野宿者排除の事例報告 --------(1988・7・3福岡集会のために-松繁逸夫ー)

 横浜・寿町での襲撃事件以後、釜ケ崎周辺でも、被害調査をおこなったりしたが、ときおり、反撃したという話がでてこないな、という感想が誰からともなく出ることがあった。

反撃の事例が、まったく無いというわけではないのだろうが、極めて少ないということは確かなことのようだ。それは、ひとつには、寿で襲撃された労働者が、ニイチャンら何、怒ってるんや、まぁ、一杯飲めや、と対応したと伝えられることに端的に現れている、野宿をしている人々のやさしさのゆえであると考えられる。

 勿論、そのような寛容な対応が、常に求められ、正しいものであるといっているわけではない。荒木さんのように、たびたび、石を投げつけられたり、からかわれたりしていれば、人として当然の異議申したては、なされて当然のことと考える。

 しかしながら、当時、反撃事例がないな、との感想を持った時、少しは反撃する人がいてもいいのではないか、との期待を心の中に持った時に、またもや、誰からともなく、そんなことしたら大変やで、ことの善悪とは関係なく袋だたきになるで、という声が出るのが常のことであった。

フクニチの「記者の目・浮浪者の犯罪・逆恨みによるトラブル多い」の記事は、そんな観測を事実として証明しているものだといえるだろう。


被害者が加害者となった事例 

 今回の荒木さんの「事件」は、被害者ー日常的に迫害をうけていたーが、自己を守るためにとった行動の結果、それが社会的には「犯罪」とされ、加害者として裁かれる立場に置かれたものだと言える。

 名古屋でも、同様の「事件」が起きている。

 「野宿労働者の人権を守る会」の結成の呼びかけ文には、次のように紹介されている。

 『新聞報道によると、名古屋市中村区の庄内川河川敷で、テントで野宿しながら金属回収業をしていた丹羽直美さんは、いままで中学生などから何度も襲撃されていましたが、5月31日またも中学生16人にテントを囲まれ数人が石をなげてきたため、耐え切れなくなって鉄パイプで反撃し一人に怪我をさせてしまい、「殺人未遂」で逮捕されました。』

 6月19日に大阪でひらかれたアジアン・フレンド(アジア出稼ぎ労働者を支える会)の結成集会のときに、笹日労の大西さんに聞いたところでは、二〜三日前に「殺人未遂」は「傷害」に切り変えられたということだった。

 被害者が加害者となった「事件」は、他にも例が幾つもあるが、それに対する、世間、あるいは検察・裁判所の対応にはある傾向が読みとれるように思う。


 ここでは、三つの事例を上げて簡単に検討して置きたいと思う。

 一つは85年7月に起こった「事件」。

  和歌山市内の国道24号線沿いの39才の男性が、三人の子どもが繰り返される夜間の暴走行為におびえ、寝つきが悪くなったのに腹を立てて、オートバイに相乗りしていた少年二人に角材を投げ付け、傷害致死と傷害で逮捕されたもの。

 求刑懲役5年に対し、86年3月の和歌山地裁の判決は、懲役3年、執行猶予5年というものであった。

判決理由には次のように述べられている。『犯行は危険な行為であり、重大な結果を引き起こした。実刑が相当とも考えられるが、事件の原因は無法な暴走行為にあり、警察の取り締まりが徹底していない状況下では心情的には理解し得る余地がある。

住民ら多数の減刑嘆願も出ており、実刑を科すのをちゅうちょする側面もある。」

 二つ目は、88年1月に兵庫県津名郡(淡路島)で起こった事件。

 淡路島から尼崎市内の銀行に妻子を残して単身赴任していた男性が、週末に帰宅していたところ、深夜、侵入してきた男(近所の土木作業員)に気づき、
転勤後、留守宅にノゾキや下着
泥棒などの被害が四、五回あったことから護身用に買って置いた子ども用バットを持って、侵入した男を家の前の路上まで追いかけて、
後頭部を殴りつけて死亡させ、殺人現行犯で逮捕されたもの。

この「事件」では、地元町内会や勤務先の尼崎市内の銀行が処分を寛大にするよう嘆願する署名運動がおこなわれたほか、
侵入した男の遺族と話し合い、
1)加害者は被害者の遺族に被害の回復をする補償金を支払う
2)遺族は被害者が加害者の自宅に侵入していた事実を認める
3)遺族は加害者の処罰を望まないとする嘆願書を神戸地検洲本支部に提出するーとの内容で示談が成立し、

「事件」後十一日たった一月二七日に処分保留のまま釈放されている。

 以上の二件は、加害者の被害者性に充分な配慮が払われた結果、処分が決められたものといえよう。

とりわけて、単身赴任の銀行員については、「犯罪者」となったにもかかわらず企業内から排除されなかったばかりでなく、企業を挙げて署名運動までして抱きかかえるという積極的な対応がなされたのは、現在の産業社会での「戦士」としての位置ゆえだと考えられる。

戦時下の日本で出征兵士の留守宅の保護が「聖戦」のために必要と考えられたのと同様の意識が、現代の単身赴任者を見る目の中にある。だからこその、検察段階での処分なき処分という結果になった。

それにくらべれば、地域の不満を代表する形でおこなった行為で「犯罪者」となった電気工事業者は、地域からの抱きかかえはあったものの、産業社会全般からの抱きかかえをされる位置になく、「寛刑」を受けたとはいえ、裁判の過程を経なければならなかった。

加害者宅には暴走族の仲間が事件後なんどもイヤガラセに押しかけ、転居を余儀なくされたという経緯があり、被害者の側の集団としての日常生活への圧迫が明らかになっていたにもかかわらずである。


 三つ目は、同じように被害者が加害者となった事件であるが、起訴あるいは裁判の過程で、加害者の被害者性が争われたことで、やや性格を異にしているものである。

 事件は86年1月千葉県船橋市・JR西船橋駅のホームで起きたもので、
仕事を終えて知人宅へ行く途中だった女性に、酒に
酔った男性がしっこくからみ、女性が押したところ、
その男性が線路上に転落、入ってきた電車とホームの間にはさまれて死亡。
女性は「傷害致死」で逮捕された。

 検察側は
「男性の暴行は身の危険を感じるほどのものではなかった。
女性の方が体格的にも勝っており、立ち去ろうとした男性を、『電車にひかれて死んでしまえばいい』といいながら線路方向に強く押した。殺意に近い加害意思があった」として、懲役二年を求刑。

弁護側は
「バカ女とののしったうえ、体に触ったり、突いたり、えりをつかんだりと、男性の女性に対するいやがらせがあったことを重視してほしい」
「男性は押した方向には落ちておらず、転落してから電車が入ってくるまでに一分間もあって、隣の線路やホームの下に逃げることも可能だった。因果関係はない。押した行為も正当防衛」と反論。

 判決は
「男性を突いた行為は(略)急迫不正の侵害に対し、自らの身の安全を守るためやむをえずしたこと(正当防衛)で、罪とならない」として、
正当防衛で無罪というものであった。

 判決で見ると、上記二例とさほど変わらない印象を受けるが、結果が出るまでの日数を見ると、和歌山の例は約九ケ月、淡路島の例がわずか十一日、この「事件」では一年九ケ月となっており、すんなり出た判決ではないことを窺わせる。

そのことについては、朝日ジャーナル87年10月2日号に詳しく紹介されている。

 まず「事件」の性格について、
『事件そのものは、それほど特殊なものではなかった。仮に、酔っぱらってからんだのが「高校教師」でなく、からまれて押したのが「ダンサー」でなかったら、これほど
職業がクローズアップされ、スキャンダラスな関心の対象になっただろうか。
/週刊誌などは「教師とダンサーの不運な出会い」といった視点で記事を書いた。本誌昨年一月三一日号にも「ホームの踊子」のタイトルで、股を広げる踊子と線路からそれを見上げる酔っぱらいの絵が載った。』と説明している。

 「事件」の最初の報道には、女性に対する差別、職業に対する蔑視がないまぜになったものが多く、女性の被害者性は問題とされていなかった。

そのような報道に疑問を感じた、日ごろ性的ないやがらせを受けても耐えるしかなかった女性たちが、「支える会」を結成し、「正当防衛=無罪」を求める要請書の賛同署名を集め始め、四千人にも達したという。

 地域からも、産業社会からも抱きかかえられることのなかった女性が、同じ痛みを感じる女性たちに抱きかかえられることによって、無罪を勝ちとることができたと言えよう。

 しかしながら、女性の職業がヌードダンサーだったことから、署名を求めても「ふだん男心をそそることをしているのだから、そんな目に遭っても仕方がない」との反応もあったといい、
「女性に対する性的いやがらせに寛大な社会が事件を引き起こした。
ニヤニヤ笑って見逃してきた私たちすべてが共犯者。
そんな社会を変えていくスタートラインにやっとたどり着いたのです」(落合恵子)との判断は妥当なものと思える。

同じ被害者が加害者に転化した「事件」であっても、その当事者の職業・社会的位置によって、世間、裁判所などの対応が違うことが、この三つの事例によって明らかだと思う。


*差別が被害者性を見えなくする 

荒木さんの「事件」は、上記三例のうち、千葉での事例にもっとも構造が似通っている。

 まず第一に被差別の立場にあることによって、一人の個人としての存在は否定され、「風俗産業従事者」「浮浪者」としての位置づけでしか存在は認定されない。

 もともと男優位の社会のなかで、「性的いやがらせ」が問題視されにくい上に、
千葉の女性の職業がダンサーであったことから、個人としての存在は否定され、
男性にコビを売ることを職業とする女性は、男性からの「性的いやがらせ」を甘んじて受けるべきであるとされて、「性的いやがらせ」に異議申し立てする女性の当然の権利から除外されようとした。

彼女の闘いは、単に「傷害致死」の不当に関するものであったのみならず、職業差別・女性差別との闘いでもあったと言えるし、職業や性別を越えた、普遍的な人権を、具体的な個人の上に認めさせるための闘いであったと言える。

 荒木さんの場合も、「浮浪者、包丁を振りまわす」の見出しを付けて報道された時点で、
幾ら記事の中で事の経緯が書かれていようとも、個人としての憤り、それにいたる事情は切り捨てられることになる。

なぜなら、世間には、フクニチの「記者の目」に見られるような差別観が充満しているからである。
『浮浪者生活も「三日続ければやめられぬ」といわれているほどだから、マンザラではない』ものであり、『浮浪者の実態は、飲んだくれだったり、ならず者だったり』というのが、世間の大方の見方であり、「浮浪者」のレッテルを貼られることによって、荒木さんも「飲んだくれのならず者」とされ、
当然の反撃が「狂気」の一言で片付けられる。


 このような「浮浪者」に対する差別観は、経済上の不当利益を得る支配階級の登場と支配体制の整備にともなって成立したものと思われ、洋の東西を問わず存在する。若干の例を挙げておく。

アメリカでは、

『「ここ2ー3年おそるべき浮浪者現象が突如登場してきた」とJ・H・モリソンは、1877年“ユニテリアン・レビュー”誌に書き、次のような要請をしている。/五、六世紀前に英国がとったのと同様、「なまけ乞食」に対する緊急の立法化が望まれる。満足すべき説明ができないトランプどもは即決で、粗食付きの重労働を科すべきである。』(ホーボー・アメリカの放浪者たち・晶文社刊)

イギリスでは、救世軍の創始者ウイリアム・ブースが、1880年代に自分たちの経営する施設に来る人々について、次のように記している。

 『彼らの多くは犯罪人か物もらい、浮浪者であって、塵あくたのごとき人々である。
ー略ーもしも彼らを養っただけなら、彼らは出て行って、翌日増し加わった体力をもって、今まで彼らのやってきた略奪的・放浪的の生活にもどるであろう。』(
救世軍公報20028号最暗黒の英国とその出路)

1926年に東京市統計課発行の「浮浪者に関する調査」は、第一章第一節で次のように認めている。

 『従来浮浪者に対する一般の見解は、
それが自己の怠情放蕩或は無能なる結果に属し、又は生得的に不遇なる環境に約束されたるものであるとの意見に於て一致していることは、
之が取締りに見ても犯罪人と同一視し、その処罰を規定し、或は其の救済的立場から見るも賑恤慈善であり、窮民救護であること以外に何等の対策を見ない』

日本における「浮浪者」という言葉にまつわる法律には、次のようなものがある。

戸籍が作成され、民の良・賎の別が支配者によって定められ、律令国家体制の完成後の「 令集解」に

『他国に往来して、己の国を棄てず、課役を全出するを浮浪と云い、課役を輸せずして他国に居住し、本属を領せざるを逃亡という。』捕亡律には『亡(逃)あらずして、他所に浮浪すること十日、笞十、二十日一等を加え、杖一百に止む。賦役を闕く者は、亡法による。』とある。

江戸時代では、住居をもたない者、正業をもたない者を指す言葉として、無宿浮浪が使われた。

 非人手下に加えられる者に対する弾左衛門の訓示

 『親又は可便者合果、俄に渡世を失い候者に候得は、無拠無宿に成候儀に付、非人手下に申付候間、以来少したり共悪事なと致す間敷候』

1790年(寛政二年)三奉行への達し

 『無宿もの召し捕らえ候節、悪事之れ有、入れ墨敲等御仕置相済み候者勿論、吟味の上悪事之れ無きものも、以来都て加役方人足寄せ場え遣わす可き事

人足寄せ場に収容する無罪の無宿に対する言渡し

 『其の方共儀無罪の者に付き、佐州表へ差し遣わす可き処、此の度厚き御仁恵を以て加役方人足に致し、寄せ場に遣わし、銘々仕覚の手業を申し付け候、旧来の志を相改め、実意に立ちかえり、職業を出精いたし、元手にも有り附き候様に致すべく候』

1908年(明治41年)警察犯処罰令

 『第一条 左の各号の一に該当する者は、三十日未満の拘留に処す/三、一定の住居又は正業なくして諸方に徘徊するもの』(警察犯処罰令は、1885(明治18)年公布の違警罪即決令にもとづき、警察署が即決で処罰することができた)

現行軽犯罪法一条四号

 『生計の途がないのに、働く能力がありながら職業に就く意志を有せず、且つ、一定の住居を持たない者で諸方をうろついたもの』

 法の存在は常にそれに基づく取締まりがあることを意味しない。
支配の側の都合、あるいは被支配者の側との力関係で適用が強化されたり、緩められたりする。
しかしながら、時代を超えて存在する「浮浪罪」の規定は、今や被支配の側にも強く浸透しており、法の規定というよりも、道徳律に近いものにまでなっている。

 歴史的に見て「浮浪者」差別は、定住した民を前提とした支配体制の発生以来、累積して形成されたものであり、荒木さんの被害者性に目がいかない要因となっているし、これを打破る闘いは、価値観をめぐる闘いであるとも言える。


「浮浪者」差別の現状 

 「浮浪者」差別は、歴史的に累積されて形成されたものであるが、現代においてもまた、日々再生産・強化されているものである。

福岡においては、「飛梅国体」あるいは「熱いのはどこだ。ここだ。アジア太平洋博覧会ー福岡89ーよかトピア」準備の為に、公園や駅から野宿を余儀なくされている人々が追い立てられていると聞く。

このような追い立ては、差別の結果であるとともに、それがおこなわれること、野宿者を追い立てる姿が日常的に不特定多数の前に示されることによって、差別が拡大再生産されることにもなる。

「よかトピア」のような博覧会は全国で計画され、実施されている。

 :88さいたま博覧会:瀬戸大橋博88岡山:四国瀬戸大橋博88香川:人間へ。都市へ。自然へ。ホロンピア88ひようご:ならシルクロード博:世界食の祭典札幌:21世紀への船出ーきみがヒーロー十勝海洋博覧会:一年間よろしく。JR東日本を博覧会列車が走ります:「未来がうまい」この夏の岐阜 未来博88:青函博 青函トンネル開通記念博覧会函館:食と緑の博覧会いしかわ88:食と緑の博覧会イートピアとちぎ88:緑 花 祭 なごや:89姫路シロトピア:横浜海洋博:世界つつじまつり89くるめ:全国菓子大博覧会松江:海のシルクロードひろしま:ナイスふ〜ど新潟89:89グリーンフェアせんだい:花の万博大阪90:90長崎旅博覧会

自治省の外郭団体・地域活性化センターの「地域活性化手法に関する懇談会」のイベント実態調査によると、87年3月から88年2月までの1年間に地方自治体が関与したイベントは7千68件という。
日本全国で市の数は、655(88年2月現在)であることを考えれば、規模の大小はあれ、日本国中で熱に浮かされたようなお祭り騒ぎが展開されているといっても過言ではあるまい。

 イベントのあるところはまた、野宿者の追い立て、クリーン作戦が展開されているところとも言えることは、経験の教えるところである。

 フクニチの記者氏が、
『地元の方言で浮浪者は「ほいと」。子どもたちはある種の親しみを込めて「ほいとさん」と呼んでいた。「昔はあんな優しい浮浪者もいたのだが…」ーたんなる郷愁にすぎないのかな。』と現在言うことは、
「浮浪者」は何をされてもおとなしくしておれと言っているに等しく、差別としか言いようがないが、
あえて、その論法で言えば、「浮浪者」と呼ばれる人々を包摂していたかの郷愁を抱かせることのできる昔日の社会は、今や何と無残に変質してしまったのだろうかと、嘆くべきではなかったか。そのような体制の社会がかって日本にあったとは、私には思えないが…。

 それはさておき、各種イベントと野宿者追い立てが裏表の関係にあることを、ここで再確認しておくことにしよう。

 大阪では83年秋に大阪築城400年まつりと88年夏に天王寺博覧会があった。


 「築城四百年まつり」の直前に、ある人の善意から大阪市が「住所不定者実態調査」をするということを知ることができた。

 83年以前に大阪市民生局が、同種の調査を行い、一部の人を施設や病院に入れたのは、確か、75年か76年のことで、それ以降は、調査をしても受け入れ体制に自信が持てないとして実施をとりやめていたものである。

 受け入れ体制が整ったから、調査を行うのでないことは、この調査を立案し、関係諸機関に呼び掛けたのが、民生局ではなく、大阪市長室という前例のないものであることから推察される。

では、なぜ、異例のない調査がおこなわれるのか。これも推察の域を出ないものであるが、実は、市長室が調査を呼び掛けた前日の九月二十日に、かねてから予定されていた皇太子の開会式出席が、正式に決定しており、皇太子を迎えるための「環境浄化策」として企画されたものと考えられる。

 「住所不定者実態調査」の実施に参加するのは、
大阪市長室・民生局・大阪府警本部・曽根崎署・南署・東署、そして、国鉄・阪神電車・阪神百貨店など各施設管理者とされ、
実施方法としては、民生局職員(市職労民生局支部が協力を拒否したので管理職のみ)が、巡回相談にあたり、事情によって収容するが、該当しないものについては、施設管理者が立ち退きを要求するというもの。

勿論、その後には制私服の警官が立つて、有無を言わせぬ姿勢を示すことは言うまでもない。

実施場所は、「大阪築城400年まつり」のオープニングセレモニーとして実施される御堂筋パレードの出発地点である大阪駅周辺、解散地点である難波一帯、そして大阪城周辺である。

 実施の方法、参加機関、実施時期、実施場所、そのいずれからしても、祭りのための野宿者追い立て作戦であることは明白である。

これに対しては、釜ケ崎日雇労働組合、釜ケ崎差別と闘う連絡会議が、監視行動を呼び掛けて、日程をはっきり掴むことのできた大阪駅周辺については、巡回に追尾し、監視活動をおこなった。

天王寺博覧会」では、追い立てはもっと徹底した形でおこなわれた。

 「天王寺博覧会」の会場となった天王寺公園は、釜ケ崎に近く、また、空間もたっぷりあることから、もっともアブレきつかった80年代初頭には、テント村が出現したほどで、常に野宿を余儀なくされる人々の生活の場となっていた。

その場所が、博覧会準備の為に囲い込まれ、野宿していた人々が追い立てられた。

(追い立てられた人々が周辺地域に拡散し、目立つことになったことが、ひとつの引きがねとなって引き起こされたのが四天王寺境内での、少年たちによる野宿者へのエアガン襲撃事件である。)

 開会がせまるに従って、周辺路上にリヤカーを停め、あるいは仮小屋をこしらえて生活していた人達が、警察と大阪市土木局によって、道路管理の理由や道路交通法違反として追い立てられるようになった。

 追い立ての一つの事例では、釜ケ崎医療連絡会議・木曜夜まわりの会などのメンバーが現場に駆け付けて抗議し、
土木局は本庁から人が来て話し合いが済むまでは撤去作業をおこなわないと言っていたにもかかわらず、警察側が道路交通法違反での撤去に切り替えるとして、大阪市環境事業局のトラックに強権で積み込んでしまった。

後日、土木局との交渉で、撤去したものについては「あれはゴミではなく、生活の場・家であり、生活必需品である」ことを認めさせて金銭賠償はさせたが、別の野宿場所の提供については要求を勝ちとることはできなかった。


 お祭り都市とでも言える観光都市京都の場合は、もっとすさまじい、追い立てというよりは迫害というべきことがおこなわれていた。そのことを知ったのは、朝日新聞京都版によってである。

 84年12月23日朝刊の“サンデーリポート”の見出しは次の様なものであった。

「国鉄京都駅は住みやすい/年の瀬・増える浮浪者/厳しい寒さを避けて・一斉取り締まりも限界/逮捕者は延べ14人」。見出し、記事中ともに「浮浪者」を使っていることに問題はあるが、取り締まりに疑問を感じて同行取材の上で書いた記事は、大きな役立つ情報であった。

 それによると、取り締まりにあたったのは鉄道公安官と七条署員、午前五時過ぎから始められ、駅構内で寝ている人を見付けると京都駅の二階団体待合室に連行され、始末書を取る、以前から何回も警告を受けている者については、軽犯罪法違反の現行犯で逮捕される。

逮捕された者の大半は、科料三千九百円が払えず、代わりに二十九日間の留置生活を送る。十七日に逮捕された二人は、二十三日現在処分が決まらず、十日間の拘置延長中と伝えられた。

 一斉取り締まりは84年には3,5,10,11,12月の計五回おこなわれ、逮捕者延べ14人、警告者延べ63人、うち3人は二度逮捕されている。84年秋は、皇族らの賓客が多かったことも あって、取り締まりが厳しかったという。

 京都駅長は、「身寄りのない人は、人のぬくもりや人情の機微を求めて駅へ集まる。社会の縮図のようだ。しかし、酔っぱらったり、異臭を放つので、お客さんに不快な思いをさせないよう、取り締まりをお願いしている。」と述べ、

七条署長は、「観光都市の玄関だけに放置できない、と取り締まっているが、きりがない。行政の方で収容施設などを用意してくれれば」と述べている。     

 ちなみに、七条署長は、下京福祉事務所が社会福祉協議会からの補助費年額約15万円を回して、食べ物がないと窓口に相談に来る者に、300円程度が支払われていたことを聞いて驚き、「残飯などを外に置く“助長行為”は控えるよう、付近の飲食店に呼びかけているのに」と言ったと言う。

 本当に目の前から追い払うことだけを目的とした、福祉事務所の対応というにはあまりにも貧しい対応にすぎないが、野宿者にとっては、僅かばかりとはいえ助かる面もある。
それを追い立てる邪魔になる行為と顔をしかめるというのは、いかに取り締まることが役目の警察官の長とはいえ、すさまじいとしかいいようがないが、この言葉の裏にはもっとすさまじい、人をドブネズミ同然に見成し、「駆徐」しようとする人々の姿がある。


地域は違うが、具体的な例として大阪・南区でおこなわれたことを報告する。

「浮浪者・ミナミから追放/残飯なくし兵糧攻め/地域ぐるみで対策協」ーこれは81年9月3日読売新聞の見出しである。

「ミナミで商店街のアーケード下やビルのすき間などに住みつく浮浪者が増え続け、住民や通行人とのトラブルが目立っている。
七月には、立ち小便を注意された男が殺人事件を起こしており(注・殺されたのはいさかいを止めに入った野宿仲間)、対策に手を焼いた南署は二日午後、地元の各種団体、官公庁の出先機関の代表者ら約百人を集めた「住所不定者
問題対策連絡協議会」を発足させ、本格的に浮浪者排除活動を始めた。
あらゆる法令を適用して取り締まりを強化するとともに、飲食店の残飯、残酒を路上から一層する“兵糧作戦”を申し合わせた。」
具体的には「*地元は残飯、残酒を整理し、自分の敷地内に水をまくなど浮浪者の住みにくい環境づくりにつとめる*各行政機関は積極的に浮浪者の保護、排除を行う*南署はあらゆる法令を適用して、適正な取り締まりを実施」するというのが、その内容である。京都の場合も、これと同様のことがおこなわれていたものと考えられる。

 余談になるが、当時の南署長はスナックなどでキープしたボトルに「南町奉行」の千社札を貼ってお奉行さまと呼ばせていたことで有名になり、後に、賭博機汚職がばれてクビになった加地という男であった。七条署長には、そのような話は今のところない。

話を京都にもどす。京都ではもう一つ軽犯罪法が適用された事例がある。

 83年9月19日に、丸山公園の北にある天台宗青蓮院の無人の念仏堂軒下に、暗黙の了解のもとに住みついていた愛知県生まれの韓国籍の女性が、
付近の野犬八匹にエサを与えることをやめるように、という保健所の警告を聞かないことから、
野犬を捕獲する期間中犬から引き離す目的で京都府警松原署に「動物の飼育管理に関する京都条例」違反ではなく、軽犯罪法違反で逮捕されたというものである。

これについては、民族差別的要素もからんでいると感じたものだが、それとは別に、立命館大学法学部教授が朝日新聞で「軽犯罪法という軽い犯罪については、逮捕の必要性をより厳格に考えるべきであり、今度のケースは逮捕権の乱用だ。逮捕とは、邪魔者を追い払う手段ではない。」と指摘されたのを代表として、
“別件”逮捕に対して逮捕権の乱用だという批判が高まり、釜日労がよくお世話になる弁護士が間に入ったり、同朋が身元引受人として名乗りをあげるなどのことがあって、結局、起訴されることなく釈放された。

 以上の報告によって、イベントと野宿者の追い立て強化が、表裏一体のものであることが確認されたものと思う。


イベントが追い立ての原因となる理由 

 各種イベントと野宿者の追い立てが表裏一体のものであることを、事例をあげて説明してきたが、では、なぜ、追い立てられるのであろうか。

「浮浪者」に対する差別観があることは間違いないとして、その追い立ての理由は、ただイベントを見に来る客に「不快感」を与えないためというだけであろうか。

そうではないと考える。現代のイベントの論理を検討することによって、そのような単純な理由だけではないことを明らかにしたいと思う。

 「お祭り太一」と異名をとった堺屋太一は、かつて「大阪築城400年まつり」委員会委員長として、イベントの効用を次のように述べた。

 「万博は582億円の公共支出に対し、2兆円もの需要を創造した。沖縄海洋博でも17億円の黒字をあげ、観光客が四倍に増加した。これはエベント(行事)による需要創造効果で、公共事業への投資よりも効果は大きい。/築城400年を契機に、21世紀までの17年間、連続してエベントを行えば、短期間の博覧会以上の経済的社会的波及効果をあげ、大阪に人と情報が集まり、文化が振興し、都市機能が充実する。」(83・9・26・朝日・夕刊)

 堺屋太一の考え方が、彼個人の考え方にとどまるものでないことは、彼の肩書きがものがたっている。また、それが、大阪についてだけ言えることではなく、今や全国的なものであることを、88・7・1の朝日新聞が「時時刻刻」の欄で示している。

 「『生産誘発倍率』という言葉がある。博覧会への直接投資額と、それがもたらす経済的な波及効果の大きさを示す指標。
地方博ラツシュを招き、各市を誘客競争に駆り立てるキーワードだ。過去の例をみると「神戸ポートピア」5.08倍、「小樽博」4.81倍、「科学万博」2.95倍。/名古屋市はデザイン博を含む百周年事業全体の生産誘発倍率を4.28倍、七千億円弱と試算し、横浜市は一兆円とも踏む。静岡市は、参加企業が決まらないこともあって試算はできていない。/一般に規模が大きいほど波及効果も大きい。大規模な催しにかかる巨額の投資を支えるのは、入場料収入だ。
結局、客の数が博覧会の成否を決める。」

大衆操作は、大衆の均質化・異質なものへの排除強化をともなうのである。