津守町の町名・区域変更

大阪市公報  1951(昭和26)年115日 号外第1
大阪市告示第6
本市西成区及び旭区内における町名並びに町区域を、左記の通り改める。
なお各町の地番は同時日をもつて所轄大阪法務局並びに同局上町出張所において更正される旨の通知があった。
昭和26115日  大阪市長 近藤 博夫
町名並びに町名域変更
西成区
現在町名      津守町の一部
改称又は区域変更町名
津守町東 自一丁目 至七丁目津守町西 自一丁目 至六丁目  と 改称する
適用 
津守町東西の新境界線は各四丁目までは現在の津守町北部を南北に通ずる水路(一部南海鉄道高野線を利用)とし各五丁目以下は市電阪堺線とする
現在町名      津守町の一部・北加賀屋町の全部
改称又は区域変更町名
津守町東 八丁目津守町西 七丁目 八丁目 に 編入する
適用 
東八丁目は東部に西七丁目は北部に西八丁目は東部にそれぞれ隣接する区域

 1951年の津守町の町名地番改正について『西成区政誌』(1951年)は、以下のように解説している。

『津守町は面積505400坪あり、束西はわづかに六七丁に過ぎないが、南北は一里八丁余に及び、その形は恰も帯状をなすところの広陵たる地域を占めている。ところが、この地域は未だ区画整理が行われず、地番はすでに1100番以上に及び、しかも之が枝番に分れて全く錯綜した状態にあつたため、行政上にもまた、社会生活上にも甚しく不便を来していたのである。こうした不便な状態にあつたため自然地元においては北津守・津守・南津守というように、通学区域が定められ、行政上その他凡ゆる場合にこれに準拠するようになつていたが、根本的な地番の整理には未だ手がつけられていなかつた。そこで昭和25年度に入り市はこれが地番の整理をすることを計画し、地元関係者の意見を求め種々調査の結果、南北に縦貫する電車線路を境界として大体東西に二分し、東西は各々北より八丁目に区画し、さらに新たに番地を整理することと定め、昭和251128日の市会において決定し、同26115日告示の上実施することになったのである。』

 『区政誌』にいう「北津守・津守・南津守という-通学区域」の成り立ちは、『津守村誌』に詳しい。

 1872(明治5)年8月学制発布、18751015日に津守新田字東島に第二中学第六区一小区八番小学校創設。後津守小学校-玉津小学校-玉津簡易小学校-川南村津守簡易小学校-津守尋常小学校-津守尋常高等小学校-第一尋常小学校。
 「(津守新田)其の地形南北に長く、其の延長実に一里八町余に及び、一村一校のみを以てしては児童の通学上頗ぶる不便なるものあり、ために南部の児童中には隣村粉濱村長尾尋常高等小學校に通学する者多かりしかば」
 1922(大正11)年4月 字南島に分教場設置。-校舎増築し第二尋常小学校。
 1925(大正14)年4月 字北島に第三尋常小学校新築
  第一から第三までの所在地が、「字東島、字南島、字北島」で、区政誌の「北津守・津守・南津守という通学区域」に対応しているようだ。

大正期の地図をみても、字名で標記された区域を読み取ることができる。

地図で読み取れるだけでなく、日常の生活でも「住所書き」として活用されていた事も確認できる。

例えば『帝国銀行会社要録 - 大正14年版』では、

「合資会社 木津川三星商会  西成区津守町北島   コークス石炭製造販売  

合資会社 木津川伸鐵所   西成区津守町北島」を見ることができるし、

大阪市統計書(第28回・昭和4年)でも、

「 第6 土地売買推定価格(田) 昭和五年一月一日現在 

西成区津守町北島   売買価格 7,500円  法定地価 60

西成区津守町東島   売買価格 6,000円  法定地価 60

西成区津守町南島   売買価格 3,000円  法定地価 38円」

 津守町の下に字名を付けた住所書きを確認することができる。

地図で読み取れるだけでなく、日常の生活でも「住所書き」として活用されていた事も確認できる。

例えば『帝国銀行会社要録 - 大正14年版』では、
「合資会社 木津川三星商会  西成区津守町北島   コークス石炭製造販売  
合資会社 木津川伸鐵所   西成区津守町北島」を見ることができるし、

大阪市統計書(第28回・昭和4年)でも、

「 第6 土地売買推定価格(田) 昭和五年一月一日現在 
西成区津守町北島   売買価格 7,500円  法定地価 60
西成区津守町東島   売買価格 6,000円  法定地価 60
西成区津守町南島   売買価格 3,000円  法定地価 38円」

 津守町の下に字名を付けた住所書きを確認することができる。

にもかかわらず、なぜ、「区政誌」は、「地番のみで場所の特定ができにくい状態にあった」としているのであろうか。

 「西成区史」5ページに、「大正144月第一次西成区発足当時の町名」が紹介されている。

それによると、「今宮町内(旧大字名のまま)」として「南吉田・北吉田-柳通」が掲げられているが、「津守村内は津守町、玉出町内は玉出町、粉浜村内は粉浜町」としているだけで、「字名」が掲げられていない

 『玉出町誌』でも、地番整理が行き届かないことが嘆かれている。

「当町には従来十有余の俗称小字名ありたれども之とても  一部土着民の頭脳に潜在せるのみにして一般人にはほとんど顧みられずして全町唯一の地番を呼べるに過ぎず、しかも比年増加せる移住者並びに外来者が目的の番地を捜索するは固より至難のこと」

『粉浜村誌』では大字を置かない理由が明らかにされている。

「本村は昔時中在家、今在家の二村に分かれたるも、明治22年町村制の実施に先立ち、同193月両村合併して粉濱村を樹立せるがため、村内に大字を置かず全村を一単位となし、もって地番を附するのみ。然れども村内には二十有余の地字を存す。
――一般村民の之を用うるもの少なく、村民は多く中在家、今在家、新家の称によって区別するを常とせり。中在家、今在家は旧村名、新家は村名でなく両村の属邑、紀州街道沿いにできた一村落をかく呼ぶ」

津守新田は、町村制実施の時に木津川沿い新田を束ねて「川南村」が組織された時に、「川南村字津守」となったと思われるが、明治30年大阪市第一次市域拡張時に、木津川東の津守新田は除外され、「津守村」となった。字名が村名となったので、今宮町のように小字名が大字名として取り扱われることがなかったということなのだろうか。

あるいは、町の下に大字はあるが村の下には大字はないということだろうか。では、玉出町はどうなのか、ということで、疑問は深まる。

いずれにしても、行政上の取り扱いとは別に、俗称としての小字名は、生活の必要上、長期にわたり、広く活用されたと思われる。

通学区を参照した「住所」の整理は、1973年西成区町名地域変更で採用されることになる。