釜ヶ崎総合年表−1870年代


1870(明治3)年

9月 「脱籍無産者の徒復籍送り方等の事
(復籍の費用は、本籍ある者は親族又は町村、除籍の場合は道筋地方官費で負担。)



1871(明治4)年

4月 大阪 救恤場を廃止、5月大貧院を設置
(府下鰥窮孤独廃疾並びに貧窮にして日々の生計に苦しむ者は其の願出に依りて調査を遂げ大貧院へ入院撫育し、其の働き得るものには相応の産業を授け非人乞食に陥らしめざらんが為大貧院設置)
6月 大貧院設置に付人々相互救助すべきは人の人たる道なれば市在一般入院の貧民に各々其職を授け引立べく、有志の者は其の見込の事柄を同院へ申立て其の指揮を受くべき旨を達(明治6年8月廃止)
6月17日 政府、行旅病者の仮規則(行旅病者の保護・死者の埋葬等について)を定める。
8月29日 貧院を立て窮民を救い公費を補うは實に美挙なり濃う向後貧院へ寄付する者は貧院より改めて之を大年寄中年寄へ預け、有志寄付者の奇特の名を没せざらんが為大年寄、中年寄に於いて、其の姓名を記載し永世保存すべき旨達
10月 聚楽町に貧院分極を開き自今行倒の病者(乞食体)等は4区出張所へ相届け貧院分局へ送ることの達し



1872(明治5)年

1月 大阪 大貧院を授産場とあらためる。
大阪府 「貧窮者へ施療の件



1873(明治6)年

2月 大阪府 大阪病院を設立。規則中に、戸長の添え書きによって救寮できるとある。
4月12日、4月 大蔵省第52号に基づき脱籍無産の輩にして復籍並に行旅病人共宿村送りの義その取計方区々に付き同一轍の処分方を達
8月 大阪 大貧院、授産場を廃止。老幼癈疾者は救助場へ、稼働能力者は勧業場へ収容



1874(明治7)年

12月8日 太政官達第162号「恤救規則」
前書「済貧恤窮は、人民相互の情誼に因て、其の方法を設べき筈に候得共、目下難差置
無告の窮民は、自今各地の遠近により、50日以内の分 左の規則に照し 取計置、委曲内務省へ 可伺出 此旨相達候事」
=恤救規則により救助すべき者は、独身にして自ら生活し能わざる、(1)70歳以上の者、(2)13歳未満の者、(3)疾病に罹れる者、(4)廃疾となれる者とす。以上の4項に該当する者、独身に有らざるも、他の家人70歳以上15歳未満なるときは、独身者に準じて救助をなす。
原則=衣食の資に窮乏せる貧困者に対しては 先ず親族隣保にて救護し、其の救護力及ばざるものに在りては、市町村に於いて救助す。市町村より府県に、府県より国庫に及ぶは我が国における救貧恤窮の趣旨なるとす。(「慈善」明治45年7月号−公の救済に関する現行制度)



1875(明治8)年

7月3日 内務省達乙第49号「窮民恤救申請調査箇条
対象者の生活調査の義務づけと「市村内或は隣保の情誼より互に協救仕来る如きは 別段官の給与を不乞を以て本旨」とし、「恤救規則による可きものは 独身老幼廃疾疾病等にて何等の業も為す不能 事実赤貧にして曾て他に保育する者無之 全く無告の窮民而己に限るべし」との制限を府県に徹底した。また、戸籍のない者は対象外であった(救済対象は本籍地あるいは居留地に限定)
7月10日 「賞盃規則」発布
「学校病院其他道路橋梁及び済貧恤窮等の費用を差出候者の内勅奏任官及び華族を徐之外 出金4千円未満之分は左の賞例に照し 夫々処分可致」(民間社会事業の奨励)



1876(明治9)年

12月7日 当府管内の者 他府県より宿村継を以つて原籍へ遞送の節 該旅費消却方は 本人並に父兄共極貧のものは 従来其の原籍地の小区割にて償ひ来りしが、向後大区割にして償却いたす可き旨達



1877(明治10)年



1878(明治11)年

大阪府 「貧窮者救恤の為施療券発行
(貧窮者の疾病に罹り医療を受け難きがため終に非命に死するもの少なからざるを憫み 之が済恤として施療券を発行し薬価診察料を要せずして救済の法を施行すべき旨達



1879(明治12)年