4.低成長時代に追い、追われるもの

 

ドブネズミ同然の扱いと人権

 

1975年から10年、“低成長時代”の今日、野宿者に対する追い立ては、益々強化されている。なぜなら、野宿者の存在に対して社会的に有効な対策が打ち出されないままに放置され続けているからである。そして、京都駅や大阪駅でのように、同情的であった人々も長期化するにつれて追い立てる側にまわることになり、追い立てる人々と追い立てられる野宿者との間の摩擦が高まることになる。その結果、新宿駅バス放火事件や大阪・道頓堀の“天牛古書店”店主傷害(間に止めに入った野宿仲間は死んだ)事件、南区旅館会館放火殺人事件などのような、野宿者の追いつめられた思いからの犯罪が、引きおこされる。そういった事件は本当はまれにしか起きないのだが、常日頃から野宿者を“邪魔者”視している人々は、野宿者の全てが“犯罪予備軍”であるとして、更に追い立てを強化する口実とする。

82年9月3日の読売新聞、“浮浪者ミナミから追放/残飯なくし兵糧攻め”の見出しが付けられた記事は、そのことを証明するものであった。リード分には、次のように書かれていた。

『ミナミで商店街のアーケード下やビルの隙間などに住みつく浮浪者が増え続け、住民や通行人とのトラブルが目立っている。7月には、立ち小便を注意された男が殺人事件を起こしており、対策に手を焼いた南署は2日午後、地元の各種民間団体、官公庁の出先機関の代表者ら約100人を集めた「住所不定者問題対策連絡協議会」を発足させ、本格的に浮浪者排除活動を始めた。あらゆる法令を適用して取り締まりを強化すると共に、飲酒店の残飯、残酒を路上から一掃する“兵糧作戦”を申し合わせた。』

そして、新宿においても、南区においても、ほぼ同時期に、野宿者に対して写真撮影と指紋採取の強制が始められたのだった。

地下街のドブネズミ対策と同レベルで、人間である野宿者の対策が立てられ、『地元の各種民間団体、官公庁の出先機関の代表者ら約100人』の中から誰一人として、対策の方向が違うのではないか、という声は出なかったようだ。この場合、野宿者が人間として扱われるのは、法律を適用して取り締まられるということにおいてだが、それは野宿者にとって何の慰めともならない。

野宿者に対する取り締まりについては、当然とする声があると共に、全く不当とする意見も、京都で抗議行動に取り組んだ人や釜ヶ崎に関わっている人達以外からも表明されている。

“大阪築城4百年まつり”を前にして梅田周辺でおこなわれた野宿者の追い立てには、監視・抗議行動が釜日労を中心にしてとられたが、そのときに梅田現地にも来られたことのある関西大学法学部M教授は、釜ヶ崎差別と闘う連絡会の発行した小冊子の中で、法理論的に南署の不当性を明らかにされた後、次のように結ばれた。

『“浮浪者”や“障害者”その他諸々の社会的弱者がその存在を否定され、社会から放逐されることは一体何を意味するか。社会主義者や一部自由主義者までが「危険思想」のレッテルをはられて投獄された戦前のわが国や、ユダヤ人の抹殺を企図したナチス・ドイツの例を思い返すまでもなくその意味は明らかであろう。国家権力はいつの時代でも、弱い人々への人権侵害を突破口にして、強権的な脱法行為をいつの間にか合法の軌道に乗せてしまうのである。「浮浪者の権利」はまさに我々市民の権利でもあることに深く思いいたすべきである。暗黒時代の再来を防ぐためにも・・・。』

大阪弁護士会は、釜日労がなした同会の人権擁護委員会に対する人権侵害申立てについて調査の結果、大阪府警本部及び大阪府公安委員会並びに南警察署に対して、84年2月13日、次のような内容の「警告書」を送っている。

『2.南警察署の調査は身元確認のため「浮浪者」に対し、本籍氏名を記載した紙を前に持たせて上半身の写真を撮影し、かつ左手一指の指紋採取をしておられます。

ところが、右の調査をするようになったいきさつは「浮浪者」による殺人事件を契機とする南区の住民の要求であったとも言っておられます。そうすると、右調査には「浮浪者」の保護、身元確認の目的だけではなく、予防検束的目的や「浮浪者」の南警察署管内からの追い出し目的があると考えられます。その場合何らの嫌疑や令状もなく、右調査によりその目的を達しようとすることは警察法第2条2港によりに違反する疑いがあり、「浮浪者」に対する人権侵害となると考えます。

3、又、南警察署は任意の調査であると言っておられます。

任意の承諾があったと言うためには、単に「浮浪者」が拒否しなかったというだけでなく、調査の趣旨目的を十分に説明し、かつ、「浮浪者」が充分その趣旨目的を理解した上で積極的に同意することが必要であります。

又、「浮浪者」にとって警察官は一人であっても威迫を感じる対象ですから、調査が深夜に亘ったり数名で取り囲まれるという状況では、それのみで任意でないと推測されます。

南警察署の昭和58年5月8日から11日にかけて行われた実態調査は前項の店に配慮が欠け、説明も不十分であり、4名1組で「浮浪者」を取り囲む、或は深夜午前5時頃までに亘るという事例が見受けられます。

当会では、積極的に拒否しないまでも右のような状況で行われた調査は「浮浪者」の任意の承諾を得たと言えず、人権侵害に該当すると判断致します。

4、したがいまして、当会はここに本件実態調査に関して南警察署の反省を促すと同時に今後このような人権侵害にわたる調査を行われないよう警告致します。』

この二つの法律専門家の意見は、専門的ではあるが、世間の一般常識と飛び離れて難解なことが語られているわけではない。読めば誰でもがなるほどと、納得しうることが書かれているのであるが、今日にいたっても野宿者の取り締まりは、京都駅の事例でも明らかなように、また、周辺住民の声でも明らかなように、別のもっともらしい理由、−客に苦情・迷惑感などの感情論−をたてにおこなわれ続けている。

それが何故かと言うことは、1975年の事態に即して探ってみたところであるが、ここで更に、“低成長時代”の今日の状況に即して考えてみたいと思う。


見せかけの好況と野宿

 

“低成長時代”に不似合いな景気の良い見出し−『あいりん㊎/宿泊所軒並みホテル化/新空港前景気で浮上/日給8千円で』−で、釜ヶ崎の昭和59年度の『就労人数は延べ82万2千余人で史上最高に。㊎労働者の懐を当てこんで簡易宿泊所が次々、冷暖房完備の“ホテル”に改築されている。』と報じたのは今年4月19日の毎日新聞(夕刊)であるが、これを読むと、野宿を余儀なくされている労働者はやはり“ナマケモノ”としか見えなくなる。

これを書かれた人は、たぶんこの春、釜ヶ崎の担当になったばかりの人であろう。着任早々の現地の状況をよく伝えてはいる。

しかし、野宿者が生まれてからずうっと野宿しているわけではなく、野宿の現在の状態からだけで、その人格や人生が云々されるのではなく、野宿にいたる事情がよく探られなければならないのと同様に、軒並みホテル化したドヤ(簡易宿泊所)についても、ただ㊎生活として書くのではなく、その高料金化が労働者にとって持つ意味、ドヤのオヤジ連中は「高ければ泊まらなければよい」といっているが、それはオイル・ショック時の企業家たちの言い分「高ければ買わない自由があるはず」とそっくりで、泊まる側の選ぶ自由とは野宿のことに他ならないことが探られてもよかったのではないか。

また『82万2千人』という数字も、中身が問われなければならなかった。

グラフVは、先に示した年度別の求人推移のグラフとよく似ているが、これは月別の求人数の推移を示している。(“西成労働福祉センター”58年度事業報告による。)

昭和58年度についてみれば、仕事の最も多かった月は3月で9万5千余人、もっとも少なかったのは1月で3万6千余人となっている。更に特徴的なのは、4月から7月にかけての4ヶ月間で、3月の求人数の半分にも満たない月が続いていることである。

これらの数字の意味するところは単純である。3月は忙しくて全員が仕事に行った。4月から7月はヒマだったので半分が仕事に行き半分がアブレた。1月はもっとひどく、三分の一だけが仕事に行けた、ということだ。56・57年度は、その状態がもっとひどかった。

数字の意味するところは簡単であるが、この数字が生身の人間によって担われていることに気付くならば、簡単には見過ごせない問題が見えてくるはずである。道具箱の道具のように、生身の人間が、出し入れされている。労働力として不必要な時期は野宿を余儀なくされる。それは釜日労の実態調査として、先に紹介したところでもあった。

史上最高を記録したという昨年度の月別求人数については、まだ数字を手に入れていないので正確なことは言えないが、グラフの形としては、58年度の8月と10月、12月と2月を結んで9月と1月のへこみを無くし、4月から7月にかけての長期にわたる仕事の半減を、ややふくらませたものになるだろうと思う。景気がよいといわれる昨年度も、月別にみれば、アブレの集中する月があったことが判る。

 

そして、今年、4月末現在においても、ここ数年のような急激な落ち込みは見られていないものの、仕事がある時のように、誰でもが求人の車に乗れるというのではなく、手配師が顔を知っている人だけが車に乗れるという“顔付け”が主流の事態になっている。

史上最高の仕事量と言われても、多くの人々が、中曽根首相が外国製品をもっと買えと旗を振っているのに対して、そんな余裕がどこにあるのかといぶかしく感じているのと同様に、釜ヶ崎の労働者にも景気がいいという実感はない。

1980年代に入って顕著となった年度初めのアブレ集中現象は、“低成長時代”であることの、一つの釜ヶ崎的あらわれであった。“オイル・ショック”以後、個人消費・個人住宅投資・企業設備投資のいずれもが落ち込み、内需の不振を補うものは公共投資以外にはなかった。それで、企業収益や個人所得の伸び悩みで税収の不足となっていたが、国債発行に頼って公共投資がおこなわれたのだった。その結果、釜ヶ崎においてはグラフUにみられるように、79年をピークとする70年代後半の仕事量の上昇となった。

しかし、輸出の増大と公共投資の波及効果などによって、ようやく“低安定成長”が軌道に乗り始めるや、国債依存率の高さが問題とされ始め、“行財政改革”の名のもとに、軍事予算の突出を許しながらも、まず最初に公共投資がゼロ・シーリング、そして、マイナス・シーリングとされ、公共事業量は年々減少を続けることになって、釜ヶ崎に春のアブレ地獄をもたらしたのだった。


低成長時代のもたらしたもの

 

“低成長時代”が釜ヶ崎にもたらしたものは、春のアブレ地獄だけではなかった。

“低成長時代”への政府・財界の対応策“行財政改革”の本質は、財界の指導者と見なされている人物が、財界が補充金や税制面での優遇策をたかっていることにはそしらぬ顔をしながら、「国民は政府からたかる態度を改めなければならない」と言っていることに示されているように、先端技術の開発につながる軍事予算の突出と企業優遇税制には手を付けないままに、多くの人々の生活破壊をもたらす福祉の切り捨てによって財政を立て直そうとするものであった。それゆえに「物を与える福祉の時代は終わった」として、“臨泊”の縮小が行われたのであり、それまで初診料の百円だけで医者にかかれた日雇健康保険法が廃止され、医療費の一割負担が導入された健康保険法の中に組み入れられることによって、釜ヶ崎の医療の切り捨ても強化されたのであった。

“恋女房”が長い病の後で死に、借金と子どもが残され、福祉に相談したところ「子どもを取り上げられた」挫折感から飲んだくれになったと自ら言う鳶職のKさんは、最近、血を吐いたという。“あいりん総合センター”の建物の東側部分にある“大阪社会医療センター”で診てもらったところ、入院・治療が必要ということであったが、Kさんは健康保険の資格はあるものの、医療費の一割負担が気になって、今は入院する気になれないと言っている。どうやら、無理してでも働いて金を蓄え、それから入院しようと考えているようだった。しかし、釜ヶ崎では春のアブレ地獄が始まったばかりで、Kさんが自力で貯金して医者にかかれる日がいつになることか判らぬ状態にある。

Kさんのように、健康保険に入っているが一割負担が心配で医者にかかれない人はたくさんいる。また、84年に一割負担が導入されるまで、6〜7千人いた健康保険加入者が、3〜4千人と半減している事実は、釜ヶ崎の労働者にとって医療制度が無縁のものになりつつあることを示しており、今まで以上に病気を治すことができず、働けなくなって野宿に追い込まれる労働者が増え続けるだろうことは確実である。

“臨泊”の縮小を思うとき、現在、貝塚にある精神科のK病院に入院している、イースター島の石像を思わせるような彫りの深い顔立ちのNさんのことを、同時に思わないわけにはいかない。Nさんが入院したのは、“臨泊”受付において入所と却下が逆転した83年末から84年にかけての越冬闘争の期間中のことであった。

Nさんは決して能弁な人ではないが、労働者全体の利益のために、自分で判断して、進んで体を動かせる人であった。

83年、春のアブレ地獄には、千人とも2千人ともいわれる労働者が野宿を強いられたが、釜日労は、大阪府庁前の大阪城公園で7月7日から9日までの3日間の泊まり込みハンストを行って、釜ヶ崎の野宿と飢えを突きつけ、大阪府労働部に対して特別就労対策事業をおこすように迫った。そのとき共に野宿した約30名の中にNさんもいた。ハンストは3名が行い、他の人達は少し離れたところでオニギリとツケモノという簡単な食事をとっていたのだが、2日目にNさんが一度も食べていないことに気が付いた。Nさんに「気をつかわなくてもいいから、一緒にオニギリを食べに行こう」とさそったところ、「いや、どこまでできるか判らないが、ワシの気持ちがすまないから、今は食べない」と断り、ついに最後まで、自ら進んでハンストを続けられたのだった。

また、83年11月3日、山谷において暴力団西戸組が、右翼暴力団体皇誠会を結成し、山谷の暴力支配をもくろんで山谷争議団に襲いかかるという暴挙にでたときも、襲撃は労働者の力によって撃退されたものの、32名が警察によって逮捕され、活動家の自宅が西戸組組員によって荒らされたり、1名が拉致されて17時間にわたってリンチを加えられたりするという緊迫した山谷の地へ、同じ日雇労働者として見過ごしにできない、と進んでおもむいて行かれた。

そして、緊張が続く山谷の疲れを、一時いやすために釜ヶ崎に帰ってきたNさんが目にしたものは、医療センター軒下の野営地に、わずかな暖をとるための布団を求めて列に並ぶ、4百人以上もの労働者の姿だった。Nさんはその仲間たちの背後に、襲いかかる右翼暴力団、追い立てる市民の姿を見たのかも知れない。突如、「ワァー」という叫び声をあげるや、その場から走り去っていった。かってない多数の労働者への対応に追われていた越冬実の誰もが、不幸にしてそのことをいぶかしみ、後を追うという余裕を持っていなかった。

Nさんは“センター”から東へ走り、阪堺電気軌道会社阪堺線の踏切で電車に飛び込もうとして警察官に止められ、病院に送られて“措置入院”させられたのであった。

そのNさんから、『4月13日には病院の花見で水間公園に行くが、入院して1年3ヶ月、まだ退院できそうにない。面会に気てくださらんことをお願いします。』というハガキが届いた。

山谷では、労働者の二度の“暴動”を含めての英雄的な闘いが継続されているものの、西戸組との闘いは続いており、映画監督の佐藤さんが西戸組組員のテロによって倒されるという、まさに痛恨時としかいいようのないことまでおきている。釜ヶ崎には、今年もまたアブレ地獄が訪れ、野宿を余儀なくされている労働者が各地で追い立てられている現在、面会に行ってどのようなことを話せばよいのだろうか。

“低成長時代”、“臨調・行財政改革”が釜ヶ崎にもたらしたものは、かくも過酷な生活を強いるものであるが、しかし、このことは、釜ヶ崎以外の多くの人々、野宿を追い立てる人々にとっても、同じように言えることでもあるのだった。

医療費の一割負担は、釜ヶ崎以外の人々上にも覆い被さったのであり、行政業務民間委託化、人材派遣事業合法化などの動きは、多くの人々が釜ヶ崎の労働者と同じような“道具箱の道具”として、使い捨てにさらされる立場に、益々追いやられようとしていることを示している。今や日本中が、釜ヶ崎化されようとしていると言える。

世の多くの人々の危うい立場を、はからずも政府公報がはっきりと示している。

85年3月24日、全国紙のすべてに、7段通しという大きな政府公報が掲載された。左上には大きく2段組で『21世紀へ、足なみそろえて、/国と地方の行政改革』と書かれ、右下では『今後は国と並んで地方公共団体の行政改革を広くすすめていくことが必要です。』として、理解と協力が呼びかけられていた。

そして“足なみそろえて”、“身軽で活力ある21世紀の日本”の言葉を視覚によっても訴えるためにか、小学校の校庭に大きな日本列島が描かれ、その上で40人近い子どもたちが2列に並び、一本の長いロープで、一斉に縄跳びしている写真がつけられていた。

子どもたちの表情を見ると、笑っている子もいるが、緊張した表情の子もいる。全員が一つのことに集中する困難な縄跳びを続けることは、子どもたちに喜びをもたらすものであろうが、そして、縄の回される速度が段々速くなり、長時間にわたって失敗無く続けば続くほど喜びも大きくなるかも知れないが、しかし、そのうちに疲れと共に、失敗しはしないだろうか、誰かが失敗してくれないだろうか、と暗い期待を抱くようになる。誰かが足を引っかけて、暗い期待が現実のものとなったとき、それが自分でないこと、うまく跳び続けた多数の中に残れたことにほっとし、失敗した少数の子に対して、避難を集中することだろう。

“行財政改革”が、「政府にたかるのをやめろ」、「自助努力が大切」という言葉が示すように、福祉の切り捨てに他ならないことを思うとき、その子どもたちの姿が、不安と緊張を持って縄を一生懸命に飛んでいる、いや、飛ばされている大人たちの姿に見えてくる。

そして、足を引っかけたのが野宿者に他ならず、自分が足を引っかけたのではないことにほっとした人々から、“ダメな、グズな奴”として非難され、差別・排除されている姿も目に浮かぶ。だが、誰の胸の中にも、次は自分が野宿者の立場に立たされるかも知れないという漠然とした恐怖があり、それゆえにまた、失敗したものへの差別・恐怖も強化されるのだった。ただ綱をまわすものだけが、ニンマリとわらってそれを見ている。


単身者差別と市民の権利

 

1975年から明確な形となって吹いている、連帯でなく、個人の生活に閉じこもり、人を選別し、差別・排除する“時代の風”は、低成長、行革が声高くいわれる今日、“追うもの”をも生活不安に追い込みながら、益々強まっている。差別・排除は、野宿者だけに向けられているのではない。個人の、平均化させられた生活に閉じこもる人々は、自分達と異なる生活様式を持つ人々の存在を、理解し、容認することができなくなっていることから、約2万人といわれる釜ヶ崎労働者の中で多数を占める単身者の生活を、異様なものとして、差別・排除の対象としている。

先に示した人口推移のグラフによっても、釜ヶ崎においては女性が減り続け、男性だけが増え続けてきたことが判るが、単身労働者の街であることをもっとわかりやすく示すものが図Tである。

図Tは、国勢調査の各町名ごとの男と女の人数をそれぞれ世帯数で割った結果を示すもので、横軸は一世帯当りの男の人数、縦軸は一世帯当りの女の人数となっている。

大阪市全体では、一世帯当りの男女の数はほぼ半分となっているが、釜ヶ崎の各町においては、一世帯当り女は一人以下であり、男も限りなく一人に近く、男の単身労働者の世帯が多いことを示している。

1980年(昭和55年)図1

かかる単身性のゆえに、工事から工事へと移動しえたし、安い賃金にも耐えることができ、その犠牲の上に“日本の繁栄”が築かれたのであった。今、その単身性が、差別・排除の一つの理由とされている。

国鉄環状線新今宮駅より西へ2駅に大正駅がある。駅から南へ120メートルほど歩いたところにA工務店が新しく、近代的な装いの飯場(従業員宿舎)建てようとしている空き地があるが、その空き地が面している通りには、『我々の町をスラム化から守ろう/A工務店の独身労務者専用宿舎建築反対/S地区環境を守る会』と書かれた立て看板やステッカーが張りめぐらされている。

“独身労務者専用宿舎”が建築されると、なぜ町がスラム化することになるのか。これは日雇労働者に対する差別ではないのか、と考えざるをえないが、反対運動をしている人は、労働者には関係のないことだという。

“S地区環境を守る会”は“S町会連合会”と“S商店会”とで構成されているが、話を聞こうとして訪れたO会長は不在で、家の人からFさんを紹介された。Fさん宅は、宿所建築予定地の東隣にあった。

Fさんは「反対署名も4〜5千名集め、現在は裁判中であるから、詳しいことは弁護士に聞いてほしい」と前置きされた後、反対運動の趣旨について、「この町会は見ておわかりのように、商店もあれば住宅もある。町にはいろんな人がいてこそよさがあると思うが、この町内にはすでにSとAの2つの従業員宿舎がある。その上にもう一つできると、バランスが崩れるからやめて欲しい、ということだ。」と説明された。

立て看板やステッカーに書かれていることが、労働者を差別するものだとは思わないか、と聞くと「あれはA工務店の経営者に対してのものであって、労働者には関係がないことです。私たちは労働者を差別するつもりはありません。」と答えられた。

しかし、立て看板やステッカーは経営者だけが見るわけではない。近くにはT中学校もあり、中学生があれを見て“独身労務者というのは、町をスラム化させる悪い奴ら”という判断を持ってしまうことになりはしないか。重ねて聞くと、急に態度を変え、「まだ残ってましたか、全部回収したと思ったんですが、うちの裏に回収したのが沢山、おいてあるんですよ、ご覧になりますか。」と、言葉だけで取り繕うとされた。“残っていた”というものではない。Fさんの家の玄関にもステッカーが貼られていたし、斜め前の建物には、長さ3〜4メートルはあろうかという大きな垂れ幕まで掲げられていた。

弁護士に詳しいことを聞いてくれといわれたので、S弁護士とK弁護士からも電話で話を聞いた。

相当の年配と思われる声のS弁護士は、「町のバランスが崩れるから建築差し止め、というのは大体そうだが、ニュアンスが少し違う。裁判中のことだし、もう一人弁護士も関わっているので、独断では言えない。」といわれ、ステッカーや立て看板については、「あの町内を通ることがあるので、もちろん見ている。私は訴訟に入ってからの関わりで、それ以前からやられているようだ。そのことについては、相談を受けていないので、何も言っていない。相談を受けたら何か言うかも知れないが・・・。

労働者に対する差別だと感じられると言われても、こまかい文面は覚えていないし、そういう目的のものでもないし、何とも言いようがない。」と答えられた。

FさんとS弁護士は同じことを言っておられる。運動の目的は“宿所建築反対”であるから、反対する理由に、日雇労働者に対する差別観念を動員していても、日雇い労働者差別する意図はないのだK、と。ただただ、自分達の生活範囲、利害関係のことだけしか、判断基準として持ち合わせがないかのごとくである。

K弁護士は、若手の“社会派”として知られている弁護士だと言うことを、N弁護士から聞いていたので、直接あって話を聞きたいと思い、事務所へ電話を入れ、用件を伝えて弁護士のおられる時間を確認したあと、その時間に事務所の近くから電話したところ、来てもらっても時間がとれないと言われたので、そのまま、その電話で話を聞くことになった。

こちらが質問をする前に、K弁護士の方から2つの質問−あなたの立場はどのような立場なのか、なぜ教えなければならないのか−がされ、それに対するこちらの答えを聞いたあとで、「私的な紛争だから、第三者には関係がない。裁判中でもあり、話をすると相手に手の内を見せることにもなるから、話はできない。」と言われた。

単身労働者が増えると街のスラム化につながると考える理由、その根拠を、単身労働者が知りたいと思うのは、当然だと思わないか。説明が聞けなければ、あの文面そのままに、労働者に対する差別を根拠にした運動だと考えざるをえないが・・・と問い直すと、「そう考えられるのなら、その線に沿った行動をとられればよい。私的な紛争だから、第三者に口を出されて、問題を混乱させたくない。いいですか、正式なコメントはノーコメント、ノーコメントですよ。」というなり、受話器をたたきつけるようにして電話を切られた。

日雇労働者への差別意識を表にかざして、4〜5千人もの反対署名を集め、立て看板やステッカーを貼りめぐらすような運動が、はたして“私的な紛争”と言ってすますことができるであろうか。

裁判の当事者は確かに、宿所を建ててより経営を拡大しようと言う飯場経営者と、環境が悪くなって土地の価格が下がることを心配する地元の人々であり、それぞれの利害をめぐっての争いで、その限りでは私的な、エゴを中心とする紛争といえるかも知れないが、自分達の利益を守るために日雇労働者への差別を利用することまでが、私的なこととして許されるべきであろうか。

低成長時代の特徴である個人の閉じこもり現象は、“社会派”といわれる弁護士までもが、自分の関わる裁判の意味をより狭く解釈し、社会生活全般とは切り離して、個人と個人の間の私的なものと単純化して考え、自分の担当する事件について他からとやかく言われたくないという、子への閉じこもりを引きおこすというところまで浸透しているようだ。

大阪弁護士会の中の人権擁護委員会による“勧告文”のこともあり、“社会派”と目される弁護士には、もう少し違った対応を期待していたのだが。


出会い−時代の風に吹きよせられて

 

低成長時代はしかし、釜ヶ崎にとって、また多くの人々にとって、悪いことばかりをもたらしているわけではない、と言える側面もある。

生活不安が、個人の生活に閉じこもることによっては耐えきれなくなるほど強まるにしたがい、差別・排除も強まる一方で、一度でも、釜ヶ崎や山谷・寿を訪れ、その現実にふれた人々が、日雇い労働者と、その人の上に、覆い被さるものが同じものであり、不安や困窮の原因が個人的なものでなく、社会的なものであることに気付き、行政の姿勢や政策を、大衆の行動によって変えなければ、何も解決しないと、あらためて考え始めている兆しが現れているからである。

例えば、84年から85年にかけての第15回越冬闘争は、M新聞のS記者が、「西成署付近が暴動寸前の状態にある、という読者からの電話があったので来ました。」と現れたことに示されているように、いつもとは違ったやり方をしたが、毎年、支援に駆けつけている人々の中から批判は出ず、やむを得ないことと受け取られたことが、その兆しを証明しているように思える。

毎年、越冬に来ている人達は、前回の医療センター軒下での状況を知っていた。それは“臨泊”の縮小の影響で、500人近くの労働者が野宿を強いられたが、あまりの人数の多さから、医療センター軒下から大きくはみ出し、前の道路の半分近くにまで布団を並べてしまった結果、覚醒剤中毒の男が運転する車が突っ込みかけて、あわや大惨事になりかけた、という冷や汗のでる事件を含む切迫した状況であった。

“一人の死者も出すな”というスローガンを掲げる越冬闘争が、野宿している労働者を、自分達が設営した野営地で、交通事故によって死に追いやりかけた、という体験は、誰の胸の中にも、かくも大量の野宿を余儀なくされる労働者を、当面、他に手段がないとはいえ、自分達の善意だけで幾ばくかでも支えようとするのは、やはり無理なことなのではないか、という思いを抱かせたのだった。

おとなしく野営地で寝ることを繰り返すことは、ひょっとして、“臨泊”の縮小に、野宿を生み出す構造の維持に、手を貸すだけではないのか、という思いが、第15回越冬闘争の、医療センター軒下と三角公園の2カ所に野営地を分散し、夜8時に、大衆行動としての人民パトロールをおこなうという方式を選ばせた。

だからといって、人民パトロールは騒ぎを目的としたものではなかった。野宿者を襲うシノギ(路上強盗)を退治することを目的とし、連日、200人、300人の労働者が、釜日労のY委員長や行動派のOさんを先頭に、釜ヶ崎内外をパトロールしたのだった。

それに対して大阪府警や西成署は、連日、辻々に機動隊員を配置し、部隊を投入してパトロールの行動を妨害したのであった。

新今宮駅の裏手にある公園へパトロールに行こうとして妨害され、果たせなかった夜には、その公園で、ちょうどその時間に、一人の労働者がシノギに襲われていた。10時の医療パトロールでその労働者を発見したときには、まだ息はあったが、病院へ運ぶ救急車の中で息絶えたのだった。警察官の人民パトロール妨害が、殺したといっても過言ではないと思う。

機動隊や私服警官ともみ合うことは、傍目に見れば、無用な、社会混乱を引きおこすものと感じられるかも知れないが、自信はドヤに泊まれるにもかかわらず、野宿する仲間のためにと、三角公園で徹夜で火の番をしたり、パトロールや布団敷きに参加したりする労働者と共に越冬を支えた人達には、釜ヶ崎は基本的には働く労働者の街であり、その中の一部が野宿に追い込まれる構造がはっきり見え、野宿の原因が個人にあるのではなく社会にあることを身をもって知ることによって、度重なる行政への要求も無視されていることに対する労働者の憤りに共感し、問題を放置し続けている社会を問い直すためにおこなわれる大衆行動は、警官の出現によって混乱が起きても、非は妨害する警察の側にあるのであって、やむを得ないものと受け取られたのだった。

そのような理解は、釜ヶ崎の現実の中で、釜ヶ崎の問題と行財政改革とのつながりに気付き、自分の生活もそれと関わりの深いものであることに気付くことから生まれるものだろう。決して、座して個人の生活の中に閉じこもっている人達の中には、生まれるはずのないものである。

“時代の風”は、今や、差別・排除を強めるものであると同時に、追い・追われるものを吹きよせ、もっとも困難なものを軸として、社会を、社会生活の意味を問い直す、連帯の契機をつくるものともなっている。

越冬闘争の後に、釜ヶ崎の不就学児童のために建てられた“新今宮小・中学校”が廃校とされた跡地を、釜ヶ崎の子どもと大人が、共に生きる場として“解放”せよという要求を実現するための署名運動が開始された。

その運動は、“センター”での労働者3千人署名、キリスト者を中心とした全国からの7千人署名、そして、市教組南大阪支部、部落解放同盟大阪府連合会矢田支部などでの署名運動とひろがりを見せており、要求が実現されれば、これまで釜ヶ崎と関わった人々がそうであったように、更に多くの人々が“時代の風”の正体を、正確に読みとって帰ることのできる場ともなることだろう。

 

参考文献:金原左門・竹前栄治編『昭和史』有斐閣選書・1982年/原田伴彦『近代日本の歩み』大阪書籍・1982年/家の光協会編『戦後の日本』家の光協会・1973年/佐和隆光『高度成長』日本放送協会・1984年/堀江正規編『日本の貧困地帯・上』新日本出版・1969年/日本経済新聞社編『関西経済の百年』日本経済新聞社・1977年/大門一樹『物価犯罪』ビジネス社・1974年/沢本守幸『公共投資100年の歩み』大成出版社・1981年/朝日新聞社編『朝日新聞の重要紙面で見る1975年』朝日新聞社・1976年/小田実・鶴見俊輔・吉川勇一編『市民の暦』朝日新聞社・1973年/自由国民社『現代用語の基礎知識』1968年/財団法人西成労働福祉センター『事業の報告』1981年・1983年/六大港統一情報センター『六大港統一情報』VoL.1977年/季刊「釜ヶ崎」編集部『季刊「釜ヶ崎」』8〜10号・1982〜83年/釜ヶ崎差別と闘う連絡会『釜ヶ崎からの現場報告』1984年/労務者渡世編集委員会『労務者渡世』30号・1979年/毎日新聞連載『石油ショック10年』1983年10月/朝日新聞(大阪)1945〜62年各12月分

1985年5月松繁逸夫記


1985年6月14日、朝日新聞(京都)
 

国鉄京都駅宿泊の日雇労働者

「一斉取り締まり要請せぬ」/駅・市約束
 

国鉄京都駅で宿泊する日雇労働者を京都鉄道公安室と七条署が年数回、一斉に取り締まっている問題で、部落解放同盟府連と釜ヶ崎日雇労組など5者でつくる「日雇労働者の人権と労働を考える会」が13日、京都駅と京都市との間で糾弾交渉会を開いた。駅・市側は警察力に頼った取り締まりは問題解決にならないと認めたうえで、「今後一斉取り締まりは要請しない」「福祉・労働行政の取り組みを働きかける」と約束した。

交渉は京都市北区の府連解放センターであり、京都で土木建設工事に従事したことのある大阪・あいりん地区の労働者ら約百人が参加した。解放同盟府連駒井昭雄書記長が「京都国体や建都千二百年を控え、駅は京都の顔だと『青カン者』(野宿者)を治安弾圧の対象にしている。仕事にあぶれた労働者の生活をどう保障するか、考えるべきだ」と話した。約四時間にわたる話し合いで、駅と市側は@宿泊者を「浮浪者」と呼んだのは差別で、実体は日雇労働者と困窮労働者A逮捕者が出ている一斉取り締まりは今後やめるよう公安室に徹底するB府や市の福祉、労働行政の担当者らの協力を得て解決を図るC駅構内にいる仕事の「手配師」を取り締まる−などを約束、後日改めて文書で回答するとした。


1985年6月8日、赤旗
 

K組宿舎・建築差止め請求

浪速、K・Aの住民/一方的着工に怒り
 

【浪速】K・A環境を守る会(M代表委員、百五十世帯)は7日、浪速区K・Aの住民が建設に反対している五階建ての鉄骨造り労務者用宿舎をK組が住民の合意を得ないまま建設強行している問題で、大阪地裁に建築差し止めを申請しました。

K組は昨年4月、Kの住民集会の席上、「合意がえられるまで工事は着工しない」念書をかわしているにもかかわらず、住民の真剣な疑問に答えようとせず、この5月17日、強引に着工、たまりかねたMさんら140世帯の人々が連名で建築差し止めをもとめたもの。

申請によると、K組は現在、建築強行中の労務者用宿舎のほかに、大正区S浪速区Kに宿所をもうけていますが、人夫出しの実態は西成のあいりんセンターから五日契約で労務者を集め、宿舎前から毎朝、各建設業者のもとに人夫を送り出すというもの。

雨降りのときや仕事にあぶれた労務者が、昼間からしゅくしょ外に出て飲酒して路上や公園に寝て、子どもが追いかけられたり、小遣いをせびられたり、「K組の者だ。仕事がなくてぶらぶらしている。金をくれんか」と赤い顔をして自宅に侵入してきたなどの被害がひん発、住民を不安に陥れている、と訴えています。

そしてK組は、建築にあたり住民に対する説明会は開いたものの、こうした住民の不安にこたえようとせず、「入居者心得を守らせる」とのべているだけで、その心得なるものが通常の宿舎や寮規則にありえない道路上の酒盛り、道路上で酒に酔って寝ない、酒・ビールの容器を道路に放置しない。住宅内は立ち入り禁止などかかげたもので、心得そのものがこれまで周辺住民の生活環境をどんなに脅かしてきたかを物語っている、と指摘しています。

代表委員の一人、Mさん(41)は「K自身が宿所に泊まり込んで“心得”を守らせるといいますが、設計図面のどこを見てもKとその家族が入る部屋はなく、風呂さえない宿舎です。まして日雇いという不安定な労務者に“心得”をまもらせられる保証はどこにもありません」と話しています。

また、「K組は、建設業の許可はとっているものの、事業は人夫供給業で、明らかに職安法違反や中間搾取を禁止した労基法違反の営業、いったん、宿舎が建設されたら『被害は回復しがたいものになる』」と差し止め申請の理由を話しています。