正直な車夫

   千日前出火の際同所に楊弓店を出す嵐山きくは直向ひより火の出で

   火勢の烈しかりしまゝ狼狽を極め漸々単身を辛じて迯たる位ゐなれ

   ば衣類は元より家財の如きも持出す暇なくみす/\焼けて仕舞ひし

   を惜しき事に思ひ居りしに翌八日の午后六時頃に至り車夫と覚しき

   一人の男がきくの身を寄せて居る或家に尋来り私は西成郡難波村六

   百卅九番地の長家に住み車挽を働く京谷亀之助(廿六年)と云ふ者

   なるが前夜千日前を通行の節右の出火にて別に知るべき家も無く彼

   方は日外私の車に乗て下された事もありて能く知り居れば急場の難

   儀を救はんと家に飛込みたれど今や火の伝らんとする際にて誰も人

   影は見えず其時箪笥の眼に止りし故手早く抽斗を抜取り我家に持帰

   り置き今日茲にお出の事が分りしに付き其事を知さんが為参りしと

   の事にきくの喜び限りなく彼の抽斗の中には絹物の衣類十六点と頭

   の飾りなど価にして百三十円許りのものがあるなれば扨は焼けずし

   てありしかと早々人を以て受取り来りしに何一点の不足もあらざる

   のみか謝物を与ふれど是さへ受取らざりしとは賤しき業をする者に

   似合ざる潔白の心と云べし

   

   著者:朝日新聞
   表題:正直な車夫
   時期:18861010/明治19年10月10日
   初出:朝日新聞
   種別:人力車/火災