戦後復興期(1945〜60年)

この時期は敗戦から高度成長開始までの時期であり、釜ヶ崎に即して言えば「第一次 暴動」前までの時期です。

前記したように釜ヶ崎は45年3月の大阪大空襲によって殆どが灰となりました。

その後のドヤの復興については不明の点が多いのですが、敗戦直後の闇市、バラックの乱立から釜ヶ崎の戦後は始まったようです。

特に注目すべきであると思われるのは、南海電鉄・高野線の今宮戎駅から萩之茶屋駅間のガード下を占拠して作られたバラック(南海ホテルと呼ばれていました)です。

こ れは旧浪速区内においては恵美仮小屋地区と呼ばれました。

このような仮小屋・バラッ クは浪速区・西成区とも60年代末まで残っていましたが、戦後における釜ヶ崎復興の要因のひとつとなったものであり、戦後的な特質のひとつと言えましょう。

当時の就労職種は戦前からの寄場(南霞町)を中心にした力役型の労働(土方等)だけでなく、雑業的なものも大きなウェイトを占めていました。

居住者の多くは戦災被害者でありましたが、
戦後すぐの窮乏状態からの脱出を種々の事情で阻止された人達だけでな く、
全般的な失業状況の中で就業機会を発見しうる(前記の南霞町の寄場以外にも戦前からの伝統的な職種であるバタヤがあります)ため釜ヶ崎に流入してきたという人々も混じっていたようで。

なお、本来のドヤの復活(新築・増築)は朝鮮戦争中の51ー2 年頃のことです。

しかしドヤにもバラックにも泊まれない野宿者も多く、西成署の裏にあった元徳風勤労小学校の廃校舎(現在は西成市民館があります)は野宿者の集住地となっており、
救世軍が南海ガード下に臨時宿泊所を開設したり
市民生局による「カリコ ミ」も行われたようです。

「戦後は終わった」(経済白書)とされる1955年を過ぎても家族が交代して寝る という劣悪な居住環境は存続しており、戦前以下的な生活水準がなお続いていたのです 。

50年5月、東萩町(現在の萩之茶屋3丁目)に、阿倍野公共職業安定所西成労働出張所(現在は名称が変更されています)が移転してきました。

戦前においては東萩町はス ラムに隣接していたもののドヤ等はなく、サラリーマンの多い住宅街でした。


空襲・職安の設置によっていわば釜ヶ崎が拡大したことになりますが、これも戦後期の特質のひとつと言えましょう。

ただこの労働出張所を通して就労する失対登録の労働者は釜ヶ崎労働者の中では少数派です。

一番の理由は労賃がいわゆるヤミ手配による賃金に比べて 約半分であったことですが、それ以外にも登録手続きがめんどうであることも見逃せません。

またこの時期の特質の一つとして、行政施策の戦前期からの断絶が指摘できます。

今宮共同宿泊所はすでに1940年に利用者減少を理由に廃止されており、
今宮保護所は戦後も存続していましたが、伝染病を理由に占領軍から46年には閉鎖を命じられ 、
職業紹介にいたっては有名無実化していました。

そして徳風小学校は廃止され、両親が稼ぎに出かけたあと、子供たちは不就学のまま放置されていました。

「第一次暴動」前後には約2−300人の不就学児童がいたと言われています。またこれ以外にも多数の長欠児童が存在していました。

朝鮮戦争による荷役業務の増大は求人量の増大をもたらし、釜ヶ崎は活況を呈しまし たが、一面それは労務供給業の復活・活況でもあったのです。

なお、南霞町付近が当時の寄り場でしたが、
ここで港湾労働に従事する労働者の求人活動が行われるようになったのは59年頃からで、
それ以前においては港湾労働に従事する労働者は境川方面に出かけていって求職、就労するのが一般的でした。

求職活動の場と居住の場(ドヤ)とが離れていたことが、

「人夫出し飯場」を発生させる要因のひ とつとなり、

労働力の需要が労務供給業者のプールしている「人夫出し飯場」によっては応じきれなくなった場合、

釜ヶ崎でその「調達(求人)」活動を行うことになるのです。


高度成長期(1961〜73年)

「第一次暴動」は交通事故に際しての警察の人権を無視した取り扱いをきっかけに発生したものですが、

その背景には

日常的な警察による抑圧や

ますます拡大していく市民社会との経済的な格差の存在がありました。

この時期はなによりも高度成長を背景にした力役型の労働力(建設土木・港湾労働等 )の急激な需要増をテコに釜ヶ崎人口は一万人台(日雇労働者とその家族)を突破する 時期であり、

かつ「第一次暴動」を契機として一定の展開をみせる行政施策が開始された時期でもありました。

戦後直後においてはせいぜい4−5千人(日雇労働者とその家 族)を数える程度であった釜ヶ崎人口(戦前でもおおむね4千人が最盛期のレベルでし た)の増大は単なる量的な拡大ではありませんでした。

それはまさに戦前期には予想もできなかった男性の単身労働者の極限的なまでの増加だったのです。

それは建設・土木を中心とする下層労働力に流動性が求められたことと
世帯持ち労働者を対象に市民社会への「更生」(常用化及び釜ヶ崎外での住宅供給)が行政によって計られたことに起因しています。

これらの大量でかつ新規の釜ヶ崎への流入者は、

高度成長にともなう産業構造の変換( 石炭産業の切り捨て等)による失業者や

農業基本法(61年公布)等による農村労働力の流動化によって

都市へ移動してきた比較的若年の労働者によって構成されていました。

「第一次暴動」は市民社会にとってはまさに「釜ヶ崎の発見」とも言うべきものでしたが、その直後大阪府は労働行政を、大阪市は民生行政を、それぞれ担当するという枠組みが作られました。

これは既存の行政の枠組みを踏まえたものと言えますが、結果的には縦割り行政として責任不在の体制が現出することになります。


なお労働行政については、「暴動」の翌月に東四条町の国道尼平線に面した広場に大型バスを置き、
府労働部西成分室が開設され、
暴力手配師の一掃のかけ声のもと、職業紹介等の業務を開始しています(これらの仕事は翌年には財団法人西成労働福祉センタ ーに移管されます)。

この施策は従来の行政の怠慢ぶりからは目を見張るほどのスピー ドでしたが、その背景には大阪港における荷役業務の停滞が「暴動」によって惹起され たことがあります。

船主、荷主、荷役業者にとって港湾労働力の安定した確保が急務になっていたことが指摘できます。

この意味でも先に述べたように「暴動」は市民社会にとっては「釜ヶ崎の発見」だったのです。

これに対して民生行政に関しては「暴動」の前年に区内の社会事業関連の各種団体が集まり西成愛隣会が結成(これには山谷の「暴動」の影響が考えられます)されており 、

62年には愛隣会館、愛隣寮がそれぞれ開設されています。

前者は西成署のすぐ隣にあって授産場や託児室がもうけられており、また後者は環境改善施設として宿所を提供するものでしたが、
いずれも世帯持ち労働者を対象にしたもので、ドヤ居住の単身労働者を対象にした地域内の民生行政の拠点は長く不在のままでした。

この時期の終わりになって、ようやく現在の行政システムがほぼ完成します。

ひとつは70年に開設されたセンター(あいりん職安、西成労働福祉センター、大阪社会医療センターが同居しています)であり、

いまひとつは釜ヶ崎内の単身労働者を対象にした民生行政の拠点として71年に設置された大阪市立更生相談所です。

なお、このセンター建設(場所をどこにするかという点をめぐって府・市及び地元との間にさまざまな対立・葛藤がありました)の前後にいわゆるバラック建築は釜ヶ崎か ら姿を消し、戦後的様相は一掃されることになります。

前記のように西成労働福祉セン ター自体は62年に設立されておりましたが、

あいりん職安はセンターの開設と同時に設置されました。

あいりん職安は職業紹介については何らの役割も果たしていません。

ただ雇用保険の普及には決定的な意義をもっています。

雇用保険・健康保険への釜ヶ崎労働者の加入は労働福祉センター発足当初からの課題とされてきましたが、見るべき成果をあげることはできないでいました。

それには、加入申請の手続きに戸籍抄本や住民票が必要であって煩瑣であること、
あいりん職安が設置されるまでは釜ヶ崎内の職安は前記のように東萩町の西成労働出張所しかなく、当時の主な寄り場であった南霞町とはかなり距離があって失業認定等の手続きで不便であったこと、
さらにこれまた前記したように登録失対の賃金がヤミ手配による日雇労働のそれ比べてきわめて低かったことと
連動して失業給付金が低かったこと、
そして雇用する業者自身の雇用保険への加入がきわめて稀であったこと(強制加入は5人以上の常用労働 者を雇用する事業主であり、釜ヶ崎の労働者を「雇用」する業者・・・・大半は労務供給業者でありましたが・・・・は零細であるのが通例でした)等が原因と考えられます。

雇用保険普及を阻害していた事情の大半は、あいりん職安の設置(巨大な寄り場を併設 しています)、

加入申請手続きの簡素化(住民票等をドヤ証明で代替できるようになりま した)、

雇用保険未加入の業者のもとでの就労に際し、印紙貼付については就労申告書の代用が認められたこと等によって解消されることになりました。

さらに失業給付金の増額も雇用保険普及に大きなウェイトをしめています。すなわち一級の場合、71年では760円だったものが75年には2,700円に、さらに78年には4,100円になっています。

しかし雇用保険の普及は一面では労働者の生活安定に寄与するとともに、それによる 労働者管理にも繋がっていくものでもありました。

給付金の受給資格は前二ケ月の期間で28日間の就労(直接には雇用保険料の納入を示す印紙の保険手帳・・・いわゆる白 手帳・・・への貼付によって表されます)によりますが、

種々の事情(求人減や高齢、 疾病等による就労不能)で28日間の就労が不能であった場合、

ヤミ印紙を購入し貼付することがややもすれば行われ、それへの摘発・手帳の没収(しばしば行政改革や福祉切り捨てと連動していました)や新規の手帳交付の制限等が労働者の管理・切り捨てと して機能することは言うまでもありません。


戦後における大阪市の「浮浪者」対策の起こりは45年3月の大阪大空襲後に大阪駅構内に設けられた戦時相談所で、

これは敗戦とともに市民案内所と改称され、46年には生活保護法(旧法)施行に伴って、大阪駅周辺に増大する戦災被害者・戦災孤児・引き揚げ者 ・復員者・帰阪してきた疎開者の収容・相談機関である梅田厚生館となります。

当初相談者は様々な階層にわたっていましたが、52年頃には釜ヶ崎で日雇労働をしていた人達の収容が目立ったきています。

要するに困窮した労働者への援護が釜ヶ崎内では行われず、野宿者となって釜ヶ崎外へ流出を余儀なくされていたわけです(このような事情は基本的に現在でも変わりがありません)。

なお梅田厚生館は保護施設であった豊崎寮等と統合され、新たに大淀区に大阪市立中央更生相談所が設置されますが、困窮した単身労働者の援護の機関はあいかわらず釜ヶ崎外にあったのです。

70年3月から半年間、千里丘陵で日本万国博覧会が開催されました。

会場建設費2千億円関連建設事業費9千億円の大事業でありました。

これに要する労働需要の多くは釜ヶ崎の労働市場を通じて供給されましたが、

大阪府労働部による全国各地からの労働者集めも見逃せません。

釜ヶ崎の労働市場が活況を呈したピークは69年度で、労働福祉センターによればこの一年間に釜ヶ崎労働者の延就労人員は7六万人でした。

この時期 に釜ヶ崎の労働者数は増大しましたが、重要なのは前記のように行政施策(特に世帯持ち労働者の市民社会への「更生」)との実施と並行して単身の労働者が増加したことで す。

関連建設事業で注目されるのは中央環状線の開通、地下鉄御堂筋線の延長(北大阪急行線)、近鉄奈良線の難波乗り入れ等ですが、

「万国博に原子の火を」のかけ声で急がれた関西電力による原発・美浜一号炉の建設も看過できません。

行政システムと並行して、労働者組織の結成が「暴力手配師追放」を契機として進められ、いくつもの労働争議・対行政闘争が展開されるようになるのも、この時期の終わり頃の特徴です。

「第一次暴動」直後にも釜ヶ崎労働者の組織化は試みられましたが、高度成長の過程を経過する中でようやく釜ヶ崎労働者の持続的な抵抗主体が組織されたことの意義は大きいと言えます。


現在(74年以降)

この時期は石油ショック以降現在に至る時期です。

列島改造による狂乱物価、総需要抑制策、中曽根行革による公共事業抑制策、バブルの形成、そしてその崩壊等による

アブレ局面と内需拡大による求人増の局面とが目まぐるしく交錯する時期でもありました。

この時期の特質として、石油ショック後のいわゆる減量経営によって、釜ヶ崎労働者の就労職種が建設土木にほぼ特化したこと

(高度成長の過程で荷役作業の機械化が進み、 また港労法の制定により釜ヶ崎労働者は仲仕仕事や工場内作業から排除されていきまし た)、

それにともない求人の動向が公共事業の動向に規定されることになり、

いわゆる年度始めから梅雨にかけてのアブレ期、

夏以降の求人回復期、年末年始のアブレ期、

年度末の繁忙期という定型的な求人パターンが確立すること、

雇用保険の普及や春闘の定着によって一定の経済的余裕をもった労働者層を対象にドヤの新築ラッシュが続いていることなどが指摘できます。

また高収入の労働者の一部が岸の里、花園等の周辺地域のアパートへ分散する傾向を見せはじめるのもこの時期の特徴です。

さらに、造船・鉄鋼等のいわゆる構造不況業種からの釜ヶ崎への流入(比較的高年齢者が多い)が新規流入者の主流となる社会的形成のあり方は、

既住の労働者の高年齢化とあい まって高年齢化を促進することになります。

高収入労働者の出現の裏には高齢化し労働能力を磨滅させた労働者の存在があります。

彼らの多くは就労できず、釜ヶ崎だけでなく大阪市内の全域で野宿を余儀なくされてい ます。

行政の切り捨てもあって彼らの野宿は通年化の傾向にあり、このようないわば作られた社会的弱者を標的にした少年たち(彼らの多くは現行教育体制の「脱落者」です )による襲撃事件が多発しました。

その背景には心地好さ、快適さ、清潔さのみを指向する社会的風潮があると考えられます。


90年10月2日から6日にかけて「暴動」が勃発しました。

警察風に表現すれば「22次」の「暴動」(蝟集事件)ということになりますが、

その直接的なきっかけは、西成署の警察官が取り締まり情報を賄賂と引き換えに暴力団幹部に流していたとの新聞等の報道にありました。

その背景には、釜ヶ崎の各所に設置された「防犯カメラ」(その法的妥当性について裁判が起こされています)に象徴されるよう な日常的な西成署による釜ヶ崎労働者に対する人権抑圧があります。

そして、贈收賄事件に明らかなように、警察と「持ちつ持たれつ」の関係にある暴力団は、釜ヶ崎にあっては賭博(ノミ行為等)、手帳金融(雇用保険を担保にした貸金業)等を通じて労働者を収奪する支配構造の一環をなしているのです。

これら、警察の人権抑圧、暴力団の暗躍等は「第一次暴動」当時となんら変化してお らず、表層における「豊さ」の内部においては「疎外状況」は根強く横たわっていると言わざるを得ません。

83、4年頃から始まった金融の自由化や85年のプラザ合意を画期とする円高基調の抑制策(日銀によるドル買い介入)によって過剰流動性が発生しましたが、それはおおむね土地や株のための投機資金となり地価・株価の暴騰(いわゆるバブルの発生) を引き起こしました。いわゆる財テクがブームとなり、株高の傾向は永遠に続くかと思われました。

このような状況の中で企業の資金調達方法が高度成長期における間接金融方式(主に銀行からの借入金)から持続的な株価の上昇を前提とする転換社債等のエク イティファイナンスに変化しました。

低コストの資金調達は企業による財テクに拍車をかけますます株価が上昇することに繋がって行き、資産のインフレが起こったわけですが、90年10月1日には株価の全面的な大暴落(48%、270兆円の消滅)が起こ りました。

これには外資系証券業者の存在が指摘されています。

実体経済への影響は不動産関連融資の総量規制等もあって91年に入ってからでしたが、今回の不況の特質は不動産関連等の大型倒産が続出するとともに、「絶対潰れない」 とされた金融機関(東洋信用金庫)も倒産したことです。

また株価の下落と実体経済での不況とが一致しないこともこれまでにない特徴と言えます。

バブルの形成・膨張期には新空港建設や学研都市計画等を中心に釜ヶ崎は好景気にわいていました。

人手不足・賃金上昇をテコにして韓国をはじめとするアジア地域からの出稼ぎ労働者が寄せ場へ登場してきました。

この傾向が今後とも継続するならば寄せ場の様相にも少なからぬ影響を与えることでしょうが、バブルの崩壊以降、求人減の中で困窮した労働者の大量の発生が焦眉の問題となっています。

92年10月、大阪市立更生相談所による困窮した労働者への官僚的な対応(貸付金が限度を越えたことを理由に相談所を閉鎖しました)に対してほぼ2年ぶりに『暴動』 が発生しました。

全般的な景気の落ち込みの中で真先に犠牲になるのが釜ヶ崎労働者であること、

そしてそのような状況に対して行政が何ら有効な対策をとろうとしていないことを今回の「暴動」は示しています。

◎主な参考文献

河本乾次「釜ヶ崎雑記」      (『歴史と神戸』62年8月号)
橋爪紳也『倶楽部と日本人』      (学芸出版社 89年3月)
『西成地域日雇労働者の就労と福祉のために』西成労働福祉センター事業報告
日本経済新聞社編『関西経済の百年』     (日本経済新聞社 77年11月)
『大阪市史』第三巻(90年)