長橋小学校

公式ホームページ  http://www.ocec.ne.jp/es/nagahasi-es/index.htm

 公式ホームページに、沿革・歴史の項がありませんので、西成区史・今宮町志等から作成しました。

明治5年 学制発布

大正3年5月1日 本村交通の発達と共に人口の増殖日に著しく、就学児童の数も忽ちにして多きを加へた為め、西成郡長より尋常小学校一校増設の件を指定せられ(町志)

大正3年10月7日 大阪府立職工学校内模範職工団長と校舎建築の契約を結び、10月10日起工(町志)

大正4年4月10日 今宮村木津字小橋463番地(797坪余)に木造二階建校舎二棟の新築が竣工(町志)

大正4年4月15日 今宮第一尋常高等小学校より尋常科児童822名を分離開校して、今宮第二尋常小学校と称した(町志)

大正4年4月16日 本校創立により第一小学校の学区域たりし現在の萩の茶屋駅を中心として東西に通ずる道路鶴見橋通りを以て南北に分ち北部を本校の通学区域とし(町志)

大正4年5月9日  落成式(町志)

大正4年6月16日 教育に関する勅語謄本を下賜(町志)

大正7年9月1日 今宮第三小学校々舎落成につき百数十名の児童を同校に分つた。(町志)

大正6年6月16日 第三校創立により字四條ケ辻以東字曳船以北を第三校へ分譲し第一校より旭北通りを区域として北部を第二の区域に編入(町志)注:町志で第3小学校の創立年に乱れがあるが、大正6年が正しいと思われる。

大正8年4月30日 木造二階建一棟が増築(町志)

大正8年8月30日 本校西側に校舎一棟172坪を増築落成。(町志)

大正10年4月1日 今宮第四小学校々舎落成につき児童を第三第一小学校に分つた。(町志)

大正11年8月 鐵筋コンクリート造りの御真影奉安庫一棟竣工。(町志)

大正11年10月22日 今宮第五小学校々舎落成につき児童を第一、第五小学校に分つ。(町志)

大正11年11月22日 第五校創立により同日から西四條二丁目同三丁目。長橋通一丁目二丁目。出誠通一了目二丁目。南開一丁目を第三校へ分譲し又同日旭北通三、四、五、六、七、八丁目。旭南通三、四、五、六、七、八丁目。旭通り三、四、五、六、七丁目。梅通り四、五丁目。橘通り六丁目。松通り四、五、六丁目。柳通り一丁目。櫻通り六、七、八丁目。梅南通二丁目を第五校へ分譲し 同日鶴見橋通り一、二、三丁目。鶴見橋北通り一、二、三丁目、旭北通り一、二丁目 を第一校に分譲したので 
現在本校の学区域は左の如くなつた。
鶴見橋通り四、五、六、七、八丁目。鶴見橋北通り四、五、六、七、八丁目
長橋通り四、五、六、七、八、九丁目。出城通り五、六、七、八、九丁目
南開四、五、六、七、八丁目。中開三、四、五、六丁目。北開三、四丁目(町志)

大正12年4月 小使室北側平家建物置6坪竣工(町志)

大正12年10月26日 今上御真影を奉戴(町志)

大正13年4月21日から、大阪府社会課の囑托により、鮮人教育を開始し、夜学一学級を増し鮮人教師一名と本校訓導二名が其教授の任に當つた。(町志)

 主たるものヽ第一は内鮮協和会今宮夜学校である。其目的は近時我大阪府下に於ては、朝鮮人の在住する者が遽かに増加し、其数今や四萬人に垂んとする欺態であるが、此遠来せる我が同胞の生活實情を見るに言語、風俗、習慣、教育等が内地とは著しく異るので、其多くは内地の事情に適応し難く、其求職及び居住の如きは甚しく困難と不便を感じて居る。かくして是等の我が同胞は、物質的にも精紳的にも生活上の幸輻を享受することが出来ず、極めて悲惨な境遇にあるのである。この現状に鑑みて、財団法人内鮮協和曾では、其事業として差當り最も必要と認められる共同宿泊所、職業紹介所、無料診療所等の機関を設け、叉此所に彼等のために夜学校を経営するに至つたのである。故に本校は大阪府下に在住する朝鮮人に小学校程度の教育を施し、彼等のために生活の利便を與へ、延いては内鮮融和の實を挙げんとする目的を持つものなのである。
組織は今宮第二小学校長奥本民藏氏が校長事務取扱の囑託を受け、同校訓導氷福恭一、牧野武夫の二氏と在留先輩たる安鐘ル氏とが教師を囑託されて、實地教授に當つている。
即大正13年4月21日開校式を挙げ、爾後毎日午後7時より9時迄、一週間の教科配當を次の如く規定して、教授を進めて来た。
学科目 一年生 二年生 三年生
修身 1 1 1
国語 7 7 5
算術 2 2 2
理科 1 1 1
鮮文 1 1 1
地理 1
歴史 1
12 12 12
授業料は徴集せず、学用品一切は給貸輿することにしている。
経過状況としては四月開校以来の出席を表示すれば次のやうである。
授業日数 入学数 退学数 在籍数 出席総数 欠席総数 日々出席平均 日々出席百中歩合
4月 8 96 0 96 454 121 56.75 78.96
5月 27 22 19 99 1367 1226 50.63 52.72
6月 24 19 55 63 879 384 36.63 69.60
7月 25 11 15 59 791 577 31.64 57.82
8月
9月 25 18 35 42 613 240 24.52 71.86
10月 24 30 15 57 967 229 40.29 80.90
11月 24 7 9 55 811 467 33.79 63.46
12月 19 21 27 49 385 328 20.26 54.00
1月 18 18 14 53 340 557 18.89 37.90
2月 23 23 22 54 331 591 14.39 35.91
 何と云つても、生活状態の安定しないが為に入退学とも頗る多く、要するに生徒の出入か頗る頻繁なのである。
 斯くして4月開校後一時は90名以上も収容した事があるが、其後漸々に減少して、現今では動かない者約30名を基準として、これに新入しては退学する者約10名内外づヽを上下してゐる状態である。
 成績を観察するに普通学校に学んだ経験のあるものはそれだけの素養があり、然らざるものも割合に漢学を修めた経験があつたりして、その上、何と云つても相當の年齢に違しているから理解が早く、進度は意外に早い。
 必要に迫られての上熟心なものだから、三年生ではすでに尋常五年の程度を完全に終了しようとするものが数名ある。(町志)
今宮第2小学校設備概要
設備年度 校地(坪) 校舎(坪) 普通教室
(坪)
特別教室
(坪)
運動場
面積(坪) 児童一人当面積
4年創立年度 797.50 220.50 210.50 17.00 318.00 0.38
大正5年度 797.00 木造二階建 184.50
平屋建附属 36.00
332.50 0.47
大正6年度 0.22
大正7年度 0.36
大正8年度 218.50 0.28
大正9年度 969.96 木造二階建 315.00
平屋附属建物 89.00
315.00 34.00 374.96 0.24
大正10年度 332.00 17.00 0.28
大正11年度 0.23
大正12年度 322.00 367.96 0.28
大正13年度
 末 現 在
970.00 木造二階建 315.00
平屋附属建物 96.00
385.00 368.00 0.26
今宮町志所収写真

今宮町志に見る当時の状況

住民の向学状況
 子供の本性から言つて彼等は最もよく、何の飾り気もなく家庭乃至環境の状況を反映するものであるから、茲には主として児童を通して一般住民の向学状況を推測して列挙することにした。蓋し夫れは可なり真に近いものだと信じたからである。
 惟ふに教育事業の不振は、大都市接続町村の一大特産物である。其の由つて来る原因は種々あるだらうけれども、ひしヽと迫り来る彼等住民の生活苦は主なるものヽ一つであることは言ふまでもない。衣食足りて禮節を知るとは千古否定されない真理であるから仕方がない。
で 彼等の生活状態を其の職業によりて先づ観察して見るの要がある。
△商業 438(商店 370、古物商 28、行商 40)△職工 142△運送人 135△職人 211△手傳 91△製造職 77△会杜員其の他 63△農業 27△船員 24△人夫 15△手仕事 11△人力車夫 9△店員 9△宿屋業 5△紹介業 4△葬具貸物業 3△按摩業 2△洗濯業 2△牧畜業 1△馬乗 1△無職業 127
 勿論此の数は本校に在学する児童の父兄乃至保護者の職業調である。從て全禮ではない。だから之を以て、直ちに校下住民の職業別表と云ふ訳には行かない。けれども以て一般職業的傾向は窺ふに足ると思ふ。
 今宮町の中で特に校本の下には、無産階級(下層生活者の意)が多い。全く其の日の生活に追はれてる者が主であると言つても良い。右の表に現はれた上から見ると、大変に名称が良くなつてゐるが、例へば、行商と言うた所で、空瓶を集めて行くもの、かりヽ屋、夜なきうどんとか言つた様なものなのである。是等は少しでも似た所、共通点を見出して同一種類の中に集めたが、實は上述の調査のみにても数十種の職業に分れている。
 斯うした職業的傾向から見て一般に経濟上貧困家庭の多い事は事実で其の中の多くは、地方に於ける労働忌避者か、或ひは浮浪労働者の集りであるともいへる。
 斯る家庭組織に於ては、家庭道徳の欠乏が甚しく、非教育的な環境が頗る多い。實際に於て子供を見てやらう、子供には学問させ度いと思つた所で、口を干して迄と言ふ意気込みもなく自然放擲に傾くのは是非もない。
 顧みられなくとも就学し得る子供は、まだしもだが、夫れすら能はざるものが年を追うて増加する傾向である。
就学児数 不就学児数 百中歩合
大正9年度 4,775 39 99.29
大正10年度 5,224 142 97.71
大正11年度 6,096 299 95.97
大正12年度 6,749 1,103 85.95
 斯うし表は何を意味するか。(尤も本表は今宮町全体である)恒産なきものは恒心なしといふが、彼等の転々浮草のやうな生活は、次の表に依つても窺はれる。
途中入学 途中退学
大正9年度 334 297
大正10年度 392 633
大正11年度 365 914
大正12年度 420 230
 尤も本表中、大正10、11年度には今宮第四第五校増設によるとは言へ、其の一般の傾向を推すのに難くはない。加之7月、12月も押し詰つて入退学があり、或ひは学年末も僅か旬余日になつても、まだ入退学があるのである。余儀ない事情もあるかも知れないが、随分無鉄砲なことで甚しいのは学期末に入学して翌新学期早々に退学すると云ふ様な例も少なくない。
 非教育的な家庭に育ち、環境に弄ばれつヽも登校する児童の出欠表を示して見よう。
日々出席平均 同上欠席平均
大正9年度 1,164.56 194.05
大正10年度 1,275.92 125.47
大正11年度 1,767.03 106.37
大正12年度 1,249.34 93.41

本表によると、年と共に其の歩合は幾らか善くなつている様にも思はれる。

併し連続欠席児童の多いのには驚かざるを得ない。勿論夫れには教師の督促不十分なのもあらうし、叉病気の者もあらうが、或季節児童を欠席させ、家庭の手助けに使用し、叉夫れ等の学童を雇傭する者も少くないことは、是亦已むを得ざる所である。甚しきは一学級に永欠児童が四五人もある。

だが一方皆精勤児童数のいくらかづつでも、増加し行く傾向も決して見逃し得ない。
皆精勤児童数
皆勤者 精勤者
大正11年度 106 214
大正12年度 122 267
大正13年度(予定) 112 377
全児童数に対して若干の増加である。
尚卒業児童の直後の方向を見るに
卒業生 中等校 高小学 其他
大正9年度 127 5 38 84
大正10年度 133 6 50 77
大正11年度 123 16 49 58
大正12年度 142 15 57 70
斯うして牛の歩みは如何に遅くとも、子供の学に就く傾向は晩蒔乍らも、徐々に覚醒め行くのが認められる。
社会的教化事業
 学校と社会との教育的連鎖としての青年団、処女会、父兄会、教育後援会・・・之等については他の項に於て詳細説明する所あるを以て、ここでは省く事にする。只一言すべきは是等の事もまだヽ大活動の域に達して居ないことである。勿論是等の事は、其の衝に當る者の指導勧誘の當否等に因る事も大であるから、一概に向学傾向を云々して、彼等をのみ責むるのみでは足りないのは言ふ迄もないことである。
 然し真実彼等が教育の事を慮かり学校教育が教育の全部でないと云ふ事に覚醒めたならば、あらゆる事業は円滑なる発達を得、活動の範囲も從て拡張するであらう。
 要するに今に校下住民の向学傾向は目下の所、原始時代だと言つて良からう。さうして最近僅かに曙光を認め得たと云ふ丈けであるのを遺憾とする。
 前にも言つた如く経済関係と向学状況とは余程重大なる関係に在る。一般経済界不況であつて、為めに深刻なる生活苦に追はれて居る場合の如きは、其の局に当るもの一層深甚の注意を払うと共に誠意ある彼等の指導啓蒙に努むべきや言ふまでもない。

昭和9年9月 室戸台風 木造校舎一棟 半壊(区史)

昭和16年 今宮第二を長橋国民学校と改称(区史)

昭和19年年9月7日 第1次学童疎開  泉南郡孝子・淡輪・下庄・西鳥取四ヶ村(266名)(区史)

昭和20年5月13日 第2次学童疎開 島根県飯石郡貴島村(136名)(区史)

昭和20年11月12日 学童疎開解除(区史)

昭和21年3月 開国民学校休校により同区域統合(区史)

昭和252933年の各年戦災教室復旧並びに増築(区史)

昭和26年1月1日現在(区政誌)

校 名 生徒数 教職員数 所在地 通学区域
長橋 1,263 33 鶴見橋北通4丁目4 鶴見橋北通2−5丁目、南・北・中開2−5丁目・長橋・出城通2−9丁目

昭和38年  プール竣工(区史)

昭和43年 現況 所在地 鶴北4丁目4  敷地 7,564u  建物 1,956u(区史)

西成区史所収写真

平成24年4月1日現在 通学区

中学校 小学校 町名 番地 番地詳細
鶴見橋中 長橋小 北開 1丁目、2丁目
鶴見橋中 長橋小 中開 1丁目 3番
鶴見橋中 長橋小 中開 2丁目、3丁目
鶴見橋中 長橋小 南開 1丁目、2丁目
鶴見橋中 長橋小 出城 1丁目 3番〜9番
鶴見橋中 長橋小 出城 2丁目、3丁目
鶴見橋中 長橋小 長橋 1丁目 7番〜13番
鶴見橋中 長橋小 長橋 2丁目
鶴見橋中 長橋小 長橋 3丁目 1番、2番
鶴見橋中 長橋小 長橋 3丁目 4番 1号〜5号、6号の一部、21号の一部、23号〜29号
鶴見橋中 長橋小 長橋 3丁目 5番 1号〜5号、6号の一部、23号の一部、24号〜34号
鶴見橋中 長橋小 長橋 3丁目 6番〜9番
鶴見橋中 長橋小 長橋 3丁目 10番 1号〜5号、6号の一部、'31号〜38号
鶴見橋中 長橋小 長橋 3丁目 11番の一部
鶴見橋中 長橋小 鶴見橋 1丁目 9番〜11番
鶴見橋中 長橋小 鶴見橋 1丁目 13番 17号の一部、18号〜21号
鶴見橋中 長橋小 鶴見橋 1丁目 17番 5号〜7号、8号の一部、27号の一部、28号〜39号、40号の一部
鶴見橋中 長橋小 鶴見橋 2丁目 1番〜3番
鶴見橋中 長橋小 鶴見橋 2丁目 11番 1号〜5号、28号の一部、29号〜35号
鶴見橋中 長橋小 鶴見橋 2丁目 12番 1号〜9号、10号の一部、24号の一部、25号〜36号