まれるべきだと思います。釜ヶ崎支援機構は、野宿生活者の雇用拡大策として、他の環境団体と協働しながら公募に応じたいと考えています。

 これらのことは、経済原理によるコスト問題からすれば、一顧だに値しないことかも知れませんが、人が生きる社会を維持するコストとして考えれば、当然の支出であると思えます。

 釜ヶ崎支援機構は、利益を追求しない法人ですが、安い労働力として野宿生活者を提供し、他者の仕事を奪うことは、法人の設立目的からしてできません。それは他の就職困難層についても同様に言えることだと思います。

釜ヶ崎支援機構は、社会の中に新しく生じる雇用機会を中心に、他者の仕事を奪うことなく、野宿生活者への就労機会を提供していくにはまだまだ小さな存在ですが、行政や企業、地域団体などとの協働を模索しながら、実現していきたいと考えています。