暴動のなかの〈沖縄〉 「釜ヶ崎」の現場から <3>  岩田秀一

 

「このごろの西成の裁判はよろしなりましたなあ。10年前なんかひどいもんでした。当時は実刑主義でしたから、ほとんどが刑務所へ行ってました。このごろは累犯前科さえなかったらみんな執行猶予やし」

そんなことを話してくれたのは、もう60歳近いと思われる廷吏だった。正確には訟廷人と呼ばれる彼は、ここ大阪地裁に20数年も勤めているとも付け加えた。彼は20数年ものあいだ法廷の入り口のそばに与えられた机に向かい、無情に裁かれていった多くの人々を無言のままに見つづけていたのであろうか。

温和な彼の口調は、まるで法の無情さを知りつくしているかのようなそれだった。

彼のすぐそばで裁かれていった入たちの中にどれほどの釜ケ崎労働者が含まれていたのだろう。恐らく少なくはなかったに違いない。彼の言う“西成の裁判”とは暴動の裁判であり、“10年前”とは昭和36年のいわゆる“第一次西成暴動”のことであったのだから。

192人が逮捕、その8割近い人たちが起訴され、一人を除いて有罪とされたという第一次西成暴動以後、幾度も暴動は繰り返された。暴動を抜きにして釜ケ崎が語れないように、近代釜ケ崎の歴史は暴動と共に変遷してきている。

ここ3年間にあっては大小実に11回もの暴動が起こった。そして、300人近い人たちが逮捕されているといえば驚かぬ人はあるまい。

もはや日本の恥部とされた釜ケ崎で起こる暴動が新聞紙面に大きなスペースをさく必要のない時代がきたのだろうか。釜ケ崎があるところ暴動は起こり続ける。そしてその暴動の裁かれ方は変わり、その質も内容も変わりつつあるというものの、その背景にあるものは何一つ変わっていはしない。

僕が暴動の逮捕者救援という活動を始める以前、あまりに違う暴動が釜ケ崎以外で起こった。それは1971年12月20日に起こった沖縄コザ市の「反米暴動」のことである。コザ暴動に関してあまりに違うと思ったのはその形態などではなく、その反響であり、それに加えられていった論評であった。

釜ケ崎の暴動もコザのそれも、暴動として全く平等であった。暴動に参加した人たちの意思においてもそうである。しかし、その両者をあまりに違うものとして解消させていったものは何であったのだろうか。

 

◇抑圧者はだれか

「自然発生的で無秩序に見えた騒ぎに、奇妙な『統制』があった。騒動の舞台は延長約1.6キロに及ぶ軍用道路。途中に3ヵ所のガソリンスタンドがあったが、焼かれた車は、そこからかなり離れたところまで押してゆかれてから焼かれた。警官が『ここじゃあぶない』あっちでやれとばかり幅広い道路の中央を指したという話もあった・・・・・」

こんな一節を含んだ当時の『読売新聞』の見出しもまた事件の内容を端的に示していた。

「米兵犯罪に怒り爆発」

基地にも乱入、放火

―数千人、米人車73台焼く―

どの新聞を見ても似たり寄ったりではあった、そして沖縄返還という大きな政治課題を反映して、その論評のほとんどは「抑圧」「反抗」というような定式的な言葉が氾濫し、心情的肯定論で埋められていた。

苦悩する沖縄―抑圧された人たちと言う時、彼らを暴動にかりたてた抑圧者がだれであるのかという問いに、馬鹿げたほど簡単に答えを導き出した。それは文字通りの鬼畜米帝であり、「沖縄を返せ」と叫びつづけてきたわが同胞たちではなかった。

その直後、正確には11日後の大晦日。コザ暴動と前後するように釜ケ崎でも暴動が起こった。その原因は簡単だった。仕事が全くなかったことにほかならなかった。開設されてちょうど3カ月目というあいりん総合センター1階の詰め所は焼かれ、3階にある就労斡旋機関西成労働福祉センターにも労働者はなだれ込んだ。コザ暴動で「あっちでやれ」と指示した警官がここにはいなかった。労働者たちはこの警官めがけて投石を繰り返したのである。

このセンター焼き打ち事件は、正月を控えた不幸なエピソードとして元日の新聞に小さく報じられただけであった。そして心情的肯定論をコザ暴動に寄せたわが同胞たちも、「抑圧」「反抗」という文字も意味も見いだせなかった。その無責任さは「海の向こうの問題」でしかなかったからこそ可能であった。それは釜ケ崎という日常接し得る問題に対して「抑圧された人たち」という言葉を投げかけること自体が、「抑圧者」としての可能性を持つ自分自身に気づくことでもあるのだから。

 

◇偶然の奇妙なつきあい

労働者としてのたくましさを持ったSはパクられた。コザ事件から2年後の夏、釜ケ崎の目抜き通りにある“大警察”西成署の真ん前でだ。Sがパクられたのは「ドジをふんで」というにはふさわしくない。一升近い酒を飲んでいた彼は、パクられかかった一人の労働者がふんだりけったりの暴行を私服警官から受けているのを見過ごせなかった。小走りでかけ寄った彼は、その私服の横っ面に労働者としての報復のカウンターパンチを力一杯くらわしたのである。

西成署前での労働者と私服警官の乱闘は、その後北接する浪速区内にまで及び、暴動化していった。逮捕者13人。

その時からSとの奇妙で偶然なつき合いが始まることになった。しかし、接見に行ける弁護士を探し、差し入れの品をそろえる、といういつもの作業を開始する時、僕にとってSは13分の1の存在にすぎなかった。

僕の任務とも言えることは、その13人が13人とも可能な限り、早急に釈放されるための配慮をすることである。それは拘置されることを前提とした上で、住居の確認と適当な身柄引受人を探すことが中心となる。

Sは沖縄から出てきていたから、身寄りはなかった。そして住居も、法律でいう“定まった住居”と呼びうるものでなかった。逮捕当時泊まっていたドヤは、2週間ほど滞在していただけなのだ。

幸い5入は3泊4日で釈放されたが、残り8人は裁判所の令状部へやってきた。正確には手錠と腰ヒモつきで地検から引っぱられてきたのだ。その中にSも当然含まれていた。しかし、すでに起訴されていた2人を除き6人は拘置請求が却下され、釈放されることになった。しかし、Sの身柄引受人として身柄引受書を提出していた僕は、決定に先立って判事室に呼び入れられた。Sが釈放されることは、今までの僕の経験からして不思議でもあった。

僕は何を言っていいのかわからぬまま温厚そうな判事に向かって腰を降ろした。判事は若い僕に対して言う。

「大丈夫でしょうね」

その意床するところの多様さにどぎまぎした。しかし僕は何食わぬ顔で聞き返した。

「大丈夫って、何が大丈夫なんでしょうか」

「いや、そういう意味じゃないんですが」

勝手に気をまわした判事の心配は、判事という職責上の心配であるらしかった。

「ただですね、裁判所としても初めての試みですしねえ。もしもこのケースが失敗したら、もう後々認められませんから、その点をよく……」

Sのケースは裁判所にとっても、また救援する側の僕たちにとっても初めての試みだった。

それは従来住居として認められなかったドヤを住居として前面に押し出し、活動家を身柄引受人につけることによって被疑者を、むしろ運動の中に組み入れていくのだということで釈放をかち取ろうというものだった。Sは住居不定とされることがわかりきっていたから、以前のドヤを放棄することとし、僕のアパートのすぐそばのドヤの一室をあらたにSの名義で借り受けたのである。

 

◇運動のなかの矛盾

10日ばかりのドヤ代納入証明と、僕の身柄引受書だけで判事はその釈放を決定した。むろん弁護士の熱意ある交渉を抜いて考えることはできないが、その滞在期間、家財道具の有無が問われずドヤが住居として初めて認められたのである。

当然、検察官は準抗告を申し立ててきた。執行停止も認められ、翌日の準抗告審の結果がでるまでSの身柄の拘束は続く。そしてかなりの確率でSの釈放は取り消されるものと思えた。僕は内心、絶対釈放させてみせるという意地が生じていた。

翌朝、準抗告審の行われる合議部判事室の前に僕は出かけて行った。書記官室に入り、身柄引受人としていつでも判事と会って話をする旨しつこく伝え僕は待った。

1時間ほどしてSが連れられてきた。SをSとしてはっきりとこの目におさめたのはこの時が最初である。Sを間近に見た時、ためらいを僕は覚えた。わざわざ裁判所にでかけてきた僕の意地が、何のための意地であったかはっきりしたからである。

“釈放”にかけた意地は新たな運動の成果を守るためであり、S自身のためのものではないということだ。真に救援の対象となるべき孤立者の利益を置き去りにする時、救援運動が堕落することを僕自身よく知っているはずだったのに。

2時間は待ったか。判事室から出てきた判事が書記官室のドアを開け「身柄引き受けに出頭……」というのが聞こえた。僕は要領よくその判事に直接身柄引受人である旨告げ、判事の後ろから判事室に入って行った。「逃げませんかねえ」と判事は僕の座りざまに切り出してきた。

僕はもはやそんなことはどうでもよかった。そして「逃げるとも逃げないとも言えません」とだけ答えた。

判事はほとんどいつも頭を下げっぱなしの身柄引受人しか知らないのだろう。僕のひらき直りに幾分驚いた様子だった。ちょっとまずかったかな、と思った僕は釜ケ崎の問題を型通りに付け足した。

「逃げるとも逃げないとも言えません。ただ釜ケ崎労働者の住居はドヤ以外にはありません。それは日雇いという職業の形態上の問題ですので、住居がドヤであることを問題に拘置するかしないかを決めるのはおかしいのではありませんか」

「でも、被疑者の前歴などを考えますとねえ」

「前歴そのものは直接逃げるかどうかという問題とは関係がないはずです。僕は身柄引受人としての熱意と誠意はあるつもりです」

5分間ぐらいの短いやりとりは、身柄引受人に一本クギをさしておこうということだけだったのだろうか、釈放は決定された。しかし僕は内心不安なものを感じていた。

過去数多くの被告の中で裁判をすっぽかし逃亡した者は一人しかいないのに、判事から「逃げませんか」と言われるとぐらつくものがある。

それは少なくとも有形無形に彼を拘束せねばならない立場に立たされたいま、運動の中の矛盾というものがはっきりしたこととも重なる。人に拘束されることを最も嫌う自分自身が、運動の生み出した成果に裏返しのそれを強制されることになった。

「成果」が運動を主要に規定し拘束することは真理であろうし、その「成果」をいつでも放棄できる覚悟のないところに運動の真の発展がないのもしかりということだろうか。

Sはその後起訴され裁判の場にひきずり出された。僕に「このごろの西成の裁判はよろしなりましたなあ」という老廷吏の法廷にである。それは当然予想されたことではあったが、準抗告の申し立てをけられた検察官の報復であるような思いも僕は抱く。

後日、Sから手渡されたその理由書は、型通りのものではあったが、その一語一句にまで露骨な悪意がうかがえる。Sには拘置すべき理由がすべてあるとされていた。その理由とは住居不定、逃亡のおそれ、そして罪証隠滅のおそれの三つである。

「被疑者は・・・・・所謂西成のドヤ街を転々とし同年8月1日からホテル○○に止宿しているものであるが・・・・・その止宿状況は単身で見廻り品だけを置いている程度のものであり、かつ××なる偽名を使用していることが明白であり、この状態をして生活の本拠たる住居が定まっているとは到底評価し得ない……

原裁判は岩田秀一なるものが被疑者のためにために西成のホテル△△△△の一室を契約したごときを目して住居ありと判断した如くであるが……。しかも右ホテル△△△△はこれまた所謂西成のドヤであって単なる日払アパートにすぎないのである。……」

「被疑者は定まった住居を有しておらず、かつ単身であり、更に日雇人夫であることを考えると逃亡のおそれは極めて高いものがある・・・・・・」(傍点は筆者)

そして、罪証隠滅のおそれに関して、僕が身柄引受人であることがそのおそれを倍加させるものであると結んでいる。

この理由書を作成せしめた地検村上検事を支えているものが何であるか言うまでもあるまい。そしてそれはなにも村上某なる個人に限定されることはないだろうし、市民社会総体に向けられねばならないことではある。

この悪意そのものは、老廷吏をして「昔は・・・・・」と回顧せしめた良心的状況の底を脈々といまだ流れているということなのだ。

◇やはり土方しかでけん

結審を控えたある日、公判の打ち合わせを終えたSと僕は夕闇の釜ケ崎に戻った。Sは一つ年下の僕にひけ目を感じているらしい。

Sは僕に「寿司でも食いにいかんか」とさそってくれた。僕のボケットには百円玉が三ツほどしか入っていなかったから、当然Sのおごりであった。酒が二本になり、四本になっていく時、二人の会話は自然とSの故郷の話になっていった。

「最近の暴動でよく沖縄の人間がパクられるなあ……去年の10月の時は真面目そうな奴やった。集団就職で上京して2年でやめてここに来た奴やったが、実家に毎月1万5千円ほど仕送りしてたかな。それで検事の奴がそのことをとらえて、真面目だからこそ二度とアヤマチをくり返さないためにも厳刑を……なんて言うてな」

「ヘエーッ。俺は不真面目なんかな。そういえば立ち飲み屋で飲んでても沖縄の言葉が聞こえてくることがあるもんな。それでそいつどうなった」

「石コロ一つ投げただけやったが、懲役6月、猶予3年やった。田舎へ帰るいうてたから帰ったかもしれん」

「向こうへ帰っても仕事があるんかなあ・・・・」

沖縄よりも釜ケ崎で働く方がいいという彼は、中学を出たあとコック見習として働いた。彼の父親は米軍基地に勤めているという。裕福であるはずのない家の事情は彼を住み込みで働かせたのである。月収は往み込みであったにせよ10ドルであったともいう。コック見習の職場を二、三変えたあと、彼はあのコザ暴動を制圧しきらなかったコザ署の冷や飯を味わうことにもなる。そして内地で働いてくると言い残し、家を出た。山谷に行き、釜ケ崎へ来た。そして彼は言う。「一度家に帰ってみるかな。でも家があるかな」と。

そして彼はこんなふうに僕に言った。「あんたはまだエエよな。頭はエエシ、土方やめてもどこでもツブシがきくから。その点おれは・・・・・やっぱり土方しかできんわ」

生まれ育った境遇のちがいは宿命的なものだが、二人の問に大きな隔たりがあるのは事実だ。それは二人の関係が始まった時、全く違う立場にそれぞれあったことからきているのだろう。

救援された彼は僕にひけ目を感じ、その逆のひけ目を僕は彼に感じる。しかし「あんたはまだエエ」と言った彼の言葉に何の悪意もなかったことは幸いだった。ウチナンチュウでありヤマトンチュウであることはどうでもいいことだ。僕にとってみれば、たまたまそうであったにすぎないのである。

そしてSにとって、コザ署の冷や飯も西成署のそれも変わりがない。ただし、コザ署の延長線上に西成署があったことではあるが。

コザ署の冷や飯経験こそが彼をして釜ケ崎に導き入れたのであろうと僕は思う。それは沖縄の置かれた経済状況をうんぬんする以前の問題としてあるからだ。彼は法廷での陳述で「警察官は好きではないし」と言った。その警察官の中にコザ署の警察官も当然含まれているのだから。そして釜ケ崎に「ここじゃあぶないから」とわざわざ指示してくれる警察官がいたのは遠い昔のことでしかない。

 

◇社会から拒絶された地点

釜ケ崎の暴動を「理由もない騒ぎ」として、市民社会の中に吸収させてしまうことは、二重の裏切りにほかならない。それは真底、「反米」という名の反権力的発露であったはずのコザ暴動が、情報化社会の中で欺瞞的な返還協定に収斂されていったことと重なる。

沖縄県と呼び、本土との格差の是正が必要であるというそのほとんどの視点は、沖縄の“釜ケ崎”視であるだろう。それは釜ケ崎を是正の必要な“沖縄”視することによって、釜ケ崎の中の沖縄とも呼ぶべきものを置きざりにしてしまうのだ。

Sが逮捕された同じ年に起こった別の暴動で逮捕されたMさんはいま刑務所にいる。彼は一貫して犯行を否認しなかった。そして投石したことを、Mさん自身の警察経験に対する抗議行動であると主張し続けたのである。

そして判決のおりた時、Mさんは「こんなに言いたいことを言えた裁判ははじめてです」といい、控訴する意思を見せなかった。ちなみに30歳を過ぎたMさんは18歳の時からここの労働者である。

窮民をつつみ込んだ釜ケ崎が釜ケ崎たるゆえんは、市民社会から拒絶されているという点に集中されていい。そしてそこからの開き直りを手当たり次第にぶちまける行為の集団化が暴動であるだろう。その意味で暴動こそが、釜ヶ崎の最も健全で正常な状態であると言えるのだ。

暴動がその結果としていくばくかの環境浄化と、福祉施設を行政当局から引きずり出したのは事実である。しかしそんな表面的な結果よりも重要なことは、暴動の責任が、逮捕者であり裁かれていった労働者個々に収斂されていくことの中にある。その個人にしてみれば、より釜ヶ崎に埋没していかざるを得ない社会的評価をその内部に引き受けねばならないのだ。

僕が暴動の救援をするのは、その個々の労働者が、自分自身のやった行為に対して〈ひらきなおり〉を期待するからだ。〈ひらきなおり〉とはその労働者個個の内部で「暴動」を貫徹することであろう。

ある労働者は法廷で土下座し、その非をわびた。その労働者は今までの釜ケ崎労働者に甘んじることをえらんだのだった。

自己の内部で「暴動」を貫徹することは、つねにその巨大なエネルギーが拡散化したままで終わり、変革への足がかりをつかみ得なかったことからの脱却ではないか。そして強固な労働者相互の結合環を生み出すための、まず手始めの作業であるだろう。(つづく)

(いわたしゅういち・救援活動家)  朝日ジャーナル 1973.7.6