第六編 教育=西成区政誌−1951(昭和26)年4月刊

一 編入以前

 維新前は諸藩が武家の子弟のために藩営の教育機関を設けたものが多かつたが、幕府直轄領であつた大阪はこのような機関はなく、その代り庶民のために読み書き・手習い・算盤を教える寺小屋式の私塾が多かつた。
 明治5年8月太政官布告214号によつて全国に学制が発布せられ本区に初めて玉出小学校が勝間村の長源寺に仮教場を置いて、その名も「第六大区一小区第三番小学校」として明治6年2月に弧々の声を上げた。
 続いて同年3月弘治小学校の前身が今宮村役場の楼上に発足して「西成郡第一区此度区中第一番小学校新規建営ニ付為資費金弐百四下遣候事」
 と翌年2月1日付大阪府権知事渡辺昇の名儀で下付せられ、これに村費879円25銭を加えて間口五間・奥行十間の校舎が建つたのも今は昔の話。
 続いて同8年に津守校・同10年に粉浜校が開校し、
 その後上等・下等の各等八級、毎級の修業期限六ヶ月制から、同15年には初等三年・中等三年・高等二年となり、
 同19年の勅令によつて尋常四年・高等四年とし、六歳から十四歳の八ケ年を学齢として子弟の教育を義務とした。
 明治23年10月には教育勅語が出て、更に同40年には尋常を六年に延長せられ教育の強化とともに人口もまた、著しく増加し、大正14年の市域拡張によつて西成区が誕生した時には小学校も今宮町五・玉出町三・津守村二・粉浜村一の計11校となつた。
 本区内で最初の幼稚園は、大正2年に創立した田端通一丁目の私立開花幼稚園で、続いて長橋通一丁目の不二幼稚園、市立では粉浜本町二丁目の粉浜幼稚園が大正13年に創立せられている。
 旧制中学校では現在の今宮工業高等学校が大正3年府立職工学校分校として発足し、同5年に独立して今宮職工学校となつた。
 戦災で廃止された今宮図書館は、今宮町で文庫の形式で図書を購入していたものを、大正11年館則を定めて同年8月に開館せられたものである。

二 編入以後

 明治40年来の懸案であつた教育の機会均等は、編入当時の関係町村が合併同意の条件の一つであつて、昭和2年学区制が廃止せられ、中央部の持てる学区と周囲部の持たざる学区の矛盾が是正せられた。
 大正14年10月に北津守校・昭和2年に松宮校・同5年には開校と東粉浜校の2校が新設せられて計15校となり、幼稚園も市立玉出・私立今五・今六・信愛・昭和と計8園となつた。
 たまたま、昭和9年9月21日の風水害により、北津守校全壊し、長橋・南津守・粉浜・天下茶屋の各校半壊した。殊に千本小学校では児童9名死亡し、84名の重軽傷者を出した。
 同年10月実業補習学校の実用的な面と、青年訓練所の精神教育面を採り入れて青年学校令が布かれ、各小学校の他に大きな工場に私立青年学校が15校も設立せられた。またこの年津守裁縫学校が高等家政女学校に昇格せられ、同13年には梅南校と私立旭幼稚園が生れ、施設の最も充実した時代であつた。
 支那事変によつて国民の生活に軍国調が浸透し、太平洋戦争に先立ち、同16年4月には独逸教育を範として小学校を国民学校と改称した。
昭和18年の区域変更により粉浜の2校が住吉区え、新たに天下茶屋校が本区え移管せられたが山王地区は依然として阿倍野区の金塚校え通学することとなり、種々の面で今だに不便をかこたれている。
 戦況漸く苛烈となつた昭和19年秋頃から学童疎開が開始されたが、本区は大阪市の南部に位する関係上、府下泉南郡及び和歌山県下に疎開したのである。
 すなわち弘治校は泉南郡日根野村に 長橋校は同郡孝子村・淡輪町・下荘村・西鳥取村に、萩之茶屋校は同郡樽井町・西信達村に、開校は同郡信達村に、今宮校は同郡尾崎町・鳥取ノ荘村に、北津守校は貝塚布水間町に、橘校は和歌山県海草郡紀井村・川長村・山口村に、千本校は同郡安原村・亀川村・巽村に、津守校は同郡加太町に、南津守校は同郡有功村に、梅南校は同郡西和佐村及び和歌山市紀三井寺に、松宮校は同県有田郡箕島村に、玉出校は同郡湯浅町・広村・田殿村に、天下茶屋校は同郡鳥屋城村・御霊村・石垣村に、岸里校は海南市に疎開したのであるが、多くは寺院を教場兼宿含に充て、困苦欠亡に耐えて勉学に精進したのである。
 後ち、昭和20年5〜6月頃には長橋校は島根県飯石郡来島村に、梅南校は滋賀県甲賀郡土山村に岸里校は同郡狭山村に、津守校は同郡伴谷村に再疎開している。
 昭和20年の戦災で各校の半数と各校下は多くの災害を受けたのであるが、特に開国民学校はその校下の大部分が戦災を受け焼失したので閉鎖されることとなり、また、幼稚園では玉出幼稚園を除いては全部閉鎖せられた。
 終戦になつて各校ともそれぞれ疎開先から復帰したが、窓ガラスが破損し、また、戦災校では教室が不足していたので、講堂を仕切つたところで寒い風に手を凍らせて勉強する学童の姿は実にいたいたしかつた。

三 終戦以後

 新しい日本の門出にあたつて、教育民主化の方式が本格的に論議せられ、昭和21年3月米国教育使節団の訪日を契機として、同22年3月教育基本法及び学校教育法が公布せられ、いはゆる、六・三・三・四制が確立して、新学制実施協議会によりその整備を図つた結果、本区に天下茶屋・今宮・成南の各新制中学校が生れたが、翌年更に鶴見橋中学校が設立せられ、府立今宮職工学校は府立今宮工業高等学校となり、津守高等家政女学校は南区の御津商業高等学校と合併せられた。また、目下建設計画の進められているものに第五中学校があり昭和26年の就学期には竣工の予定である。
 「不当な支配に服することなく国民全体に対し直接に責任を負つて行われる」ことを目的とした教育委員会法は、昭和23年7月公布施行せられ、教育の地方分権が実現せられた。また、同年6月からPTAが正式に発足し、先生を中心とした従来の単なる後援会を解消して、区民のための真の民主的教育行政が実施せられることとなつた。
 続いて同24年には市立津守幼稚園と私立聖心・鶴見橋幼稚園が設立せられた。
 次いで同年3月から一般市民を対象として民主主義の理解と日常生活えの浸透並びに文化的教養の向上を図るため、いはゆる成人教育が実施せられ、全小学校を会場として法律・政治・労働・経済・公共福祉等について講習会が実施せられている。
 更に学校教育・社会教育に加えて教育改正の特色は健康教育の実施で、学校給食・駆虫対策とともに体育厚生協会が組織せられ、会社・学校・クラブ・個人等多数の会員により各種のスポーツやリクリエーションが催されている。
 その他特種なものに、古い話では大正の始め頃、中等学校入学受験準備のため玉出予備校(原文=予章黌)に学んだ人も多く、昭和五年に鶴見橋通二丁目に関西高等理髪学校が設立せられ同17年八尾へ移転し、また昭和2年に義務教育を受けられない者のために甲岸町に徳風勤労学校が設けられ、梅南通の朝鮮人小学校は、昭和23年の全国的な閉鎖問題から正式に認可を受けて、金剛小学校として再出発し、潮路通二丁目には時代の脚光を浴びて天下茶屋洋裁女学校が誕生したのである。

四 PTA

 PTAの起源はアメリカで南北戦争の起る直前の1855年頃、子供の幸福・子供の教育のためには、父母と先生とが密接に協力し、子供の生活のなかにとけこまなければならないという新しい教育的な考えから起つたもので、職後わが国の教育方針が確立せられ、本区においても昭和23年6月から、先生を中心とした従来の後援会を解消して、幼稚園2・小学校14・中学校4・合計20校のPTAが正式に発足し、更に相互の連絡を図り、健全な発展を目的として昭和24年10月西成区PTA連絡協議会が結成せられ、極めて民主的にうまく運営されている。

五 成人教育講座

 昭和21年3月アメリカ教育施設団の訪日を契機として、教育基本法及び学校教育法が公布され、いはゆる六・三・三・四制が確立されたが、続いて同24年6月に社会教育法が公布され、新教育の特色の一つである社会教育が採り上げられることとなつた。成人教育講座はその具体的な現われとして、使節団の報告文中「広範囲の成人教育計画は、その人的資源の最高度の発展を求める社会に、必要欠くべからざるもの」との勧告により、PTAを中心として昭和24年4月から実施せられたもので、これは民主主義原理の理解と日常生活への浸透・市政の普及・文化的教養の向上を目的とし、本区においても区内の有識者・教官を講師として法律・政治・経済・公衆衛生などについて講習会を実施し、昭和24年度における開講数は、法律政治86・経済労働56・公衆衛生41・公共福祉30・公民教育43・視覚教育20・其の他13・計289回、年間受講者延人員2万3669名に達し、昭和25年に入るとともに受講者の数は増加の一途を辿り、加えて3月より指導者講習会等を開き、更に社会教育団体の有識者をもつて組織された西成区成人講座運営委員会の推進と相俟って、その成果は多大の期待をもつてみられている。

六 体育厚生協会

 本市においては市民の体育運動の健全な発達と明朗な心身の育成を図るため、昭和21年6月大阪体育同好会が組織され、本区においても同じく町会時代の体操指導者を母体として体育愛好家の会を設けることとなつたのである。これが本市における終戦後の市民を対象とする体育運動の最初のものであつた。
 その後、昭和22年8月市衛生局に体育課が新設せられ、第一回市民綜合体育大会が11月16日から12月13日までの間に行われた。
 翌23年2月には大阪市体育厚生協会が生れ、同年5月には本区にも市の協力機関である西成支部が設けられ、支部長・.副支部長・その他の役員や各校下及び職域団体から委員が選ばれて委員会も置かれた。
 同年8月には支部結成紀念行事として、軟式野球大会とマラソン大会が挙行された。マラソン大会は8月1日に本区役所前の南北道路国道16号線で行われ、野球大会は、同月1・7・8日の三日間大日本紡績の津守球揚で行われた。区内各地区から選出された9チーム(梅南・千本・天下茶屋・北津守・岸里・玉出・津守・萩之茶屋・今宮)によつて争われたが、津守チームが31で梅南チームを破り優勝した。また、10月3日には女子ソフトボール大会が、西成第一中学校において4チーム(橘・梅南・長橋・津守)で争われ、橘チームが2A(原文ママ)対1で長橋チームに優勝している。
 爾来本支部は大阪市体育厚生協会の事業に全面的に協力しているが、うちでも毎年の行事である市長杯争奪各区対抗水泳・卓球・相撲・陸上・軟式野球競技大会には必ず区内加盟団体の優秀チームから予選を行い代表チームをそれぞれの大会に送つている。
 過去に壱ける成績中の一・二を挙げれば、水泳では昭和25年9月の第三回大会では男13人・女7人の選手を送り32点、第4位を占め、同年11月の相撲大会では杉本章選手が個人戦に優勝している。軟式野球大会では昭和23年にオール西成、同24年に共和ゴム・全西成クラブ、同25年に西成キングを送つたが、23年のオール西成は優勝戦で、旭第一クラブを1A(原文ママ)対0で破り優勝したのである。
 昭和25年8月12・13両日扇町国際プールにおいて行われた日米対抗水上競技大会はスポーツを通じての国際親善に資するほか、一般市民のスポーツに対する関心を深あるところが多かつた。
 当区における体育厚生協会西成支部も昭和25年4月大阪市西成区体育厚生協会に改められ市の体育事業に協力するかたわら、区独自の市民体育運動の計画が樹立されている。

七 婦人会

 わが国において婦人運動の胎動をみたのは明治中期のころからであるが、全国的に愛国婦入会が結成されたのが、わが国婦人団体運動の初めである。
 その後昭和4年国防婦人会が結成され、二つの婦人団体が併行してわが国婦入運動の主流をなしてきたのであるが、昭和16年8月にいたり、これが合同の大日本婦人会の誕生をみたのである。この大日本婦人会は太平洋戦争中は、わが国婦人運動の主流をなし活動していたのであるが終戦に伴い他の団体とともに解散されたのである。
 本区においては大日本婦人会が解散されたので、新婦人運動団体の必要にせまられ、昭和21年10月1日大阪市西成区婦人会の結成をみたのである。その役員には町会聯合会の婦人部長をもつて充て、町会聯合会長は参与とし、会員も611人に上つたので、同年10月7日弘治小学校校堂において盛大な結成式を挙げたのである。
 昭和21年中の行事としては、電気講習会二回開催し、同22年には講演会・座談会等を開催し、また、和歌山刑務所をも見学して着々事業を進めつつあつたが、同年5月3日に至り町内会部落会またはその連合会等が解散され、就職禁止その他の制限の発表があつたので、その活動も消極的となり、その事業も停止状態に入つたのである。
 その後昭和24年3月16日に至り日本の民主化と世界平和に役立つことを目的とする大阪市新生活婦人協議会西成支部が結成され、支部長・副支部長・その他の役員が選ばれ、各校下に地区委員会が設けられたのである。これが現在本区にあける新婦人運動展開中の大阪市新生活婦人連絡協議会である。
 本協議会の昭和24年中の行事の主なるものは、放送局見学・講演会開催・優生移動展覧会開催等で、同25年中には妊婦栄養料理及び離乳期食の講習会ほか三件の講習会が開催せられ津守下水処理場の見学や結婚生活と離婚問題の講演会等にも参加している。

八 聖徳育英会

 本会は健全な精神と健康な身体をもちながら、学資の続かないため、その優秀な素質を伸ばせない若い学徒のために、学資を援助し勉学に精進する機会を与え、有為の人材を養成する目的をもつて、昭和16年4月創立されたものである。
 本会の事務所は弘治小学校に置いている。歴代の校長が奉仕心をもつてその事務を取扱い、過去数ケ年間区内の多くの要援助学徒に援助の手をのばして、中等学校に通学させてきたのであるが、昭和22年4月新学制が実施せられ、中学校が義務教育となつたので、これを機会に本区内の学徒に限らず大阪全市の高等学校以上の学徒にも援助の手をのばすこととなつたのである。現在感謝の勉学を続けているものは中学校6人・高等学校10人・大学5人の21人である。
 本会の創立動機は、たまたま、昭和15年11月本区西萩町米田産婦人科・米田徳次郎氏が、紀元二千六百年の祝典にあたり、大阪府民の代表として、両陛下の間近に賜餐の光栄を得、威激したことに始つたのである。同氏はこれを機会として「医は仁術だ、だがそれで得た報酬をさらに世の中の役にたてることが出来たなら……」とのかねてからの念願をこの教育事業である聖徳育英会の独力創立に具体化されたのである。
 爾来同氏は援助学徒の育成をわが子の育成の如く嬉び、たまたま、一堂に会しての懇談の一ときを過すことは、同氏唯一の楽しみである。なお同氏は古くから司法保護委員として、司法保護事業に尽力せられ、現在は西成保護区の成人保護司会長として、刑余者のよき相談相手であり、区内の成人保護観察その他の司法保護業務に尽力されている。

九 学校幼稚園一覧表  (昭和二十六年一月一日現在)

一 高等学校(一校)
校 名 公私立別 生徒数 教職員数 所在地 通学区域
今宮工業 府 立 昼間   985
夜間   693
定時制  375
83
57
22
西四条2丁目1 阿倍野区・住吉区・西成区・浪速区
二 中学校(四校)
校 名 公私立別 生徒数 教職員数 所在地 通学区域
天下茶屋 市立 1,059 39 柳通2丁目1 橘・天下茶屋小学校の区域
今宮 1,246 43 東四条2丁目28 弘治・萩之茶屋・今宮小学校の区域
成南 1,520 53 新開通3丁目20 玉出・岸里・千本・南津守小学校の区域
鶴見橋 1,290 48 長橋通9丁目4 長橋・松宮・梅南・津守・北津守小学校の区域
三 小学校(一五校)
校 名 公私立別 生徒数 教職員数 所在地 通学区域
弘治 市立 1,433 36 花園町8 梅・梅南・旭南通1・2丁目・旭北・鶴見橋通1−3丁目・西萩町・花園町
長橋 1,263 33 鶴見橋北通4丁目4 鶴見橋北通2−5丁目、南・北・中開2−5丁目・長橋・出城通2−9丁目
萩之茶屋 771 24 甲岸町2 鶴見橋北通・長橋・出城通・南開1丁目・東四条・西四条1−3・東田・東入船・西入船・甲岸各町・東萩町(2−8)・海道・今池町(除く今宮校下)
今宮 1,296 37 三日路町15 苔山・南吉田・北吉田・南神合・北神合・東今船・西今船・曳舟・三日路各町・今池町(40−60)・海道町(13・15・17・45・46・52−54・57・58)・東萩町(除く萩之茶屋校下)
1,608 45 橘通5丁目6 松通1−6丁目・橘通1−9丁目・桜通り1−8丁目・柳通り1−7丁目
松宮 1,309 35 旭北通7丁目7 鶴見橋北通1−8丁目・鶴見橋・旭北通4−8丁目・旭南通3−9丁目
梅南 777 25 梅南通6丁目1 旭南通3・4丁目・松通7−9丁目・梅・梅南通3−9丁目
玉出 1,172 36 姫松通2丁目17 玉出本通1・2・3・4(44−99)・5(除く南津守・千本校下)・岸松通2・3丁目・玉新・辰巳通1−3丁目・姫松通1−5丁目・粉浜東之町・粉浜西之町・南海通2丁目(22−39)
岸里 1,397 36 新開通1丁目19 田端・南海通1・2丁目・新開・汐路・岸松通1丁目・千本通1−4丁目・東皿池町・西皿池町・有楽町・天下茶屋3丁目・天神森2丁目
千本 1,619 45 千本通6丁目20 玉出本通4(1−43)・5(1−38・110−111)・ 1丁目・新開2−4丁目・汐路通2-5丁目・玉新通4・5(1−78・82−92)丁目・千本通5・6・7(1−28)丁目・田端通3・4・5(1−29)丁目
津守 633 22 津守町416 津守町76−93・134−144・314−362・367−394・401−528・793−759・768の2−870
南津守 471 18 津守町194 玉新5丁目(77−84)・玉本5丁目(117−128)・姫松5丁目(30−34)・辰巳3丁目(9−27)・千本7丁目(29−34)・田端5丁目(30−33)・津守町1−75・94−133・145−313・363−366・395−399・796−833・桜井町・元加賀屋町
北津守 437 18 津守町558 津守町528−787・863・871−873・867−868の1・874−974
天下茶屋 1,494 40 聖天下1丁目67 天下茶屋1・2丁目・松田町1・2丁目・聖天下1・2丁目・天神森1丁目
金剛小学校 私立 190 9 梅通5丁目5 なし
四 幼稚園(4園)
園 名 公私立別 園児数 教職員数 所在地 通園区域
玉出 市立 183 10 姫松通2丁目17 なし
津守 141 7 津守町416
聖心 私立 40 5 天下茶屋3丁目67
鶴見橋 83 3 鶴見橋通8丁目8

備考 山王町1・2・3・4丁目は小学校は阿倍野区金塚小学校、中学校は阿倍野松虫中学校が通学校である。