『住宅』155 通巻164号 1966510日発行 社団法人 日本住宅協会

スラム特集 -住宅の底辺

スラムの生成史    田代国次郎
はじめに
1>スラム街の生成史/1.古代社会のスラム/2.中世社会のスラム/3.近世社会とスラム
<2>近代スラム街の成立期/1.原始蓄積期のスラム/2.産業資本確立期のスラム/3.関東大震災までのスラム

はじめに

 今日のスラム問題には、二つの神話がかくされている。その一つは、近代経済学の殿堂から算出された“生産が増大すれば、スラム街は自然と消滅されるものである”という神話である。この物語をはじめて見聞された人々には、何の疑いもなく、この神話を信じこんでしまうであろう。ところが、この神話が所有しているプログラムは、現体制の弁護や礼賛の道具としてはまったく精巧なものであるが、よく考えて見ると、どこかで計算がちがっているのか知れないが、今世紀になってもスラム街消滅はいっこうに進んでいない。
 もう一つの神話は、かつて政治権力と結びついて、神通力のあった人道主義的スラム改良が、今日では、ほとんど零落して、期待のもてない神話となってしまっている。そこでこんにち問題としなければならないのは、旧来のそうしたスラム物語から脱皮して、科学的に掌握されたスラムの実態を、正しく世論に訴えていくことが今日的課題となっている。
 要するに、これからは、いままでに出されている答(神話)を証明するのではなく、新らしく答を出すためにスラム研究があり、そのためには、まず最初に歴史的なスラムの反省を試みる必要が生じてくるのである。
 以上において、私は、スラムの変遷を性格的な面に力点をおいて時代区分し、それがスラムの出現をもたらした社会的背景の諸問題を、実証とのファンドにたって批判し、まぎれもない歴史的、社会的な所産であることをアピールしたいと望んでいる。従って、このテーマに課せられた任務は重大であり、しかも重要である。しかし紙数の関係もあり、その意図が十分にもりこめるかどうか心配であるが、本誌においても改めて御紹介する機会があれば、よろこんでスラムの社会的アピールをしたいと考える。

1>スラム街の生成期

1.古代社会のスラム
 最初に問題となるのは、スラム街の生誕が歴史のどのへんから見られたであろうか、ということであろう。これまでの研究では、ややもすると、それが明治時代になってから出現したものだという素朴な見解が一般的にあったようであるが、私の考えでは、どうもそれが、都市の起源と深い関係があり、早くも古代都市においてスラム街の初発があったものと思われるのである。その理由として、都市には常に多くの人口と富が集中され、経済の発展と共に権力の抗争がみられ、生存競争が激しかったことは、今も昔もかわりないことである。しかも都市機能の特性から、職業の細分化、居住形態の階層化が行われ、都市構成上で零細な職業に従事する雑役夫、権力の座から転落した落人、身分的差別をうける賎民階級、都市の生存競争で敗北した貧民、浮浪者等々は、自然と都市の片隅に密集して、安い生活資料でも生活していける貧困下層地帯をつくって沈澱し、種々な貧困部落を形成することになる。これがいわゆる都市に於けるスラム街を発生させる主要なファクターとなっていた。
 ところで、都市の起源である大化改新以前の「上古都市」は、大体天皇一代ごとに転居する不確定都市であったから、われわれが取り扱わんとするスラム街もさほど顕著な存在ではなかったと思われる。それが600年代に形成される所謂「律令都制」による隋唐の模倣都市「難波宮」(645)あたりから本格的な都市形態が確立されるようになり、文献史的には、この「難波宮」(現大阪)あたりからスラム街の初発を見ることができる。すなわち『日本書記』(第 巻)には、みやこ(都市)をとりかこむ家々が「烟気不起於域中……」というような窮乏状態になり、釜どからは炊飯の煙さえ登らない人家が多くなり、とくに極貧者が市中の一区画に居住して炊飯すらできない飢餓状態に陥っていたことが推察され、まぎれもない極貧者のスラム化が進行していたものと思われるのである。
 例えば、聖徳太子が「難波の荒陵」に建立されたと伝えられる「四天王寺」の領地内には、物乞者や賎民などがスラム(部落)をつくっており、施米などには1365合弱の焚出しが必要であるほどのスラム住民が居住していた。また、同じような寺院領地内には、「賎院」という当寺社が使用する奴卑、餌取、賎民などを集団的に居住させておく下層住宅部落(スラム)があり、古代末期の大安寺(617)や薬師寺(679)、興福寺(710)などの領地内には、そうした形態のスラムが多くみられ、後のいわゆる「賎民型スラム」の初発がすでにあったものと考えられるのである。
2.中世社会のスラム
 新興階級として武士団が起り、戦乱と窮乏の激しい時代が中世であり、「前期封建社会」と呼んでいる。それは「二条河原ノ落書」(1335)にもあるように、「此頃都ニハヤル物、夜討強盗謀綸旨、召人早馬騒動、生頸還俗(売春婦)自由出家、俄(にわか)大名、迷者(路頭に迷う乞食・飢者・浮浪者)……」など下克上する成立者がちまたに続出し、泥棒や貧乏人で社会はいっぱいであった。
 とくにこの期の、荘園制崩壊過程では、多くの農民たちが荘園領主と幕府からの二重支配をうけており、過重な租税負担が強いられていた。それがとくに苛政誅求のきびしかったことや、農民の戦乱へのまきこみ、農地の荒廃、鎌倉以来の天災・飢餓、あるいは検地などの強行等があって、農民のあいだからは逃散や逃亡、一揆、一家離散、人身売買、人質、遊女、乞食、浮浪者、穢多、非人、農奴などが窮乏化のために土地を離れることになるのである。事実当時の鎌倉には「保ノ奉行人二浮浪者等ノ名簿ヲ上進セシメ、且ツ地方二遺リテ農二従事セシム」と『吾妻鏡』(1250)に記録されているように、彼等の多くは都市に流入してきていた。そのことは、裏をかえしてみれば、既に都市には、彼等を受け入れるスラム地帯が存在していたことをおしえるものであり、帰農策を講じなければ解決できない程になっていたことが知れるのである。
 それに、公家階級の没落は、これまでの鷹取、餌取などの賎業が縮少され、廃止されるなどに伴って、賎民階層の職業が無くなり、それに代って、鳥獣の屠殺、葬送、死屍諸物処理、掃除、腐物処理、皮革製造等々の仕事を生業とするようになる。たとえば、京都の賀茂河原などに形成されたスラムは、そうした賎業を主とする人々の居住部落であり、いわゆる「賎民型スラム」の形成があったものと思われる。また、寺社仏閣の多いところから京都清水寺周辺には、乞食・窮民、猿廻し、袖乞、浮浪者などが参詣者の喜捨を受け、物乞をしながら生活する所謂「坂ノ者」たちのスラムがあり、「物乞型スラム」を形成していたのであるが、自然と物乞貧民が増加して各地に分散され、新しいスラムをつくることになったのである。
 また神戸のように、玄海寺領内には、古くから古墳があり、そこに陵戸や雑戸などの賎民部落(スラム)があったが、中世になって諸国から窮民が流入して巨大なスラム街(下奥田町のスラム)になったところもあれば、大阪などのように、難波や天王子周辺には、不浄事や雑役をする賎民たちのスラムが出来ているなど、泥棒や貧乏人が多かった時代だけに、スラムの拡大もめざましいものがあった。
 ところで、中世のそうした窮乏状態に陥った民衆、農民、賎民などのスラム街形成は、戦国大名の苛政、無策からの所産であることは云うまでもないが、前期封建社会の特徴として、彼等はそうした貧困問題を自主的に「土一揆」とか「徳政一揆」などといったような民衆運動を通して解決していくのであるが、これこそ、中世社会を近世社会に内部から転換させていく大きなエネルギーであった。
3.近世社会とスラム
 戦乱の社会から何が生まれたかといえば、故郷を失った多くの乞食と、大小さまざまな近世都市を誕生させたことである。近世スラムはこの両者を母体として成立したものである。そこで、この両者の事情をすこし具体的に検討してみたいと思う。
 はじめに、近世都市城下町に形成されるスラム街から分析の手をくわえると、天正中期頃までに勃興した都市は下表の如くであるが、それを都市生態上の分類からすれば市場都市、政治都市、宿場都市、港湾都市、社寺都市などというように分けられるが、いずれにしても近世都市は、藩主の居城を中心とする城下町、門前町、宿場町などがその中核をなす町構成であった。それに居住形態が階層別であり、城郭の中心には武士階級の居住地があって、千石町、百石町、御徒士町、小姓町、弓ノ町、鉄砲町、鷹匠町、餌差町などが区別され、その最下級の鷹匠、餌差などが貧民層であった。
 次に町人階級の居住地があり、それも職人町は大概が街道の裏側に、商人町が表通りに居住するという慣例になっており、大工町、畳町、互町、研屋町、細工職町などが裏町に、表通りには米町、材木町、呉服町、油町、八百屋町、云馬町、旅籠町などがあって、裏町の細工人町や表通の場末にある旅籠町の安宿地帯がスラム街となっていた。とくに、はっきりしたスラム街は、その街はずれの一区画か、市域でも低湿地か河川岸ぞいに半ば計画的に形成されるものが多く、そこを「穢多町」、「非人町」、「乞食町」、「河原町」、「細工人町」、「裏町」などと呼んでいたが、また部落や小屋地、某村などとも称していたのである。
 性格的にも、穢多、非人というような身分制によるスラム街と、貧民、乞食、浮浪者というような、身分制とは関係ない一般窮民のスラム街もあれば、裏町の細工貧民というような下層労働者の「貧民型スラム」もあってかなり固定化した都市スラムの類型化を試みることが出来るであろう。
 社会的背景を観見すると、周知のように後期封建社会と云うのは、幕藩体制のことであり、幕府と藩の二重支配によって成立している社会である。それに、この社会体制下における身分制度は士、農、工、商部落という厳格な区別があり、各身分によって生活上の制限が規定されていて、封建体制維持をはかっていたのであった。そのなかで、まったく枠外的存在である穢多、非人などという賎民階層が、まずこの時代のスラム街の人口であった。東京の西浜方面のスラム、京都では田中方面のスラム、名古屋では奥田方面のスラム、神戸では宇治川、番町方面のスラムなどが、「賎民型スラム」として、すでにこの期に成立していたのである。
  次は、一般民衆の窮乏によるスラム化人口の増加である。その社会的背景には、幕府の農政に対する姿勢が「郷村の百姓共は死なぬ様に生きぬように合点致せ」という方針と、「百姓は只年貢用金を取立候ための者とのみ心得居候」という租税過重負担政策が背景にあって、それに耐えきれない農民は、地主層や本百姓のもとに吸収されて、水呑百姓、小作人層、無高などに低落していったのである。江戸中期以降は、それが「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」という徹底した収奪政策に転じたため、農民の階層分解はさらに激化して広汎な窮乏層を生みだすことになった。とくにそれが封建末期に近ずくにつれて商業資本が農村に進出して大規模に展開され、悪徳商人や地主層などの横行があって土地を喪失する農民が多数輩出され、農民階層の無産化は急激に生み出された。いうまでもなく、その対極には、富裕な地主層や富商、豪農などが形成されることとなった。その他に、江戸時代には天保年間にみられたような大飢饅が約21回で、凶作飢饉も記録に残るものだけでも約130回あり、東北農村地帯の窮状は餓死者を多数だし他国へ逃亡、離散するものの簇出があった。
 こうした政治的、社会的諸矛盾や、自然的原因からスラムに流入する人口が増加するわけであるが、そうした窮乏層が都市に流入してくる有様には種々のタイプがあった。たとえば重税や高利にさいなまれ、誅求がきびしくなると脱落や出奔するもの、あるいは未進から離散離脱するもの、出稼や各種奉公人と称して離村するもの、借金や冷害、凶作等々で一家離散するものなど、土地を離れる方法や都市に集中するケースなどまちまちであった。それに、江戸時代も中頃になると、生産力の上昇に伴って農村人ロも慢性的過剰になっていたから、後半期の窮乏時代にはいって、それを少しでも緩和するために人為的人口制限が行われ、堕胎、間引がさかんに流行し、また他方では、棄児や人身売買の増加がみられ、都市では遊女の増加が著しくなった。
 当時の記録では、その有様を「百姓手前より出す物、年々多くなりゆく故に、百姓は困窮年々つのり、末進つもりつもりて、ついに家絶、田地荒るれば、某田地の年貢を村中へ負する故に、余の百姓も又堪がたきやうになり、或は困窮にたへかねては、農業をすてて、江戸、大阪、城下城下などへ移りて、商人となる者も次第に多く、子供多ければ、一人はせんかたなく百姓を立さすれども、残りはおおく町人の方へ奉公に出して、ついに商人になりなどする程に、いづれの村にても、百姓の竈は段々にすくなくなりて、田地荒れ郷中次第に衰微す…」という世情の状態になった。このように、農民としての生活が不可能になると、彼等はよかれあしかれ都市に流入してきて、町人の下層民となるのであった。
 しかし、この時代は、そうした離散した窮乏層が無制限に都市に流動できたわけではなく、農民を土地に縛りつける規定を諸藩に設けさせ、五人組制度などは末端の離村防止機関であったが、幕府に於ても封建体制維持のために「人返し令」などを発布して強硬にそれを実行したのであった。ところが、江戸時代も中期以降になると、農村内部の相対的過剰人口の制限にも限度があり、どうしても村を出て、何らから生活手段を見つけなければ生活できなくなった。とくに、わが国のように農耕地が狭くて、次三男以下多数の子女の養育は無理であったから、所詮そうした農民を土地に縛りつけておくことは不可能であった。従って、先のような法規や取締も反歴史的なものであって、「法度を立て、百姓の兄弟子供などを外へ出す事をきびしく禁せられる国々もあれども、それは源を濁して流れの末を清くせんとするが如くなる物なる故に、其禁制もとかくに立がたく云々」と云われるようになり、単作地帯で農暇期の長い東北、北陸、北関東や農耕地の少い地方、あるいは経済発展の遅れている地方などでは、早くから出稼、季節労働者、年季奉公町家、商家、職人奉公などが一般化し、これを自然的黙認乃至公認というかたちになっていたのである。つまり享保頃の江戸城下町では「農民も出替りの奉公人に来りて、直に留まりて、日雇を取、棒手を振り、直に御城下の民となる者、日を追い年を追て夥しく、今己に(江戸)広さ五里に余り、屋家の稠密いぶばかりなし」という状況を呈しており、それが天明頃になると「近来百姓共農業の本意を捨、……見様見真似に各江戸へ出したがり、江戸の風俗を見ては田俗を疎み候もの多く成行、尼の本業すたれ、おのつから粒米不足に成申候。自由自在に江戸へ出居候事になり候得者、江戸は諸国の掃溜と云伝へ、江戸表次等に人増繁昌を添候」という事態となった。大阪の場合も江戸城下町と同じように「大阪は繁花の湊にて諸国より入り船多く、それゆへ人の入込も甚多し」という状態であり、その他の諸国においても城下町や宿場町は、そうした他所出生者が多く、近世都市の膨脹があった。とりわけ大都市に流れこむ者の若干を除けば、そこには何らかの口糊すべき生業があった。たとえば、日傭座があり口人傭業を職業とする親方もおり、常時なんらかの日雇人足や零細職人等の需要もあった。ところが、まだ近代的な諸産業が顕著に発達していなかった時代であったから、都市に流入してきた全ての人々が「町人」と化し、生業につけたとは思われない。従ってその大半は、その日暮しの日雇、人足、雑役人、細工人手間人、無頼の従になるか、あるいは乞食、無宿の浮浪者、非人、穢多などというような最下層に低落してしまい、それ等が都市のスラム街人口となっていくのであった。
 ところが、この他、貧困層の増加には、江戸時代後期のいわゆる幕府、諸藩の財政的窮迫からくる下級武士や下層町人、職人等の窮乏化があり、高利貸から借金をしなければ生活が出来なくなるが、とくに下級武士の内職は一般化し、無高のプロレタリァートに転落するものが多数あらわれた。それに都市城下町の発展に伴なって、借家、借地、借店人、裏町人等の居住する都市下層地帯が拡大されていき、市外部にはスラム地区が形成されるようになった。

2>近代スラムの成立期

1 源始蓄積期のスラム
 近代以前のスラムというのは、概していうなれば、封建体制下のなかで最も経済力のない、しかも宿命的な賎民階級の集団にみられたもので、身分的にも、職業的にも差別された人々の居住地としてスラム街があった。もう一つは、封建体制の維持発展のために仕組まれた苛政による民衆の窮乏という、社会的、政治的諸矛盾の所産としてのスラム街であったと云える。ところが、そうした古いスラム街が、近世社会の成立過程において、新しい近世スラムに変貌してゆくわけであるが、その場合、もっとも注意をはらう必要があるのは、過去の社会機構が、どのような消滅事情にあったかということであり、それによって新しいスラムの評価がまったく異ったものになるのであろう。つまり身分、職業、人種、私有財産、経済的地位等々の世襲制が、近代社会の変革過程でどのように終止符がうたれ、完全に過去の遺物になったかということである。
 歴史は冷酷と思われるほど科学的因果関係によって律せられている。すなわち「近代」という薄っぺらな幕は日本では明治維新によって開かれるが、はたしてそこで遍去の支配体制が完全な廃物となり、終止符がうたれたわけではなく、国民の大多数を占める民衆の側では否定的ですらある。その証拠に、巨額の資本を手にしていた藩主や上級武士たちは、近代社会でもそのまま株主や企業主、資本家となっており、また寄生地主層や富農、豪商などは地方の権力者となり、中央集権と結びついて従来の経済的社会的地位を踏襲し、華族や富裕士族などの存在も身分制度が廃止されたにもかかわらず特権を認められていた。
 なんのことはない、近代という衣を着用できたのは、利潤獲得レースを出場まちしていた彼等であり、自由放任(laisser faire)という経済的自由を意のままにできたのは、云わずと知れた封建体制下における旧支配階層達であった。つまり、過去の身分制による貧民層や、私有財産を持ちあわせていなかった下層階級にとっては本質的な変革はなく、ただ「封建的な主従関係」をもとにしていた封建支配者から、こんどは経済的力関係に因る「資本主義的な主従関係」をもとにした新しい産業資本家による支配というように、上層のパートナーが交替されたにすぎなかったのである。さように、近代史の変革の中に実質的な階級性の変化を認める事ができないため、われわれは近代のスラムを考える場合においても近代のスラムを近代以前のスラムと今日あるスラムとの関係の中で正しく把握するように努めなければならない。
 実質的には社会の上部構造の入れ替えに終った近代社会においても、近代スラムが成立するためには、封建体制下では働らかなかった新しい種々の条件が加わっている。それは、封建体制の支配を倒し、商品経済を基軸とした新しい経済体制による近代市民階層(賃金労働者)の成立を実現させた運動エネルギーを構成するファクターそのものである。スラム問題としてこの場合、最初に問題としなければならないことは、変革期のスラムであり、近代スラムへの移行をおし進めた背景を、われわれは一般に源始蓄積過程と呼んでいる。つまり一方の極では、農民が土地から切り離されて賃金労働者となり、地方の極では、土地や巨大な資本を集積して資本家となり、資本主義杜会の基本的関係をつくりだす過程を意味するものである。しかし、ことわっておかなければならないことは、先にも述べたように、封建体制の解体が安全でない日本では、明治10年代に早くも源始蓄積運動による階層分解が起り、近代的窮乏層がそのうえに上積されることになったのである。
 それが明治20年代からはじまる産業革命の進行に伴って、階層分解は更に激化し、地方で生活の基盤を失った農民たちは、中央の都市に流入してくるのが通例であったが、彼等の多くは文盲に近い教育程度しかなく、近代産業に適応するだけの技術はもちあわせてはいなく、また、産業の発達も未熟であったから、彼等を吸収するだけの企業設備がととのっていなかった。それに、よしんば就職できたとしても賃金が極めて低廉であって、とうてい一家の生計を支えることは不可能であった。かくして彼等も、都市で最も生活資糧の低廉なスラム地帯に居住して、子女は、8.9才頃より工場の年季奉公に出され、妻は家で内職、夫は人力車夫か日雇人夫にその日暮しをするというのが一般的生活となった。従って、近代スラムも、最初から近代産業工場の周辺に、いわゆる近代賃金労働者を主体とする貯水地として近代になって新しく建設されたものではなく、前近代から続いて来たスラムに近代に入って経済構造の変化に伴って産業予備軍が流入のために肥大し近代スラムを形成したものであり、そこで収容できなくなると、職工のために仮設住宅が工場周辺に立てられ、そこがいつとはなしに都市スラム地区と化していくという経過をたどったのである。それに、大工場が土地取得や立地条件の関係から都市の外郭地帯に建設されることが多く、かつての城下町の外郭にあったスラム地帯と接近しており、発生の契機こそ異るが、後にはそこが融合したり、移動したりしていわゆる近代スラム街に成長していったものと考えられる。こうした事情から、明治10年代のスラムというのは、これまであった占いスラムの膨脹であり、明治20年代にはいって、はじめて近世スラムの形成があったものとみるほうが妥当であろう。いまそれを立証するために、古いスラムから源始蓄積期のスラム、さらに初期産業革命期までに発生したスラムを年次別に、しかも発生要因と地名を抽出して表にまとめてみた。
 
2.産業資本確立期のスラム
 幼いころより住みなれた土地、わが家、友達、遊びまわった山や川から、このスラムの居住者達はいったい誰れによって追いだされてきたのであろうか。それにいまは、見知らぬ町で、ながい時間はげしい労働に従い、夜はみじめな、不健康な、豚小屋よりもひどい堀立小屋に帰っていく身の上になってしまった。
 それに都会でも、ほとんど一晩のうちに、大工場がこれまでさまれきっていた町はずれに建設され、なが年にわたって喰いつないできた家内工業者たちは、大量の機械製品に対抗しきれなく、ついに飢餓的賃金で工場に雇われるということになるのである。こうして都市には、貧困の集積が日増しに激しさを加えていくのであるが、これこそ都市に近代スラムを形成させるメカニズムであった。
 既に明治10年代で、多くの人々は故郷と土地、生産手段から切り離され、20年代で都市の下層地帯に定着することになるのであるが、そこが資本主義の不可避的な経済法則、景気変動、なかでも“恐慌”によって、職を奪われ、低賃銀を強いられ、その生活は沈澱化してゆき、ついにその生命を維持するため、見栄や外聞に気をつけないでも生きられるよう、人々は集団をつくり、そしてスラム街をつくっていくのである。
 周知のように、産業資本主義の確立と端初的独占資本主義に転化する明治29年からは国内市場の底の浅さを国外への進出に肩代りさせるため、帝国主義と軍国主義とが結合し、一方では軍備増強のための増税、重税が課せられるとともに、他方では労働力の極端な搾取によって大衆を窮乏化生活におしやるのであるが、なかでも、金本位制を採用した明治30年には、最初の工業過剰生産恐慌が起り、金融逼迫、株価暴落・労働条件の劣悪化、深夜業の強制と餓死的低賃金、米価騰貴、一般諸物価高騰などによって国民生活は困難を極めた。それに、明治29年から30年にかけて各地方に大風水害などの天災が頻発し、凶作が続いたので、農民も都会人も等しく窮乏し、大量的飢餓状況を現出することになったのである。
 ここでよく引用されるのが横山源之助の名著『日本之下層社会』(明治32年刊)であるが、信頼のおける窮乏報告書は他にも多い。たとえば、明治318月から11月までに『官報』に連載される「細民生計ノ状況」であり、30年の経済恐慌によって各県がどの程度窮乏化しているかを内務大臣令によって報告させたものである。これは官僚的報告書ではあるが、23県から報告された窮乏状況であり、まとまった貴重な資料といえる。新聞でも「物価の騰貴と細民」(『都新聞』明治301027日より)、「物価の騰貴と薄給者の生活」(『時事新報』明治301117日より)、「細民窟瞥見」(『国民新聞』明治30106日より)、「昨今の貧民窟」(『報知新聞』明治301113日より)、「大阪貧街の現状」(『毎日新聞』明治30813日より)等々が、いずれも連載となって各紙にのった。単発もので、この種の記事を当時の新聞から見い出すにはまったく難行を知らない。雑誌でも、横山源之助の『日本之下層社会』の草稿となるものが、314月から雑誌『天地人』に「東京貧状態一斑」と題されて連載されており、『労働世界』(明治315)では「日本の貧民問題]、『日本経済雑誌』(明治314月日)では「貧民の叫声」、『女学雑誌』(明治302)では「東京下等社会の一瞥」等々があり、とくに304月生江孝之らによって創刊される『社会雑誌』や、同じ社会学系統の雑誌で、明治32年加藤弘之らの発起で発刊する『社会』などでは、詳細な窮状報告が毎号にわたって掲載されている。
 以上のような新聞、雑誌、調査報告、薯雷等々の全国的な窮乏報告は、経済恐慌による貧民、飢民の存在を社会的にアピールしたばかりではなく、それがまぎれもない社会的、経済的所産であることを広く世間に認識させることに役立ったものである。それに、明治30年末の大阪府下警察署が実施した貧困調査では、次表の如くであり、いずれも飢餓寸前の飢えたスラム民階層が7,2703万余人が存在していたのであるが、その貧困に陥った原因をみると、怠惰その他自から招いたという貧困はあまり目立たなく、自力では解決不可能な社会的、経済的原因によって窮民層に転落したものが上位をしめており、統計上からもはっきりと貧困化の原因が個人の責任から社会的責任へという変質がみとめられるようになったのである。
 こうした貧困事象の近代化は、地方の貧民においても同様であり、枚挙にいとまがない程の資料でそれを、Z証していくのであった。なかでも、統計技術の進んど比較的信憑性のおける貧困調査が慈賀県下にあり30年次の貧民16,555人についての貧困原因調査が報告されている。
 それによると、貧困に陥った原因は、まず「家業を勉むも家族多きより来たるもの」という、所謂米及物価騰貴の折から、いくら働いても生計を維持することが困難であるという事態であり、一般的にも労賃低廉と物価騰貴のアンバランスから市民生活を困窮の谷間に落しやったことは云うまでもない。第二に多い「前代以来貧困なるもの」は、代々の小作農民貧農民、無産階級のことであり、経済恐慌・物価騰貴などには抵抗力がまったく無く、たちまち貧困に陥ってしまうのである。この他、地方貧民の状況を概略ふれると、長野県下では一部の大米業者の米の買い占めによる米価騰貴のため、貧民2,000余人が米搗用の水車場や警察署、豪商のところに押寄せ、米騒動を起しているし、富山県下でも、貧民百余人が群をなして米商宅に押寄せて騒擾を起しており、新潟県下でも、貧農小作が900余名が糊口の策が尽きたので救助を請う騒助があり、婦女数百名が米騒動を起している。福島県下でも小作人150余人が小作米減額の運動を起し、湯本村のように窮民が300余人が騒擾を越し、山形県下などのように町人1,000余人が貧民暴動を起しており、ここでも枚挙にいとまがないほどの貧民騒動が、物動騰貴などのために全国的規模で広まっていったのである。
 近代スラムの成立期に、全国的にみられたこれらのスラム街への転落可能性人口は、数字のみが明確につかめる県だけを抽出してみると次表の如くになる。
 だが、ことわっておかなければならないことは、ここに抽出されなかった諸県が、すべて窮民数がいないか又は、窮乏していないと考えるのは誤りで、寧ろ把握できないほどの多数大衆の窮乏者が存在していたと見る方が正しい。なんとなれば、大分県下のように、餓死者を7名も出しておきながら、その少しましな、かろうじて飢えしのいでいる窮民者数については、その概数すら明示していない。たとえば、先の「細民生計ノ状況」では、抽象的に、咋今の「物価の騰貴に伴い、各事業漸次退縮し、其影響は職工、日雇稼に及ぼし、此等細民及小作農民等は益々窮困に追り、衣類其他の物品を質に入転売し、常に外国米に雑穀を混用し……其最も甚しきものは雑炊を常食の一飯を欠き、町村又は親族隣保の救助を云々」と報告され、かろうじて餓死をまぬかれている階層が職工、日稼、小作農、細民(小商人)までに範囲を広めていった。また、この表に登場してこなかった県で、たとえば栃木県のように、「諸物価非常に昂騰し一般の細民窮困の度其極に達し、就中、市街地及山間の村落に於ける細民の如きは、日雇若しくは職工の業を以て生計を立つる者なるに、其賃金は物価の騰貴に随伴せず、随て其金能く彼等の食料を購うに足らず、僅に食料として南京米を専用し、若くは南京米或は小割米に甘藷、疏菜其他豆腐糠等を混用して漸く飢餓を凌ぎつつあり、此儘こして進行せば或は路頭に餓死する者生ずるか云々」と報告される窮状であった。
 かくして、資本主義形成過程の源始蓄積期から産業革命期(産業資本確立過程)にかけては、地方農村の窮乏化から都市へ流動する向都人口が多く、しかもそのほとんどが困窮者であり、途中、行旅病人となり、他地で死亡する窮民も増加するようになってきた。政党内閣成立(明治316)後まもなく、内務大臣となった板垣退助は、地方長官からの強い改正要求があった『恤救規則』(明治7128日太政官達162)や『行旅死亡人取扱規則』(明沿15930日太政官布告第49)などの改正に手をかけるのは、そうした社会事情の変革があったからにほかならなかった。
 いわゆる六大都市に近代スラムが形成され、その他の地方都市においてもスラム街が発生するのは、この時期であり、神戸市では橘通りや小湊通りなどにも新らしくスラム地帯が拡大され、横浜市などでも浅間町にスラム街が誕生しだすのである。又、地方都市新潟市などにも仲仕などのスラムがはっきりとあらわれた。そうしたなかで、近代スラムが最もよく発達し、形成過程においても比較的参考になるモデル地区は、東京か大阪になるであろうと思われる。そこで、大阪については、先に「大阪のスラム人口」()として、明治30年末の大阪府下警察署が調査した窮民スラム人ロを掲げておいたので、今度は、警視庁が東京府下の各警察署に命じて、やはり明治30年末現在で調査した府下スラム人口を掲載することにしよう。
 既にスラム街に転落してしまった紙屑拾いや、下駄直し、硝子毀買などのスラム人口を明示するためにだけこの統計が存在するのではない。寧ろこれから都市のスラム街に落ち込んでいこうとしている、いわゆる農家経済の窮乏から向郁している「木賃宿々泊人員」にこそわれわれは注目してみる必要がある。すなわち彼等の多くは地方貧農の出身者であり、読み書きすら十分に出来ない教育程度の低い産業予備軍であるため、近代産業工場に就労するということはなく、ほとんどが、他の人々がいやがる危険で、しかも労働条件の劣悪な下層労働者として都市の木賃宿街に投宿するのである。またそうした日雇、トビ職、土方などという仕事の性質上、転々と住居地をかえ場所を移動して生活しなければならないのが宿命であって、それに過激な労働と低賃金のために彼等が貯蓄して独立し、都市の産業地帯に定着し一家をかまえるということはなかなか困難であった。救いがきたスラムの泥沼にたどりつくまでには種々の事情があろうが、直行してそうしたスラム住民に沈澱するというより、多くは最初の居住地を木賃宿街にもとめ、自立の見通しが立たないままに脱落し、スラム街にたどりつくようになるのである。そうした意味から、30年末現在の「木賃宿々泊人員」251,944人という数字は、近代スラムの成立過程でどうしても無視できない窮民人口である。それに、警視庁の同じ貧民調査には、30年末現在で東京府下の車夫数を報告しているが、周知のようにスラム住民のうちには車夫が非常に多く、近代スラムの担い手でもあるので、その数字を記しておこう。それによると府下の車夫数は43,183人であり、内訳は、所有車挽11,265人、借車挽29,738人、挽子2,080人という状況であった。
 「ドヤ型スラム」が日本では古くからスラムの一形態として考えられてきているが、近代スラムというカテゴリーの中でそれをとらえていくとするならば、それわやはり明治以降としなければならないであろう。江戸時代では「安宿」ないし「ぐれ宿」、城下町の場末にある旅籠というような、下層町人や商人が一夜の宿所として利用していたものが、明治以降のいわゆる資本制社会になってからは、地方から仕事を求めて流出してくる出稼貧民や離村貧民層の増加に伴って、そこが一夜の旅宿という性格は変質された。これはまさに産業予備軍の居住宿舎という長期止宿者の溜り場と化し、簡易な居住宅というような性格を濃くするようになった。明治20年までは、その過渡期であり、府下の各地に「ドヤ型スラム」が無制限林立するようになるが、治安上や風紀上の諸問題がそこに集中的発生をみるようになって、警視庁はついて、明治2010月警察令第16号をもって「宿屋営業取締規則」を制定して、これまで乱立していた木賃宿を一定の地区に限定して営業を許可することにした。
 木賃宿営業地指定前の明治20年末現在で調査された東京府管内の木賃宿分布状況を見ると左表の如くであり、軒数からみれば神田区内が最も多く浅草、芝、下谷の各区が之に次ぎ、日本橋や京橋、本郷区などにも多いが、郡部においても木賃宿数が多数みられたことにも注目されよう。それに山の手の赤坂区、麻布区には比較的すくなく、浅草などの下町には多い。この時代には、本所、深川などが工業地帯としてまだ未発達のため、木賃宿数もたいして多くないことも特色の一つであろう。
 ところが、明治20年に警察令第16号に続いて公布した警察令19号では木賃宿の営業地を限定し、3年間の期限を以て移転しなければならなくなったから、明治23年までには移転困難であったり、廃業するなどして一時減少して、23年には最低の149軒になった。この間、日本の紡績を中心とする軽工業は急激に発達し、経済的に海外へ進出する要請が高まって来たが、既に植民地として分割された東南アジァに強引に割り込むため武力介入を図り日清戦争が開始されることになった。そのため経済は活況し産業活動は活発化していった。そのため、再び多勢の労働力が必要となったが、依然農村からの流出労働力と、都市の産業予備軍が多大に存在したため、労働力は安く買われ労働者の生活は低い水準に止めおかれた。そのため、下層労働者のための貯水池として木害宿が復興してくるのである。
 近代スラムが成立する明治30年代では、そうした木賃宿の指定地が、芝区白金猿町、赤坂区青山五丁目、本郷区駒込富士前、下谷区初音町、浅草区浅草町、本所区花町、小梅業平町、深川区富川町、西霊岸町などにあったが、そこの指定地がいずれも都市スラム地帯か細民地区であったことは注目されよう。それにドヤ街の変遷過程をみると次表の如くになるが、たとえば、芝区白金猿町のように、これまで居住していた労務者が定着して完全なスラム街を形成するようになったり、本所、深川、浅草などのように、下層労働者たちが市中心部では高家賃のために生活困難となり、下町に工場地帯が発達するのと相まって流れ込み、急激にドヤ街も膨脹するようになり、そこが密集していわゆる「ドヤ型スラム」を形成するという状況であった。
 また一般のスラム街においても、「特価騰貴の影響として府下15区の裏家に住居せる細民は日々の生活に困難し3度の食事をさへ減ずる程なれば、到底満足に家賃を納むる事能わず、滞納をかさねて終に差配人より放遂さるるの不幸を見るも多き折柄、新綱町に於ける家賃は棟割長家にて1ヵ月40銭より80銭位之さへ日悪けの法を設けあるを以て彼等の為めには都合よく随て漸次同所に集まり来る有様となれり」(「昨日の貧民窟」より)という状況が各地のスラム街でも見られたのである。また当時のスラムには、近代産業の貧金労働者や職工、日雇人足、賃仕事、人力車夫、土車挽き、職人、土方、左官、掃除人などという下層労働者と、縁日商人、古物行商、人相見、芸人商、紙漉、屑商、下駄直し、野菜売、蛤魚、草継づくり等々の下層商人と、産業予備軍の死霊に転落した浮浪者、乞食、無職、盲人等々の被救恤的窮民が混合して住居していたのである。しかし、これも時代が進むにつれてスラム内部にも変化がおこり、次第に同類階層、類似の生業者(たとえば「バタヤ型スラム」、「同和型スラム」、「ドヤ型スラム」など)が集団化するようになり、いわゆる近代スラムの類型化がはっきりと生まれてくることになるのである。
 ところで明治34年には、日本は世界恐慌とむすびつく最初の経済恐慌に見舞われ、さらに40年には日露戦勝により反動恐慌がおこり、それが世界経済恐慌の完全なる一環として展開されるようになるのであるが、この間をぬってわが国の産業革命は非常なはやさで完了していくのである。それと同時に、社会構造のなかには、はっきりと賃金労働者と資本家という二大階級が分化されるようになったのである。とくに一方の階層では、その多くが国家権力によって庇護されつつ富の蓄積をはかるのに対し雇われる階層では、劣悪な労働条件と激しい労働強化の奉仕を請いられるという状態であった。
 かくして貧富の懸隔はますます拡大し、とくに労働者階級の窮迫問題が大きな社会問題になってきた。おりから弾圧を避けてアメリカで学んでいた片山潜や高野房太郎等が帰国するに及んで労働運動が一層活発化し、ストライキや労働争議が職工のあいだからもりあがり、社会主義思想や反戦運動なども高揚してきたのである。幸徳秋水等がその『平民新聞』に「東京の木賃宿」(明治37)などを連載して、下層労働者の実態を暴露したのもこの時期であったが、それらの運動はいつも国家権力の迫害をうけていた。すなおち明治41年には「警察犯処罰令」が公布され、労働運動などに適用して徹底的に取締ったのである。また「精神作興に関する詔書」を宣布したり、「新聞紙法」(明治42)などを発令して思想、言論、政談などの取締りを強化していき、所謂「冬の時代」といわれるようになったのである。
 明治末期から大正初期にかけて、内務省が中心になって行なう一連の『細民調査』(スラム調査)は、明治末期になって一そう激しさを増してきた社会的騒擾が、いつ何時暴発し、社会体制の変革いわゆる現支配体制の転覆をはかる力となるかわからないという危機感が背景となって実施されたものであった。第1回の『細民調査』(明治448月~11)では、東京府下の下谷、浅草両区内の特殊(スラム)小学校生徒の家庭を対象として調査したものであるが、下谷区では5ヵ町のスラム、浅草区では2ヵ町のスラムをしらべたもので合計3,047世帯10,548人をスラム住民と数えたのである。第2回の『細民調査』(明治457月~大正元年10)では、「所謂細民部落ニ居住スル者、主トシテ雑業又ハ車力其他下級労働二従事スル者」などを対象としたスラム調査であり、東京においては本所区の松倉町、中ノ郷横川町、若宮町、横川町、長岡町、大平町、柳島梅森町、柳島横川町、徳右衛門町、菊川町の10ヵ町のスラム地区、深川区では、猿江裏衷町、本村町、石島町、千田町の4ヵ町のスラム地区、大阪市では、難波警察署所管内の難波、日本橋、今宮、木津、西浜などの5ヵ町のスラム地区を調査したものである。
 かくして内務省が行ったこれらのスラム実態調査によって、もはやスラム問題はかくしきれない存在となってしまった。それにこの調査によって、スラム居住者全体の3分の1が代々定着している下層沈澱層であり、残りの3分の2が地方出生者で他府県から職を求めて向都してきた人口であるが、そのうちでも3分の1は上京後の3年以内にスラム街に流入し、また5分の2は少くとも10年以上たってから迂回的にスラム地区に流入してくるのであるということが判明した。従って、スラム人口はその特徴の一つとして中高年令層がもっとも多く、先の調査でも35才から45才までがもっとも多く、青年と高令者は少なく、反面、子供が非常に多いということが特色となっている。これは賃労働者化し得ない厖大な貧民層が産業予備軍として向都したためであるが、若い時は日雇、土方、車夫等の単純筋肉労働に従事していたが、年をとるにしたがって収入が減少し、また都市の「搾取の場」の餌食になって次第に転落しやがてスラムにたどりつくようになるのである。
 国家権力や内務省の治安という観点からの“ムチ”だけでは、これら明治末期までにふくれあがった社会構造的矛盾の所産であるスラムは解消することは不可能であった。そこで何等かの行政手段をとらざるを得なくなったのであるが、一部の識者や進歩的富者が行っていた人道主義的スラム改良を助長させてやることで、彼等はその責任をスラム居住者に転嫁させていくのであった。
3.関東大震災までのスラム
 大正38月、第一次大戦が勃発すると、日本経済は未曽有の大戦景気となり独占資本化の傾向は強まり、帝国主義の飛躍的発展を捉すことになるのであった。しかしその反面には、米価を中心とする諸物価騰貴があり、それに対して賃金はこれに追いつかず、実質賃金は急激に低下していき、大衆の生活は極度に困窮化していくようになる。つまりその経済的矛盾は、民衆の心掛とか節勤、辛抱などという気安めの言葉では解決のつかない、いわゆる個人の力ではどうすることも出来ない事態になってきていた。当時「死線を越えて」宗教的人道的セツルメント運動の先駆をなし、スラム改良に若い情熱をそそぐ賀川豊彦は、その名著『貧民心理の研究』(大正14年刊)ではっきりと、多数スラム貧民が発生するのは政治的には、多額の重税と軍事費であることを指摘し、社会的には経済の異状な発達に伴う諸物価の騰貴をあげ、さらに貧民の群集心理について、今日の社会では群集行動を起すのは貧民であるとして「日本もゆくゆくはこれらの人々が大騒ぎをやる時代がくる」であろうと、早くも後年の米騒動を予言することになったのである。
 ロシア革命の勃発と労働条件の悪化から、再び労働運動や社会主義思想が発展し激化してくるのは大正6年頃からであるが、大戦景気による企業熱もなお一層上昇して、本格的な金融独占資本主義への成熟をはやめていくのである。ところが市民生活は、河上肇が大阪朝日新聞紙上に『貧乏物語』(大正6年刊)として連載するように、貧困問題はいまや一般庶民の切実な生活問題となり、数十万の読者から絶賛を博することになるが、それは、とりもなおさず国民の数十万人、ないし大多数が貧乏のどん底にあったことを物語るものであった。当時、東京の三大貧民窟の一つである下谷万年町の万年小学校長阪本竜之助は、そこのスラム住民の生活を代弁して「……心掛が良くないから生活が成立たないものであるということを往々聞くが、勿論心掛の良くないが為に、生活上困難している者もあるけれども、それは寧ろ少ない方で、実際細民の大多数という者は、本気になって働いても相当な生活費が得られないという状態にあるという方が適当であると思う云々と述べられており、生活が困難なのは「心掛」だけではなく、彼等の生活を支えるだけの収入が乏しいのだと断言している。
 ところが一方では、大戦にわく好景気で、地主や小金をもつものが株式相場に手を出し、また小資本の親方や職工も一夜にして成金になるという世相であったから、少しぐらいの物価騰貴には目をつむっていたのである。しかし大正7年ごろから、大戦景気の底にひそむ矛盾が表面にあらわれだした。すなわち農村人口が都市の産業が活況を呈した為さかんに流出し、そのため農産物は滅少する反面、都市での米類の需要は激増した。これに対する政府の施策はまったく無策に等しく、需要と供給との不釣合から必然的に投機商人と大地主の買い占め、売り惜しみを引き起した。それに7月のシベリア出兵決定の報が伝わるとさらに米価は奔騰して、ついに米騒動がはじまるのである。それは、722日の富山県下新川郡魚津町の魚民の主婦たちの集会にはじまり、917日福岡県嘉穂郡明治炭坑の暴動で一応おさまるまで、すべての大都市、ほとんどすべての中都市、全国いたるところの農村、魚村、炭坑地帯など、1338県、および500ヵ所以上に飢えた民衆の大小の暴動、あるいは暴動直前の不穏な状態を出現した。それとならんで工業労働者の争議もまた、つなみのように高まり、警察力は一時ほとんどまひし、全国で70市町村に軍隊が出動して、ようやくこれを鎮圧するという有様であった。
 この米騒動に参加した階層は、いわゆる日本の下層社会の構成メンバーと目される職工、下級官吏、巡査、教員、一般工場労働者、日稼、人力車夫、仲仕、土工、大工、雑夫、貧農、貧困漁夫、未解放部落民、朝鮮人、下層芸人、無職、その他もろもろの不安定な労役をしている無産者であった。
 しかも、この騒動でとくに目立ったのは、スラム街の住民が多く参加する騒動と、未解放部落民の蜂起であった。たとえば大阪府下のように、811日の今宮町スラムがきっかけとなって府下の騒動がはじまるというケースが多くみられ、都市スラムの住民が騒動の主力となるということがしばしばであった。また未解放部落民も、物質的にも精神的にも最もいためつけられていたから、とくに京都、奈良、岡山、広島などの関西地方の部落で婦女子なども参加して激烈な騒動を展開した。当時の未解放部落民は、国内総人口の2パーセント以下であったが、検事処分を受けた未解放部落民は総検挙者の8,185人中、887人という1割以上が彼等によってしめられていたという状況であった。それに彼等の多くは極貧者であり、京都抑原部落の参加者7,140人中、なんと2,856人までが飢えた極貧者であったし、奈良県下の下駄表製造業部落民の500余人も全く食う物皆無という飢餓状態であった。
 こうした未解放部落民やスラムが、米騒動で大きな役割を演じたのを見て、政府はそれらを治安上からも無視できなくなり、下層貧民やいわゆる「同和型スラム」などをなだめるために、たとえば「地方改善」ないし「部落改善」という名目で、部落の環境改善や授産事業を奨励していくらかの予算をだしはじめた。しかし、部落の青年たちは、上からのそうした「恩恵」や「同情」による改善ではなく、自分たちの団結の力で、人間の権利をとりもどし、生活の安定と向上をかちとろうとしたのである。それに当時のロシア革命も部落の進歩的な青年たちに影響を及ぼし、奈良県の西光万吉、阪本清一郎らの努力によって大正113月、ここに「全国水平社」がつくられたのであった。
 あたかも戦時景気の反動がないかのような「究前の好景気」も、実際には反動景気が廻避されたわけではなく、そのあらわれる時期がおくれていただけにすぎなかった。しかも原内閣は、この景気の反動がくるのを警戒するどころか、積極政策でブームをあおったから、やがてその反動は、それだけ強いはね返しでやってきたのである。大正9315日、株式相場は暴落し、銀行や商社などでは破産するものが続出し、成金たちの夢も水のあわのように消え去った。その後いくぶん持ち直したが、大正11年にはいると、軍備縮小の影響が加わって、金融界が不安定になり、再び経済不況となり、それが昭和初期の大恐慌にまで続く慢性的不況時代となっていくのである。そうした最中、あの史上空前の大惨事となる関東大震災を予知するいとまもなく、むかえるのであった。