今宮・字(あざめい)変遷攷

本間 啓一郎 199477

Abstract

 これは『釜ケ崎小史試論』への補遺のひとつである。

 釜ケ崎が、今宮あるいは今宮町の行政上の小字名として存在したことは、明治期の地籍地図、土地台帳、さらに大正期の大阪府公報によって明らかであるが、字名の変遷については今まで余り検討されてこなかった。
 今宮の字名の変更は、大阪府公報のレベルでは1922(大正11年のものしかないが、後述するように明治末期の『地籍地図』記載のものと比較すると不審な点がいくつか見られる。これについては、従来あまり注目されてこなかった。他の資料との突き合わせが必要である。

1 基本データ

 戦前の『今宮』の字名に言及した資料はいくつかあるが、その中でも重要と思われるのは次の2種の資料である。すなわち一つは1911(明治44)年刊行の『大阪地籍地図』であり、もう一つは1922年(大正11323日の大阪府公報である。
 『大阪地籍地図』は1911730日、吉江集画堂地籍地図編輯部によって編纂・刊行されたもので、土地所有及びその利用状溌が一目瞭然の記述である。
 1922年大阪府公報には同年4月より新たな町名が発足するとして、従来使用されてきた大宇今宮、大字木津の小字名及び新町名がその対応関係も含めて記載されている。そして、この新町名が戦後(1973(昭和48)年)まで使用されるのである。
 またこの二つのデータとともに近代の今宮を考える上で欠かせないのが、『今宮町志』である。(参考:今宮村字名地図

1-1 『大阪地籍地図』

この地籍地図が示している土地の状態・所有関係を1911年の刊行時点のものとするには幾つかの問題点がある。
たとえば、『大阪地籍地図 南区土地台帳』の凡例には次のようなくだりが見える。
 地籍図ナルモノハ 恰モ 人ニ戸籍アルガ如ク 土地ハ所謂台帳ト地図トニ依リ其籍明カナリ 而シテ 地籍ハ土地開墾変換分割地域改良、其他ノ異動ニ付 地主ノ申告ヲ待チテ 之レガ手続ヲ 其筋ニ了セラルヽノ外 権利ナキ他人ハ何人ト雖モ 之レガ改訂ノ自由ヲ得ベキモノニアラズ 之レ 人ノ生死縁組等ガ 権利者ノ申告ニ依リ 戸籍吏ノ手ニ整理セラルヽト一般ナリ 故ニ 往々実地ト合致セザル所アルモ 全ク権利ナキモノハ 仮令 一筆一画ノ線ト雖モ左右シ得ベキモノニアラズ 随テ 編者ハ図自実地ト不突合ノ箇所ヲ認知スルモ 前記ノ理由ニヨリ 如何トモ改筆スル事能ハザルヲ大ニ遣憾トス
 ここでは、地主の申告が実地の変化に即して行われていないことが指摘されている。つまり19117月時点での土地利用・所有開係がそのまま表示されているわけではないのである。換言すればある地域では5年前の状態が表示され、また別の地域ではより古い状態が示されているわけである。いくつか例示してみよう。
 19113月に終了した第一今宮耕地整理事業(これについては後述する)後の変化が表示されていない。
 同様に日露戦争時の土地収用(ロシア兵捕虜収容所等)による土地の変化(これについても後述する)が表示されていない。
 萩之茶屋駅の表示(1907・明治401220日設置)がないこと。ただし1900(明治33)年10月に開通した南海天王寺-天下茶屋線は表示されている。
 さらに、正楽寺(1908(明治41)年転入)の表示もない。
正楽寺について『大阪府全志』(井上正雄著。1922年刊行)は次のように記している。
 正楽寺は字三日路にあり、真宗西本願寺末にして阿彌陀佛を本尊とす。開基勝有は本願寺良如法主の直弟となり、大坂玉手町に創立し、安政二年十三世勝玄 今の西区南堀江下通二丁目に移り、明治四十一年五月二十三日更に当所に転来せり。境内は弐百参拾坪を有し、本堂・庫裏・長屋門を存す。
(また今宮尋常小学校(現在の弘治小学校)が三日路から花園へ新築・移転されたのは1906(明治39)年であるが、その新校舎は表示されている。なお、学校は東道、苔山、永草にも表示されている。)
 以上の点を踏まえると、この『地積地図』中の今宮村の状況は、おおむね南海天下茶屋線開通以降、日露戦争前での時期の状態を表示していると考えられる。すなわち1900年から1904年頃までの土地所有関係を表していると考えられるのである。
 なおこの『大阪地籍地図』には「地籍地図」そのもの、「土地台帳(南区)」、そして南区土地台帳に付された「南区及接続町村地図」がある。
 この3種の資料には幾分異同がある、たとえば大字木津の土瓶川は「土地台帳」や「接続町村地図」には明記されているが。「地籍地図」中には地番のみが表示されているにすぎないし、同じく大字木津の南川岸にいたっては「土地台帳」のみの記載であり、「地籍地図」、「接続町村地図」には表示されておらず位置の確認ができないのである。(注:後述するように、第一次大阪市市域拡張より木津村の一部(関西鉄道以北)が太阪市に編入されるが、そのなかに北川岸なる小字名がある。おそらく、南川岸と対の関係にあるものと考えられる。)
 また字長草も「接続町村地図」上での記載はない。永草の記載はあるものの、位置から見れば長草の誤記であろう。
 四条という字名が「接続町村地図」には見られるが「土地台帳」及び「地籍地図」では確認されない。「接続町村地図」で長柄とあるのは長橋の誤記であろう。

1-2 1922年大阪府公報

 大阪府公報は今宮町(1917(大正6)年町制移行)の町名変更を内容としたもので、大字今宮及び大字木津も同時に廃止された。
 つまり大阪地籍地図字名及び22年大阪府公報旧字、22年大阪府公報新字の3種の字名があることになる。
 22年大阪府公報新字は第二次大阪市市域拡張(1925(大正14)年)時には新たに第一次西成区内の町名として存続したが、その際「通」がついていた町名及び開、東西の四条はそのまま、そしてその他の字には町が付されることになった(吉田→吉田町等)
 「地籍地図」による字名がいつ変更になったのか、今のところ府公報のレベルでは不明である。ただ22年大阪府公報旧字は今宮耕地整理事業を前提としたものであるので、1911年以降のものとも言える。そうすると22年大阪府公報旧字の存続期間はせいぜい10年を越えない程度ということになる。これは町名の使用期聞としては異常に短いと言えるので、より吟味が必要となる。

2 明治後期以降の今宮の字名の変遷

2-1 はじめに

 今宮村・木津村という行政単位は明治以前からあったが、近代的な行政組織として発足したのは1889(明治22)年4月に施行された市制町村制による。
(注:『今宮町志』は近代の大阪市への編入までの時期を
1.戸長時代(1872(明治5)年、庄屋・年寄等の村役廃止以降)、2.第一次村会時代(1889(明治22)年、市町村制施行以降)、3.今宮津守組合時代(1897(明治30)年第一次大阪市市域拡張以降)、4.今宮村制独立時代(1903(明治36)年、津守村との組合解消以降)、5.町制時代(1917(大正6)年、町制移行以降)に区分している)
 これによって今宮村及び木津村は大阪府西成郡の一村として位置付けられることになった。
 その後、大阪市の第1次市域拡張(1897年)に伴い、今宮村も木津村も当時の大阪鉄道(現在のJR関西線)以北の部分が大阪市(南区)に編入された。
 そのため、残余の今宮村、木津村は単独で村を維持していくことが困難になり。合併し新たに今宮村として再出発することになる。
 編入された旧今宮村の字名は、資料によって幾分違いがある。
 いま、『西成郡史』(1915年刊行)。『大阪府全志』、それに『浪速区史』(1957年刊行)をみると以下のようになる。(『今宮町志』ではこの点について小字名は記載していない)
 まず、3種の資料共通に記載されている小字名は以下の通りである。
南口・油小路・宮ノ前(宮前)・高橋・田中・橿原・貝柄・町裏・関谷(関屋)・牛ケ口町(牛ケ口)・高岸・神宮地・水田・山の鼻である。
 『大阪府全志』と『浪速区史』にのみ記載されている小字名。
南・馬淵・馬淵水渡・西野・西野馬淵・水渡・水渡釜ケ崎・釜ケ崎・西浦・八田、
 『西成郡史』と『大阪府全志』にのみ記載されている小字名。
廣橋。
 『西成郡史』と『浪速区史』にのみ記載されている小字名。
高辻、
 『西成郡史』のみに記載されている小字名。
札の辻。
 『大阪府全志』のみに記載されている小字名
北の辻。
 『浪速区吏』のみに記載されている小字名
水渡り。
(注:『大阪府全志』及び『西成郡史』では小字名については「等」が付記されている。)
 なおこれらの字名は大阪市南区においては1900年まで存続し、その後、恵美須町・馬淵町・貝柄町・宮津町・水崎町・東関谷町・西関谷町・船出町・北高岸町・南高岸町・広田町・北霞町・爾霞町となる。
 ただ釜ケ崎・八田・水渡・西野の中を鉄道が走っていて、市域拡張後も今宮村の字名として存続することになる。
 木津村についても両様の区分をすると以下ようになる。
 まず、3種の資料共通に記載されている小字名は以下の通りである。
北島・堂面・前開・須賀・瓊矛・東上ケ畑・千基・八阪部・潮凝結・敷津・廣鉾・土瓶川である。
 『大阪府全志』と『浪速区史』にのみ記載されている小字名
北川岸・四塚・眞阪樹・東川代田・西上ケ畑・東浦・三石島。
 『西成郡史』と『浪速区史』にのみ記載されている小字名。
四ツ塚・茅ほこ。
 『浪速区史』のみに記載されている小字名
東上ケ畑-東川代田・西上ケ畑-西上ケ畑・土瓶川-西上ケ畑。
 なお、今宮村の字名同様、1900年にはこれらは木津北島町・木津大国町・木津鴎町・木津勘助町・木津敷津町・木津三島町となる。
 また、西上ケ畑・東川代田・土瓶川の中を大阪鉄道が走っていて、市域拡張後も新たな今宮村の字名として存続することになる。
 前記3資料について最多の小字名を記載しているのは一見して明らかなように『浪速区史』であり。特に木津村については全字名がリストアップされている。今宮村については廣橋・北の辻・札の辻が落ちているのみである、
 そして、残された今宮村の南部地域と木津村の南部地域が合併して今宮村が新たに発足したわけであるが、その時点ではそれぞれは元今宮、元木津と呼ばれていたという。
 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』では「今宮」及び「木津」の項でそれぞれつぎのような記述がみられる。

【今宮】大正211年の大字名。はじめ今宮村、大正6年からは今宮町の大字。元今宮が改称して成立。同8年今宮町木津の一蔀を編入。同11年南吉田・北吉田〈中略〉となる。(166頁)

【木津】大正211年の大字名。はじめ今宮村、大正6年からは今宮町の大字、元木津が改称して成立。同8年一部が今宮町今宮になり、同11年残余は今宮町柳通17丁目・桜通18丁目〈中略〉となる。(398頁)

 しかし、元今宮、元木津が大字今宮、大字木津に名称変更が行われたことについては、以下のような説明もある。
(中略)[第一次市域拡張によって]本地は其の独立を失ひ、新たに設けられたる今宮村に属して元今宮と呼びしが、耕地整理の爲め元木津との区域を変更して、大正二年十二月十日より大字今宮と称す。(『大阪府全志』巻之三)
 木津村についても全く同一の記載がある。
 つまり、1913(大正2)年の段階で区域の変更があったのか。あるいは1919年(大正8)年に変更があったのか、両説があることになる。ただ、両説とも元今宮。元木津の名称はあったとしているのであるが。前記『地籍地図』では元今宮、元木津の名称は使われておらず、専ら大字今宮、大字木津が使われている点にも注意しておきたい。
 前記のように、1917年には今宮村は町制に移行するが字名の変更は行われなかった。
 ここでも不審と言えば不審な点が浮上する。小字名の変更や区域の変更が町制施行とは無関係に実施されているのである。
 また、1913年にせよ、1919年にせよその変更は府公報では確認されていないのである。
 その後1922年に至り、全面的な字名の変更が行われた。それが1973年の町名変更まで基本的には存続することは既述した。

2-2 今宮耕地整理事業

 第一次大阪市市域拡張後の今宮の小字名については前記のように、地籍地図字名・22年大阪府公報旧字名・同新字名がある。22隼大阪府公報における新旧字名の比較はきわめて容易である。
 問題は、地籍地図字名と22年大阪府公報旧字名との比較である。
 地籍地図字名と22年大阪府公報旧字名との比較は、第一及び第二今宮耕地整理事業との関連でみる必要があろう。
 今宮村第一耕地整理事業は1910年に認可され、事業は翌年114月に終了。その範囲は「今日の梅・梅南・松・橘・桜・柳」(『今宮町志』273頁)であり、いずれも整然とした東西の細長い矩形となっている。(大正七~八年大阪市内及び隣接町村番地入地図』府立図書館蔵参照)
 第一今宮耕地整理事業及びロシア兵捕虜収容所について『今宮町志』(284ページ)は以下のように記している。
 大阪市の膨張は次第々々に南部の新編入地を工揚と住宅地とに充実して其の溢れは漸時大字今宮の新開となった。一方大字木津は明治三十七八年日露戦後当時露国俘虜収容の為め天下茶屋俘虜収容所が設置せられて可なりの広区域の畑と小松原がこれに充当され、俘虜の帰還後は一時第十六師団投営兵舎に用ひたが、明治四十一年に全部区還附された。然るに冬地主の所有地域の境界不明となって、判別するに由ない為め、ここに耕地整理の必要起り、其議熟して四十三年五月に第一朝整理起工し、大正九年二月第二期整理竣工し、之れに今宮の一部を加へて地区が整頓したのである。
 『今宮町志』によれば、第一耕地整理の対象区域は次のようであった。
 この整理地区は東は南海鉄道を界とし、西は高野鉄這を界とし、南は水路を隔てヽ玉出町及皿池を以て界とし、北は現今の梅通りを以て界とした一区画で、(後略)
 また、第二耕地整理の対象は以下の通りである。
 此の地区は東は南海鉄道を以て界とし、東北部は旧関西鉄道を界とし、西北部は市郡界である水路の南側を以て境界とし、西は十三間川堤防際を界とし、南に至りては西部は勝間村界なる水賂の北側を境界とし、東部は旧高野鉄道を隔てヽ第一耕地整理地区界の新設道路の中心を以て界としたところの(後略)
 勝間村は1915(大正4)年に玉出町になっているため、上記の記述では若干混乱があると言えるが、第一耕地整理では、南海鉄道、高野鉄道、梅通、勝間村及び皿池の4辺に囲まれた地域であることが判明する。(少なくとも、第一耕地整理の段階では玉出町は存在してなかったのである。)
 小字皿池は、今宮村から南の勝間村に突出した部分であり、ほぼ矩形であったので、耕地整理の対象から除外されたのであろう、
 第二耕地整理の対象区域はやや複雑である。
 東部・南海鉄道、東北部・旧関西鉄道、西北部・大阪再との境界、西部・十三間川堤防で東・北・西の区域界は確定できる。南の境界は西部は勝間村との境界であり、東部は「第一耕地整理地区界の新設道路」(要するに梅通)となっている。
 つまり南海鉄道以西の今宮村のうち、梅通以北の全部と以南地域のうち高野鉄道以西の部分とが第二耕地整理の対象地区であると言える。
 より詳しく『今宮町志』(273頁)を参考に対象となった字名を挙げると以下の通りである。
大字今宮 苔山 浜田
大字木津 東浜田 六代岸 西浜田 丸岸 這上り 鳥流
 第二今宮耕地整理事業の対象は次の字である。
大字今宮 甲岸 苔山 水渡 西野 花園 三日路 浜田 四条ケ辻(?)
大字木津 長草 東川代田 西川代田 西上ケ畑 六代岸 丸岸 小橋七反島 虚空蔵浜 長橋 大流
     這上リ 高畑 東開 中開 西開 出城鳥流 土瓶川 西浜田 四条ケ辻(?)
(『今宮町志』では第一耕地整理の対象区域については大字別を明記しているが、第二耕地整理については明記していない。そのため四条ケ辻がいずれに属するのか不明になっている。また当然含まれているべきはずの永草(大字今宮)が抜けている。)
 そしてこれらの地域は「旭南通・旭北通・鶴見橋通・鶴見橋北通・長橋通・出城通・南開・中開・北開・西四条町・東四条町・花園町・西萩町となった。
 第一耕地整理事業の対象面積は382922歩(114892)、第二のそれは1371124歩(411354歩)であった。
 第二今宮耕地整理事業は第一耕地整理の約4倍であり、広大な地域を対象としたもので、1911年から十年間を経過してようやく竣工したものである。この期間、第一次世界大戦、その後反動不況等があり。設計や地区の変更が3度にも及んだという。
 字として第一事業でも第二事業でも対象となったのは、苔山・浜田・六代岸・西浜田・丸岸・這上り・鳥流である。そして第一事業のみの対象となったのは東浜田のみである。
 ここから、苔山・浜田・六代岸・西浜田・丸岸・這上り・鳥流が梅通及び高野鉄道によって縦断されていることになる。おそらく、梅通によって苔山・浜田・六代岸・西浜田・丸岸・這上りが、高野鉄道によって鳥流・這上りが、分断されていたのであろう。
 その意味で、耕地整理の結果、上記のような新町名が生まれたとしても、それは厳密に第一と第二の耕地整理対象地区に対応しているとはいえない。「今日の梅・梅南・松・橘・桜・柳」は第一及び第二の耕地整理の対象地区を併せた地域である。
 なお、注意すべきことは第二耕地整理は正式には19203月に竣工したものの、『工事の大部分が大正二三年の頃迄に竣成してゐた』点である。
 ここから第一及び第二の耕地整理対象地域の小宇名の変更が同時に行われた可能性が指摘できる、

2-3 小宇名の比較

 地籍地図」から大字今宮は南海鉄道を越えて西部にも広がっていることが判る。
 南海鉄道以西の大字今宮の小字は西野・水渡・甲岸・三日路・花園・永草・苔山・浜田である。うち南海鉄道に跨がっているのは水渡・甲岸・三日路・花園・苔山である。
 『地籍地図』の字名と22年大阪府公報旧字名との比較を行うと、以下のような事が判明する。
 大宇木津では、
  1. 両資料で共通に見出されるのは、皿池・西浜田・鳥流・這上り・大流・長橋・虚空蔵浜・高畑・出城・西上ケ畑・土瓶川・西川代田である。

    2部分的に改変されているのが、南川岸→川岸・東開、中開、西開→開である。

    322年大阪府公報旧字名で新たに登揚してきた字名は、柳・桜・橘・松・梅・上ケ畑である。

    逆に22年大阪府公報旧字名で消えた字名は、東浜田・四条ケ辻・長草・東川代田・六代岸・丸岸・小橋・七反島である。

 大字今宮では、
1.両資料で共通に見出されるのは、吉田・神合・苔山・浜田・今井船・三日路・花園・海道畑・今池・新家東裏・甲岸・釜ケ崎・水渡・東道・永草・西野である。
2.部分的に改変されているのが、八反田→八田・四条ケ辻→四条である。
3.22年大阪府公報旧字名で新たに登場してきた字名は、桜・橘・松・梅・萩・馬淵東川代田である。
4.逆に22年大阪府公報旧字名で消えた字名はない。
 なお、四条ケ辻は大字木津にも大宇今宮にも「地籍地図」では見られるが、直接的に隣接しているわけではない。
 さて、このような比較からつぎのようなことが推測できる。
 第一耕地整理で生まれた新字名は柳・桜・橘・松・梅のうち桜・橘・松・梅は木津と今宮に跨がっているわけであるが、これは第一耕地整理の対象地区のうちの大字今宮の部分、すなわち苔山・浜田の一部に該当する。
 大字東川代田は木津から今宮に編成替えになったらしい。ただ、この際に大字木津で新規に登場してきた上ケ畑や大字今宮で新規に登場している馬淵の存在を勘案するならば従来の区画のままであったとは考えにくいのである。
 つまり第二耕地整理の対象区域中の大字今宮の部分は馬淵・萩の出現によってその内部で、名称はともかくも、ある程度の区画変更がなされたと考えられる。
  もちろん大字木津についても上ケ畑の出現による影響は無視できないであろう。

2-4 22年大阪府公報新字名について

南海鉄道以西の今宮の1973年まで存続した町名は、南から
東皿池・西皿池・柳通・桜通・橘通・松通・花園・梅南通・梅通・西萩・旭南通・東四条・西四条・旭北通・鶴見橋通・鶴見橋北通・長橋通・出城通・南開通・中開通・北開通である。
 このうち東皿池及び西皿池は耕地整理事業の対象にはならなかったので除外すると、梅南通より南側はすべて南海鉄道から十三間川までを帯状に東西に区分した形になっているのに対して、梅通より北側は花園・西萩・東四条・西西条という緩衝地帯が存在している。
 その一番南側の花園が、たとえば「地籍地図」のままの位置であったかどうかは疑問である。なぜなら、当時の今宮尋常高等小学校(現在の弘治小学校)は「地籍地図」でみるかぎり花園の南海鉄道の西側の南西隅にあって、現在の津守阿倍野線より南測に花園は広がっていなかったのである。いいかえれば、隣接する苔山の一部が花園になっているわけである。
 もちろん前記した第一及び第二の耕地整理の対象字名はこのような字名・区域変更前の状態のものであるし、また花園は第一耕地整理の対象になっていないわけであるから、第一耕地整理の対象地域はすべて南海鉄道から十三間川までがストレートに帯状に区分され、第二耕地整理の対象では逆に一定の緩衝地帯が置かれたことになる。いずれも大字今宮の小字名を引き継いでいる。
 なぜこのような変則的な状態が生じたのであろうか。
 まず第一に、二つの耕地整理が基本的に大字木津を対象にしたものであったことが。考慮されねばならない。その意味で如何なる名称であれ、新規の字名は木津の字名であるわけである。つまり、耕地整理の対象になった地域を新規の名称にすることは、大字今宮の立場からすればその字が木津に吸収されることを意味するのである。
 第一次大阪市市域拡張後に、今宮村と木津村とが合併し、新たに今宮村が成立したことは前記したが、ここでも新村の名称は今宮であり、今宮優位の運営があったわけで、それが耕地整理に伴う新規名称の採用、ひいては今後の人口集中の動き等を勘案する時、今宮優位の状態が崩れることが危惧されたとしてもおかしくはないであろう。(『今宮町志』でもこの2回にわたる耕地整理がたんなる耕作上の便益を目指してのものではなかったことは指摘されている。むしろ将来の宅地化を狙っての企画であった。)
 そこで、第一耕地整理後の名称については基本的に大宇木津の字名を採用し、第二耕地整理後の名称についてはある程度大字今宮の名称を存続させたのであろう。
 22年大阪府公報における旧字名から新字名への変更に混乱がないわけではない。
 前記のように耕地整理の対象となった地域の新町名は、南海鉄道の周辺のいくつかの地域を除いてすべて東西の帯状の矩形をなしている。つまり両端の北開と柳通はそれぞれもう一つの町と隣接するのみであり、残余の町も上下(南北)の二つの町と隣接するのみである。(例外は柳通1丁目が桜通1丁目を囲むようにして橘通1丁目と接していることである。)
 つまり、旧字は一つあるいはそれ以上の町に分割されたとしても隣接した町に存在するはずである。
 たとえば、苔山は松通と橘通に分割され、鳥流は桜通と橘通に分割されている。西川代田(出城通・長橋通)、這上り(梅通・梅南通)も同様である。
 ところが、川岸は例外的に、完全に分離した状態にあったことに旧字名ではなっている、他の旧大字木津の字がせいぜい二つの町に分割されているのに対して、この川岸は柳通・桜通・橘通・松通・梅南通・梅通・旭南通・鶴見橋通・鶴見橋北通・長橋通・出城通・南開の12町に分割されている。おそらく十三間川沿いにあることから命名されたものと考えられるが。旭北通にはないのである。つまり飛び地になっているのである。
 先に大字木津にも大字今宮にも『大阪地籍地図』では匹条ケ辻なる字名が存在したことを紹介したが、この川岸はきわめて不目然である。まず同一大字内の小字名であること。さらにより重要であるのは、『大阪地籍地図』中の「地籍地図」及び「接続町村地図」には存在せず、たかだか「土地台帳」に南川岸が2区画のみ記載されているに過ぎないのである。
 また這上りと鳥流は隣接していたにもかかわらず、前記したように前者は梅通・梅南通に、後者は橘通・桜通に分割されている。つまり橘通と梅南通との間にある松遁には這上りも鳥流も存在せず、要するに両者は分離した形にあったことになっている。これは「地籍地図」の記載とは著しく矛盾するものである。
 第二耕地整理の対象区域で大字木津の字名が新町名として残ったのは、開・出城・長橋である。
 開は、それぞれ西川代田・川岸・上ケ畑・高畑・出城・西上ケ畑・土瓶川と結合して出城通・北開通・中開通・南開通に三区分された。
 長橋は、それぞれ大流・川岸・虚空蔵浜・西川代田と結合して、鶴見橋通・鶴見橋北通・長橋通となっている。
 ところが、小字出城は開・川岸と結合して南開通8丁目になったのみである。要するに、出城という地名は残ったもののそれは開・川岸が結合したものなのである。

2-.5 字名変更の時期

 このような事象から、前に先に触れた字名及び区画変更の時期を確定することはできるであろうか。
 それには、まず「地籍地図」の字名が区画も含めて変更されて、22年大阪府公報旧字名になったとしてよいのかどうかという問題がある。
 「地籍地図」の字名が直線的に22年大阪府公報旧字名になったとするには、いくつかの無理がある。
 ひとつは、鳥流と這上りの分断である。第一耕地整理と第二耕地整理が連続的に行われたとしても、部分的に新規の名称(この揚合は松)に変更するにはそれなりの事情があると考えねばならない。そこで、第一耕地整理が終了した時点で、高野鉄道以東の地域のみを対象に、柳・桜・松・橘・梅が成立し、以西についてはなお這上り・鳥流が存続していたとしてはどうであろうか。
 その後、第二耕地整理の実施により、高野鉄道以西についても、いわば桜・橘・松・梅の各字が西側に延長されることなり。その際、松と橘の境界道路は鳥流を縦断し、松と梅の境界道路が這上りを縦断していたのであろう。区画としては北部が這上り、南部は鳥流という変則的な状態が生じることになったのである。他の字についてはまるまる一つの字に新規区画が該当したため従来の字名を存続させることができたのに対して、松については変則的な状態が生起したため、やむなく松が突出する形で新規区画にも松という字名がつけられたと推測できる。
 また、川岸の飛び地間題である。前記したように。川岸は、南は桜から北は南開まで、十三問川の川岸に沿って存在していたと考えられる。「地籍地図」での鳥流・這上り・大流・虚空蔵浜・七反島・出城の一部ずつが川岸になっているわけであるが、その際、飛び地をわざわざ設定するであろうか。いかにも不巨然である。
 おそらく新規に川岸を設定した当初は飛び地ではなく、連続した字名であったと考える方が自然である。このような縦(東西)に長い字の一部が分断されるには、やはり第二耕地整理を抜きにして考えることは不可能である。おそらく飛び地が発生したのは、後に旭北8丁目に該当する区域での川岸が、大流川の拡幅によって消失したのではないかと推測できる。
 第二耕地整理の課題の一つに長橋川及び大流川の改修があったことは、『今宮町志』の記載するところである。天王寺村から流れてくる雨水等の排水を円滑にし、蔬菜栽培にも住宅建設にも便宜を計るとともに『舟楫の便益』を高めることがその主な目的であった。
 ここで19134年頃には第二耕地整理がほぼ竣成していたとの『今宮町志』の記述を思い起こしたい。つまり、第一耕地整理後の対象区画の新規字を設定するとともに、第二栽地整理の一定程度の進捗を前提に、新規の字名として川岸等が設定されたと考えてはどうだろうか。もちろん。元今宮や元木津といった名称も同時に変更されたのであろう。時期としては『大阪府全志』のいう1913年であろう。
 次いで、22年大阪府公報旧字名の確定時期であるが、これはおそらく第二耕地整理のかなりの進展を前提にしなければならない。第二耕地整理の終了は1920年であるから、それに近い1919年としても格別不自然ではないであろう。
 第一耕地整理地域をみれば、松によって鳥流と這上りが分断される。第二耕地整理地域では前記のように大流川の改修によって川岸が分断されることになる。
 他の字名の変更等は残念ながらどの時点でおこなわれたのか確定不能である。ただ、「地籍地図」と大阪府公報旧字名との間になにがしかの字名の変更・新設があったことは飛び地や分断状態の存在から想定せざるを得ないいのである。
 このような頻繁な地域の範囲や名称の変更(1913年の変更と1919年の変更とはおそらく対象を異にしていたであろう。)が、なぜ大阪府公報上に明記されなかったかについては、1920(大正9年)の大阪府訓令第24号(1011日)によって整合的に理解できる。
 すなわち、訓令第24号は次のように述べている、
従前 公称スル市町村内土地の字名ハ 明治十四年第八十三号公達ノ趣旨ニ依リ容易ニ改称変更スヘキモノニアラサルモ 己ムヲ得サル事實アリテ必要トスルモノニ限リ 左ノ規定ニ依リ取扱フヘシ
 当時の大阪府知事池松時和名で出された訓令は、六条からなっているが、今宮に関係するのは次の3ケ条である。

1.市町村 大字名及市内ノ町名ヲ改称シ 又ハ 其ノ区域ノ変更ヲ要スルトキハ市町村会ノ議決ヲ経テ 知事ノ許可ヲ受クヘシ 但シ 町村ニ属スルモノハ  郡長ヲ経由シ 郡長ハ意見ヲ副申スヘシ

2.市町村ノ内 小字名ヲ改称シ 又ハ 其ノ区域ノ変更ヲ要スルトキハ 関係アル地主ノ意見ヲ聞キ 市長村会ノ議決ヲ経テ知事ノ許可ヲ受クヘシ 但シ 町村ニ属スルモノハ 郡長ヲ経由シ郡長ハ意見ヲ副申スヘシ

4.耕地整理施行ノ為メ 市町村内ノ大字若ハ字ノ名称ヲ改メ 其ノ区域ヲ変更スル必要アルトキハ 耕地整理組合長又ハ耕地整理施行者ヨリ 申請書ヲ提出セシメ 知事ノ処分ヲ求ムヘシ 但シ 町村ニ属スルモノハ 郡長ヲ経由スヘシ

 『今宮町志』によれば第一耕地整理組合の組合長は勝田慎太郎、副組合長は加納譲であった。勝田は1907年から11年までの村長である。第二耕地整理組合の役員について『今宮町志』は何ら言及していないが、19139月の大阪府公報によれば、組合長であった武田信民を解任し新たに蒲生庄太郎を選任するという件が認可されている。この間の事情については不明である。ただ『地籍地図』の「土地台帳」には武田信民の所有地の記載はないが、蒲生庄太郎は甲岸・花園等に土地を所有していたことが明らかである。
 耕地整理等で各市町村がそれぞれ町名や字名の改廃を、府とは無関係に行っていたことが直接の契機になったのかもしれないが、ここではじめて大阪府レベルでの町名・字名の変更に関する手続きが明確になったわけで、1913年や1919年にあったと想定される字名やその区域の変更が、府公報レベルで確認できなかったことも納得できるのである。
 つまり、191319年の字名の改廃は少なくとも大阪府レベルで承認を受けたものではなかったのである。今宮内部でのいわば私的な取り決めでしかなかったわけである。
 そして、この訓令を契機に22年大阪府公報新字名が登場することになる。
 その主要なポイントは、第一及び第二の耕地整理による土地の形状自体の変更に対応する字名の最終的な変更の確定であると同時に、それとは全く無開係な南海鉄路道以東の大字今宮の字名の変更である。
 後者の変更によって廃止された字名は、釜ケ崎と新家東裏の二つのみである。
 いわばドサクサに紛れての廃止と言ってよいであろう。他にも多数の字名が廃止されているが、いずれも耕地整理による一定の根拠をもった廃止であるのに、この二つの字名についてはそのような背景はない。
 つまり、土地の物理的な形状の変更といった理由とは全く別個の廃止理由が考えられなければならない。
 すなわち、米騒勲や木賃宿の密集によって「悪名」が高かった釜ケ崎や語感が好ましくないと考えられた新家東裏を一挙に消し去ろうという行政上の思惑があったとしてもそう不自然ではないだろう。

今宮町の字名及び区域変更

大阪府知事 池松 時和  1922323
1.吉田================⇒南吉田
2.吉田・神合==============⇒北吉田
3.苔山・浜田・吉田・神合========⇒南神合
4.神合=================⇒北神合
5.今井船・苔山・三日路=========⇒三日路
6.苔山=================⇒苔山
7.今井船・三日路・海道畑・今池・新家東裏=⇒曳船
8.花園・三日路==============⇒東萩
9.海道畑・今池==============⇒海道
10.甲岸・釜ケ崎==============⇒甲岸
11.釜ケ崎・水渡・東道・八田========⇒東入船
12.釜ケ崎・甲岸・水渡===========⇒西入船
13.八田・東道===============⇒東田
14.今池==================⇒今池
15.今池・新家東裏=============⇒東今船
16.新家東裏=================⇒西今船
17.(皿池)=================⇒東皿池
18.(皿池)=================⇒西皿池
19.浜田・神合・吉田============⇒柳通一丁目
20.(柳)=================⇒柳通二丁目
21.(柳)=================⇒柳通三丁目
22.(柳)=================⇒柳通四丁目
23.(柳)=================⇒柳通五丁目
24.(柳)・(西浜田)============⇒柳通六丁目
25.(柳)・(川岸)=============⇒柳通七丁目
26.(桜)=================⇒桜通一丁目
27.(桜)=================⇒桜通二丁目
28.(桜)=================⇒桜通三丁目
29.(桜)=================⇒桜通四丁目
30.(桜)=================⇒桜通五丁目
31.(桜)=================⇒桜通六丁目
32.(桜)・(島流)=============⇒桜通七丁目
33.(桜)・(川岸)=============⇒桜通八丁目
34.(橘)・苔山===============⇒橘通一丁目
35.(橘)=================⇒橘通二丁目
36.(橘)=================⇒橘通三丁目
37.(橘)=================⇒橘通四丁目
38.(橘)=================⇒橘通五丁目
39.(橘)=================⇒橘通六丁目
40.(橘)=================⇒橘通七丁目
41.(橘)・(島流)=============⇒橘通八丁目
42.(橘)・(川岸)=============⇒橘通九丁目
43.(松)・苔山==============⇒松通一丁目
44.(松)=================⇒松通二丁目
45.(松)=================⇒松通三丁目
46.(松)=================⇒松通四丁目
49.(松)=================⇒松通五丁目
48.(松)=================⇒松通六丁目
49.(松)=================⇒松通七丁目
50.(松)=================⇒松通八丁目
51.(松)・(川岸)=============⇒松通九丁目
52.(梅)=================⇒梅南通一丁目
53.(梅)=================⇒梅南通二丁目
54.(梅)=================⇒梅南通三丁目
55.(梅)=================⇒梅南通四丁目
56.(梅)=================⇒梅南通五丁目
57.(梅)=================⇒梅南通六丁目
58.(梅)=================⇒梅南通七丁目
59.(梅)=================⇒梅南通八丁目
60.(梅)・(川岸)・(這上り)========⇒梅南通九丁目
61.(梅)=================⇒梅通一丁目
62.(梅)=================⇒梅通二丁目
63.(梅)=================⇒梅通三丁目
64.(梅)=================⇒梅通四丁目
65.(梅)=================⇒梅通五丁目
66.(梅)=================⇒梅通六丁目
67.(梅)=================⇒梅通七丁目
68.(梅)=================⇒梅通八丁目
69.(梅)・(川岸)・(這上り)========⇒梅通九丁目
70.(大流)================⇒旭南通一丁目
71.(大流)================⇒旭南通二丁目
72.(大流)================⇒旭南通三丁目
73.(大流)=================⇒旭南通四丁目
74.(大流)=================⇒旭南通五丁目
75.(大流)=================⇒旭南通六丁目
76.(大流)=================⇒旭南通七丁目
77.(大流)・(川岸)=============⇒旭南通八丁目
78.(大流)=================⇒旭北通一丁目
79.(大沸)=================⇒旭北通二丁目
80.(大沸)=================⇒旭北通三丁目
81.(大演)=================⇒旭北通四丁目
82.(大流)=================⇒旭北通五丁目
83.(大流)=================⇒旭北通六丁目
84.(大流)=================⇒旭北通七丁目
85.(大流)=================⇒旭北通八丁目
86.(大流)・(長橋)=============⇒鶴見橋通一丁目
87.(大流)・(長橋)=============⇒鶴見橋通二丁目
88.(大流)・(長橋)=============⇒鶴見橋通三丁目
89.(大流)・(長橋)=============⇒鶴見橋通四丁目
90.(大流)・(長橋)=============⇒鶴見橋通五丁目
91.(大沸)・(長橋)=============⇒鶴見橋通六丁目
92.(大流)・(長橋)=============⇒鶴見橋通七丁目
93.(大流)・(長橋)・(川岸)=========⇒鶴見橋通八丁目
94.(長橋)=================⇒鶴見播北通一丁目
95.(長橋)=================⇒鶴見橋北通二丁目
96.(長橋)=================⇒鶴見橋北通三丁目
97.(長橋)=================⇒鶴見橋北通四丁目
98.(長橋)=================⇒鶴見楢北通五丁目
99.(長橋)=================⇒鶴見橋北通六丁目
100.(長橋)=================⇒鶴見橋北通七丁目
101.(長橋)・(川岸)・(虚空蔵浜)=======⇒鶴見橿北通八丁目
102.(長橋)=================⇒長橋通一丁目
103.(長橋)・(西川代田)===========⇒長橋通二丁目
104.(長橋)=================⇒長橋通三丁目
105.(長橋)=================⇒長橘通四丁目
106.(長橋)=================⇒長橋通五丁目
107.(長橋)=================⇒長橋通六丁目
108.(長橋)=================⇒長橋通七丁目
109.(長橋)=================⇒長橋通八丁目
110.(長橋)・(川岸)=============⇒長橋通九丁目
111.(開)==================⇒出城通一丁目
112.(開)==================⇒出城通二了目
113.(開)・(西川代田)============⇒出城通三丁目
114.(開)==================⇒出城通四丁目
115.(開)==================⇒出城通五丁目
116.(開)==================⇒出城通六丁目
117.(開)==================⇒出城通七丁目
118.(開)==================⇒出城通八丁目
119.(開)・(川岸)==============⇒出城通九丁目
120.(開)・(上ケ畑)=============⇒南開通一丁目
121.(開)==================⇒南開通二丁目
122.(開)・(高畑)==============⇒南開通三丁目
123.(開)==================⇒南開通四丁目
124.(開)==================⇒南開通五丁目
125.(開)==================⇒南開通六丁目
126.(開)==================⇒南開通七丁目
127.(開)・(川岸)・(出城)==========⇒南開通八丁目
128.(開)・(西上ケ畑)・(土瓶川)=======⇒中開通一丁目
129.(開)=================⇒中開通二丁目
130.(開)==================⇒中開通三丁目
131.(開)=================⇒中開通四丁目
132.(開)=================⇒中開通五丁目
133.(開)=================⇒中開通六丁目
134.(開)=================⇒北開通一丁目
135.(開)=================⇒北開通二丁目
136.(開)=================⇒北開通三丁目
137.(開)=================⇒北開通四丁目
138.萩・苔山・永草・花園==========⇒花園
139.萩===================⇒西萩
140.四条==================⇒西四条一丁目
141.四条==================⇒西四条二丁目
142.四条・東川代田=============⇒西四条三丁目
143.四条==================⇒東四条一丁目
144.四条==================⇒東四条二丁目
145.四条・馬淵・西野・水渡==========⇒東四条三丁資
(補注:丸カッコ内は「大字木津」の字名、括弧無しは「大字今宮」の字名)