『住宅』 スラム特集 -住宅の底辺(住宅 15巻5号-通巻1641966510日 社団法人 日本住宅協会

概 論   スラム研究グループ

はじめにスラムの実態-その多面性/
スラムとは何か
/(1)スラム発生の契機/(2)スラムになる土地の条件/(3)スラムを構成する人々/
スラムの種類-その問題点
/(1)同和型スラム/(2)バタヤ型スラム/(3)ドヤ型スラム/(4)老朽型スラム/(5)災害型スラム/(6)朝鮮人スラム/(7)木造密集スラム/(8)農山漁村スラム
日本のスラム対策
/(1)戦前の改良事業/(2)戦後の改良事業/(3)住宅地区改良法の制定

はじめに

 日本の経済が高度成長政策によって著るしい発展をとげたのは周知の通りであるが、一方においては、高度なるがゆえのひずみを増長させてきたことも事実である。現在、社会開発、人間尊長あるいは生活基盤の整備などと呼ばれているゆえんである。これは単に産業と生活への投資のバランスという問題にとどまらず、開放体制下の日本経済が、いかに合理化を図り、国際競争力を蓄え且つ、いかに所得の地域格差を是正していくか、という国家の資本蓄積の高度化のテーゼに対し、その富を国民にどのように配分していくかという国民福祉向上を図る必要に係るアンチテーゼでもあった。この政策のもとで日本の経済は高度成長をとげ、それにともなって都市と農村は構造的変化を余儀なくされた。昨今都市間題が喧伝されているが、その根本にあるものは、生活物価の値上り、農薬の値上り、生産者物価の実質的据置ききによる農家生活の行きづまりによってもたらされた“三ちゃん農業”“一ちゃん農業”という言葉にみられる農村の崩壊(これは同時に家庭の崩壊をきたす原因ともなるのであるが)を招き、結果的に都市への激しい人口流入を必然化させているということである。
 都市問題の一部であるスラムの問題も、単に都市の一部の貧困や失業者の問題ではなく、農村の合理化、産業の合理化といった問題と密接に結びつき、同時に労働市場の日本的特異性、それは都市と農村の相互依存関係とも云えよう、によってもたらされるといった構造的側面を強くもっている。しかも最近では都市に対する相対的生産性の停滞と農産物の自曲化が促進される中で、農村の窮乏化が進んでおり、都市と農村の間に結ばれていた労働力の相互依存関係は、次第に農村から都市へという一方向にのみ限られてきている。つまり出稼ぎ型から挙家離村型に変りつつある。
 明治以来大都市は戦時中を除いて常に膨脹を続けてきた。そしてそれが日本の近代化であり、文明化であり、先進国への道であった。そういった背景の中でスラムは常に生き続け、太り続けてきたのである。
 近代においてスラムの問題が社会的に認識されるようになったのは、産業革命により莫大な産業労働者が発生して依頼のことである。イギリスにおける毛織物産業の勃興と農村におけるエンクロージャーは史上有名なものであるが、初期資本主義におけるスラム問題は、日本においては「職工事情」「都市之下層社会」下っては「女工哀史」にみられるごとく、産業資本に露骨に搾取される無一物の都市労働者の問題として浮かび上ってきた。(もちろん一般的には私有財産制が発生して依頼貧困は存在し、スラムも存在したと思えてよい。) そしてスラムが伝染病の発生源となり犯罪の巣となったがために、スラムの存在は社会の良俗に反し、放置すれば害が社会一般に及ぶものとしてその改善策がとられるようになったものであるが、これとて当初は人道主義者や宗教家の慈善事業によるものが多く、社会病理現象として行政上の責任が明確にされはじめたのは比較的新しいことである。
 現在の日本においては、戦前からの歴史的スラムの問題もさりながら、全く新しい型のスラムが発生しており、それだけスラム問題も複雑な様相を呈している。新しいスラムとはいうまでもなく、郊外に無計画にスプロールしていく狭小住宅群で、兵庫県河西市の例の様に、建設された時点ですでにスラムとなっているものが少なくない。また既成市街地の内部においても、建替によって厖大な数の民聞アパートが建設されているが、これも6帖一間、便所共用といったものが大部分で、大半が遠からずスラム化すると考えられている。これらの場合は住宅投資の停滞がスラム化をもたらしているのではなく、活発な住宅投資によって続々と新スラムが形成されているのである。
 こうした住宅事情のもとで国会に住宅建設計画法が上上程され、その閣議決定の場で、佐藤総理より「あわせてスラム対策を行なうよう」指示があったとの新聞報道であるが、スラムの住宅対策を行なうことなしに一世帯一住宅が実現できるものではないことは云うまでもないことである。
スラムの実態-その多面性
 昭和3536年に東京の山谷、大阪の釜ヶ崎と相ついで暴動が起り、世間の注目をあびたのは読者の記憶にも新しいことと思う。最近では2万円のお金と厚生大臣への遺書を残して死んだ老人の話、時たま新聞報道に見られる赤ちゃんの母親による圧死事故、それに下町の火災頻発、これらの問題をあえてスラムの問題とは云わないが、日本経済を支える最底辺の階層の問題がこれらの事件にかいま見られることは事実である。
 このような最低辺階層を統計によってとらえることはむずかしいが、まず厚生白書によると昭和30年度において「生活保護受給者と同等、ないしはそれ以下の低消費水準の世帯は200万世帯、1,000万人におよぶ」と推計され、それ以後政府統計の上では毎年減少をつづけ、37年度は133万世帯500万人と発表された。一方実際に保護を受けているものは昭和38年度において1,732,000人となっている。また総理府の「労働力調査」によると完全失業者は65万人居た34年以降減少し続け3738年において同じ40万人という数字になっている。もちろん、識者の指摘するように、これらの数字には問題がある。前者の場合は保護基準の引上げ率と、生活物価の値上り率の間に、後者の場合には完全失業者という定義の中に問題があるが、一応の目安とはなろう。
 一方住宅事情の方からみると、住宅地区改良法制定当時の昭和35年建設省の行った調査によると、人口3万人以上の市域で一定地域内に不良住宅が50戸以上の地区を有する市は248、地区数875、戸数約15万戸となっている。また昭和38年度の住宅統計調査によると非住宅居住14万世帯(昭和33年度調査10万世帯)老朽住宅9万戸(27万戸)狭小過密130万世帯(124万世帯)同居世帯60万世帯(60万世帯)となっている。
 これらの統計が直接スラムの存在を示しているものでないことはもちろんであるが、貧困と不良住宅地区の間には密接な関係があり、貧困であることは一般にスラムを形成する必要条件となっている。そして貧困の集団化に伴う環境の悪化という十分条件によってスラムが形成されていることを考えると不良住宅こそスラムの存在を示唆するものであり、不良住宅地区をスラムと考えることに、それほど大きな間違いはなかろう。
 現在では都市の上下水道の設備が整備されてきているので、スラムが伝染病の発生源となることは珍らしくなったが、依然として犯罪、非行の温床となっていることに変りはない。スラムはとりわけ青少年非行の温床である。6帖一間に親子8人が住んでいるといった状態にあって、勉強するための空間も机もなく、もちろん親とて貧困の中で生存することに忙殺されており教育に対して無知、無理解あるいは反感すらあるかもしれない。さらに現実の問題として生活の糧にさえ困窮しているのであれば、子供の労働力まで生活のために使わなければならない。こういったスラムの一般的な状態では子供達は学校に行く意欲を持ちにくいし、たとえ登校したところで進学中心の教育方針についていけず脱落せざるを得ないことになる。このようにスラムの子供の教育には、現場の教師がいくら頑張っても解決できない問題があり、非行の原因の大きな要素である無知、無教育がこうして発生する。さらに親子が同一の部屋に就寝することによって、夫婦の全生活を子供の前にさらけ出さざるを得ないことが子供の非行化とりわけ性犯罪の発生の原因となりがちなことは云うまでもない。
 このように住宅環境の劣悪さと貧困が、次の世代に対して再び貧困の原困となる無能力、無教育を植えつけ助長しているというメカニズムに目をむけるとき、スラムの人々がたとえ怠惰であるとか粗暴であるといった属性を持っていたとしても、それはその人間の属性ではなく、貧困あるいは集団化した貧困の属性であることがわかる。教育の機会均等から阻害されたがために就職の機会と婚姻の機会にすら阻害され、その中で彼らの貧困は再生産されていくのだ。ここにスラム問題の中心課題があり、スラム対策の常に帰るべき基本的な問題がある。
 岡山県の民生行政にたずさわるT氏の話によると岡山県下で発生する青少年非行のかなり高い割合が部落の子供達によるものだそうだが、貧困とスラム居住というハンディキャップの他に現在なお根強く温存されている部落差別という重荷を負って、教育、就職、結婚の機会から阻害されて非行に走る部落の子供の数は、岡山県以外でもかなりな数にのぼろう。
 また福島県下のある改良地区では住宅地区改良事業の施行に伴って、それまで多発していた学童の桃色遊戯が目立って減少したとの報告も出ている。従前の兵舎を転用した一室住宅が子供達に与えていた影響をうかがい知ることができよう。これに類する事実は多くの改良地区で報告されており、住宅の劣悪さと狭さによる児童教育上の阻害要因は改良事業によって示されているように、住環境整備によってかなり改善され得るようで、不就学児童の減少、学力の向上といった形であらわれてきている。さらに部落においては改良住宅の建設が一般の子供達との交流を促進させているという報告がある。それまで屋外で遊ぶことしかできなかった部落の子供達が、23寝室の改良住宅に入居することによって、一般の子供達を自分の家に連れてくるようになり、相互理解を深めるということである。同和教育が学校教育において推進されている一方、これらの事実は住宅という物理的な環境改善がもたらす社会的環境改善の中で、つまり社会教育という形で差別意識が解消されつつあるとみてよかろう。
 部落差別に限らずスラムとか不良住宅という物理的劣悪性や貧困そのものに対する社会的差別も存在しており、改良事業の施行後、婚姻による世帯分離が激増したという事例もある。不良住宅に居住していることが婚姻に対する阻害要因となっていた訳である。
 このようにスラムの問題は非常に多面的であり、衛生、犯罪、教育、労働、住宅などあらゆる問題を含み、日本の二重構造の最低辺の問題が全てスラムに凝縮されて存在している。その多面性ゆえの本質把握の困難性は、スラムのフィジカルな面と住民のメンタルな面が相互に影響しあって、問題を複雑かつ深刻にしているということである。L.マンフォードはスラム問題の広さと深刻さを「スラムの存在は高価につく」という言葉であらわしている。つまり「スラムの存在のために行政が支払う金を加えてみれば、スラムクリアランスなんてむしろ安価なものだ」という訳である。高いと一般に考えられているスラムクリアランスが安いというのも、その包含する問題の広範にわたることを示している一つのパラドックスである。
 いくつかの事例をみて云えることは、国家が貧困や失業といった社会悪を完全になくすことができない現状では、少なくとも住宅と住環境を国家の責任で整備することが、スラムの拡大と再生産を防ぎ、国民生活の安定を図り、住民福祉に寄与する最も効果的な方法であるということで、スラムの問題を単純に一般の救貧対策や失業問題の中に発散させてしまってはいけないということである。

スラムとは何か

 それではその様な多面性を持ったスラムとは一体どう定義されるものであろうか。実はスラムとは何かということについては定説がない。人により、国により、時代によって種々の意味に用いられる。10年間にわたりロンドン市民の労働状態と生活について調査を行ったG.H. Duchworthは「スラムは、貧乏で、貯蓄心なく、不定期にしか雇用されない、粗暴な階級の人々の社会状態を反映する街路、袋町、若しくは路地である」と述べている。
 これは、はなはだ乱暴な定義に思われるのは、スラムの居住者の持つ属性と、外的条件を混同している点にある。例えば完全雇用の時世ならいざ知らず、不定期にしか雇用されないというのは必ずしも個人の責任ではない、またそのため貧乏であることも、そしてそういった悪循環の結果、貯蓄心をなくし性格が粗暴になったとしても、それを全て個人の努力の欠如の結果であると考えるのは誤であろう。しかし現在でもスラムの現象面しか見ない人はこれに近い立場にあり、社会の病理現象としてとらえようとしない傾向がある。
 アメリカのスラム研究者J.Ford教授によると「スラムは、通常老朽、時代経過、価格低下又は需要者の嗜好の変化に伴う保存の不完全さが原因となって破損し、建築家、若しくは持主が設計、施工、設備、衛生の原則を無視したため標準以下となった住宅で同時に街路の狭隘、地上の建物の混雑、若しくは有害工場、高架鉄道、暗い倉庫、鉄道、塵芥捨場、沼沢地、不潔な河川又は運河等の障害物に接近しているため不健康となった住宅で、居住者の健康、安全、道徳若しくは福祉に対して脅威となるようなものを包蔵する住宅地域である。」という。この定義はG.H.Duchworthの定義がスラムを形成する人間に着目しているのに対し、スラムを形成するに至る物理的客観条件を指摘し、それらが居住者の福祉等に対し脅威となっていることを示している点で、スラムの本質に近づいてはいるが、そういった客観的要因に含まれる経済的低位性や貧困に触れておらず一面的と云えよう。次にスラムの国連定義であるが、これも何故か貧困という問題には触れていない。それは「人口の過密や不衛生な状態に加えて公共施設が十分でなく、これらのために、住民の健康や安全や道徳などが危険な状態におかれているような建物の集団地区」というものである。
 これはJ.Ford教授の定義とほぼ同様であるが、Ford教授がスラムの存在の責任の一部を、それが妥当であるかどうかは別として、建築家や持主に求めたのに対し、国連定義は人口の過密、不衛生な状態、公共施設が十分でない、といったスラムの貧困の結果としての属性をそれらを作りだした因果関係の中で見ようとしていない点で後退しているようである。さらに国連定義はスラムの特徴として次の項目をあげている。
建物外観が不良 住民の生活程度が低い 住民の数が多い 住宅のない社会的に適応できない人々の集団 健康と衛生の悪いこと 非行、犯罪の多いこと 生活の様式や言葉などに特徴のあること 社会的に孤立していること 住民は定着性の強いこと 地域全体として団結性の強いこと。
 こういったスラムの表面的な特長をとらえることは簡単である。しかし因果関係を考えると、これらの属性は貧困のもたらしたもので、例えば⑨や⑩は生活の自衛のために生じた結果の現象であることがわかる。従ってこれらの外見的特長を重視する余り人間を教育し矯正していけばスラムは解消するのだと考えることはそのスラムを生みだしている構造に目をむけることをさまたげ、誤った理解を増長するものである。またスラムの住民が(生れつき)社会に適応できない、粗野な人間であると考えることによって、知らぬ間にスラムの人々に対する差別感を増長しますますスラムの人々が沈澱固定化していくことに拍車をかける結果になるとすれば危険なことである。こういった差別感は徳川幕府が行なった身分政策において存分に利用されたが、自分よりまだ下の劣った人間が居るという誤った優越感が結局自分が搾取されているということを忘れさせ自らをなぐさめるという働きをした。現代においても、スラムなどにあらわれた日本の底辺の問題を正しく理解し、スラムの問題が全ての国民の問題であり、スラムの存在が国民全体の生活レベルを引き下げる役目を果たしかねないのだという一面を知らなければいけない。
 社会学的にみれば「都市における社会病理の総合表象」ということになるが、社会病理という慨念自体が確立されていないため、これも十分とは云えない。
 S.Riemerによればスラムやドヤは、都市社会の中での生活の<濾化作用>filteringをなすものであり、その存在が都市の<安全性>securityに通じるものであるとのことであるが、実際は構造的矛盾を別の矛盾に転化する差別行政の論理に立つものであり、又この議論は好意的に評価してもスラムの中で無教育無能力といった貧困の芽が再生産されていることを無視したものである。
 住宅地区改良法でいうスラム(改良地区)とは不良住宅が密集して、保安、衛生等に関し危険又は有害な状況にある一団地で、その基準は 一団地の面積が0.15ha以上であること 一団地内の不良住宅の戸数が50戸以上であること 一団地内の住宅の戸数に対する不良住宅の戸数の割合が8割以上であること 一団地(公共施設の用に供している部分を除く。)の面積に対する一団地内の住宅の戸数の割合が1ha当り80戸以上であること、となっている。そして不良住宅とは住宅の構造、腐朽又は破損の程度。防火上又は避難上の構造の程度、電気設備、給排水設備、台所便所の状況についてそれぞれ採点し、総合点が100点をこえるものを不良住宅と規定したものである。これはアメリカの公衆保健協会による住宅の評価法を参考にして、日体の住宅の実態に合うよう修正して考案されたものである。この規準によって社会学などで問題にされているスラムは全て不良住宅地区として網羅されるようであるが、ただドヤ型のスラムだけは、ドヤ(簡易宿泊所)を住宅の一種と認めないと不良住宅地区とならない。
 スラムの定義をいくつか見てきたが、住宅地区改良法によるものはその性格上当然としてもいずれも物理的なスラムの特質を住宅とその集団の関係において述べるにすぎない。この事業についても構造的把握が反映されるべきであるが、それは行政上の基本的姿勢の問題でありその実施にあたっては構造的認識に立って実践すべきであると思われる。
1)スラム発生の契機
 現在のスラムのうちで明治以後に発生したものももちろん多いが、大正3年に25才で大著「貧民心理の研究」をものした賀川豊彦によれば「日本全体の貧民窟から云へることは、もし都会に貧民窟と云ふ可きものがあるならば、それは特種部落より発達して居ると云うことである。実際之は驚く可き事実で、日本に於て実際、純平民の貧民窟は無いと云って然る可きである。」(原文のまま)と同書の中で述べている。
 これは必ずしも実証された事実ではないが、現在のスラムのうちで未解放部落がスラムの核になっているものが数多くあるのは確かである。従って発生の契機の一つは江戸時代の身分差別政策によるものが近世以降の杜会体制の中でスラムを温存する形(差別を利用する形)で発展させられたものということができる。
 明治以前に存在したスラムはこの他にもあり、田代国次郎氏の分類によれば、物乞型スラム、ドヤ型スラム、貧民型スラムとなるがここではその発生の契機については田代国次郎氏のスラム史でふれられているのでここでは触れないことにしておく。
  賀川豊彦氏の前掲書によると貧民発生の原因は次のようになる。
 これは原因というより契機といった方が適切である気がするが、スラムの発生の契機をこれに習って体系化すると次のとおりである。背景(遠因)としては農作物の出来高、好況・不況、労働市場の変化、といったことがある。
 これらの契機は、いくつかを除いては、長年月のうちに継続的に作用する力であるため莫然とした感じがするかもしれない。既成市街地の老朽不良化といった形には、復合的な原因があり、金持が転出し、貧乏人が流入してくるというメカニズムがある訳だが、その受入地は一般的に宅地の価値の低位な土地であろう。
2)スラムになる土地の条件
 典形的なものは低湿地、沼沢地、川河敷といったような人間の居住に適さない土地であるが、見方をかえて用途地域で見ると。住商混合地域、工場の隣接地域といったやはり居住不適地域が多い。
 概活的に云えば労働の場(立地条件、雇用の機会、職業等)との関係で決められてくるが、一般に宅地としての価値の低いところ、経済的低位の土地であることが多い。しかし、日本の住宅は木造住宅であり、容易に壊すことができることもあって土地の潜在的価値は必ずしも低くなく、従って地価とスラムの相関性はアメリカの様に明確ではない。また公共施設用地の不法占拠という形も多いが、これも宅地としては無価値の土地である点で前の例と同様である。
3)スラムを構成する人々
 職業でみると、スラムの性格によって異るが、一般的に日雇労務者、工員、職人、バタ屋といった肉体労働者が多い。社会的にすべての面で保障されていない人々である。また、工場災害、交通事故、先天的身体障害者、知能の遅れた人々、欠損家族といった社会病理現象のうちでも個人病理に属する理由でスラムに転落した人々が多いと云える。
 しかも農村の合理化がすすめられている今出稼ぎなどによる農村からの流入者が定着することも多く、以前は単身者が多かったが、最近では挙家離農がふえて来ている。その他最近の傾向としては企業の合理化や資本の集中にともなう首切り、不景気による倒産等による工場労働者がスラムに集中していることは指摘されなければならない。この傾向は単にエンゲルスの住宅問題にみるだけではなく古くは「女工哀史」や「都市之下眉社会」の中にもはっきり出ている他、現在の大都市のスラムはこの傾向を顕著に示している。
 未解放部落の場合には伝統的な部落産業に従事するところもあるが最近はやはり日雇いなどに変りつつある。

スラムの種類-その問題点-

1)同和型スラム
 江戸時代の封建支配の有力な手段であった身分政策は明治4年に「自今以後、穢多非人の称を廃せられ候。身分職業共に平民同様たるべきこと」とのいわゆる解放令といわれる太政官布告により廃止された。しかし昭和36年に総理府に同和対策審議会が設けられ「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方策」についての諮問がなされたことをみてもわかるように、現代においても依然として未解放部落は存在し、差別事象も跡をたっていない。なお同和地区という名称は大正8年に帝国公道会が同情融和(同和)大会なる会合を開いたことに由来している。この間の事情は、同和対策審議会答申によると、「太政官布告は形式的な解放令にすぎなかった。それは単に蔑称を廃止し、身分と職業が平民なみにあつかわれることを宜明したにとどまり。現実の社会関係における実質的な解放を保障するものではなかった。いいかえれば、封建社会の身分階層構造の最低辺に圧迫され、非人間的な権利と極端な貧困に陥れられて(原文「いた」脱か)同和地区住民を、実質的にその差別と貧困から解放するための政策は行なわれなかった。したがって、明治維新の杜会においても、差別の実態はほとんど変化がなく、同和地区住民は封建時代とあまり変らない悲惨な状態のもとに絶望的な生活をつづけてきたのである。」とあり、具体的な政策の裏づけがなかったため、未解放部落が明治以後の資本主義の世の中にあっても温存され続けた事情を物語っている。
 また部落問題研究所の奈良本辰也氏によると、「部落はどんどん太りつつあるといったら驚く人があるかも知れないが、それは事実だ。日本の資本主義は封建的な遺制を利用しながら太っている。明治時代に29万人の未解放部落の人たちは、いま6,000部落300万人と呼ばれるほどふえている。日本の人口は二倍余りにしかなっていないのに部落は10倍だ。かたまっているから、散らしたらよいという人は、原爆都市広島に、昔より大きな部落が、よみがえっている事実を知るがよい。北海道にある部落は、大正になってからできたものだ。京都のある部落は明治より以前まで先祖をたどれるのはたった一軒しかない。どんどん人をかえながら、拡大していっているのが現代の部落の特徴といえる。」とあり、消滅していないというばかりでなく拡大していると述べている。賀川豊彦によっても大正年間に神戸の部落が拡大していることがレポートされており、明治以来日本の下層社会が部落に流れ込んだことが証明されよう。そして部落が例外なく貧困で不良住宅地区であることはいうまでもない。
2)バタヤ型スラム
 バタヤが何故集団化しているのかという問題は、その職業の特異性を考えればある程度推察されると思うが、ここでは東京有数のバタヤ部落である本木町スラムの例をとって、その生成過程からバタヤの集団化の実態をさぐってみる。(磯村英一編・日本のスラム参照)
 本木町スラムの歴史は明治期における下谷万年町の貧民窟までさかのぼる。日本の産業資本が確立され都市への人口集中が激しくなるにつれて、下谷万年町、浅草松葉町などのスラムは市域の拡大とともにしだいに立地条件を失いはじめ、明治40年警視庁は、衛生上の見地から先にあげた市域スラム内の屑物取扱業者に郡部へ移転するよう指令を発した。ために屑物業者の多くは、日暮里三河島へ移動したが、今度はその地域がスラムとして発達するようになる。この傾向を決定的にしたのが関東大震災で、下谷、浅草地区をも灰燈に帰せしめたが、同地区のスラムはこれによって、日暮里、三河島、隔田地区に分散するに至った。しかも震災恐慌のため、スラムは一層人口を増加した。この頃隅田川をこえた千住地区、本木地区に次々に仕切場が出来ていった。この後昭和初年の大恐慌によりバタヤの数も一層増加した。この傾向が社会問題化することを恐れた警視庁は、昭和3年および8年に、警視庁令によって仕切場を荒川以北に追いやる方針をとったため、本木町の仕切場は急激にふえ、バタヤもこの地区に集中した。また昭和12年に日暮里の大火で焼け出されたバタヤが本木に移動し一層スラムは大きくなった。戦時中はバタヤ数は減少し、戦後は直後の物資欠乏時にはバタヤが活況を呈したが現在では失対事業が確立されたため減少している。
 バタヤはその性格上屑物の多い大都市に存在し、仕切屋と呼ばれる問屋に屑物を集めることとなっている。従って仕切屋の存在がバタヤの集団化の核となっている。仕切屋はバタヤから集めた屑物によって莫大な富を生みだしており、仕切屋の搾取のひどさがバタヤの貧困をもたらし、不良住宅地区の形成の一要因となっている。磯村教授は都の民生局長時代に仕切屋の公営化を図ったが、仕切屋を背景とする政治的圧力の前につぶされたのは有名な話である。本木町スラムの建物はすべて木造で、長屋形式の安普請がほとんどである。特にバタヤが住んでいる仕切場所属の住居は、大部分棟割長屋で、普請の程度もひどい。部屋には押入がなく、ほとんど窓もない。こういったバタヤ型スラムは昭和34年の「東京都地区環境調査」によると都内に28地区をかぞえる。
3)ドヤ型スラム
 ドヤ型スラムは明治以前から存在した、行商、薬売り、旅芸人などを相手にした小規模な旅館街の現代版で、簡易宿泊施設の集団によるスラムである。ドヤに宿泊する人の多くは男子の単身者であるが、これはドヤが棚式のベッドを多く設置し、単身者の宿泊を安易にしているためである。ドヤは都市へ流入する人口の一時的な滞在地であると同時に、港湾労働、建設工事などの不定期な肉体労働の供給市場として存在しており、現代の雇用体系の中で一定の働きを受けもたされている。従ってこれらの人々の経済的基礎は薄弱であり、その収入の日銭的形態は、バタヤと同じく、職業を通じての自立更生を困難にしている。ドヤの宿泊料は決して安くはなく、一泊100円以上はしている。月額にして3,0004,000円は、寝るだけの空間を提供するにしては高い。しかもこういった旅館に定着しているものもいる。彼らが公営住宅なり民間アパートに入居できないのは、その収入が不定期、不安定であり、また日銭的形態によって就労していること、しかもその収入をリザーブすることができないことなどがあげられる。そこで一般的にドヤ居住者が地域的流動性を持つなかで、ドヤ社会に定着するものが出てくることにもなる。しかしドヤには一般に家庭生活というものがなく、身体一つで生活している訳であるから、労働の場がなくなると他の地域に流れて行くため住宅の面からは対策のたてにくい一面を持っている。
4)老朽型スラム
 老朽型スラムは、既成市街地内の住宅群が立地条件の変化などによって集団的に老朽不良化して形成されるスラムである。これは市街地開発の初期における計画性の欠如と、その後の都市の変化発展の途上における地区の用途および価値の変化によるもので、交通機関の変化、商業地域の移動などに伴って自律更新もならず荒廃化していくものである。また非戦災地区の長屋など借家の中には効果的に修復、保存が行なわれずに、土地投機を期待して建築物の更新が行なわれないものもある。
5)災害型スラム
災害の種類によって、公害、風水害、震災、火災、戦災(引揚者も含む)となる。
 公害によるものは工場の媒煙、騒音、臭気、有害ガスなどによって近辺の住宅地や住工混合地域が荒廃していくもの。この際資力のあるものや、移転の機会に恵まれたものは他の地区へ移っていくが、結局低所得階層が残ってスラム化していくことになる。刑務所、焼却場近辺の市街地についても同様な事情がみられる。
 他の災害によるものは全て応急仮設住宅群の不良化もしくは兵舎、学校などの転用住宅である。最近では風水害によるものとして伊勢湾台風後に建設されたものがあり、愛知県、三重県に存在する。火災によるものとしては全国各地にあるが北海道の岩内町には洞爺丸台風時のものが、未だ300戸程残っている。一番数の多いのが海外引揚者を収用した転用スラムであるが、戦後21年経った現在でも全国いたるところに存在し、特に引揚のための港となった北海道、九州には多い。
 災害型スラムは公害型を除いて、土地建物が国又は公共団体の所有になっているものが多く改良事業も行ないやすい。また応急仮設住宅は、災害救助法により厚生省より補助金が出ているものが多く、耐用年限は一応2年と決っているが、殆んどは2年以内に解消せず、数年経ってから改良事業を行うケースが出てきている。
6)朝鮮人スラム
 朝鮮人スラムを考えるにあたっては、朝鮮人が自己の祖国を追われ、大勢が日本へ住みつくようになった1910(日韓併合)に始まる日本の朝鮮半島における植民地時代にまでさかのぼらなければならない。戦前の日本が朝鮮半島で行った植民地政策の第1は「土地調査事業」であった。この内容は、朝鮮半島全土にわたって土地調査を実施し、所有者の明白なものは登記し、極度に高い課税をし、課税を恐れて所有を主張しなかった者に対しては、その土地を所有者のないものと看做して日本の国有地としたのものである。この調査後100余万町歩の田畑と、1,120余万町歩の山林が日本の国有地に編入され、日本人地主の所有地になった。朝鮮人の殆んどが急激に小作農化し、1920-32年までに小作農が全農家の40%から53%と増大し、さらに彼らの多くは無産者へ転落して行った。当初は日本の食糧庫として産米を強制するため、労働者の日本への渡航を朝鮮総督府令によって制限していた。しかし、第1次大戦で日本が莫大な利益をあげ、重化学工業へ進出し始めると、より高い利潤を追求する企業は、より安い労働力を植民地朝鮮へ要請することによって「自由渡航制」になり、又一方、土地を奪われ生活難にあえぐ朝鮮人は洪水のように流入して来た。労賃は日本人の半額、しかも日本人に比べはるかに苛酷な労働条件におかれていた。この事実が朝鮮半島に伝わり、渡航希望者が激減すると、労働者を徴集するため、朝鮮半島において無差別に朝鮮人を逮捕し日本へ強制連行し、九州や北海道の炭鉱、国鉄や港湾、各種軍需産業へ送り込まれるようになった。これらの所で彼等を待っているものは、タコ部屋、飢え、寒さ、危険な労働でしかなかった。そのため収容所からの脱走は絶えず、それらの朝鮮人は再送還の恐れの少ない都市へ、自由労務者として流れて来た。植民地的搾取は人種蔑視と表裏をなすものであるから、朝鮮人は都市でも住居は勿論、土地からも追われ、止むなく河川敷等の低湿地に密集することになった。この様な動きの中で民族解放は高まりを示したが、関東大麗災時に朝鮮人暴動のデマが反対勢力により捏造され、6千余人が膚殺され、その上朝鮮人の居住区も制約された。これに類する朝鮮人虐待は終戦まで続いて来た。
 1945815日に朝鮮人は形式的に植民地政策から解放されることになった。当時、日本には約200万人(240万ともいう)がいたが1949年までに140万人帰国し、現在は約60万人程残留している。朝鮮人は、殺人的労働条件下で牛馬の如く使役されたにも拘らず、損害保障は勿論のこと、帰国の旅費、帰国条件等においても人道的扱いを受けなかった。その他、日本人との結婚等の問題もあって相当数の残留者がいるが、彼らは祖国を持っ在外公民である。
 現在、在日朝鮮人は所得税、市民税など日本国民と同様な納税の義務を遂行しているが、就職の機会均等はいうに及ばず、事業資金の融資の道は閉ざされ、生活上の差別を受けている。その他、社会保険、生活保護法、公衆衛生法、住宅諸立法、戦争犠牲者援護法なども殆んど適用を受けられず、又学校教育の面でも多くの権利が制限されている。この様な条件下に居かれているため、朝鮮人の生活環境は極めて劣悪な状態にあり、バタ屋や自由労務者となってスラムに居住する者の率が非常に高くなっている。朝鮮人スラムの特色はこの様に戦前から引統いて都市周辺部の低湿地に形成されている他、終戦による解放によって、それまで労働していた軍需産業の作業所、軍施設、飯場等が不要になったのを利用して転用住宅として居住するようになったものもあるが、いずれも、年々老朽化がすすみ、危険家屋になっているといえる。
7)木造密集スラム
 あるいは言葉が適切でないかもしれないが木造密集スラムは民間企業による大都市の内部又はその周辺部に建設される木造の密集度の極めて高い住宅群で、これには持家型式のもの(建売分穣)と借家型式のものとがある。昭和278年ごろから産業資本の対内的蓄積が完了し、対外的発展にのりだしたため、企業の拡充と合せて次第に地価も騰勢に向い、人口の都市集中がさかんになって来た。住宅金融公庫の個人融資が土地の騰貴のため辞退者が続出し始めるのもこの頃である。都市に集中した新しい住宅需要は、既存の借家や公共団体が建設する公営住宅ではまかない切れず、政府も昭和30年度には日本住宅公団を設立し、その解決に当らせようとしたが、人口の都市集中のテンポの方が早すぎて、結局、入居者からすれば、住宅がないため一時的住いのつもりで入居するようになったのが、これらの民間借家である、供給する側も入居者の入居意図に合せて、30年から34年頃までは、台所、便所、玄関等を共用する借家型式の住宅の供給が主となっていたが、その後、住宅事惰が緩和せず、この腫の型の住宅を長期的な住宅として、希望する者が発生して来たため、その内容も次第に住宅としての独立性の高いものに変化して行った。これらの木造アパートの経営について都心部において試算すると、通常、都心部に土地を持っている場合以外は採算にあわないが、この間の事情を反映してか、当初は空地を利用した副業的形態をした経営がなされていたが次第に専門業者ができ、経営として行なわれるようになって来た。関東の方では、敷金、権利金が安い事も作用して、一般に借家形式のものが多く、その為資金の回転が比較的悪く、この種の密集住宅の経営で大規模なものは少いが、関西においては一般の借家の敷金、権利金が高いため、どうせ金を集めるなら持家を取得しようという事で建売分譲形式のものも相当多く建って来た。しかし、これらの住宅は通常生活可能空間と入居者の経済負担の関係のみで決定される住宅供給であるため、殆んどの場合、建築基準法に合致していなく又、建築用資材及び構造が劣悪であり、その上、集団的にも密集しすぎ、日射や通風が得られないため保安上、衛生上、火災上、避難上も非常に危険な状態にある。特に下水、屎尿等の処理にも問題があり伝染病の危険も多い。現在は建設され始めてから左程経年していないが、それでも資材が悪いためと、排水が悪いため、老朽や風化が激しく、近い将来にスラムに転化する事は疑いを入れない。これらの不良化しかかった住宅群においても、次第に貧困階層のみ取り残されて行く傾向があらわれており、この事が物理的な条件の悪化を一層すすめるものと憂慮されている。
8)農山漁村スラム
 現在のところ十分な資料が得られず、検討を行っている段階であるので別の機会に発表したい。

日本のスラム対策

1)戦前の改良事業
 わが国におけるスラム問題の台頭は、大正年間に入ってからと考えられる。大正初期、賀川豊彦が神戸の茸合・新川地区のスラムに居住して「貧民心理の研究」を発刊し、スラム問題は、ようやく世論の注目をあびるようになったが、一方明治の後半期からくすぶりつづけていた封建的な差別を撤廃しようという未解放部落改革運動が次第に激しくなり、有名な大正の米騒動も部落民が大衆運動に参加して大きな役割を果たしたことなどがわかり、当時の内務省は大正8年細民部落対策協議会を開いて改善事業を行なう方針をきめた。また同年政府の外廓団体である帝国公道会は、東京の築地本願寺で同情融和(同和)大会なるものをひらき、政府の高官と多くの改善運動家たちが名をつらねた。この大会が終了した後、改善運動家たちは、帝国議会に対して「部落改善にかんする請願」を行なったが、翌大正9年の議会ではじめて5万円の予算がみとめられ、政府は部落改善の行政を内務省社会局の分掌とし、各府県に半官半民の融和団体をっくらせ、補助金を交付して各種の改善事業を行なわせるようになった。
 また、大正9年には八幡製鉄所の大ストライキがおこり、第1回のメーデーが行なわれたり、いろいろ新しい運動が展開されたが、大止10年には佐野学が「特殊部落民解放論」を書き、この運動に益々大きな反響を与え、翌大正11年には、この運動を目的とする二つの団体の設立大会がひらかれた。一つは、当時の大阪府知事(菊地〕を会長とする官民合同の同情融和の団体である「大日本平等会」の創立大会が大正11221日に大阪中央公会堂で開かれたがいろいろの反対意見が出て大会はこわされた。つづいて同年33日、融和団体に反対する人々が京都市岡崎公会堂において「全国水平社」創立大会を開き、解放、団結、自由を誓った。
 このようなわが国における部落解放運動とスラム問題は、その目的は別のものではあるが、未解放部落のほとんどがスラムであったため、スラム改善と密接な関係が生じ今日に至っている。更に大正12年には関東大震災が起り、東京には新しいスラムが発生し、関西における部落問題とは別の意味のスラム問題が起ってきた。前章で述べた本所の東京帝大セツルメントの設立もスラム問題に社会思想家の目が向いた一つのあらわれである。
 以上述べたような社会的背景の下に、政府は、大正14(1925)にいたり、いよいよ本格的なスラム改善事業を行なう決意をかため、各地方長官に命じて、不良住宅地区の調査を依頼した。この調査は、大正146月現在において、人口5万以上の都市及びその隣接町村において、おおむね100世帯以上の不良住宅が密集し、衛生、風紀上有害のおそれのある集団地区を対象として行なわれたが、このときの調査報告によると、全国で地区数は217ヶ所、地区総面積は2,009,081坪、地区内家屋棟数は41,774棟、地区内世帯数72,612世帯、地区内人口は309,085人であり、六大都市だけでも約15ヶ所、13,000世帯に及ぶことが判明した。政府は、この調査に基いて、翌大正157月に社会事業調査会を設置し、この問題を諮問し、不良住宅地区改良事業実施要綱及び不良住宅地区改良法要綱案の答申を得た。これによって昭和2(1927)329日旧不良住宅地区改良法が制定公布され、わが国のスラムクリアランスは、画期的活動期に入った。この法律は、当時のわが国としては非常に進歩的なものであって、戦後制定された住宅地区改良法の母体となったものである。また、この法律制定にさきがけて、大正15年に関東大震災の義損金の一部を基金とし同潤会が策京猿江裏町でわが国で最初のスラムクリアランスの事業を行なったが、当時この事業の施行を指導し、法律の制定に貢献された中村寛博士の語るところによると、この事業は当時の先進国であるイギリスその他の西欧諸国の改良計画を参考として実施されたもので、当時としては非常にユートピア的な新しさであった。この地区は、人口2,ll5人、世帯数523世帯、事業費は2,096,650円であり、土地の取得にあたっては土地収用法が適用され、翌年の旧不良住宅地区改良法制定にあたって有力な基礎的資料を提供したものである。
 旧不良住宅地区改良法が制定されてからは、この法律が戦前におけるわが国スラムクリアランスの基本法となり、この法律に基いて、昭和3年に東京府2地区、大阪市1地区、名古屋市1地区、横浜市1地区の5地区が、昭和5年に神戸市に1地区、昭和8年に東京に1地区が指定され、本格的に改良事業が行なわれた。しかし、この事業も支那事変、大平洋戦争のために昭和13年頃から次第に下火になり、昭和17年に完全に中止され、以後戦中戦後旧不良住宅地区改良法は眠つてしまった。
2)戦後の改良事業
 第二次大戦のあとわが国は、未曽有の住宅難におそわれた。戦災と強制疎開によって、265万戸が失われ、敗戦直後の総住宅不足は、約400万戸と推定された。国民の大部分は、衣食住に不自由となり、焼けトタン張の小屋はおろか壕舎に居住する情況がいたるところに見られる有様であった。こういう実情であったからスラム問題を論ずる余裕はなかった。しかし、戦災復興がまがりなりにも次第に進展するにつれて、戦前からのスラムで戦災をまぬかれた地域は、資材不足と経済力の低下のためのスラム化が眼にあまるものがあり、また、敗戦直後、戦災者や引揚者を収容するために集団的に造られた応急住宅、旧軍施設などを模様替えして造られた転用住宅、道路敷、公園予定地、河川敷などに不可抗力的に発生したバラックスラムなどは、戦後における新しい発生形態のスラムを形成し、地区の住環境の悪化はもちろんのこと地区外に対しても社会的に悪い影響を与え、都市計画的にも都市の経済的発展を極端に阻害する原因となってきた。そこで戦中戦後数年間全く中断されていたスラム問題がようやく世論の注目をあびるきざしが見えてきた。
 昭和24年に神戸市においては、たまたま兵庫県庁在勤のジョセフイン・ゴレッティ女史の提唱を動機として、県、市、地元三者の共同で麻薬の巣といわれた番町地区に番町地区改善対策委員会が組織され、戦後におけるこの事業の契機を作った。政府においても一般住宅政策を推進するほか、改良事業に対しても等閑視できない実情にせまられ、昭和25年から同27年頃までにかけて改良事業を研究するための調査費を予算として建設省住宅局に計上した。これに基いて千葉県市川市においてアメリカで行なわれている住宅の不良度の判定を行なうための採点評価法の実態調査を実施し、この結果に基いて東京都京都市、大阪市、神戸市の四大都市の代表的な不良住宅地区について実験的調査を行ない、不良住宅及び不良住宅地区の判定に関するわが国最初の科学的基礎を作った。また、一方、建設省建築研究所においては、同じ頃、古くから未解放部落として有名な京都市の三条地区及び神戸市の番町地区について、スラムの生態的な実態調査を行ない研究論文を発表した。
 このような調査研究を基礎として、昭和27年度予算から実験的に公営住宅法による第2種公営住宅予算の中に特別枠を設けて東京、京都、神戸の3都市3地区においてこの事業を行なったが、これが戦後における改良事業の始まりである。その後この事業予算は、年々増加の一途をたどり、現下のわが国の住宅政策の上に大きなウエイトを占めるようになってきた。
3)住宅地区改良法の制定
 昭和27年から公営住宅法に基いてこの事業が行なわれるようになったことは、前節で述べたとおりであるが、この事業の事業量が増大するにつれて不良住宅を買収して除却するいわゆる清掃事業の上に幾多の施行上の隘路が生じてきた。もちろん住宅地区改良法が成立するまでは、昭和2年の旧不良住宅改良法は眠ったまま生きていたのであるが、公営住宅法の予算で事業を施行している上に、旧憲法時代に作られた旧法の規定は、新しい時代の新憲法の上で適用するには、あまりにも妥当性を欠いたわけである。したがって、この事業を施行する上の法律的根拠は、公営住宅法第16条に規定する公募によらないで特定入居することのできる公営住宅として改良住宅が考えられたに過ぎず、この事業本来のクリアランス(清掃)に関する法的恨拠はなかったのである。
  そこで不良住宅地区のクリアランスに非常に頭を悩ましていた京都市、神戸市、大阪市、和歌山県、和歌山市広島市、岡山市、山口県、下関市及び福岡市の各地方公共団体の議会が中心となって同和地区の改良事業を中心とする関西十都市連絡協議会を組織し、京都市会が幹事となって、昭和32年から同34年にかけて、この事業に対する近代的基本法の制定と地区清掃事業費に対する国の補助金の予算化を実現すべく政府及び国会に対して陳惰運動を展開した。一方また同じ頃、大正末期と同じように未解放部落の問題が世論として再び燃焼し、この関係の二つの民間団体である部落解放同盟と全国同和対策協議会による活発な運動が起り、国会でもいろいろ問題になった。このため、社会党及び自由民主党の内部にそれぞれこの問題のための特別研究会又は特別委員会が設けられ、内閣には同和問題閣僚懇談会が置かれてこの問題に関する各省の施策の綜合的な調整が行なわれるようになった。そして同和問題のうちスラムクリアランスに関する事業は建設省が担当した。(以上は「住宅地区改良法の解説」による)
 その後名界の意見を聞くなどして現行の住宅地区改良法の制定となるが、この法律は欧米において、さかんに議論されていた都市再開発(urban renewal)の思想をとり入れて、都市の機能更新という観点からのアプローチを新らたにもり込んだものである。

これ以後のスラム対策とその問題点については別の機会に発表したい。