新聞記事文庫 住居問題(1-007)

大阪朝日新聞 1912.7.2(明治45)

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今宮の労働寄宿

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  萩の茶屋の自彊館が模範の安宿を開いたと前後して今宮の職業紹介所では労働寄宿の名の下に一泊五銭同じ風のものを始めた

 米高に強迫せられて塒を追われ一家離散の悲況に沈淪した上級の貧民流石に普通の木賃宿には足が向かず、さりとて背に腹は替えられぬ矢先とて此の種の宿が繁昌するのも無理はない、
 然し此処では誰れでも彼れでも泊める事はしない、看板に寄宿とある如く永く泊めるのが本意なので 開業早々堕落し切った者を入れると後から来た者を悪い方に引張り込まれるから成るべく無垢な少年青年の宿にしたい、
 其の代り泊めた以上禁酒と貯蓄を奨励する外は 夜遅く帰って来ようが何うしようが一切干渉せず 何処までも立派な人として待遇するので「お早う、お帰りなさい」の挨拶も事務員の方からすれば寝るにも同じ室で臥せるという拝み倒し主義を採って居る

 目下寄宿して居る中に一寸毛色の変った男は 二十五歳の原籍は東京で中学を卒業して早稲田大学の政治科を三年級まで学びその後雑誌記者をして居る中面白からぬ事を仕出かしてお払い箱となり 京都から大阪へ舞込んだ時には懐中は早無一文、労働寄宿に来て八浜主事に段々頼んだ処 未だ堕落して居るという程でもなく教育のあるのを拾いものとして 事務の手伝に使われ先ず先ず顎だけは干上らないと云う仕合せ、
 それから九州三界から逃げて来た若者と、徳島県の村の青年会で弾劾せられ成功するまでは帰っても交際して遣らぬと申渡され親から十円の餞別を貰って来た青年などで、此処では斯ういう風の者を収容して居るのである

 之と反対に拒絶せられた方には元巡査を務めた夫婦、
 十四と十二の娘の手を引き母親の背には乳飲児を負い一家五人を泊めて呉れと懇願したが 女子供は頭から不可ぬが職業の世話だけはしようと、娘二人は直片附いたが親爺は容易に口がなくみじめな有様、
 又夫婦で来て此処で泊めて貰って共稼ぎしたいという者が 日に五人や十人はあるが 男女共に住み込みならあると話すと 暫くは考えて居るが 十人が九人まではそれじゃ夫婦別れをしますから、と何とも云えぬ顔附して頼む、これには思わず貰い泣きされるとのことである

 序に職業紹介の方では 開業してから去月末までの十九日間に申込んだ男が九百四十四人、女が六十八人、締めて千十二人という統計で 殊に昨今著るしく多くなったのは官庁や区役所の雇い連が 内職に夜分だけの仕事を見附けて欲しいとの申込みが日一日と増えて来る、米高の影響は先ず此の辺が実際の処であろう

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データ作成:2009.4 神戸大学附属図書館