形成期(1896〜1910年頃)

形成期の始点を1896年においたのは、

この年にマッチ製造会社・電光社が釜ヶ崎の一角に開業したからです。
(今宮村字東道・現在の大阪市立更生相談所の裏手にある道に敷設されてあるレンガはこの電光社の建物の一部だと言われています)

当時のマッチ工業については工場法制定のための調査報告書である『職工事情』に詳 しく記されています(この調査には横山源之助が携わっていたようです。「燐寸職工事 情」には1900年前後の状況が記録されています)。

マッチ工業は軸木の伐採、軸木製造、マッチ小箱製造、マッチ外箱製造、マッチ製造販売の工程がありますが、
通常マッチ工場で行われたのは最後のものです。

それは軸木の漂白・配列、軸木尖頭の燃焼とパラフィンの塗布、頭薬塗布、軸木の乾燥、箱詰め、横薬塗布及び包装に分けられます。

マッチ工業の特質としてつぎのような点が指摘できます。

このようなマッチ工業の特質は長町周辺のマッチ工場にはそのまま認められるものです(横山著『日本の下層社会』には長町に対するマッチ工業隆盛の影響が肯定的に記さ れています)が、

電光社は労働力の確保についていくぶん様相を異にしています。

すなわち電光社の建設地は長町からやや離れており、労働力を長町からだけでは確保できず工場周辺に社宅(電光社長屋)を建設して労働者を確保したのです。

長屋そのも のの規模は不明ですが、少なくとも電光社設立当初の釜ヶ崎には長町に相当するスラムはなかったので、あらためて労働力を確保する必要があったわけです。

釜ヶ崎の形成にこの電光社の開設が大いに関与していたわけです。

1901年の電光社の職工数は130人で、20年には393人になっています。

も とより職工が全員長屋に居住していたわけではありません。前記『職工事情』には、この電光社長屋の居住者を中心に釜ヶ崎の貧民11世帯の生活実態が報告されています。

それによりますと、戸主は雑業ないしは力役型の職業に従事し、主婦は無職あるいは雑業(棕櫚の縄綯い、農家の手伝い等)であって、マッチ工場へは子供が通っているのが通例です。

また電光社で働いていない人々も電光者長屋に居住している事例が紹介さ れており、働いている場合はその人数にもよりますが、家賃一ケ月一円二〇銭から二〇 〜七〇銭程度の割引があったようです。


前記のように長屋建築取締規則や宿屋営業取締規則の施行により長町に一定の変容( 長屋家賃の高騰、『職工事情』によれば長町の長屋の家賃は今宮村の家賃の約2倍であるとしています)が生じ、

隣接地域への不良住宅の膨張がみられたわけですが、

電光社長屋はその核の役割を果たしたものと考えることができます。

もとより、釜ヶ崎の形成が一マッチ工場の開業によってなされたものではないことは言うまでもありません。

この時期に開催された第五回内国勧業博覧会(1903年)のため来阪した天皇の通 り道となった長町がスラムクリアランスの対象となったことも看過できせん。

この第五回勧業博については多くのことが語られねばなりません。

その跡地はのちに 新世界として大阪南部の歓楽街になりますが、

その前身は1889年に開業された偕楽園商業倶楽部(いわゆる今宮商業倶楽部)でした。これは民間による「商業の隆盛」をはかるための常設物品陳列所でありまた新奇な遊戯機械を据えつけた遊園地でもあったのです。

すなわち勧業と娯楽を兼ね備えた「明治のイヴェント会場」であって、その性格はこの勧業博にも通底していたと言えましょう。

というのも従来の勧業博は、なにより殖産興業をめざして、近世において一般的であった見世物とは全く異なるものとして位置付けがあったにもかかわらず、

この第五回勧業博 ではメリーゴーランドやウォーターシュートといった遊戯機械が登場しています。

またこれまで勧業博は東京・京都でのみ開催されており大阪への活発な誘致運動が展開され 、事前のキャンペーン(勧業博で来阪する見物客のための正札販売の励行等)が行われ たこと、

初めてイギリスやアメリカの参加があったことなども指摘できますし、

また夜間営業が初めて行われたことも画期的なことと言えるでしょう。

しかしより重要なことは場外においてではありますが、

学術人類館と称して『北海道 アイヌ』、『臺湾生蕃』、『琉球』、『朝鮮』等の『内地に近き異人』を集めてそれぞれに集落を設けその日常の起挙を見物の対象にしたことです。

いわば『人間の展示』が 行われたわけですが、これは1889年のパリ万博で初めて登場したもので、以降さ まざまな博覧会でみられることになります(バッファロー博覧会(1901年)では日 本人集落もあったようです)。

これらにはいうまでもなく『未開』を眺める『文明』 という帝国主義イデオロギーが背後にあります。

また『廃娼運動』の観点から花街の芸妓による浪速踊り批判がなされたりしましたし 、

また会期中大阪市内の『乞食』を小林授産所へ収容させたことも無視できません。


この博覧会を通じて都市経営の観点で問題とされたのは大阪の都市整備の立ち遅れで した。

道路の劣悪さや交通機関の不充分さが指摘され、勧業博終了後からその面での改善が目指されることになります。

その一つとして長町の不良住宅への取り締まり強化( 1906年等)やまた市電南北線(梅田・恵美須町間)の開通(1908年)があります。

両者は車の両輪のような関係にあったと言えますが、貧民の釜ヶ崎への南下が強いられたであろうことは想像に難くありません。

難波署による1908年の『長町一帯の特 別掃蕩取締り』では303人の『浮浪者』が処分されています。

また不審な宿屋として視察の対象となった旅人宿・下宿が50軒、木賃宿類似の下宿が30軒あるとされています。

なお、スラムとしての釜ヶ崎の形成にはその地理的な条件も無視できません。

すなわち当時の主要な交通機関であった大阪鉄道(1889年に湊町・柏原間で開通 、現在のJR国鉄関西線)が釜ヶ崎を横断(97年の大阪市の第一次市域拡張によりこ の大阪鉄道以北が大阪市に編入されます)しており、

近世から大阪・和歌山間の幹線道路として利用されてきた紀州街道(長町はその両側に形成されました)との交差地点( 実際にはガードとなっていてその中で声を出すとワーンと反響するところからワンワン と呼ばれていたようです)が釜ヶ崎にあったのです。

釜ヶ崎内には大阪鉄道の駅はあり ませんでしたが、このガードは当時の主要ターミナルであった湊町と天王寺との中間地 点にあり、また上町台地のへ向かう坂道の出発点にあたっていたことは看過できません 。

当時の主要な力役型労働に仲仕、土方、そして運輸に不可欠な先曳き(当時の運搬はおおむね人力による荷車によって行われており、坂道では一人では曳くことが困難な場合 、一時的に利用されたのが荷車の先で曳く労働者です)でした。

その先曳き労働者の需要がこのガード付近で発生したであろうことは想像に難くありません。

なお人力車夫の比重は年々低下していきます。

要するにこの形成期釜ヶ崎の居住者たちは、上記のように力役型または雑業に従事する世帯主とマッチ工場で働く子供を中心とする家族でしたが、

この人達の一部は長町から移動してきたわけであり、

また一部は近郊農村からの出稼ぎ形態での流入といったこと も考えられます。

この形成期を1910年頃で終了とするのは、釜ヶ崎における最初の慈恵事業である自彊館の開設が1911年であるからです。


慈恵事業が必要とされるほどに釜ヶ崎は困窮 した人達の集住地域として形成されたのです。

当初自彊館が対象としたのは単身の男性労働者でありました。

つまり1911年頃には一定の単身労働者(たいてい木賃宿に居 住していたのでしょう)の集中が見られたわけです。

自彊館は1908年の戊申詔書中の語句(『自彊不息』)から命名されたものですが 、
日露戦争後の不況への対策や
10年の大逆事件後の思想統制等を
その設立の背景として理解できます。

慈恵事業との位置付けで事業の根幹におかれたのは『衛生』、『能率』 、『教化』といったもので、事業の中心は共同宿泊でした。

先にも指摘したようにこの時点での対象者は単身労働者でしたが、けっして野宿を余儀なくされているような労働者ではありません。

いわば『世話甲斐のある人』を対象にしたもので、宿泊料金(木賃宿よりも低額でしたが)は前払いで、貯金が義務付けられていたのです。


確立期(1910〜1930年頃)

この時期は釜ヶ崎の「寄せ場」社会としての確立の時期であり、

おおむね戦間期と称 される、日本資本主義にとっては第一次大戦を契機として重工業化が進展した時期でし た。

この時期の主要な指標は言うまでもなくアンコと呼ばれる単身・男性の力役型労働者の大量の登場です。

アンコという名称は海の底で餌となる小魚をじっと待っている鮟鱇に似て、

路上(「寄り場」と言われた)に佇んで求人者がやってくるのを待っている日雇労働者の様子に由来すると言います。

差別的な視線ではありますが、木賃宿が釜ヶ崎名物とされ、マスコミにもいくどか取り上げられることになります。

ただ釜ヶ崎を木賃宿のみのスラムとするのには無理があります。

木賃宿と同様に長屋もこの町を形成する重要な要素です。

釜ヶ崎が強い関心でもって見られた、その強い導因となったのが『 米騒動』(1918年)でした。

世界大戦中の好景気により物価は上昇気味であったが、特に米価はその傾向が強く農家の売惜しみ・仲買人の買占め等が相乗効果を上げ、前年一升二十銭代であったものが18年の夏には五〇銭代に跳ね上がったのでした。

その年の8月11日、関西線近傍の広場に集まった木賃宿や長屋の主婦たちの決起(釜ヶ崎内の飯屋が高米価のため営業を 取り止めたことが直接のきっかけでした)は、大阪の『米騒動』勃発の端緒の一つでした 。

彼女等の動きは、同日夕方から天王寺公園の公会堂で開催された国民党主催の米価調節 市民大会のデモ隊(主催者がデモを予定していたわけではありませんが)の行動と連動するように、米穀商組合米栄会会長・天正商店への襲撃となりました。

幕末の都市騒擾( これも米価の高騰を原因としていました)が長町・難波村等での決起をその出発点とし ていたのと同様に二十世紀の『米騒動』は釜ヶ崎をその発火点としたのです。

全国的な『米騒動』の背景には第一次大戦以降の自由な世界市場、特に穀物市場の崩壊があり、いわゆる世界農業問題が深刻化していきます。

米穀法(21年)等は米価の安定を目指したものでしたが、その後農業保護の色彩を強め、経済的な自給自足体制( その政治的な表現が言うまでもなくあの『大東亜共栄圏』でした)を求めて中国への軍事的な拡張がもくろまれていきます。


この当時、すでに木賃宿は4−50軒に達しており(数の上では昭和期に入って60軒代になります)、確立期はほぼ横ばい状態で推移します。

居住者の数は17年の時点で2,600人でしたが、第一次大戦後には4,000人代になります。

この時期の特質として、たんに大阪の木賃宿の大半が釜ヶ崎に集中していただけでなく、それ以外にも幾つかの見逃せない点があります。

まず、木賃宿居住者の年齢構成から、子供のいる世帯持ちが多数を占める木賃宿と
青壮年層を中心とした単身労働者が多数を占める木賃宿とに分化が見られることが重要です。

いわば長屋的な雰囲気の木賃宿と下宿的な様相を呈する木賃宿との分化があった わけで、これは言うまでもなく木賃宿が長期間滞在するための居所としての役割を果た していたことを物語るものと言えましょう。

なお、1926年には4番目の宿屋営業取締規則が制定されます。

前記したように1886年制定のものを第一次として、大阪府はこの26年の規則まで4種の同規則を制定しています。

4種のうちで、この第4次規則は下記の点で際立っています。


最後に行政施策の展開にも触れておかねばなりません。

『米騒動』前後から大阪府・市によって都市社会事業と呼ばれる施策が開始されます 。

すなわち、大阪市にあっては1919年に共同宿泊所や労働紹介所が設置されはじめます。

いずれも市内数ケ所に開設されていますが、釜ヶ崎周辺でのそれらはいずれも今宮という名が冠せられています。

これらの開設当時、釜ヶ崎はなお今宮町に属しており、大阪市への編入(第二次市域拡張は1925年)前でしたが、その設置は釜ヶ崎の存在を抜きにしては考えられないでしょう。

より重要であるのは、これらの『都市社会事業』の展開がいかなる発想によって支え られていたかです。

1917年、『米騒動』の前年に出された『下級労働者取締り建議 』はたしかに行政当局者によるものではありませんが、
行政当局ときわめて関係の深い当時の「関係者」の考え(特にその日雇労働者観)が非常に明瞭に述べられています。

おそらく行政当局の考えと大きな懸隔があったとは言えないものでしょう。

具体的には次の四人が連名で『建議』を「当路各方面」に提出しています。

・八浜徳三郎(大阪職業紹介所主事) ・宇田徳正(大阪自彊館長) ・廣岡菊松 (大阪暁明館長) ・岩間繁吉(住吉署管内木賃宿組合長)

この『建議』では下級労働者を

「彼の定業なく路傍に立ちて職を求むるもの」で「自 暴自棄の結果毫も身邉を修ず、常に蓬頭にして襤褸を纏ひ極めて清潔の觀念に乏しく」 、
「其他群衆心理のため自制心を失ひ外界の刺戟衝動の奴隷となりて獣行禽爲を逞ふう 毫も廉恥を顧ざる」とした上で、
「風紀改善」のため、警察が鑑札交付・没収を通して 取り締まるべきであるという内容になっています。
さらに寄場(よりば)(「建議」で は「人力車夫の帳場の如き」としています)を予め設定しておき、その他の地では集合 せしめぬようにとも提言しています。

一見してわかるように、治安優先の差別的なアンコ管理策でしかありませんが、

この ような発想は、『米騒動』、第一次大戦後のいわゆる反動恐慌を経ることによって少な くとも行政レベルでは転換していきます。

そこでの基本的な日雇労働者観は以下のようなものでした。

当時の行政担当者による『日傭労働者問題』(1924年)には、道徳的断罪や教化的発想が色濃くみられるものの、

日雇労働者の基本的な問題である、ピンハネの存在は指 摘されており、

それへの対策もほとんど実効はなかったものの提起されていたことは銘 されねばなりません。

また大阪府の取り組みとしては方面委員制度の設置があります。

今日の民生委員の前身ですが、地域の有力者を中心に「民衆生活の現実的状態を詳査審明」することをもとに教化・救済を行おうとしたものです。

釜ヶ崎には今宮方面が19年に設置されています。

具体的な取り扱い事例については毎月実施された常務委員会の記録によるしかあり ませんが、釜ヶ崎関係の報告事例はいわゆる戸籍整理(戸籍がない、あるいは不明になった場合の照会事務等)や疾病に係わる救済等でした。

かなりの手間をかけて困窮者の縁故者を捜し出すといった事例も報告されています。

方面委員制度の基本理念はいわゆる社会連帯でありましたが、

それは「天皇制国家」への包摂を前提とするものであって、

戦前期のきわめて制限的な救済制度の背景をなしていた「親族相救」と密接に絡み合ったものでした。

なお、社会連帯は国家責任をあいまいにする(後年の救護法制定・実施を求める運動にもっとも熱心であったのはこの方 面委員たちでした)ものでしたが、

それはまた地域内での住民の相互監視体制に容易に転化していくべきものでもありました。

なお今宮方面での事例のすべてが現在明らかになっているわけではありませんが、

その救済対象者が高齢者にかたよりがちであったこと、

木賃宿居住者が対象となっても失業による貧困は取り上げられることはなかった点は看過できません。


戦時期(1930〜45年)

この時期は昭和恐慌をもって始まり、

日本の敗戦によって終わる、

釜ヶ崎にとっては戦時体制への動員・包摂の時期です。

昭和恐慌はなによりも失業者の増大、ルンペンプロレタリートの大量出現という形で社会問題化しました。

25年の国勢調査によれば大阪市内の野宿者数は777名でした が30年のそれは3倍の2,241名に急増していました。

このような情勢を背景に29年には今宮保護所(現在の大阪市立更生相談所のある場所)が開設されます。

不況の進行とともに釜ヶ崎の生活実態にも変化が見られるようになります。


釜ヶ崎における戦時体制への動員は労務報国会の設立(1943年)にはるかに先行 して30年代の半ばから開始されています。

この動員のあり方には三つの局面があった と考えられます。

すなわち一つは釜ヶ崎の地域自体を対象としたもので、今宮社会事業研究会の成立( 1935年)、今宮報徳者の結成等があります。

前者は社会事業関係者や警察官(行政的には釜ヶ崎の名称は消えたものの戦前期には釜ヶ崎派出所があり、地域の治安維持以外にも一定の役割を果たした模様です)によるもので
従来バラバラで行っていた社会事 業の効率化を図り、スラムの浄化・更生の推進を企図したものでした。

後者は二宮尊徳の精神の基に倹約・貯蓄を目指す運動であり、いずれも戦争体制を支えるものとして喧 伝されました。

次は日雇労働者自身が報国のために勤労貯金を推進するというもので
自彊館内での愛国貯金や戌申詔書を中心とした修養会の開催、あるいは勤労報国団・西成労働至誠団の結成(38年)があります。

最後に日雇労働者を熟練労働者(とうぜんにも常用労働者ということになりますが)に「更生」させる試みが企てられました。

これは大阪府によるもので、徴兵の進行で熟練工の不足を背景に失業者を対象にしたものでしたが、

釜ヶ崎においては四恩学園にその事業が委託(更生訓練所)され、

36年に18名の日雇労働者が「選抜」されて入所 ・訓練をうけています。

なおこのような「更生訓練」については当時もてはやされたドイツ・ナチの労働政策の影響があったと思われます。

これらの実態についてはなお不明の点が多く今後の研究に待たねばなりませんが、

実質的な効果(貯金の戦費への吸収、労働力の徹底利用、熟練工の養成等)はともかくも 、

従来差別され劣位にあるとされていた存在を国家目的遂行のための理念に一体化させ、

通常の価値序列を崩壊させることによってイデオロギー的な統合を計ろうとしたことの意味は大きいと言えるでしょう。