花園公園の歴史から見えること

 昨年1228日「教育環境」の悪化を理由に、今宮中学校南側道路でテント生活していた人たちが強制排除されましたが、前の晩にほとんどの人は花園公園に移動していました。今も、花園公園北半分のテント村は存続しています。今宮中学校に面した花園公園の北側にある金網のトビラが、テント村住民の出入りのために開け放されているのを見ると、奇妙な感じを受けます。花園公園は下の写真で見られるナミ板で囲われた時から今日まで、23年間、開かれた公園であったことはないからです。


  大阪市告示第00号(左看板)
花園公園は下記の期間中改良工事のため使用を休止する
昭和51年11月15日大阪市長 大島靖
1. 場所 大阪市西成区花園北1丁目
2.期間 昭和51年11月15日から
     昭和52年6月30日まで

     告(右看板)
大阪市告示第00号により本公園を供用休止したので、大阪市公演条例第4条第1項第1号の規定に基づき、休止期間中一般の立ち入りを禁止する。
昭和51年11月15日大阪市公園局長

 告知の日付は1976(昭和51)年となっていますが、その当時の釜ヶ崎も仕事の落ち込みが激しく多くの日雇労働者が野宿を余儀なくされていました。

 右頁下のグラフは西成労働福祉センターが把握し集計している「現金求人」数の推移です。1970年代前半、「大阪万国博」の後、ドルショックや第1次オイルショックの影響で現金求人が減少したことを示しています。1976年はドン底の時期であったことは明らかです。



 花園公園は、以前、四条ヶ辻公園といわれていました。そこでは、1971年暮れから毎年、年末年始に「テント村」が「開村」されていました

 1970年開催の万国博覧会準備工事(幹線道路や地下鉄工事を含めて)に必要な労働力が足りないと、大阪府労働部は全国の職安に大阪への労働者集中を依頼しました。その結果、1965年から70年にかけて釜ヶ崎の労働者人口は急激に増えました。工事は開催に間に合いましたが、その後仕事は減少しました。70年12月31日朝日新聞(大阪)に次のような記事があります。

「あいりん地区歳末の“暴発”・労務者大荒れ・求職センター襲う・約5百人・商店でも乱暴」(1面)/「どっと“あぶれ組”・あいりん地区騒動に生活のカゲ・不況ムード・行政への不信」(社会面)/全港湾労組西成建設支部は労働者のつのる不満に、この年末の越冬対策を大阪府、大阪市に早くから訴えてきた。しかし、府市ともなんの手も打たないまま年末を迎えた結果が今度の騒ぎになった。

 このような状況を背景に、労働者自身の対策として、毎年、テント村が開かれることになりました。第一次オイルショックはさらに厳しい状況をもたらします。

 75年1月9日の朝日新聞には、「不況に厳しい新年・あいりん地区の日雇労働者・無料宿泊所も11日限り・場当たり行政では解決困難」の見出しで、対策のないまま労働者が路上に追い出されることを報じています。花園公園のテント村は、野宿を余儀なくされる労働者、テント村の住民が減らないことから、「閉村」することができなくなりました。

 75年2月、テント村は強制撤去されます。

75年2月27日朝日新聞(大阪)

「あいりん・テント村ついに撤去・抵抗の住民14人逮捕・機動隊出動させ代執行」

テント村が長引きそうになって市民生局は頭を抱えた。/テント村を強制撤去した場合、住人をどこに収容するかー要保護者をあずかる更生施設は不況のせいで入所者が急増している。大阪市内4施設、定員7百人のところへ千人の超満員。

あいりん地区に多い結核患者を収容してくれる病院も少ない。和歌山、京都の病院まで捜しまわっているのが実情。

「今年の暮れは、もう公園は貸さない。再びこのようなテントはつくらせない。」代執行終了後、大阪市公園局管理部長は断言した。/しかし、十分な施設と病床はあるのか。/「更生施設は50年度に急いで2カ所を新設する計画ですが、場所や時期はまだ…」と市民生局福祉部長は口ごもった。

就労対策となると民生局は大阪府労働部の責任範囲だと逃げ、府労働部の現在の対応も民生局から「とても満足のいくものでない」と批判されている有り様なのだ。

 75年暮れから、花園公園の使用許可は出なくなり、野宿を余儀なくされる労働者に一食を提供する炊き出しの場として使われるようになりますが、これに対しても機動隊を動員した強制撤去が行われます。

76年6月16日朝日新聞

大阪市は「釜ケ崎仕事保障闘争委員会」の休憩所・食器などを撤去したが、この措置に反発する同闘争委は公園内に屋台を持ち込んで無料の食事提供を再開、15日も労働者の列が続いた。/市公園局は再び撤去する構えだが、撤去作業はすでに6回。屋台での食事提供が再開されたのは、撤去作業から間もない14日午後1時半。他の場所で作った雑炊を同公園に持ち込んだ屋台の上で食器に盛り、従来通り朝、昼、夜の3食を提供。夜には野宿用のふとんを貸すなどしている。(略)/同闘争委では、去年12月から労働省・府・大阪市の3者に対し「特別公共事業・特別求人を出すなどして1カ月に14日の仕事を保障せよ」などと失業者の救済を強く要求したが、実りある回答はなかった。

場所を変えての炊き出しも、強制撤去されます。

76年2月19日朝日新聞

「撤去は許せない・日雇労組代執行に「異議」」/萩之茶屋北公園で仕事にあぶれた労働者に食事などを提供している「釜ケ崎越冬闘争実行委員会」が活動拠点としている同公園の仮設雨よけなどを行政代執行法に基づいて強制撤去する方針を打ち出し、代執行令書を同越冬委に渡した。

去年までは同区花園北1丁目の花園公園で実施していたが、同公園は去年11月、同市公園局が「改造の必要がある」としてフェンスで囲って立ち入り禁止とした。

今年は去年12月25日から萩之茶屋北公園行われている。

 追い立てに次ぐ追い立てが、野宿をせざるを得ない労働者に対する根本的な対策がない限り、何の効果も持ち得ないこと、場所の移動・問題の拡散をもたらすだけであること示しています。

 天王寺公園は1991年から柵囲いされた有料の公園となりました。自由に公園を使用する権利に対する侵害であり、野宿者の追い立てである、と考えた人々が、有料の撤回を求めて裁判で争いましたが、裁判所は、「野宿者追い立て目的は認められるが、有料とするのは行政の裁量権内」と判断を下しました。

 ここにも、追い立てによって、安易に解決しようとすることが、あらたな権利侵害、あらたな問題を引き起こすことが見て取れます。天王寺公園周辺歩道の現状は、「問題」が場所を移して残っていることを示しています。

西成公園では

 西成公園には、200人を越える野宿生活者がテントを張って生活しています。周辺住民は、地域の街づくり計画の一つとして公園の再整備計画を考え、行政と交渉し、工事決定を獲得するまでに運動を進めていました。

 しかし、工事着工は予定より半年以上遅れます。この間の事情は、部落解放同盟西成支部発行の冊子『―変身、5年の軌跡―西成の部落解放運動』の中、「西成公園研究会と野宿者問題への対応」の項で、明らかにされています。

「支部は、野宿者問題も重要ではあるが、西成のまちづくりの推進と防災計画の具体化の重要性、緊急性を大阪市に強く訴え、西成公園の整備計画の早期実行を求めました。/大阪市は、「公園機能の健全化」「広域避難機能の確保」という債務を認識しながらも、現実に「野宿している市民の人権尊重」という課題とを対立させ、工事着工に躊躇していました。」

 ここで大阪市は、人権(生存権)を侵害された結果、余儀なく野宿している人に対する行政の責任を棚上げし、「問題解決」の責任からも逃れるために、直接的な市民同士の人権の衝突という図式を掲げ、「市民同士の問題解決」へと話をすり替えています。

 その後、野宿生活者や支援団体を交えての会合、大阪市・野宿者・支援団体「野宿者ネットワーク」・地元住民からなる懇談会の設置、大阪市のすり替えを許さない野宿者対策の要求など、野宿生活者を含め、双方の努力の結果、とりあえずの工事区間からの立ち退きが取り決められ、工事が進めらることになりました。

 野宿生活者と周辺住民が話し合い、野宿生活者も周辺住民の計画を理解し、周辺住民も野宿生活者の自立支援の必要を理解するようになったことは、他では見られない成果です。しかし、今後、野宿生活者への対策が進まない限り、全体工事の完成のために、一方的に野宿生活者が追い立てられる事態も起こり得ます。

 反失連は、そのようなことが現実のものとならないよう、実効性のある対策を求めて、要求活動を続けていきます。


▲西成公園のテント(冊子・「西成の部落解放運動」から)

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