寿“浮浪者襲撃事件”が指し示すもの

“ファッシズムの予兆”としての把握

 

『「横浜の中心部の地下街に浮浪者がたむろして汚くしている」から。そして、浮浪者襲撃を“風太郎狩り”“乞食狩”と称し、ゲームセンターに集まっては「今夜もやるか」といいながら公園などへでかけていったという。』(1983213 毎日新聞)

 中学生を中心とした少年達10人は、青カン労働者に対し、殴る蹴るの暴行を加え、スコップで殴り、ゴミ籠に入れてひきまわすといった襲撃を30回以上も繰り返し、3人を死に追いやり、明らかになっているだけでも16人に重軽傷を負わしている。

 昨年2月に明らかになったこの出来事は、横浜・寿の“浮浪者襲撃事件”としてマスコミで大きくとりあげられ、校内暴力と重なりあって“少年非行”が注目を集めるきっかけとなった。

 一連の報道の中でマスコミは、少年達が学校でいかにおちこぼれていたか、家庭の事情はどうであったかを追いかけ、襲撃事件の原因は学校教育と家庭にあるといわんばかりであった。

 221日に中曽根首相は内閣の重要施策の重点を外交から内政に移すとともに、その“目玉”の一つとして、青少年の非行対策を打ち出す考えを明らかにし、“非行対策は家庭・学校・社会が三位一体となって本格的に取り組まなくてはならない。小学生のうちから、兄弟仲良く、隣人を愛し、両親を尊敬、ウソを言わない−など生きるル−ルの基本を教えなくてはならぬ”と道徳教育推進の必要性を強調した。(83222 毎日新聞)

 その翌日、瀬戸山文相は閣議後の記者会見で、深刻化する青少年非行、校内暴力の原因について、「一番深い根は(アメリカの)占領政策の影響だ」として、日本古来の伝統的な道徳・風俗習慣の意義を強調、「昔流の教え方を研究したらよい」と述べた。(83222 朝日新聞 夕刊)

 マスコミの報道と政府の動きは、現在検討されている「教育改革」にまでたどりついたもののように思われるが、“浮浪者襲撃事件”は学校教育・家庭環境の問題としてだけで片付けられて良いのであろうか。

 加害者の少年達を傷害致死容疑で逮捕・拘置して取調べた横浜地検は、一連の事件を「集団心理による、心情的に幼児性を脱していない犯行」と位置づけ、その背景については、@少年らはいずれも学校での成績が悪く「落ちこぼれ的存在」A家庭的にも問題があり、よりどころのなさを非行仲間とたむろし、けんかや恐喝などで埋めていたBしかし、一人ひとりは体力がなく、けんかも弱かったため徒党を組んで無抵抗の浮浪者を襲う「実戦訓練」に走ったC浮浪者襲撃は他の非行グループへの勢力誇示であり、「殴ったりけったりすると気分がすっきりする」という心理的はけ口だったなどとしている。(8335 朝日新聞 夕刊)

 この見解は世に広く受け入れられたもののように思われるが、本当にこれで言いつくされているのだろうか。
 

日雇労働者の街・寿町を含んでいる横浜市中区に住む高校一年の少女は、『横浜で浮浪者を殺した少年達は、いま世論のフクロだたきにあっていますが、あの子たちを一方的に責める大人たちもずるいと思います。駅の人が浮浪者にパケツの水をぶっかけて追い散らしたり、警官が野良犬でもしかるようにどなったりしているのをたびたび見ました。大人が悪いお手本を見せながら、いまになって理性の弱い少年たちを血祭りにあげているみたい。』(88220毎日新聞)と加害者に身を寄せてするどく指摘している。

 また、寿の日雇労働者達が結集している寿日雇労働者組合は事件後、周辺の中学校へ連日ビラ配布をおこなったが、その“俺たちは怒っている!”と題されたビラの中で被害者の立場に立って、中学生達に次のように呼びかけている。

 『君は、この事件の原因は、「10人の少年たちが特殊だったのだ」と思うだろうか、「やりすぎただけ」と思うだろうか。「寝ていた方も悪い」と思うだろうか。これはどれも、大人たちも一般的な、そして行政や警察のとった、事件後の対応に共通してある考え方だ。

 俺たちは、決して泣き寝いりをしないと心に決め、まず何が問題かを討論した。そして、横浜市に対して、野宿する労働者を生み出し、体が弱り死んでいくままに放置して、社会の秩序のために差別を利用して来た責任を追求した。市のおえら方は言う「非行問題だ」「差別があったとは思いたくない。おもいやりの欠如だ」と。俺たちはそんなことは聞きたくないのだ。どうやって、現にある差別を、生活の困難を、具体的にどうするのかだ!

 市は「非行対策が必要だから、関係各団体と連携を強めて、人命尊重、情操教育の徹底をはかる」とも言う。これは何を意味するのだろうか。君の自由をさらに奪おうとすることでなければよいが。』

 加害者である少年達に身を寄せる少女は、“大人が悪いお手本を見せた”ことをとりあげ、被害者の立場に立つ寿日労は“野宿する労働者を生み出し、体が弱り死んでいくままに放置して、社会の秩序のために差別を利用して来た”ことを問題としている。表現は異なるが、両者のいっていることは実は一つであり、マスコミや中曽根首相などに欠けている視点のように思える。そして、この視点に立つならば、いわゆる“少年非行”の対策が、教育制度や教育内容を変えること、あるいは家庭の見直しを言いたてることなどでは充分なものとなりえないことは明らかであると思う。

 青カン労働者に対する襲撃事件は、少年達だけでなく、酔ったサラリーマン、通行人といった大人達によっても、山谷でも、名古屋でも、京都でも、釜ヶ崎でもおきている。それらを考えあわせるなら、寿の青カンをよぎなくされていた労働者達は、偶然によって被害者に選ばれたのではないこと、ここ23年、益々強まる部落差別、民族差別、「障害」者差別等の情況と関連してとらまえるなら、様々な差別がついにベッ視・隔離から抹殺へと強まってきていることを示している。

 それらは決して学校教育や家庭を問題とすることによってのみでは、解決しえないことがらである。

 では、世の差別を益々強化していく方向へと引っぱっている者は何者であるのか、これから釜ヶ崎の事例を中心に考えていきたい。


 釜ヶ崎における差別事象

 

 寿での青カン労働者襲撃事件が明らかになったあと、釜ヶ崎日雇労働組合は梅田・ナンバ・天王寺などで青カンをよぎなくされている労働者からの聞きとり調査をおこなった。その結果、暴行を受けた経験については、61人中15人があると答え、7人は友達が暴行を受けたと答えた。事例をあげると

○中学生ぐらいの4人グループが、こじき、こじきといってレンガや石をぶっける。

○中津の方では自転車に乗ってきた中学生3人に殴られた。1ヶ月ぐらい前。野田のえびす町では小学校56年生に、こじきが来た、こじきが来た、いじめてやろう、といって石を投げつけられた。

○高校の男の子67人が“こらルンペン、なにさらしてんねん”とかたまって歩いていう。

○去年、一昨年、若い人が多い、ちょっとけっていったりすることはしょっちゅう。

○ごみばこをなげられる、ションベンをかけられる。

 調査結果と青カンをよぎなくされている背景などについては、“横浜の日雇労働者差別−虐殺糾弾、少年らを虐殺にかりたてる時代を撃つ 312集会”で詳しく報告されたほか、翌日の朝日・毎日新聞朝刊で大きく報じられ、一定、多くの人々の注意を喚起できたものと考えるが、5月に入って、更に重大な青カン労働者に対する差別事件が明らかになった。
 

 昨年59日、釜日労事務所を訪れた日雇労働者が、南区で青カンをしていたところ、深夜、5人の制服警官にとり囲まれ、本籍・氏名・生年月日などを聞かれたうえ、顔写真を撮影され、指紋までとられたが、なんとも納得できないと訴えた。組合から南警察署に電話し、警邏課長から事実関係を聞いたところ、南区管内の全ての青カン者を対象に指紋採取・顔写真撮影をおこなっており、任意がたてまえだが、軽犯罪法を根拠に実施しているので、ことわられたら署へ来てもらうこともありうるとの返答を受けた。

 青カンしているだけで、指紋採取を強要され、顔写真までとられる、これは明白な人権侵害−差別事件であると判断した組合は、513日夜、南区において、どのようなかたちで実施されたのかを調査した。17人からの聞き取りで、深夜1時〜3時にかけて、45人の警官にとりかこまれ、任意であるという説明はまったくなされず、“職を紹介するため”という騙しや“あんた何か悪いことしたんか”というスゴミ・オドシによって写真や指紋がとられていることが確認されたので、南警察署に抗議すると共に、大阪弁護士会の人権擁護委員会へ人権侵害事件として申し立てをおこなった。(このことは512日、514日の朝日新聞に報じられた。)

 このように、大阪においては、事実にもとづいて、なぜ青カンをよぎなくされているのか、どのような野宿生活があり、どのような取扱いをされているのか、そして、それらがいかに不当なものであるのかが訴え続けられたが、521日、新聞各紙夕刊に、釜ヶ崎近くの路上で青カン労働者に対する襲撃事件がおきたことが報じられた事例が示すように、差別・抹殺攻撃は今にいたるもやむことがない。

 それどころか、青カン労働者の青カンせざるを得ない事情を、人権を、訴えれば訴えるほど、理解が広まるのではなく逆に反発が増すかのごとき事象が出てくる。

 ナンバ地下街・虹の街で青カン労働者からの聞きとり調査をおこなった時には、テレビ局4社の取材もあったが、それを見た通りがかりの人は、“浮浪者が英雄づらしてテレビに出てるで”とにくにくしげにいい、青カン者に対する南署の指紋採取、写真撮影に釜日労が抗議しているという朝日新聞の報道に接した東京の女性は、“浮浪者に人権なんかあるんですか。この繁栄する日本の中で、大の大人が、食うに困ったり、住むところが確保できないのは、本人がよほどぐうたらで、なまけものだからでしょう。そんな人達に人権があるなんて、あなた達は何を考えているんですか”と、釜日労事務所に怒りの電話をかけてくる。
 

 週刊新潮は、日木人が“ヤン・デンマソ”という名前で、架空の外人記者クラプをデッチあげて書いている“東京情報”の欄において、東京の女性が読んだ同じ朝日新聞の記事に対して次のように決めつけている。(83526

『正直いってびっくりした。日本の“良識”を自認する天下の朝日新聞ともあろうものが、何を血迷ってこんな記事を載せたのだろう。

 四段ヌキ地紋入りの大見出しといい、記事のトーンといい、これはもう「報道」というより、悪意ある「威嚇」もしくは社会に対する「挑戦」ではないか。』

 そして、『市民の苦情のタネになって』おり、『“このままではミナミの繁華街にまともなお客が寄りつかなくなるし、治安上も大問題だということで、住民が立ち上って』いるし、『浮浪者というのは、その存在自体が犯罪なのだ』から、『さっさと検束なり検挙なりして排除すべき存荘である。』『午前1時に歩道で寝ている人間に、どんな権利があるというのだ。』という。

 電話の女性に対して、“あなたは浮浪者といわれる人達が、なぜ青カンしているのか、どのような生活をしているのか、知っての上でおっしゃっているのですか”と聞くと、“私は浮浪者とはつき合いはないし、知りたいとも思わない。”との返事があった。青カン者の事情について、何も知らないし、知りたくもないのに、なぜ、ぐうたらで、なまけものだと決めつけることができるのだろうか。

 “ヤン・デンマン”も同じように、釜ヶ崎日雇労働組合は『「浮浪者を底辺労働者ととらえて」いるそうだ。そんな言葉に説得力があると思っているのだろうか。浮浪者というのは、そもそも勤労の義務も、納税の義務も果していない憲法違反者であって、底辺労働者などという言葉は絶対に妥当しない。』と、“浮浪者”がなぜ“浮浪者”となったのかを見ようとはしないで、今の青カン状態を固定して考え、“浮浪者”には権利などないと切って捨てる。“ヤン・デンマン”の論理をおし進めると、ドイツのユダヤ人虐殺や関東大震災時の朝鮮人虐殺と同じような、全“浮浪者”の虐殺にいたる。

 これらの考え方は、青カン者の表面だけをとらえ、“街がよごれるから掃除した”と語ったといわれる襲撃事件の加害者達の考えとなんら変るものがなく、“大人が悪い手木を見せた”という横浜・中区の少女の指摘が正しいものであることを証明している。
 

 青カン者がなぜ青カンせざるをえないのか、その一事例を釜日労が大阪弁護士会の中の人権擁護委員会に提出した『南区における人権侵害事件調査申立書』から紹介しょう。

 今回現行犯逮捕後でなく、令状にもよらずして身体捜索・指紋採取をされた、いわゆる“浮浪者”といわれる人達は、釜ヶ崎に、飯場に、仕事がなくなり、あるいは、高齢のため力仕事が出来なくなったため、また、日々の過酷な労働の結果として病気・“障害”をこうむって、梅田・ナンバ・天王寺などに流失をよぎなくされた人々である。

 当組合は、本年2回にわたって梅田・ナンバ・天王寺などで青カン(野宿)をよぎなくされている人達について実態調査をおこなった。(添付「青カン者調査(39日午後9時〜11時)」、「第2回青カン者実態調査」)その結果によっても裏付けられている。「人権侵害事件事例」中の5番、“C18”という記号と番号を付された人は、典型といえる。

 大淀生まれのこの人は、167才の頃、大阪砲兵工廠に勤めている。敗戦後は、政府の傾斜生産方式の採用によって金と人が集中させられた炭抗へ。“エネルギー革命”の声が出はじめ、朝鮮戦争によって港湾荷役が活発化しはじめた頃、神戸へ沖仲仕として移動。日本経済の高度成長期、高速道路やビル建設の盛んになる昭和37年、釜ヶ崎に来ている。そして、現在まで日雇労働者として多くの現場で働いてきた。

 1970年まで釜ヶ崎には製造・運輸・建設・土木など様々な仕事がきていたが、合理化の進行にともない、65年から70年の万国博準備期に膨張した2万人日雇労働者は、公共事業を中心とする建設・土木の仕事に頼らざるを得なくなった。

 近年、軍事費のみを増大させ、福祉予算を切り捨て、生活基盤整備事業を軽視する政府、自民党の政策により、公共事業は年々減少し続け、多くの労働者は仕事につけず、苦難の道を歩まされている。また、一年の中でも、仕事量の多い時期と少ない時期がはっきりと分かれるようになり、半年は日雇労働者として働き、後の半年はバタヤなどして、梅田やナンバなどで命をつなぐ傾向が定着しつつある。


 差別事象増加の背景

 

 貨幣を中心とする世の中では、貧困であること、世の中の一般的な生活より異なった生活、低い水準といわれる生活を送るものはベッ視される傾向がある。そして、なぜ貧困が存在するのかについては、社会的に深く追及されない。“浮浪者”がなぜ“浮浪者”となったのかが考慮されないように。

 それだけでなく、近年は差別落書や差別事件が増大する傾向にあるのと歩調を揃えるかのように、“浮浪者”に対する多くの人々の態度も、ベッ視から隔離・抹殺へと、差別は強化されている。

 なまけものだろうが、ぐうたらであろうが、人権・生存だけは認めるという、従来の最低限度のワク組みが、今、タテマエの上からもとり崩され、あらゆる差別が強まっているとすれば、それはいつごろから、どのようにしてそうなったのかが問われなければならないだろう。
 

 寿の襲撃事件は、1976年から始まったといわれている。(8358 朝日新聞)

 1973年の第一次石油ショック以来、日本は低成長時代に入ったとされ、全国の寄せ場日雇労働者は仕事不足(アブレ地獄)にあえいでいた。197695日の朝日新聞はアブレ地獄の様子を、西成労働福祉センターの事業報告書にもとづいて、次のように報じた。

 『あいりん総合センター内の寄せ場で同福祉センターのあっせんで就労する人は万国博景気の70年度が年間延べ約596千人。列島改造ブームの72年度には786千人と62年に同センターが開設されて以来の記録に。が、石油ショックに伴う不況のしわ寄せでこの3年間は年ごとに減り続け、75年度は303千人。72年当時の半分以下に落ち込んだ。職種別にみると、全体の約6割を占める建設業が47万人(72年度)から14万人(75年度)と3分の1以下に減少。鉄鋼、造船などの製造業も軒並み半減し、基幹産業部門でも臨時工、下請け工が切り捨てられていることを示している。』

 そして、釜ヶ崎の“アブレ地獄”によって青カンをよぎなくされた労働者の置かれた状況についても、朝日新聞は75418日夕刊で報じている。

 『暖かくなっても、「世間の目」は冷たい。大阪・キタやミナミの地下街に浮浪者の群れが現われてから5ヶ月。その数は減らない。寒い間は、同情していた地下街の商店関係者や利用者も、なにかあれば、すぐ警察を呼ぶようになった。行き倒れた浮浪者を引き受ける病院も、ほとんどなくなった。「世間」は、浮浪者を無視することから積極的に追い出すようにかわってきた。』

 それから6年後の198193日の読売新聞には次のような見出しの記事がある。

 “浮浪首・ミナミから追放/残飯なくし兵糧攻め/地域ぐるみで対策協”

 そのリード文には『ミナミで商店街のアーケード下やビルのすき間などに住みつく浮浪者が増え続け、住民や通行人とのトラブルが目立っている。7月には、立ち小便を注意された男が殺人事件を起こしており、対策に手を焼いた南署は2日後、地元の各種民間団体、官公庁の出先機関の代表者ら約100人を集めた「住所不定者問題対策連絡協議会」を発足させ、本格的に浮浪者排除活動を始めた。あらゆる法令を適用して取り締まりを強化するとともに、飲食店の残飯・残酒を路上から一掃する“兵糧作戦”を申し合わせた。』とあり、先の朝日新聞の二つの記事が一つの歴史の転換点をとらえて注意を喚起しているのと比べ、一方的な、“ヤン・デンマソ”と同じ差別をあおりたてるものとなっている。
 

 以上をまとめると、高度経済成長下では、使い捨てにされる日雇労働者といえども仕事は割合いにあり、青カンをよぎなくされる時期も人数もそう多くはなかったので、いわゆる“浮浪者”が大きな問題となることはなかったが、全体の経済的転換点にあたっては、日雇労働者の使い捨てがはっきりと目に見えるかたちであらわれ、アブレるものが多大にのぼったが、行政も経済界の日雇労働者使い捨てを追認、対策をおこたり、“アンコ・労務者”と呼び、さげすむ世間の人々は、日雇労働者のおかれた状況を深く考えることなく、単に青カンの事態をとらえて、きたない、じゃまだとして、ベッ視から排除へとその差別をエスカレートしていったといえよう。

 しかし、そこから襲撃・抹殺へといたるには、青カン者が目立ち、摩擦が増えたということだけでは説明不足のように思える。差別の強まりは、差別する側にも大きな変化があったからではなかろうか。


 差別する側の存在不安

 

 1945年の敗戦以来、日本の経済は傾斜生産方式(石炭・鉄鋼重点増産計画)の採用を振り出しに、朝鮮戦争の米軍特需を踏み台にして、1961年の所得倍増計画、1973年の日本列島改造計画まで、高度成長を続け、“消費は美徳”といわれるにいたったが、1973年第一次石油ショック後は世界的な経済混乱の中、総需要抑制策が叫ばれ、“発想の転換”がうたわれるようになり、低成長時代へと入っていった。

 石油ショック以前と比較すれば、1978年の第二次石油シヨック時の原油の値上がり分を含めて、今日まで日本の経済が石油を買うにあったって十兆円の負担増になったといわれている。そして、第一次石油ショック時にはインフレ率が25%を超えたが、この高インフレ率の記録は日木が近代に入って4回目のことであるといわれており、前3回は明治維新・西南戦争後、第二次大戦敗戦後とされている。

 大企業は石油ショック以前において、もはや新しい投資目標を発見できず、高度成長の過程で蓄積した賃金を“土地ころがし”や“物ころがし”などに使い、社会問題化しつつあったが、石油ショックを契機に新しい投資目標を得ることができまた、“外圧克服”を旗じるしにすることによって、労働者側の低抗をそらし、賃上げを抑制し、合理化を進め、利潤を確保することができて自己崩壊することがさけられた。赤羽隆夫経企庁物価局長は石油ショックの10年後、次のように総括している。

 『高度成長が行きつくところまで行きついた時に、石油ショックが起きた。生産技術体系を一斉に転換する必要が生まれた。一言でいえば、重厚長大から軽薄短小への移行−。エネルギー多消費型の成長は限界にきていたが、石油ショックでその切り替えが早まった。結果的にみれば、ショックは日本経済にとって神風だった。』(83104 毎日新開)

 そして『今後は物をつくって輪出することは世界の平和を乱すことになる。衆知を集めて、情報産業や知識産業、工場を持たないメーカーを日本に成立させなければならない。太平洋を取りまく多くの発展途上国に生産工場をつくり、日本や米国西海岸がその頭脳の役割を果たす、という新しい産業構造が定着していくだろう。こうした動きの中心は流通であり、流通抜きに21世紀は語れない。』と未来が予想されるにいたっている。(82626 朝日新聞 ダイエー中内社長)

 このような経済の大きな流れの中で、勤労者大衆の不安は確実に増してきた。一つは失業である。たとえば、日本の造船業界は先進諸国の中でいちはやくショックから立ち直ったといわれているが、それは他国の造船業界には1割程度しかない部分、3割にものぼる臨時工・日雇を切り捨て、人件費負担を軽くすることによってなされた。名村造船所や日立・佐野安船渠などで働いていた釜ヶ崎労働者は、日雇とはいえ、長年勤めたにもかかわらず、何の保障もなくアブレ地獄の中へ追いやられた。また、長い消費不振に対抗するために、今までは中小・零細企業にゆだねられていた分野(衣食住関係・家電・自動車部品・出版・皮革など国民大衆の直接消費にかかわる業種)へも大企業がどんどん手をのばしており、倒産が続発し、失業者が増えている。

57年労働経済の分析」(労働白書)は失業率上昇の構造的要因として次のようにまとめている。

 『@労働力の中高年齢化A女子労働力の増加B労働力需要面での第三次産業の急速な伸びの3点によるものと分析、労働力の需要が量的には一致しながら、質的な面での不均衡による構造的失業の比率は以前より高まった。』ようするに、製造分野での合理化の徹底、消費堀り起し分野の拡大により、中高年男子労働者は不用となり、女子パート労働者、若年労働者のみが求められる傾向が強まっていることが失業率の増大につながったということ。
 

 次に、就業の不安定化である。

 「昭和57年就業構造基本調査報告」によれば、女子有業率は1974年の440%から82年の485%と、男性の有業率が減少しているにもかかわらず、増え続けている。雇用形態別でいえばパート・アルバイトが4分の1を占め、その8割が主婦であるとされている。

 企業は金のかかる常雇労働者を切りつめ、安上がりで、切り捨て可能な臨時・パート労働者への依存を強めている。それは過去の統計上明らかなだけでなく、コンピューター関係のオペレーターを中心として、労働者派遣事業の公認化が押し進められていることによっても裏打ちされている。忙がしい時にだけ労働力を必要とする企業に、時間単位で労働者を派遣し、マージンをとるというのが労働者派遣事業の中身だが、これは現在の釜ヶ崎で職安法違反の存在でありながら野放しにされ様々な問題を引きおこしている人夫出し、手配師という労務供給業者を法で認め、日本全国に拡げようとすることを意味している。

 職の紹介に関与して手数料・ピンハネをしてはならないという法の規制を、特殊な分野の技術者に関してのみとり払うものであると説明されているが、法の規制がある今でも、グリコ事件の報道の中で、忙がしい工場に、主として深夜業をおこなう労働者を派遣することを業とする企業があることが報じられたように、企業は利潤追求のためには法の規制などに頓着しないことを示している。規制の除外例を増やすことは、全業種全業態への人夫出し、手配師の出現に拍車をかけることになり、労働者は無権利状態の中に落としこまれることになる。
 

 3番目に存在感をめぐる問題である。

 高度成長下においては、ともかく物をつくることが主であり、売ることは一定、従の関係にあったが、低成長の時代においては、物はつくられることはあたりまえであり、それを前提としてどう需要を作って行くか、どう売り捌くかが主となっている。物自体を売るのではなく、物に何らかのイメージなり情報を付けて消費者の購買意欲をかきたてていく。物の販売ではないが一例をあげれば、銀行の中には社員にヨガの講習を受けさせて指導員を養成し、預金者に対してヨガ教室を開くことによって預金者を集め、預金額を増やそうとしている。銀行に勤めた人間がいつのまにかヨガ教室の先生になっている不可思議さ、それがあたりまえのこととなっている。

 企業はもうかることならなんでもやる方向を強め、従来の業態にこだわらない業態変化が進行しており、化学工業に勤めたはずなのにいつのまにか薬品会社の社員になっているといったことが増えている。それにともない配置転換、単身赴任なども増加し、家庭崩壊の原因ともなっている。

 企業の新企画の立案あるいは新分野への進出などの計画に参加できる人間は一部エリートに限られており、多くの人達は決定にしたがって新しい業務、新しい環境に馴れることを強制させられる。企業に属していることは確かなのだが、自己の存在基盤をどこに置けばいいのかまったく見い出せない、まさに“不確実性の時代”となっており、常雇労働者の不安の原因となっている。

 家庭の主婦も主婦専業でいると社会的視野が狭くなるとイラだちを覚え、不安を抱いている、という82年総理府の「青少年と家庭」国際比較調査結果があるが、幼児保育・学童保育などの社会施設が充分なものとなっておらず、家事労働の分担あるいは社会化が充分に確立していない現状では、“社会参加”を求めて勤めに出ても、その多くはパート、臨時の形態で就労せざるを得ず、企業のパート、臨時労働者への依存の強まりと共に高まる労務管理と労働強化、そして家事労働にはさまれて、主婦専業であることの不安は解消するかも知れないが、新しい不安をかかえこむことになる。

 世代間についてみれば、高度成長期にすでにサラリーマン化社会の中で、職を軸とした世代間のつながりは無くなり、明確な目標をもたないまま、“出世競争”へと子を駆り立てていかざるを得ない親の無力感がとりざたされていたが、低成長期に入り、父も母も存在不安におちいっていることから、以前にもまして子との直接的なつながりを持ちえないまま、子の体位の向上、そして、ICを組み込んだ機械で遊ぶ子らの姿に、自分達の“時代遅れ”を意識させられながら、ひたすら子を“出世競争”の中への追い込みを強めている。

 子らは小さい時から“学力競争”の中に追いやられ、中学3年ともなれば明確な目標設定のないままの“出世競争”への参加が強制され、“学力”のみによって評価・選別される。学校は“学力”によって評価・選別する機関となっているが、“学力”を高める場は、今や学校よりも先々に学習内容を教える学習塾にとってかわられており、子らにとって学校は評価・選別だけをする身勝手な場となっている。一方、塾通いは家計にとって大きな負担となっていることを子らは常に意識させられており、うしろめたさを感じている。子らはどこに存在基盤を見い出しえるだろうか。

 全ての人々に不安が拡まっている上に、更に社会保障制度の切り捨てがおおいかぶさる。

 公務員・国鉄をやり玉に上げることで始まった“臨調・行革”は、高度成長期の企業・法人保護から“発想の転換”をなしえなかったことによる税収不足が原因となっているが、いまだに“発想の転換”はなされず、生活保護費支給の見直しや受益者負担制度のあらゆる福祉制度の中への導入など、行政の企業化を押し進めるものとなっており、生活不安を拡げ、深めている。


 共同の敵の発見と闘い

 

 生活不安の拡がりと深まりは必然的に消費の抑制・家計の切り詰めに結びつくが、行政の企業化はそれを許さないと共に、企業の行政分野への介人が強まり、行政・企業一体となった内需拡大策がとられる。行政と企業は地域振興・開発計画を打ち上げ、現在の不安ではなく、未来のバラ色の夢で大衆を吸引し、財布のヒモをゆるめさせようとする。

 大阪21世紀協会「大阪築城400年まつり」委員長堺屋太一はいう。

 『万博は582億円の公共支出に対し、2兆円もの需要を創造した。沖縄海洋博でも17億円の黒字をあげ、観光客が4倍に増加した。これはエベント(行事)による需要創造効果で、公共事業への投資よりも効果は大きい。築城400年を契機に、21世紀までの17年間、連続してエベン卜を行えば、短期間の博覧会以上の経済的社会的波及効果をあげ、大阪に人と情報が集まり、文化が振輿し、都市機能が充実する。』(83926 朝日新聞 夕刊)

 御堂筋パレードには子ども会・学校・町内会などを通じて多数の子供や大人が動員され、子どもを見に行く親や大量の情報によって誘い出された人々など予想以上の観客を集め、「大阪築城400年祭り」会場へも、学校・保育園などを通じての割引券のバラまき、そしてマスコミを通じての大宣伝によって多数の人々が押しかけた。

 御堂筋パレード直前には、建物施設管理者を前面にたて、警察を後ろ盾とした大阪市民生局による“住所不定者実態調査”という名の青カン者排除がおこなわれた。そして、それは皇太子来阪が正式に決定した翌日、大阪市長室が異例の立案をおこなった、という経過もあるのだが、それに対する抗議の声は祭りのかけ声にのみ込まれてしまった。
 

 企業は行政と一体となって巨大プロジェクトを打ち出すことによって、その投資に“公共的”なる性格付けをおこない、あたかもそれが利潤追求ではなく、社会的貢献であるかのように装う。そのことは、実はかかる投資ができるのは労働者からの搾取の結果であり、労働者の側の力が強ければ奪還しえるものであることを見えにくくすると共に、私企業のイメージではなしえない大衆動員を可能にして消費面での収奪を強め、投資のすみやかな回収をすることができる役割をはたす。しかもプロジェクトにまつわる“夢”は、不安を一定程度ごまかす役割をも果たす。たとえば、学園都市構想は、教育熱に乗じ、多量の学生を集め、多額の授業料と行政の補助金を得て、実は少数エリートの企業のための研究施設を維持することに目的がある。

 内なる不安を打ち消すために、外の脅威が動員される。日本国内の不安の高まりと並行するかのように、対ソ脅威論も声高になり、日米軍事同盟も、大平首相時代の「日米共存共苦」から、鈴木首相時代の「日米同盟関係」、そして、中曽根首相の「日米運命共同体」へと強化され、福祉切り捨ての進行とは逆に、軍事費のみは肥え太ってきている。

 外の不安をもって内の不安が打ち消せないように、未来の“夢”も現在の不安の解消とはなりえない。不安が社会的なものとして認識されず、個人的なものとして捉えられ、個人にかかえこまれ、個人的解決にのみ奔走する時、中流意識へのしがみつきと、異なるものへの差別強化が必然化する。

 “不安に満ちた苦しい生活を、一生懸命働くことによって切り抜けているのに、あの連中はなんだ、ゴロゴロと昼間から、うす汚れたぐうたらどもは。あれでも人間か、ええい腹のたつ、死んでしまえ!”と−。
 

 差別する側に不安をいだかせ、より差別の強化へと駆りたてるものと、差別される側を生みだすものは、実は一つであり、民衆レベルにおいては共同の敵を持っているに他ならないにもかかわらず、差別意識の存在が、何故かを深く問い詰めることを停止させ、社会化して考える芽をついばみ、互いの、不安と差別の軛からの解放をさまたげているのである。

 差別を必然化するものは何者か。企業、法人、いわゆる資本であり、その奉仕者である経営家、そして、生身の人間を忘れ政策を立案する官僚である。彼らは企業を巨大化し、資本を増し続けることが絶対的な価値であると信じ込み、大衆は企業を存続させる為に働き、賃金を消費にまわして企業に再び戻すために存在するのであると考えており、それに役立たないものは、ベッ視され、大衆のイケニエになる役割をになうべきだと信じている。

 差別を必然化する勢力、そしてその支配下にとりこまれている部分は巨大なものであるが、差別事象の一つ一つを丁寧に取り下げ、反差別の闘いを通じて差別の構造を明らかにし、差別意識の変革と総変革のビジョンにもとづいた現実の部分改良の獲得を積み上げることによって、彼我の勢力関係を逆転させ、人間解放の社会をつくりだす道筋が見えてくると信じる。
 

 その際に、我々差別をこうむる寄せ暢労働者が、兄と頼み、闘いの教訓を学び、共に歩まんと望むのは、常に反差別闘争の先頭で闘う部落解放同盟である。部落解放同盟のこれまでの闘いと、周辺共闘の呼びかけ、反差別共同闘争の呼びかけは、我々寄せ場労働者にとって誠に心強いものがある。寿青カン労働者襲撃事件から1年有余、益々その感を深めている。


 1984年第26回信貴山研実践報告集 大同No57.大阪府同和教育研究協議会・1984・8.24.松繁逸夫記