警察犯罪を告発しょう/釜ヶ崎調査団(関西救援連絡センター 第30号 72.9)
 

5月28日鈴木組がなぐりこんできたために起った衝突によって不思議にも起訴されています。

朝のセンターには何千人という労働者がその日の仕事を求めて集まるので、20人や30人ではなぐりこんできても私たちが労働者と共に闘かっている以上勝負は決まりきっている。

ヤーコーには釜の労働者が一瞬にして団結する事実が理解できなかったらしい。ところがこれは単にヤーコーだけではなく、左翼の中にもある面だと思う。混沌と見られる労働者の一瞬の団結を信じきれない人々が、やれルンプロの規定はどうだのこうだのといい始める。中には釜の労働者は自然発生的であるのだと。この一瞬にして起る団結の故に自然発生的だと言われたんじゃあたまったもんじゃない。本当はそれこそ労働者が本能的に持っている階級性に外ならないのだとは今のところ誰も言いきりかねているという具合である。つまりこの反射的にまで骨肉化している団結を他の階層が持ちえていないとすれば、彼らは労働者階級ではないと言わねばならない。

そしてこの一瞬にして起る団結は今までの例では、一つのエピソード的な労働者の存在を象徴する事件とその犠牲者への同志性によって起ったし、それは5分もたたないうちに何千人という単位の運動となった。これを人々は暴動と名づけた。そして名づけられた暴動という言葉からイコール自然発生的だというのである。事実今までの左翼でこの労働者の階級的本能が発する血の叫びに部隊を導入して応えた左翼は一つもないしそのような事実はないのである。このことは自然発生性云々によって釜を切り捨てられるものではなく、自然発生性だの何だのといっている左翼その理論その組織こそ切り捨てられ打倒されなければならないのだろうか。

事実、釜ヶ崎から見るとき言葉の相違はあっても、左翼もヤーコーもその本質においてそんなに違いはないと思われてならない。内ゲバがあり手打式があり人脈や組織を通じなければ、釜の闘争は伝えにくし、代弁者を代弁するという変んてこチョコザイ左翼はいつのまにか綱張りをはりながらこれらの機構を通してでないと釜の闘争を全国の人民の所にまで伝えられないのである。いわば闘う人民と闘う人民をつなぐパイプがつまって―あるいはパイプを通るうちに変形され―何んだか組織利益のために利用されていきそうなのである。

ここで余分かもしれないがつけ加えておかなければならないことは、釜の闘争は「あんた達の組織がやったんじゃない。あんた違の組織が邪魔物だとわかったのだ」ということです。

普通、人間は苦痛には長くたえ たくないので―特に社会矛眉が凝縮されているプロレタリアの町ではエセ左翼に対する憎しみは強烈で―「ガタガタいわなならんのならヤメタ  バカヤローメ!」である。でもそれではいつまでも団結や運帯はないので闘士をプロレタリア闘争に招待するのは大変に努力を必要とするのだけど頑張って、情宣していかなければならないと思っているのですよ。

いま、そのための一つの課題とて「警察犯罪を告発する釜ヶ崎調査団」を編成し、ポリ公の「ここをどこだと思っとんか。ここで法律が通じるとでも考えとったんか!」という洞喝に応えようと思っています。

調査団の獲得目標はだいたい次の三点にしぼっていいと思う。
 

(1)人民の真実の報道を追求する

マスコミは5月28日以後次第に釜ヶ崎の報道を押え、今やほぼ完全に報道管制がしかれている。真実が告げられないだけではなく、スペースそのものが小さくなって恐らく釜の闘争は5月28日だけ―あるいは5月28日が頂点だと思われているのではないだろうか?

また、釜の外の闘士によくいわれたことは釜と市民社会との「位相の違い」があって、客観的に釜に入ることが正しくても「自分にはできない――自分の内発性がわからない」という発言に代表される。わたしたちは、それらの人々にまず「来なくてもいい」と答え ようと思う。プロレタリアの闘争を見殺しにすることが自身の内発性であるような人々にきてくれとはいわない。われわれは金銭についての盆之でも愛情貧之でも活動家貧之でもない。だがそれは同時に釜の方からも外からも真実を伝えあう方法を追求し、分割支配が産み出した位相の違いを埋めていく道をたどらなければならない。
 

(2)5・1メーデーに始まる今年の釜の闘争は報道管制と正比例して、無茶苦茶な弾圧―ナチ棒によるリンチが行なわれてきた。

市民社会では法律に対する幻想があるし、幻想をもたしておくことによって権力は操作しているといってもいい。市民社会における法律によって釜ヶ崎の西成署を攻囲する。同時に、釜ヶ崎から市民社会に存在している法律への幻想を破っていく。このことは、特に釜ヶ崎に限られたことではなく、多少は戦闘性をもった闘争に入った人ならばだれでも警察の犯罪にめぐりあっているのでそれが活動家レベルでだけ問われるのではなく、人民のうちにその基底をもっていることをもって警察の無茶苦茶な無法行為を告発していかなければならないだろう。

(3)釜ヶ崎を掲げることは、釜ヶ崎という地域だけの問題ではない。

東京には山谷や高田馬場、横浜の寿町、名古屋の笹島など、全国の主要な都市には、形や規模を変えながらも一つの下層の日本列島を形成している。一方また、階層的にみても、プロレタリア性といえるものはその貧困と支配に対する憎悪、反抗そして、支配と無関係な所でうまれる人民の裸の連帯―いわば人間のドロドロした姿ともいえるものは―市民社会の中にも陰徹されながらも垣間見られる。それは上層にいく程ヴェールは厚く濃くなっていくが、これらを白日の下に示しているプロレタリアの街からつきつけ、連帯と支援の綱を創っていかなければならないと思う。

問題は全国的かつ全階層的に問われているのである。

調査団が具体的にやらなければならないこと。

労働者が警察、資本家(飯場の親父でも現金でも)あるいは病院(特に精神病院)でうけたしうち、また、暴力等を調査し集める。私服、制服のポリの横行不法行為の目前における調査募集―たとえば西成署から100メートルもはなれていな

 

 調査団が具体的にやらなければならないこと。労働者が警察、資本家(飯場の親父でも現金でも)あるいは病院(特に精神病院)でうけたしうちまた、暴力等を調査し集める。私服、制服のポリの横行不法行為の目前における調査募集―たとえば西成署から百米もはなれていない三角公園でバクチとノミ行為がなされている。

以上の一つ一つの事実をパンフにし全国的規模で配布、情宣する。それらは一日で終りということではなく、釜ヶ崎調査団運動というべき運動体として、繰りかえし繰りかえし行いつつ、釜ヶ崎の常識、時代の流れとして―定着、市民権を獲得していく。

そのとき始めて“位相の違い”も調査団自らが発掘できるであろうし、人民が生きている姿が内的に把えられもし闘争を組むにも人民の中へ一層深化していった闘争として釜ヶ崎を結合したラディカル性として生かされていくのではないかと考えます。