釜ヶ崎総合年表−1920年代


1920(大正9)年

1月10日国際連盟 成立/10月第1回国勢調査実施(内地人口 55,963,053人・外地人口 21,025,326人)
1月 大阪府 救済課を社会課と改称
管掌事務は労働問題を中心とする社会政策的施設の指導監督とあらゆる感化救済事業に関する一切の事項(1.各種の慈恵救済基金に関する事項。2.救済事業の監督に関する事項。3.救済事業の調査研究に関する事項。4.救済事業の寄付に関する事項。5.方面に委員に関する事項。6.労働者の福祉増進に関する事項。7.感化教育に関する事項。8.部落の改善に関する事項。9.軍事救護に関する事項。10.恤救及び罹災救助に関する事項。11.行旅病人等の取扱いおよびその費用ならびに精神病者の監護費に関する事項。12.免囚保護に関する事項。13.恩賜財団済生会に関する事項。14.その他救済に関する事項。)(民生事業40年史)
2月 四恩学園開設
大阪四恩報答会・隣保事業・御大典記念事業
2月11日 大阪自彊館 宮内庁から御下賜金拝受
宇田徳正館長辞任、館長酒井猪太郎、常務理事中村三徳、理事小林林之助。寄付行為変更、理事3名から4名へ
4月 大阪市社会部発足
庶務・事業・職業・児童の4課
4月1日 窮民救助規則改正 施行
明治42年5月大阪市は府よりの通達により恤救規則の適用を受けなくなり、恤救規則の補助的なものである明治22年制定の大阪市貧民施療規則及び窮民救助規則のみが残る状態であった。窮民の取り扱いは大正2年以後、主として財団法人弘済会に委託し、一定範囲の衣食費、療養費をその程度に応じて支給していた。しかし世界大戦勃発以来、諸物価の暴騰で従来の支給費では到底満足な救助の実を挙げることができなくなったので、8年1月から救助負担額を増加せざるを得なくなった。それらにより、窮民救助規則の改正と貧民施療規則及び窮民救助規則の廃止となった。(15年5月に廃止)(民生事業40年史)
8月24日 内務省地方局社会課が拡充され、社会局となる
賑恤救済に関する事項、軍事救護に関する事項、失業の救済及防止に関する事項、児童保護に関する事項、その他社会事業に関する事項
9月 今宮町志 大阪府西成郡今宮町残務所 1926(大正15)年9月5日発行 (部分)
10月 第1回国勢調査
大阪市人口約125万人

参考:東京の都市下層社会と「細民」住居論ー1920年代はじめまで 石塚裕道 国連大学 人間と社会の開発プログラム研究報告(技術と都市社会研究部会) unu_jpn26.pdf


1921(大正10)年

1月 政府 救済事業調査会を社会事業調査会と改称
大正7年6月勅令第263号により設置。内大臣の諮問により救済事業に関する事項を調査審議し、意見を具陳する組織。同調査会の答申に基づき大正11年までに実現した法案=小売市場設置要項(大正7年9月)、小住宅改良要綱(大正7年8月)、住宅組合法案(大正11年)、借地借家法案(大正11年)、借地借家調停法案(大正11年)、失業保護施設要綱(大正7年12月)、労使協調施設要綱(大正7年12月)、児童保護施設要綱(大正8年10月)(民生事業40年史
4月9日 職業紹介法 公布
7月1日より施行。この法律は昭和11年改正。昭和13年7月1日をもって全部改正された。
5月 サントリー創業者鳥井信治郎、邦寿会設立
5月  大阪最初のメーデー行われる
5月 市庁舎 北区中之島1丁目に移転。
5月17日 財団法人 大阪府方面委員会後援会 設立
方面委員活動を助成する目的。米騒動の際、各方面から廉売資金として寄せられた寄附金の剰余金の半額25万円を主たる財源として設けられた。
7月 大阪自彊館 活動写真班を組織
「民力涵養運動の助長を期す」として、社会教化のため大阪府下75か町村を巡回。 (大阪毎日新聞社からフィルム5巻を借用し、100回連続巡回)
8月 大阪市 行路病人輸送用自動車を特設
行路病人の輸送については、区役所で取り扱い、所轄警察署の通報を受けた後、臨時人夫にあたらしていたが、その間相当の時間を要し、ために治療の時期を失う場合が多かった。輸送の安全と迅速を期して設置。(民生事業40年史)
10月 大阪市社会部 労働調査課を合併5課制に
庶務・住宅・職業・児童・調査

12月 大阪自彊館 簡易食堂 閉鎖 利用延人員703,677人


1922(大正11)年

3月 6大都市行政監督に関する法律 公布
3月3日 全国水平社創立大会(京都)
7月 邦寿会、今宮診療院開く。(昭和27年に今宮診療所に改称)
今宮町、字名を改称。釜ヶ崎の字名無くなる。(3月23日 大阪府公報 第919号)
 大字  字 新名称 
   今宮    花園の一部/三日路の一部  東萩
 海道畑の一部/今池の一部  海道
甲岸の一部/釜ヶ崎の一部  甲岸
 釜ヶ崎の一部/水渡の一部
東道の一部/八田の一部
 東入船
 釜ヶ崎の一部/ 甲岸の一部
水渡の一部
 西入船
 八田の一部/ 東道の一部  東田
 今池の一部  今池
8月 大阪救済事業同盟会が大阪社会事業協会と改称
大阪救済事業同盟会は、大正4年1月救済事業研究会の席上、大久保知事が府下社会事業の連絡統一の必要を説いたのが動機になって、府下35団体を以て結成されたもの。(民生事業40年史)
11月1日 内務省社会局が内務省外局としての社会局となる
労働に関する一般事項、工場法施行に関する事項、鉱業法中鉱夫に関する事項、社会保険に関する事項、失業の救済及防止に関する事項、国際労働事務に関する統轄事項、賑恤救済に関する事項、児童保護に関する事項、軍事救護に関する事項、その他社会事業に関する事項労働統計に関する事項(労働行政の一元化と重視のあらわれ)(内務省の社会史・東京大学出版会・副田義也著)

1923(大正12)年

大阪自彊館 月刊 社会問題研究誌「自彊」(菊倍版8頁)を発行
毎月約1万部を頒布(大正14年3月 22号まで延20万部発行)
9月1日 関東大震災=M7.9 死者91,000人・行方不明者43,400人・全壊焼失家屋46万戸
9月19日 天王寺第5尋常小学校 開校式
現在の金塚小学校「大字天王寺字金塚村有池敷に在り。大正12年3月、校舎建築に着手、同年9月7日、工を竣ゆ。同年9月19日第4小学校より457名、第2小学校より140名の児童を分割収容と同時に開校式を挙げたり」(天王寺村誌)
10月 大阪市 基金2万円で大阪市職業補導会設立(北市民館内に出張所)
資金不足に陥り市営質舗開設と同時に閉鎖(大正13年12月)
10月 大阪市 大阪電灯株式会社を買収、電灯・電気供給事業を市営とする。

1924(大正13)年

内鮮融和会設立
職業紹介・共同宿泊所・夜学校を経営
2月 貧民長屋「新台湾」整理終了 跡地は後に、新住宅「春日園」となる
「大正11年3月、−一大計画を樹つ、即ち同13年2月を限り、此八十軒長屋=新台湾退去の英断即是なり。−家賃を一ヶ月3円なりしものを頓に金6円に騰し、内金2円を蓄積し、又他1円を別途蓄積して一に移転の資に備ふるものたり。この挙洵に住民の意に適ひ、家賃の納入亦良好を来たし、人心亦次第に順良の傾きあり。是より先、池田為次郎氏は切りに児童就学の途を講じ、且つ、人事其の他の斡旋に努む。即ち某一女子の如きはその小学校卒業後直ちに電話交換手に採用されるるに遇う。−予定の退去期に垂とするや−その退所者に対しては各各その蓄積の金員(利子加算)約50円に更に補助として金20円を加え、約70余円を給せしを以て、住民概ね大阪市内に帰り、堂堂一戸を構えて生業を営むに至れり。(今宮釜ヶ崎なる貧民窟に入れるもの僅か一世帯ありしのみ)」(天王寺村誌)
2月 大阪自彊館 「向上館」建設工事に着手
工費30,000円、うち25,000円を借入
4月 今宮乳児院 開所(浪速区宮津町)
乳児院の事業は乳幼児の受託保育、診療、保育に関する各種の相談及び指導、乳母の選択、乳汁の検査等であつて料金を徴せないのを原則とするが、只診療のみは所得年額800円以上の者には診察料50銭(3ヶ月間有効)とし薬価その他は低額の料金を徴収し、年所得800円以上1200円以下の者に対しては、減額の取り扱い。
 受託保育は生後100日以上満2歳以下の小児にかぎり受託保育するもので、年末年始(12月28日より1月3日迄)及び祭日を除くほか毎日午前6時又は7時より午後6時までの昼間保育をするものであって、院内の設備器具の使用、入浴に至るまで無料であるが、牛乳及び粥類を用いる場合に限り実費(牛乳は1号7銭、粥は1椀2銭)を徴収する。
 乳児診察は日曜及び休日を除くの外毎日午前一定数を限りて申し込みを受け無料を原則として、乳幼児の診察を行っているが、只水剤投薬の場合のみ1個3銭の壜代を徴する。
 訪問看護婦
 乳児保育に関する知識の啓発と指導とを目的として大正13年度より訪問看護婦を置き中産以下の出産ありし家庭を訪問せしめ、一定の訪問票により家庭の状況、既往及び現在歴、栄養法等を尋ね、誤れる点には注意を与え、各種の相談に応じ指導せしめている。
(社会部報告175号・大阪市設社会事業要覧)
4月21日 今宮第2小学校(現長橋)に、内鮮協和会今宮夜学校付設(大正13年4月21日)
6月1日 大阪自彊館 本館に家族寮「向上館」を開設
(家族持ちの低所得者向け簡易宿泊所)
貸間を増設し36世帯を収容。これを機に工費3,000円余をかけて共同浴場(16〜21時営業)を改築。また、向上館の開館で婦女子の在館者が増加したため、本館講堂で専任技術者指導のもと、ゴム爪掛加工の内職作業を開始。
家族寮「向上館」 甲館、乙館の2棟(36ホーム)= 四畳半・六畳の二間が20ホーム、四畳半二間が16ホーム、各戸に三畳の炊事場、二畳の押入、専用便所、16燭光電灯1個半乃至2個付設。(家賃は1日40銭・45銭・50銭)/間貸室は乙館の一部に9ホーム、補助家屋に2ホーム収容可で、六畳1室、二畳の押入、電灯16燭光1個、共同便所2ヵ所。(家賃は1日35銭)/何れも入浴料、水道使用料、電灯料は含む。但し、専用上水道設置の場合は本人負担となる。 「向上館」には共同浴場1、共同水道栓5、洗濯所1、 物干場2、塵埃場1、洗面所2、外灯4 が付帯
12月 大阪市 市営初の質舗を天神橋6丁目北市民館内に開設
後に天六質舗となり場所移動



1925(大正14)年

1月20日日ソ基本条約 調印/3月29日普通選挙法成立/5歳以上の男子全てに選挙権・5月5日公布/4月22日治安維持法公布(5月12日施行)/
 

萩之茶屋職業紹介所 1925(大正14年)年設置。(民生事業40年史)

4月 大阪市第2次市域拡張
西淀川・東淀川・西成・東成・住吉の5区を新設。分地区により浪速・天王寺・港・此花の4区を増区。合計13区となる。
西成区=西成郡今宮町、玉出町、粉浜村、津守村
住吉区=東成郡北百済村、平野郷町、南百済村、喜連村、天王寺村、住吉村、田辺村、長居村、衣羅村、敷津村、安立町、墨江村
5月 大阪自彊館 生活相談、育児相談など隣保事業の活動開始
8月10日 大阪自彊館 東京市の小森喜代三医師の注射療法による脚気の施療(第4師団の紹介)
13時〜16時は一般無料診療を行う(9月10日までに延869人受診)
脚気のための灸施療を実施。 小森喜代三氏を招聘して地域にも呼びかける。(704名施療)。(大阪万朝報記事)
8月 大阪市 玉造質舗開設
東区空堀通1丁目
8月 政府、失業対策につき具体的協議
冬期に失業者の最も多い6大都市関係の府県に主として日傭労働者の救済を目的とする光栄土木を起こさせ、その財源を地方債に求めるものに対しては地方裁許可制限方針の例外を認め、労力費に対しては国庫から二分の一補助の方針。単年予定であったが毎年となる。
9月 大阪市 今宮質舗開設
西成区花園町
10月1日 我が国初の失業統計実地調査
全国重要工場、鉱山所在地24地域で行われる。大阪市失業者は、給料生活者3,600人、労働者10,300人、日雇労働者4,300人、計18,200人。各調査人口に対し、給料生活者2分8厘、労働者3分1厘、日雇労働者1割2分4厘であった。(民生事業40年史)
10月 大阪市民病院 完成
大正10年、50万円を以て市外天王寺村奥塚原(現在の阿倍野区旭町1丁目)に病院建設計画を立て、設計等の研究調査を進めていたところ、東区の岸本氏から100万円の寄付の申し出があり、規模を拡大して、12年12月起工、完成したもの。なお、13年4月21日から14年10月5日まで衛生試験所の一部を利用して、仮市民病院を開設した。(民生事業40年史)
10月 大阪社会事業連盟設立
公私各種社会事業が連絡を図り、各種社会問題について研究討議するために、設立。大正2年8月設立の救済事業研究会の発展的解消。
11月 大阪市 失対事業開始に対応する為臨時労働紹介所設置
市内5ヶ所(釜ヶ崎・安立町・鶴橋・野田・天神橋6丁目)、翌15年12月に3ヶ所を追加。外部から入り込む季節的出稼人の混入を防ぎ、真に生活に困窮している定住失業者を優先的に救済する方途として失業救済事業被傭者の登録制を実施。(民生事業40年史)/釜ヶ崎臨時労働紹介所は昭和3年3月廃止。/「萩之茶屋職業紹介所(西成区花園) 1925(大正14年)年設置。(民生事業40年史)」とあるのが釜ヶ崎臨時労働紹介所と同じものかどうかは今のところ不明。
11月  大阪市 生業資金貸付制度 開始
篤志家の寄附金17,380円で創設。市立市民館隣保地域内の居住者および市設住宅の居住者のみを対象。
大正14年度 大阪市第1回失業応急土木事業(冬期のみ)
労働者実際使用延べ人員140,901人(内要救済登録労働者120,297人)、1日平均実際使用人員2,382人(内要救済登録労働者1,179人
(社会部報告175号・大阪市設社会事業要覧

1926(大正15)年

6月25日 閣議決定により社会局内に社会事業調査会設置
政府の第1号諮問「社会事業体系に関する」をうけて調査研究を開始一般救護に関する体系の審議は、恤救規則に代わるべき新救貧法について論議。
5月 今宮産院開院(西成区橘通2丁目)
 大正14年市域拡張に伴い編入した旧今宮町より引き継ぎ今宮公立病院を産院に変更して天王寺産院を移し、之を今宮産院と改称し開院。(主として中産以下の市民を目標とし年収800円以下の家庭のものは無料、1200円以下の者に対しては減額の取り扱い)
 なお、天王寺産院は大正10年6月1日に「寺村(現今の住吉区旭町)に、林蝶子の3万円寄付と市費を合わせて開設されたもの。この由来からか、(社会部報告175号・大阪市設社会事業要覧)では、今宮産院の創立年月日を大正10年6月(天王寺産院開設の日)を踏襲している。
5月 大阪市 九条質舗開設
港区九条南通1丁目
5月 大阪市 窮民救助規則廃止、窮民救助規定及び施行細則を設ける(棄児養育規則も廃止)
救助の対象たる窮民とは(大阪市住民であること、幼弱・老衰・不具・傷病その他により自活し得ざること、他より扶助を受ける途なきこと)。救助費の種類(衣食費、療養費)。救助の方法(自宅救助、委託救助−救助先は弘済会並びに博愛社、収容救助−市民病院・産院等)、窮民死亡の場合は葬儀費を葬儀執行者に支給。救助開始は申告主義。(民生事業40年史)
6月1日 大阪自彊館 本館で幼児昼間保育事業開始(定員100名)
保育料は在館者が月1円、外来者が2円/保育時間は日・祝・祭日を除く8時〜16時(原則)
  「保育部」 本館60坪の講堂を開放/ 保育室15坪 1室、 遊戯室25坪 1室、幼児図書室5坪 1室、/ 館内運動場100坪、 館外接続地700坪/ (備品)オルガン2台、舟形シーソー5台、ブランコ5台、フットボール /2個、滑り台1台、テント15坪1張/(人員) 園長(吉村敏男兼務)1人、保母3人、嘱託医1人、使丁1人

7月31日 大阪自彊館 ゴム爪掛加工の授産事業廃止
延で、爪皮製品約100万足、人員10,940人、工賃7,000円
10月25日 府令第157号宿屋営業取締規則
第1条 本令に於いて宿屋営業と称するは旅人宿、下宿屋、簡易宿を営業とするものを謂う
「木賃宿」の名称を「簡易宿」と改め、新市内に於ける営業許可地が定められる。(東成区中道町/西成区東入船町・西入船町/住吉区平野元町6丁目/東淀川区本庄町(中津川以北を除く)・南長柄町/西淀川区伝法町1丁目・2丁目・大和田町)。前記地域外に於いて簡易宿を営業しているものは、その用途に供する家屋の改築または大修繕を済ますまでは適用しない、と。


写真は「簡宿20年の歩み」から

12月 大阪自彊館 創設時の借入(旧債)を完済
12月25日 大正天皇逝去
大阪市 今宮労働紹介所 廃止(日雇労働者専門)
15年8月18日廃止。14年末に萩之茶屋職業紹介所(釜ヶ崎臨時労働紹介所のことか?西成区花園町)開設。
他の労働紹介所は京橋(大正8年、主として土工手伝仲仕)、築港(大正9年、沖仲仕を主とする海運関係、安治川(大正13年、石炭の集散地である関係上、石炭運搬に従事する労働者が大部分)があった)(民生事業40年史)/事務所を共用していた今宮共同宿泊所(南区宮津町)は、15年3月類火で焼失している。



1927(昭和2)年

不良住宅改良法 3月30日公布 7月15日施行
大阪市は、細民住居地区浪速・天王寺両区にまたがる19ヶ所の細民集団地区総面積2万坪、住宅建設予定数1,500余戸に上る一帯の改良に着手/この地区ならびに附近一帯は旧幕時代からの細民地帯で、明治初年まで長町と呼ばれ、大阪市のいわゆる場末に属していたが、年の膨張により市の中心部に位置するにいたった。その後、市街地建築法の制定、数次の街路改良事業により細民は裏へ裏へと入り込み、燗的裏、下駄屋裏、豚屋裏、社の裏等の俗称を持つ細民集団地区となったのである。(民生事業40年史)
1月  健康保険法 実施
我が国最初の疾病保険が登場したが、同法は事業所(事務所)を中心とする、いわゆる職域保険であったため、農山漁村民ないし自営業者・小企業従事者などはその恩典に浴さなかった。(民生事業概要・昭和36年度版)
東京渡辺銀行など取付け休業/昭和恐慌始まる/3月24日南京事件・中国国民革命軍、南京の 日本領事館を襲撃
1月21日 大阪自彊館 第1回成人教育講座開設
(3月29日まで)  毎週火・金曜日 19:00〜21:00 計20回開催、 定員70名/修養講話、公民道徳、社会思想など10講座を行う
4月 今宮職業紹介所移転
西成区東入船町に日傭労働専門として。1936(昭和11)年には、西成区旭南通5丁目に再度移転、「西成労働紹介所」と改称。/釜ヶ崎臨時労働紹介所は昭和3年3月廃止。
4月21日 十五銀行閉鎖と大阪自彊館
「十五銀行の天下茶屋支店は自彊館の取引先で寮生の貯金3千円が預けてある。私は女房に在り金全部出してくれと頼んだ。−預金者全員を呼び集めて、−十五銀行に預けたのは館長の命令であって諸君の指令ではない。諸君の貯金の預かり主は私である。一切の責任は私であるから銀行の閉鎖には関係なくお支払いする。いま全財産をここに持ってきたが千円しかない。急ぐ人はこれで支払うが頼むから全額の支払いは明日まで待ってほしい。今日中に金策して絶対損害をかけないと頭を下げた。
 寂として声なき暫時、誰かが「主任さんにまかせておこうや」と発言した。拍手が起こって無言のまま静かに解散して行くではないか。私は貯金通帳を握ったまま感激にふるえていた。(大阪自彊館だより・第3号・「むかし話・吉村敏男)
5月11日 大阪自彊館 大阪理髪慈善団による無料理髪奉仕開始(月2回)
当時の一般理髪料は1回35〜50銭
6月18日 厚生省社会局内社会事業調査会 第3回調査会
一般救護に関する体系の答申書決議これに基づき社会局は救護法案作成。
6月 今宮共同宿泊所再築(浪速区宮津町)
(昭和7年当時定員400名、一泊15銭。社会部の別働隊たる財団法人大阪市労働共済会が食堂、日用品廉売、理髪所を運営。宿泊共済=各宿泊人より僅少の会費を徴収、治療費・生活費の給与、慰安会・講演会の開催。貯金奨励と法律職業その他の人事相談を実施。(社会部報告175号・大阪市設社会事業要覧)/九条・長柄同様鉄筋コンクリート3階建てに改築された。(民生事業40年史)
7月  大阪乳幼児保護協会設立
会長−大阪府知事、副会長−大阪市長、官民有志で。一般保護施設の統一教化、小児保健所の設置普及、乳母や里子の無料紹介、雑誌「乳幼児研究」の発行(民生事業40年史)
昭和2年度 大阪市第3回失業応急土木事業
(冬期のみ) 労働者実際使用延べ人員97,002人(内要救済登録労働者89,653人)、1日平均実際使用人員829人(内要救済登録労働者766人(社会部報告175号・大阪市設社会事業要覧)

1928(昭和3)年

2月20日初の普通選挙実施(第16回総選挙)
3月 櫻宮露天保育所開所
4月に城東露天保育所開所。露天保育所は「大阪市露天保育所規定」によって施設されたもので寺院、公園等の空地を利用して天幕張又は簡単なる設備を施し、附近の幼児を修養保護教養すると共に、進んで斯の種施設を通じてその環境改善をはからんとするもの(社会部報告175号・大阪市設社会事業要覧)
9月 大阪市社会部 3課制となる
保護・福利・調査
11月 大阪自彊館の17年−財団法人 大阪自彊館 非売品 刊
昭和初年頃の飛田遊廓
昭和3年度 大阪市第3・4回失業応急土木事業
(冬期のみ) 労働者実際使用延べ人員92,398人(内要救済登録労働者82,084人)、1日平均実際使用人員314人(内要救済登録労働者279人)(社会部報告175号・大阪市設社会事業要覧)

1929(昭和4)年

社会政策審議会 失業救済事業について答申
失業救済事業を6大都市関係以外にも拡大、冬季限定を取り、対象範囲も日傭労働者だけでなく一般労働者や少額給料生活者にも拡大、事業の種類も土木工事に限らず建設工事その他の事業にも及ぼし、少額給料生活者に対しては官公庁等の統計、調査、文書整理等の事務にも枝葉させるようになった。(「日本の救貧制度」264頁)
2月 市立今宮保護所本館設置
西成区東田町(打ち続く不景気と深刻なる失業によって生活の道も気力も喪失して所謂ルンペン階級に墜するものは愈々増加するが、本市に於いても公園その他に於けるこれ等無宿者を収容保護する目的をもって、市内篤志家の寄付金を財源として創設せるものが本保護所である。而して本保護所の収容はすべて無料で、収容者には職業補導その他適当なる強化方法をも策している。)(社会部報告175号・大阪市設社会事業要覧・昭和8年6月)収容定員 120名。(民生事業40年史)
2月 今宮住宅(改良住宅)開設
西成区東入船町=普通住宅76、店舗1
 改良住宅(下寺町・北日東町・南日東町・今宮)は、「不良住宅地区改良法」に依拠し、昭和2年12月市会の議決及び内務大臣の地区指定に基づき、昭和2年度以降継続事業として建設されたもの。改良地区は、天王寺・浪速両区にまたがっていた。昭和4年に下寺町(A)仮住宅・宮津町仮住宅と今宮住宅が完成した。仮住宅は、地区内居住者の立退者を一時収容する目的をもって建設されたものであるが、一部は事業完了後も存置する見込みとされており、今宮改良住宅も当初は、立退者を一時収容していたものと思われる。(社会部報告175号・大阪市設社会事業要覧)
4月10日 救護法 公布(施行日は未定のまま。その後の経緯があり、実施実現は昭和7年1月からとなった)
5月 大阪自彊館 本館内に日曜学校開設
7月 大阪自彊館 第2回成人教育講座として英語講座を開設
8月 大阪府 警察部健康保険課 新設
警察が所管していた社会保険及び労働事務の内社会保険関係
9月1日 内務省社会局 失業の動的調査開始指示
毎月1日現在の失業推定数を各地方長官に報告させることにした。
10月 内務・大蔵両次官通牒/失業救済事業を冬期に限らない
国庫補助条件及び起債許可並びに低利資金融通等に関し新方針が示され、失業救済事業に、補助事業、起債事業の別が生じることとなった。
昭和4年度 大阪市第5回失業応急土木事業
・第1次高速鉄道建設事業 労働者実際使用延べ人員110,878人(内要救済登録労働者95,972人)、1日平均実際使用人員596人(内要救済登録労働者793人)(社会部報告175号・大阪市設社会事業要覧)

借家借地争議盛ん=大阪市では昭和3年末に借家人組合5、借家借地人組合、家主同盟1,計16組合が結成され、4年には借家人団体15が組織されたほか、全市に150団体、5,000人の会員を有する家賃値下同盟が結成されている。借家借地争議は世界第1次大戦後の大正年間から昭和5年ごろを頂点として、かなり激しいものがあった。(民生事業40年史)

  借家争議   借地争議  計
昭和1年   1,247  105  1,252
 2年  1,917  261  2,178
 3年  2,287  263  2,550
 4年  2,087  199  2,286