過去の屈辱を布石に(関西救援連絡センター 第30号 72.9)

―鈴木組闘争裁判へ向けて―釜ヶ崎救援会
 

5月28日朝、鈴木組組員たちは社長の鈴木正九郎を先頭にして労働者に襲いかかった。この事件を契機として様々な拡がりを見せた暴力手配師追放闘争は50名近い逮捕者を出した。鈴木組組員たちは事件とは直接関係のない凶器準備集合罪で、そして被害者であるべきはずの労働者側も鈴木正九郎に対する傷害罪等でその裁きを受ける時がこようとしている。双方共10月からその公判が開始されようとしているのだ。

☆過去の<暴動>裁判

仮りに<暴動>で逮捕された労働者の中にHさんという人がいたとしよう。彼の生い立ちは誰も知らない。彼は逮捕されるほんの少し前まで精神病院に強制入院させられていた。何故? 7年前に泥酔保護されたからである。やっと退院を許可された彼の薬づけになった体が機動隊に投石した。そして逮捕され、起訴される。たとえ空カン一個でも、驚くことはない。釜ヶ崎とはそんな所であり、だからこそ<暴動>は起こるのであり、釜ヶ崎あるかぎり<暴動>は起こり続ける。

<暴動>にへりくつは要らない。きっかけなどどうでもいいのだ。真の<暴動>のきっかけは、釜ヶ崎労働者個々が捨て切れぬ程持っているし、労働者が釜ヶ崎に来るに至った経緯をも含んだ全ての生活そのものが<暴動>に参加する真のきっかけであり理由である。

Hさんの「7年間精神病院にぶち込まれた」というその事実だけで十分すぎる程十分すぎる。

しかしHさんという一人の労働者は裁かれる。検事いわく、「今回の集団不法事案は社会に与えた影響はなはだしく、再発防止のためにも厳重に……」。裁判官いわく、「被告の犯した行為そのものは……」。未熟な闘争と後始末的救援は、労働者に<暴動>に参加したその真のきっかけを公判廷において語らせ得なかった。ある時は、公判廷で土下座して裁判官にわびる労働者に歯ギシリしたこともあったのである。

×  ×  ×

過去の<暴動>裁判は真に<釜ヶ崎>裁判たり得なかった。<暴動>と<釜ヶ崎>と労働者個々を結びうる物を見出せなかったし、また裁判官はそれを認めなかった。

それは<暴動>の性質上やむを得ないことかも知れない。<暴動>のきっかけなどどうでもいい、と先に書いた。そしてそれを裏返せば、<暴動>の背景などどうでもいい、という権力側の都合の良い論理がヒョッコリ顔を出す。そしてまた、<暴動>の敵は必ずしも警察権力でなくてもよかった。つまり、労働者個々のかかえた様々なきっかけを具体的に提示し展開し得ないのが<暴動>裁判のもつ限界なのである。

なぜなら、そのきっかけを提示し得る媒介は被告人たる労働者そのものでしかあり得ず、下手をすれば、釜ヶ崎労働者のおかれた状況と労働者個々の素生をあばくことによって、情状酌量を得ることしかできないものになってしまうのである。

「釜ヶ崎はヒドイ所です。被告は不幸な境遇に育ち……」 そこにあるのは、あまりにみじめな「釜ヶ崎」の姿ではなかったか。

釜ヶ崎は裁かれなかった。いやとっくに裁かれた後の形式的跡始末が裁判であったのだ。ドヤの問題を、手配師の問題を年間300名の行路病死者の問題を何一つ真と取り上げることはできなかったし、裁かせることはできなかった。
 

☆=鈴木組闘争裁判=

釜ヶ崎における最も大きな問題の一つに手配師、悪質業者の問題があることは、5・26、27、28の鈴木組の事件を通して具体的に知られることになった。「そして同時に、業者とヤクザの一体性、警察とヤクザの暴力支配が何ら矛盾せずむしろ迎合しあっていることも提示した。

鈴木組をバネに盛り上りを見せた暴力手配師追放闘争の政治処分は、数多くの活動家への逮捕と「釜ヶ崎赤狩り」とも呼ぶべき掃討作戦であった。鈴木正九郎は「私の受けた被害など問題ではない。ただ扇動者たちのやったことは土建業者にとってゆるせないことなので厳重に処罰して下さい」と恥知らずにも居直り、事件当時は「鈴木さんは困ったことをしてくれたものだ」と当惑顔をしていた他の業者たちも、一旦労働者側が逮捕されだすと本性をあらわにし「扇動者を厳重に処罰して下さい」と権力にコビを売る。悪質業者にとって、手配師追放闘争がいかなる意味を持っていたのか自明のことであろう。

釜共闘を中心とした労働者がその表明的な行為のみをもって裁かれようとしている時(誤解してもらっては困る! 鈴木正九郎は自分で自分の頭を割ったのだ)、いや裁判という単なる事後処理で済まされようとしている時、鈴木組を頭目とした悪質業者共を放っておく手はあるまい。手配師追放闘争は公判廷という場においても展開されなければならないだろう。

過去の多くの<暴動>裁判にお一いてなし得なかった釜ヶ崎<暴動>の真のきっかけをひきずり出して袋だたきにせねばなるまい。

×  ×  ×

釜ヶ崎の問題を一般化としてアピールする時、その間題そのものを市民社会の差別構造の中へ埋没してしまう危険性を乗り超えるためにも、鈴木組を、あるいは他の業者を媒介として釜ヶ崎における諸問題に探りを入れ、渡及させるという視点を抜きにして、鈴木組闘争裁判には臨めないだろう。そして過去裁かれていった数多くの労働者の屈辱の布石を生かすこともできない。

10年前の第一次暴動が残したのは、逮捕者137名中起訴者114名。有罪判決は113名でありただ1件の無罪は起訴ミスというさんたんたる歴史であった。

しかし10年後の現在、起訴率の低下、判決の軽減、ドヤを住居として認めさせることなど、救援活動は若干の実績を上げてきている。ほんのささやかではあるが状況は進歩しているのだ。そして5月以降の闘争の盛上りは、労働者の自立の拠点を与えたのである。Sさん、Iさんは公判廷で「私は抗議としてやったのだ」とはっきりいい切った。このような表現のできる労働者の出現は昨年の暴動の救援を通じて誰が予想し得ただろうか。

これらの実績をフルに生かし検証するべきこの上もない場が、鈴木組闘争裁判であり、過去の汚辱の厳密な総括の上に裁判闘争は打ち立てられねばならないだろう。釜ヶ崎裁判闘争に圧倒的支援を! 結集を!