玉出小学校

公式ホームページ http://www.ocec.ne.jp/es/tamade-es/index.htm

歴 史(公式ページの沿革に西成区史・今宮町志などの記述を加えてあります)

明治5年8月 太政官布告214号によつて全国に学制が発布

明治6年2月15日 長源寺(勝間村)を仮校舎として開校

明治6年2月15日 第六大区一小区第三番小学校(区史)
西成郡内でも最初のものであった。本地区内では学制発布前、沢田栄司、豊川永次郎の二つの寺小屋が存し、習字、算術等が教授されていたが、学制公布とともに村内の長源寺を校舎として、第六大区一小区第三番小学校としてその開校をみ、遠藤十郎および上記の二名がその教育にあたった(区史)

明治9年7月30日 勝間村25番地に移転

9年7月新校舎竣成し校名を第六大区一小区第三番勝間小学校と称した(区史)
12年3月 西成郡大江小学校、
20年4月 西成郡玉津簡易小学校、
34年4月 西成郡玉津尋常高等小学校などと改称、
41年3月 はじめて玉出尋常高等小学校となる
(区史)
玉出尋常高等小学校費義損の義に付歎願
「……実に本村は古来大阪市殷富の犠牲となり村財政窮乏の中に碌々として今日に至り候。然るに世の進歩に伴ひ諸般の村政年と共に拡大し本年度経費は合計壱万六干余円を算し、就中教育費は其の半以上を占め居り候方今教育の隆盛なる都邑到る処学佼の設あらざるなく文字なきもの殆んど跡を絶たんとす。本村民に於ても子弟教育の必要なるを認め学童は之を全部就学せしめ教育状態は之れを他町村に比して遜色なからんことを期し居り候。
翻って本村小学校を見るに元会所を造作応用し遜次増築したりと雖も、其の建築法は迚も今日の理想に叶はず、狭隘粗雑風に毀み雨に損し真に見るに耐へざる有様に有之候。元より華美を好むにあらざるも学童の危険を黙過し難き時、文部省は本年より大に学政を振張して義務教育年限を六年に定めたれば、俄かに増加せし学童を此の校舎に収容し難く、時年諸君の寄附を仰ぎ校舎の新築を企て多数の賛成を得しも時日遷延の恐れありしを以て、急いで其計画を変更し村債を起し以て一時を救ひ、幸ひ本年四月より新舎に移り教授を開始せしも内部諸器具器械並教育用図書に至りては一つとして備はるものなく、此等の経費予算尚一万円に達し候。此れ微力なる村民の到底耐へ難き処に有之、敢て本村出身諸君の義損を募り、村教育事業の完成を俟たんとし、其多少に不拘御寄附被下候はば之れに過ぎず候。茲に有志一同連署し嘆願候也。
明治四十一年十一月一日

村会議員一同
                                    村長・助役・収入役

明治42年3月14日 勝間村592番に新校舎落成、移転。

昭和2年6月6日 新校舎完成。現在の場所に移る。

昭和3年4月 玉出幼稚園 玉出尋常小学校講堂を仮園舎として保育開始

昭和9年9月   室戸台風で被害を受ける

昭和16年   玉出第一を玉出国民学校と改称(区史)

昭和19年9月9日  第1次学童疎開    和歌山県有田郡湯浅町・田殿村・広村(区史)

昭和20年4月2日  第2次学童疎開    和歌山県有田郡湯浅町・田殿村・広村(区史) 

昭和20年10月23日  学童疎開引きあげ(区史)

昭和26年1月1日現在

校名 生徒数 教職員数 所在地 通学区域
玉出 1,172 36 姫松通2丁目17 玉出本通1・2・3・4(44−99)・5(除く南津守・千本校下)・岸松通2・3丁目・玉新・辰巳通1−3丁目・姫松通1−5丁目・粉浜東之町・粉浜西之町・南海通2丁目(22−39)

3010月、315月、343月鉄筋校舎落成(区史)

昭和35年    築山完成

昭和37年   プール完成

昭和43年   現況 所在地=姫松通2の17 敷地=7,250u 建物=1,729u(区史)

昭和48年   創立100周年記念式典

昭和51年   講堂新築

平成24年4月1日現在 通学区

中学校 小学校 町名 番地 番地詳細
玉出中 玉出小 玉出東 1丁目 6番〜14番
玉出中 玉出小 玉出東 2丁目
玉出中 玉出小 玉出中 1丁目 2番 4号〜38号
玉出中 玉出小 玉出中 1丁目 3番 7号〜10号、14号の一部
玉出中 玉出小 玉出中 1丁目 4番 2号〜7号、9号の一部
玉出中 玉出小 玉出中 1丁目 5番〜16番
玉出中 玉出小 玉出中 2丁目
玉出中 玉出小 玉出西 1丁目 1番〜10番、15番〜17番
玉出中 玉出小 玉出西 2丁目