飛田の墓址

 飛田の墓址は今宮町の東北部、阪堺線の東方に在り、墓所は即ち大阪七墓の一で最古のものと称されて居る。旧記に依れば天王寺の墓所で、聖徳太子の封せられたものであると伝へられて居るから、起源は頗る古い。飛田は又鳶田、鴟田、鵄田など旧記に録されて居る。(注:鳶田、鴟田、鵄田=読みは何れもとびた)

この附近は今でこそ南大阪の遊廓地帯として一大不夜城の観を呈しているが三十年前迄は草茫々として雉や蛇などが沢山出没していた荒蕪地であつた。其れも其筈で、徳川時代を通じて明治の初年頃までは、此の処は墓地で卵塔累々としている間に刑場さへ置かれていたのである。殊に刑場即ち仕置場では時々死刑が行はれたから、一層の物淋しさを示していた、死刑囚が飛田の仕置場に送られるのは多く馬の背によるのであつた。さうして放火犯は火焙、強盗殺入は磔、強盗は打首と犯罪の種類軽重に応じて夫々刑を異にしたものである。南地千日は主として罪人の首の晒し揚で、此の飛田では仕置もし且晒し首もしたのである。

安永天明頃の旧記によれば、仕置場を鳶田、千日、東成野田野江口、又沖掛りは安治川口、木津川口と定め、これ等行刑に関係する人々を鳶田、天満、天王寺、道頓堀の四箇所に置き、此の四箇所に総人員千二百人程配置されたといふことが明記されて居る、大阪で俗に四箇所と名付けられた階級は此の行刑の仕事を取扱ふばかりでなく、更に町奉行付の捕吏をも補助して犯罪者の出た揚合に活動した者で、畢竟(ひつきょう)四箇所に分住していた爲めに斯く曰はれたのである。而してこれ等の人々は勿論飛田の一部に住んでいたが、其の数は二三十戸に過ぎなかつた。

処刑せられた死体は刑場附近の墓地に埋められ、其れが無縁の墓として後代に残された、飛田の墓地は相當に広いものであつたが明治六七年頃整理されて全く他に移され、昔年凄惨であつた土地も、桑田変海のたとへにもれず、今は面目を一変して南大阪の一大熱閙区となり、僅かに一体の石地藏尊と一基の石碑が、在りし普を物語るのみである。尚ほ其昔し葬儀を迎へるとして立たせ給うた一対の地蔵尊は、今は市立天王寺葬儀所の門前に移された、口絵写真に示されたのがそれである。

残存せる石碑はその裏面が人家の壁に密接して居るので何が書いてあるか判らぬが表面の刻文を読んで見ると其の由来が大概了解できる、但し何分にも今より二百二十七年前の建設に係るものであるから多年風雨に曝された爲め文字滅失の箇所が所々にあつて全文が完全に保存れていないのを遺憾とする、今其の碑文を左に掲載する。(字側に□を附したるは字形によりて推察したるもの、又全字不明なるは大なる□を記す)

西成郡鵄田地者荒陵寺之所葬也慶長義戦盡爲荒墳矣鳴呼先世丘壟今焉在哉億夫往昔封塚之人豈不期于萬世歟故是歳之各衆議而新復舊墳爰設齋會以継先人之忠意也是蓋太平之澤以衆死之表幟而已兼銘焉云

曾此之邑 葬先世人 起墳復舊 刻石維新

奏假供果 爰享来蘋 鳴呼継志 煖無彊春

元禄第十一歳次戊寅凍中浣

天台沙門融順誌□

尚碑文の下方には「開宗廟」と大宇で横書してある、碑は高さ一丈余幅約四尺の御影石である、慶長の役とは慶長十九年の大阪冬蹄の事であるが此の時軍兵のために此の墓所が甚だしく荒されたものを八十四年後の元禄十一年に修復して其の紀念のために建碑したものである。(今宮町志)