釜 ケ 崎 夜 間 学 校 の 人 々

 

「夜間学校って、何、教えてくれるねん。先生、どんなんや。」

毎週金曜日、釜ケ崎夜間学校は、労働者がアブレ手当て(日雇雇用保険給付金)を受け取りに来る午前十一時に、「愛隣総合センター」の三階フロアーで、約千枚の「夜間学校ニュース」を手渡しで配布して、労働者に参加を呼びかけている。釜ケ崎夜間学校そのものはもう七ー八年続けているのだが、新しく釜ケ崎に働きに来る労働者も多く、時々、このような質問を受ける。

なにせ、多い時で九千人、少ない時でも三ー四千人の労働者が野球場の内野グランドぐらいの所に集まって、てんでに顔見知りと話をしているは、窓口では次々とアブレ手当てを受け取る人の名前をマイクで呼び出しているは、もうもらって帰る人やこれからアブレ 手当てをもらうために急ぐ人などが通るは、というたいへんな喧騒の中。しかも、手に抱えている「ニュース」は配りきってしまわなければならないので、注意の半分は通る人に向けていなければならない。

 それでも、そう聞いてくれるのは、夜間学校に関心を持ってくれているからだと嬉しく

なって、「いや、学校といっても、普通の学校のように、先生がおって、教科書を決めて勉強するというものじゃなくて、釜ケ崎で生活していく上で、あるいは現場や飯場なんかで色んな問題にぶつかることがあると思うけど、それを少しでも解決していくために、皆でどうしたらいいか考え、話し合う場としてやってるんです。」と説明する。

「なんや、何か教えてくれるんやないんか、それやったら学校やなくて、学校のまがいもんやないか。」

 「いや、だから普通の学校じゃなくて、自分たちの生活に密着した…」

 こちらがなお説明を続けようとしているにもかかわらず、聞いて来た人は、もう自分の用事はすんだとばかりに、スタスタ歩いて行った。そんな人に出会うと、ドッと疲れてしまう。

 もちろん、そんな人ばかりではない。大半は、「そうか、ええことやな、がんばってや」とか、「じゃ、一回、行って見るかな、どこでやってるんや」とか、嬉しくなるようなことを言ってくれる。ただし、言葉どおりに夜になって訪ねてくれる人は、少ない。その時は本当に参加するつもりになっていたにしても、アブレ手当てをもらってから夜の七時まで、知り合いに会って酒を飲んだり、パチンコしたり、明日の仕事の段取りをしたりしてるうちに、気が変わることが多いようだ。

 それでも、一度夜間学校に参加した人は、皆勤賞とはいかないまでも、時々参加してくれるようになる。

参加者の中で、もっともまめに参加しているのはHさんだろう。以前は行きつけの業者から現金(一日毎に賃金を現金で受け取る雇用形態)で仕事に行っていたので、毎週かか さず参加していたが、最近は飯場(十日とか十五日とか期間を契約して住込みで働く雇用 形態)に行くことが多くなったので月に半分ぐらいの参加になっている。

 今、改めて考えてみれば、Hさんとのつきあいは夜間学校の歴史よりも長い。私が三角 公園のそばで『御握り屋』をやっていたころ、釜ケ崎にきてそんなに日もたっていないHさんが、よく食べに来てくれた。なんせ、銀シャリのおにぎりとメザシ、塩シャケ(実はマス)、ウメボシにゴボテンの煮たのぐらいしかない店のこと、早朝の弁当に買って行く客・ と仕事前の腹ごしらえの客がすんでしまえば、あとはほとんど新聞を読むぐらいしかすることがなくなる。そんな時にHさんが現れると、待ってましたとばかりに、おにぎりよりさきに碁盤をだして御指南願った。女流七段と互角に勝負を争う腕前のHさんは、私の囲碁の先生であるわけだ。

 あれからもう十年以上の歳月がながれている。二人ともそれだけ歳をとったわけだが、その間に、私はギックリ腰を一度と多分腰からきたと思われる強度の肩凝りで、それぞれ一週間ほど仕事を休んだことがあるだけだが、Hさんは、数年前から、胃カイヨウをかかえこんでいる。飯場に行くようになったのは、そのせいでもある。「飯場に着いて一日、二日は痛むが、三日目ぐらいからは気がはっているせいか、痛みはなくなる。後は、満期までの日数を数えて、ひたすらがんばる。」

 毎日、出掛ける現金では、ついつい休みがちになって、生活がなりたたなくなる事情が、期日の決まった住込みの飯場へ半月、後の半月はほぼアブレを受けて生活するというパターンを選ばざるをえなくしているのだ。

 病院へ行って治すように勧めてはいるのだが、最初に痛んだときに医者に行って、小さなカイヨウができていると言われて以来、食療法で治すと言って行こうとはしない。

 よく自分で玄米を炊いたり、玄米の食べられるいわゆる玄米正食の店に行ったりしている。自分でこうと決めたら中々変えようとしない、一途なところのあるHさんなのだ。

 その一途さで、こっぴどく怒られたことがある。

 「今まで、黙ってみてるけど、あんまり無責任じゃないか。会館を創ろうと言って、額の多少はどうあれ金を集めたものが、最近はどうなっているのかさっぱりその話をしない。いったいどういうわけだ。」

 Hさんが怒るのは無理がなくて、本当を言えばもっと多くの人に怒られて当然、いや怒って欲しいと思っている。

 釜ケ崎に労働者の憩いの場(会館)を創ろうと、三角公園で加藤登紀子さんのコンサートをおこなったりー実に三千人近く集まり催しとしては大成功だったがー、今やブームと言えるカマヤンのマンガを、シルクスクリーン印刷でハンカチに一枚一枚刷って売ったりして、設立資金を集めようとしたのは、もう五年前のことになる。

 決して忘れたわけでも、あきらめたわけでもないが、遅々として進展していないのは事実なわけで、Hさんが詰問したくなるのは無理ない。しかし、四千万円を目標にした資金集めは目標に遠く及ばず、今となっては、目標額を二億円に設定しなければ、とてもじゃないけれども会館を釜ケ崎の中に創ることはできない。釜ケ崎の日雇労働者二万人が、一人一万円を出す決心をする日がくれば…。その日を目指して、「やるっきゃない」わけだ。どうなってる、と怒ってもらえばいい励みになる。

 それはカラ元気ではなく、会館創りの呼び掛けを受け止め、今もって気を入れてくれる仲間が他にもいるからだ。Nさんも、その一人。そもそもNさんとの出会いは、会館設立運動にあるのだから、当然といえば当然といえる。

 釜ケ崎会館創りの宣伝を兼ねて、カマヤンのハンカチとSさんの描いた現場や朝のセンターのマンガを印刷した和手拭いを売るために中之島祭りに出店していた。そこへ「わしも釜の日雇いやけども」と、アブレの手帳を差し出しながら声を掛けて来たのがNさんだったのだ。

 中之島祭りではもう一人、声を掛けて来た人がいる。私がハンドマイクで呼び掛けをしているのを、しばらく聞いていた後で、「兄ちゃん、中々うまいやないか、それでメシ食えるで、困ったときがあったらおいでよ。」

 どうやら、テキヤの親方のようであった。どうも勘違い的評価のされようで、あまり自慢になることではないと思うが、それでもなんであれ人からほめられると何となく嬉しくなるもので、一人ニヤツイテいた。だが、本当に嬉しかったのは、やはりNさんが声を掛けてくれたことで、テキヤの親方風とはあれっきり縁がないが、Nさんとはその場限りにはならず、それを切っ掛けに夜間学校にもよく参加して、時々、会館の話を持ち出しては刺激してくれる。やはり、Nさんも一途なのだ。 

 府庁の前で、仕事のない釜ケ崎に仕事を出せ、と要求して釜ケ崎日雇労働組合が三日間の泊り込みハンストを行ったとき、Nさんはその場に一緒に泊り込んでいただけではなく、自分も人知れず食事を抜いて、ハンストに参加していた。

 八三年一一月、東京の日雇労働者の街である山谷で、労働運動を続けている山谷争議団に、右翼・暴力団が催涙ガスやナチ棒を持って襲いかかることから始まった、山谷を暴力団の暴力支配から守る闘いに、釜ケ崎から駆け付け、右翼・暴力団の襲撃に備える立番や夜の事務所に泊り込む防衛に参加したのも、釜ケ崎と山谷、住むところは違っても同じ日雇い仲間の闘いという、一途な思いがNさんにあったからだろう。

 体力と精神の両面で疲れ切ったNさんが、休養のために帰って来たのは、越冬闘争の最中であった。Nさんが目にしたものは、大阪市の福祉切り捨ての強化の結果である、五百人に及ぼうというかってない数の労働者が、寒さを少しでも避けようと、医療センターの軒下に布団を求めて列をなしている姿だった。

 そのときNさんを捉えたのが、どのような思いであったのか、私には窺い知れない。

 Nさんが、突如、ワァーという大声をあげて走りだし、阪堺線の踏み切りで電車に飛び込もうとして、警官に保護されたことを、病院へ見舞いに行ったH・Kさんの報告で知ったのは随分と後の話になる。

 Nさんが「狂気」にとらわれた日、私は「正気」で、越冬ニュースを書いていた。あの異常事態を目にしながら、冷静に報告記事が書ける私が、実は異常だったのではないか。

 退院したNさんは、前とかわらず夜間学校 に顔をみせた。私は、しばらくなんとなく気恥ずかしい思いをした。

 夜間学校にはまだまだ一途な面面がいる。その一途さに支えられて、釜ケ崎夜間学校がある。           (松繁逸夫)