地図にない町の歴史-わが愛する釜ヶ崎

1974910日初版発行 著者 広瀬久也 発行所 日本基督教団出版局  装丁 明石 健
 昭和45年(1970年)9月、なんとか資金の都合がついたので、ボランティア活動の拠点を西成警察署に近い長屋の一軒屋に移し、聖書研究会、無料診療、子供たちのための無料学習教室などを、不十分ながら軌道に乗せることができた。このころから私にも釜ヶ崎のよさと悪さ、喜びと悲しみが肌で理解することができるようになり、より熱心な伝道活動を通じて住民のメンタル・ヘルスの回復をはかろうと考えたのである。しかし、古くから“釜ヶ崎は政治と宗教の不毛の地”といわれているように、一年たっても、二年たっても伝道は遅々としてすすまなかった。現在でももちろんそのとおりである。それは住民に信仰に入るほどの余裕も、ゆとりもない結果であることがわかったし、それに伴って私たちの仕事の一つも、住民の声なき声を汲み上げて、それを世論としていくことだと把握しはじめてきたのである。
 こうして昭和47年(1972年)5月、私は「わが愛する町・釜ヶ崎への提言」という釜ヶ崎改革私案を小冊子にまとめて発表し、黒田大阪府知事、大島大阪市長らに贈った。これは住民のニーズ(要望)、ウォンツ(欲求)、ホープス(希望)を、住民との会話のなかから汲み取って、それをベースとして構成したものである。しかし、それは釜ヶ崎の歴史、地形、現状といったものに精通していない人には、一読していただいても、十分に理解できるものではなかった。

 そこで、
この住民の声ともいえる改革私案をより深く理解し、認識していただくために、元西成労働福祉センターの職業紹介部長・郡昇作(こおりしようさく)氏の著書『日本の玄関.釜ヶ崎』と『釜ヶ崎無宿』のほか、旧今宮町が大阪市に吸収されて西成区となったときに出版された『今宮町志』、大阪市編纂の『西成区史』、各社新聞記事なども参考にして、『地図にない町の歴史-わが愛する釜ヶ崎』と題してまとめたのである。
(「はじめに」より)

目次

はじめに  chizuninai-00pdf
1 「釜ヶ崎」という地名はどうしてついたか  chizuninai-1001pdf
2 一世紀前までの釜ヶ崎はまだ、のどかな田園地帯であった chizuninai-2001pdf
3 日露戦争の前の年いわゆる釜ケ崎が誕生した   chizuninai-3001pdf
4 昭和初期の釜ヶ崎は貧困と疫病に支配された町だった  chizuninai-4001pdf
5 次々と起こった騒動で釜ヶ崎内はどう変化したか  chizuninai-5001pdf
6 釜ヶ崎の町名は変わったが住民の生活はどれほど変わったか  chizuninai-6001pdf
7 人間性回復のためのあいりん対策こそ急務  chizuninai-7001pdf
8 わが愛する町・釜ヶ崎への提言   chizuninai-8001pdf
1 あいりん地区を自由で、明るい労働者街とするために
2 愛憐イメージからの脱却こそ先決
3 釜ヶ崎の中心部に歩行者天国をつくろう
4 釜ヶ崎の「住」の問題はどう解決すべきか
5 医師、看護婦、ケースワーカーをふやして医療体制の充実を
6 日雇労働者の「職」の安定策はいかに推進していくべきか
7 住民の声を生かしてあいりん対策の充実を
8 結びにかえて  chizuninai-8002pdf
あとがき地図