1 まえがき

2 「釜ケ崎」の沿革

3 一般情勢
 
(1) 面積
  (2) 世帯数、人口
  (3) 地理的情勢


4 生活環境
 (1) 住民の実態
   ア 住民の構成状況
    イ 住民感情


 (2) 生活の実態
  ア 住生活
   イ 衣生活
   ウ 食生活

 (3) 労働環境

5 防犯的にみた情勢

 (1) 簡易宿所(ドヤ)の実態
  ア 「ドヤ」の性格
    イ 「ドヤ」の数
   ウ 「ドヤ」の形態
   工 「ドヤ」の居住者


 (2) 簡易アパートの実態
 (3) 仮設住宅の実態
 (4) 旅館の実態
 (5) 浮浪者等の実態
 (6) 泥酔者、行路病人、自殺者(含未遂)の実態
   ア 泥酔者
   イ 行路病人

   ウ 自殺者(含未遂)


 (7) 古物商、質屋、金属くず営業等の実態
  ア 質屋
    イ 古物商
   ウ 金属くず営業


 (8) 料理屋、飲食店等の実態
  ア 概況
   イ 風俗営業関係業者の実態
    ウ 普通飲食店関係業者の実態
   工 指導取締りの状況


6 犯罪の態様

 (1) 概要
  (2) 犯罪発生状況

7 各種犯罪の実態

 (1) 暴力団と暴力犯罪の実態
  ア 暴力団の実態
    イ 暴力犯罪の実態


 (2) 売春組織と売春犯罪の実態
 (3) 麻薬犯罪の実態
 (4) ぞう物犯罪の実態
 (5) 密造酒等の実態

8 少年環境と非行実態

 (1) 概要
 (2) 少年非行集団の実態
 (3) 旅館等を利用した少年非行の実態
 (4) 不就学児童等の実態
   ア 概況
    イ 不就学児童等の状況
    ウ 家庭環境の状況
    工 不就学問題と今後に残る諸問題(障害となっている問点題)


9 結び


1 まえがき

(1) いわゆる「釜ケ崎」は、ここを中心に浮動し、い集する者たちによってかもし出される特異な生活様式と、売春、麻薬、暴力行為、ぞう物犯等、犯罪の温床地帯であるという二点において、全国にもその比をみない問題地域である。
 この問題地域の実態を解明するにあたり、どこまでを釜ケ崎地域とすべきかについては種々の議論がある。それは次項「釜ケ崎の沿革」でもわかるとおり、現在はすでに「釜ケ崎」という地名や町名はなくなっており、俗称としての「釜ケ崎」についても入によってそれぞれ概念を異にしているからである。


 そこで本調査では、別添地図のとおり多分に各種の事情を同じくする、西成区山王町、1、2、3丁目、東田町、今池町、東入船町、西入船町、海道町、甲岸町、曳船町、東萩町、東四条1、2、3丁目の10町を釜ケ崎地区とし、この地区に隣接し、しかも同じような条件下にある、浪速区水崎町、馬淵町、霞町2丁目を水崎地区とし、この両地区をあわせて「釜ケ崎」と総称することとした。

(2) 本稿は釜ケ崎事件直後のあわただしいなかで、きわめて不充分なままに急ぎとりまとめた、未定稿版「釜ケ崎の実態」の改定版として作成したものであり、もっぱら防犯警察的立場から「釜ケ崎」を解明しようとしたものである。

 もちろん改定版とはいえ、今なお不充分なところや、正確を期しえない面も多々あるが、これはむしろ「実態」をは握することなどほとんど不可能に近い「釜ケ崎」地域の特殊性によるものである。


2 「釜ケ崎」の沿革

 万葉の古歌に、「難波の名呉の浜」と歌われた当時から津江の庄、今宮の庄といわれた時代を経て、450年ほど前までは、甲岸、海道端、今井船、釜ケ崎、貝柄、水渡などの字名で呼ばれているように、附近一帯は漁村であった。

 現在の紀州街道は浜海道の別名でも呼ばれ、この道路に沿って釜ケ崎をはじめとする各字が小部落として存在していた。

 明治以前のこの附近の状況は、当時大阪の刑場であった飛田墓地の入口が、今の阪堺線霞町駅の南約400米ほどの地点にあって、非人たちがその近くにたむろしていたこと、千日前を境に人家が途絶え、あたかも東海道における鈴ケ森のように、大阪の南のはずれにあって悪雲助や追いはぎがでる紀州街道の物騒な場所として恐れられていた。

 明治30年4月、大阪市が隣接町村を合併したとき、今宮村の一部である字水渡、字水渡釜ケ崎、字釜ケ崎が同市南区に編入され、34年4月に、これらを合わせて水崎町と改称された。

 従って本来釜ケ崎とよばれていたところは、現在の浪速区水崎町の一部となり、正式に釜ケ崎という地名はなくなったのである。ところがその後、南海電鉄阪堺線、国鉄関西本線、南海電鉄本線、同天王寺線でかこまれた今宮町の北端、東入船、西入船、甲岸などの地域が再び「釜ケ崎」と俗称されるようになった。

 明治36年4月に第5回内国勧業博覧会が天王寺を中心に開催されたのを機会に、新世界や飛田遊郭などの新しい歓楽街ができ、その影響で日雇人夫や、遊芸人が集まり、さらに今船附近にこれらの人たちを対象とする木賃宿ができたのであるが、これが現在の釜ケ崎「ドヤ街」のそもそものはじまりである。その後大正8年には木賃宿の数も40軒余りとなり、これらの宿泊者を対象とした「一ぜんめし屋」や古物屋などもふえ、徐々に「ドヤ」(木賃宿)を中心にした細民街が形成されたのである。最底の収入でも生きていけるというので、自然に社会の落伍者やなまけ者、遊び人などが集まってきたのであるが、その間、大阪市の細民街、たとえば、現在の日本橋筋2丁目と3丁目の東裏にあった百軒長屋などを立ち去ったいわゆる貧民層の人たちも流れこみ、「ドヤ」街のほかにスラム街的様相も加わってきたのである。

 大正年間のこの地域の状況は、大正15年今宮町発行の「今宮町志」に明らかにされているが、これによると、「各地よりの落伍者が集り、風紀衛生は醜汚で、思想も険悪極まり、警察官ですら職務を充分に執行しえない状態である。また行路病人が極あて多く、一般に貯蓄心にかけ、健康なときは酒肉に親しんでいるが、病気になると医療費はむろん、宿泊料にも困り、野宿あるいははいかいする者、あるいはモルヒネ注射を行って中毒にかかるなど、遺憾に堪えざるものが多く……」となっている。また、大正7年8月の米騒動は、釜ケ崎の人たちが日本橋筋の米屋を襲ったのに端を発したといわれている。いずれにせよ、当時は既に住民の生活環境や犯罪態様などにおいて現在の釜ケ崎と似かよったものがあり、反社会的思想も底流として存在していたことがうかがえるのである。

 その後、昭和6年から8年にかけて、浪速区日東町の細民街が整理され住宅が改造されたとき、堅苦しい生活様式をいとう一部の人たちもこの地域に移り住むなど、人口はますますふえたのであるが、戦前はこのような状態は関西本線の南、南海本線と阪堺線に囲まれる区域だけにとどまっていたものであり、この附近一帯を釜ケ崎と呼んでいたのである。


3 一般情勢

(1) 面積
  西成区総面積    7.42平方粁
  釜ケ崎地区     0.62平方粁  西成区総面積の8.4%
 浪速区総面積    3.83平方粁
  水崎地区      0.18平方粁  浪速区総面積の4.7%
  計(釜ケ崎地区・水崎地区)0.8平方粁

(2)世帯数、人ロ
  西成区の世帯数・人口   57,397世帯   214,654名
  釜ケ崎地区        9,254世帯   32,334名
  浪速区の世帯数・人口 20,592世帯 83,066名
  水崎地区         1,855世帯    5,786名
  (釜ケ崎地区・水崎地区) 11,109世帯   38,120名

ア ここにとりあげた世帯数、人口は昭和35年10月1日実施された国勢調査によるものであり、実際にはこの数字を上回るものと考えられるが、その実数をは握することはきわめて困難である。

イ 釜ケ崎地区の面積は西成区総面積の約8.4%であるが、人口は15%となっており、人口密度(1平方粁当り)は52,152人で大阪市の人口密度(15,000人)の3.5倍近い数を示している。水崎地区は面積が浪速区総面積の4.7%であるのに対し、入口は7.0%、密度は32,144人となっている。

ウ この地区の人口構成の特徴は1人世帯が圧倒的に多いことである。国勢調査に現われたものでも釜ケ崎全世帯数の約37%が1入世帯となっており、実数はもっと高い率を示すものと推定される。(大阪市の1人世帯は7.2%である)

エ 定着度については、住民登録をしている者の90%近くが戦後来住したものであり、約60%が昭和27年以降の来住である。世帯主の平均居住期間は8年半となっており、昭和27年以降の転出者の平均居住期間は2年半ぐらいとなっている。

オ 年令構成は15才未満が約18%、55才以上が約14%で約68%が働き盛りの年令層である。

カ この地区に居住する外国人の実数は明らかでなく、おおむね200名前後と推定されるが、隣接の南、北、中開町には約10,000人の外国人が密集している。

(3) 地理的情勢

ア 西成区は大阪市の南部に位置し、北は関西本線をはさんで、浪速区、天王寺区に接続し、西は木津川を境に大正区と、東と南は、それぞれ阿倍野区と住吉区に隣接している。

イ 釜ケ崎地区は西成区の東北隅の一角をしめ、浪速区と阿倍野区に接している。北は飛田本通りからジャンジャン町へ通ずる高架下通路と、新紀州街道から霞町車庫前へ抜ける高架下通路、及び旧紀州街道から水崎町に通ずる三つの高架下通路をもって浪速区の水崎地区につながり、さらに新世界の繁華街に続いている。東は山王町旧飛田遊郭が阿倍野区の繁華街旭町通と接しており、さらに山王町1丁目からいわゆる「山の上」を経て阿倍野橋ターミナルにつながっている。

ウ 水崎地区は浪速区の東南隅の一角をしめ、東は天王寺公園と、南は関西本線をはさんで釜ケ崎地区に隣接している。霞町2丁目はジャンジャン町を除く大部分が市電天王寺車庫の敷地であり、この地域はそのまま南の繁華街新世界の一部をなしている。


4 生活環境

(1) 住民の実態

ア 住民の構成状況

 「ドヤ」とよばれる簡易宿所、簡易アパート、下宿屋および旅館、飲食店、古物商、質屋等の店舗、一般民家が密集し、日雇労務者、浮浪者、ポン引、売春婦、暴力団、立ちん坊等がい集し狭あいな一角にひしめきあいながら生活している。

これを生態別にみると

(ア) いわゆる「ドヤ」に住み、職安の紹介や、手配師と呼ばれる私設職安の手を通じて労働を提供し生活している労働者

(イ) 金があれば「ドヤ」に泊まるが大体公園、空地、駅、地下鉄等をねぐらとし、働く意欲をなくした浮浪者に近い者

(ウ) 日払いのアパートやバラック長屋に住む家族持ち

(エ) 地区内に事務所を持ち、またはこの地区の旅館などをねじろとして売春、麻薬密売、盗品故買その他の反社会的行為を反覆している暴力団、ぐれん隊などの反社会的集団

(オ) 以上の住民の生活上の必要を充足させるために設けられている旅館、簡易宿所、下宿屋、飲食店、古物商等の施設あるいは店舗の経営者等の5種類に大別される。

 なお、この5種類の割合をみると日雇労務者であっても一応“職”を持ち労働によって得た正当な報酬によって生活している「(ア)」と「(ウ)」に属する正業者が70%、「(オ)」に属する者が10%、残る20%が売春、麻薬、ぞう物故売、くず買い、ダフ屋その他生きて行くためには何でも飯の種にする無職者である。

 水崎地区は、釜ケ崎とはやや趣を異にしている。

 水崎、馬淵の各町は住民中約80%が日雇人夫、土工、手伝、とび職等下級労働者といわれる人たちであるが、さらにこのうちの約30%は「何をして食べているかわからない」ものとなっている。

 これら徒食しているものの実態はつかみ得ないが、ばくち、ポン引、しけばり等何らかの犯罪に関係しているものと推定される。

 また、霞町2丁目は、大部分が市電天王寺車庫の敷地で、これを除いたのこりが通称ジャンジャン町といわれる繁華な商店街である。したがって住民のほとんどが商売人であり、とくに飲食店が大部分を占め庶民的ないこいの場所として繁昌している。

イ 住民感情

(ア) 地元の住民感情

 長年同地域に定住し正業に従事しているいわゆる地元民は、この地区が映画、演劇、テレビその他のマスコミ媒体を通じて、従来から必要以上にその暗い面のみが強調されて紹介され、地区の事情にうとい人たちに地区全体があたかも“暴力の町”“無法者の町”であるかのような印象をあたえていることについて、かねがね困惑と、いきどおりを感じていたものである。

 したがって、このたびの事件発生で、釜ケ崎一帯はもちろん西成区全体が暴力の町としてあらためて全国の入々に誤った認識を深めさせることを、暴力事件以上におそれ、かつ憂えている。

(イ) 地元の住民以外のものの感情

 いわゆる地元民を除くと、一般に何らかの暗い過去を持つ者や、事業に失敗したり、人生に絶望した者など、いわゆる社会生活の落伍者が多く、人生の敗残者同志という仲間意識がある反面、現在の生活に対するけん悪、将来の生活に対する絶望感等から、心を許し合う友人の開拓や隣人感情というものはきわめて薄く、数年来起居を共にしながらお互いの本名や経歴も知らないという例も多い。したがって、考え方も各人バラバラで一人一人が心のカラを固く閉じた孤独感のうちに生活しているのが実状である。

 また仲間うちの対立感情も強く、たとえば職安登録者は他の自由労務者を“流れ者”と軽べつし、これらの自由労務者は職安登録者を“老人でろくな仕事はできない”と排他的にみ、バタ屋は彼らなりに独立自営意識を持ち、自由労務者等を“無法者”職安登録者を“かいしようなし”とみるなど三者三様の考え方を持っており、このような感情の対立が彼らの生活をさらに陰惨なものにしているようである。

 土地の有力者等に対する考え方としては、「ドヤ」(宿)経営者や手配師に対しては搾取者として反感をもっているが、めし屋、飲食店の主人に対しては比較的親近感を抱いているようである。

 また官公庁特に権力機関各種団体に対しては、強い反感ないし不信感をもっている。

 労働組合、政党に対しても比較的関心が薄い。全日本自由労働組合西成分会に加入している者は、職安登録者4,800名のうちわずかに15%の720名ぐらいである。この未加入の理由としては、“組合はたよりにならない”という考え方を持ち、組合関係者も「彼らは組合から利益を得ることのみを考え、すすんで組合に加入し組織的な動きをしようとする者が少ない」とこぼしている現状である。

 さらに政党に対する考え方についても“支持政党社会党” “好きな政党指導者池田首相”というような調子で、政治意識はきわめて低く、安保、三池、私鉄スト等の重大な政治、労働問題についても“仕方がない” “わからない”などという考えの者が多い。

 浪速区水崎、馬淵両町には釜ケ崎地区のような一ぱい飲み屋、めしや、娯楽施設等がないのでここへの出入りはほとんどなく、この地区の住民が釜ケ崎地区にでかけるというのが実情である。

 前述したとおり、住民のなかには社会生活の落伍者、あるいは犯罪に関係ある者が多いのであるが、これらのグループとその他の住民とは判然と区別されており、たがいにけん悪感さえいだいている。

 したがって、これらのものが、常に社会に対する不満、警察に対する反感をもっていることは、いなみ得ない事実である。しかし、霞町2丁目は繁華な商店街を形成しており、住民の大部分が商店経営者であり、警察に対してもきわめて協力的である。

 町の発展、明朗化をはかるため、昨年10月地元住民によって「新世界浄化対策委員会」を結成し、毎夜間8名〜10名が警察とタイアップして暴力追放、犯罪撲滅のため町内を巡視警戒している。

 なお、下級労働者に対する感情も、昔からこれらの者を相手とした商売であっただけに、ことさらいみきらうというような悪感情は持っていないが、漸次上品な顧客を引き入れる方針をとっている実情である。

(2) 生活の実態

ア 住生活

 狭あいな地域に多数の住民および浮浪者がい集しているので、住生活はきわめてひっ迫している。

 これに着目する一部の者により、簡易宿所、アパート、下宿屋が建築され、日払いによる貸付けを行なっているほか、旧来の家を間貸ししたりなどして利益を得ている。これらをすべて含めると約400軒の「ドヤ」等が東西入船町を中心とするこの地域に密集して、約20,000ぐらいのものがこれらの施設を利用している。

 また、これら利用者のうちには無籍者も多く、前科者も相当数いるといわれているが、「ドヤ」の内部では力が支配するかなりの無法状態(1日、15日の前後が特にひどい)もあるといわれている。

 いまこの地区の住民たちが一番望んでいるものは安い住みよい住宅である。「ドヤ」の大部屋や蚕棚式の部屋に詰めこまれ、1日100円という一見安いようできわめて高い宿泊費(1カ月3,000円)は、彼らの生活に非常な重圧となっている。

 この住の問題が釜ケ崎の特殊性の核心をなすものであり、何はともあれ、最も早急に解決されねばならぬ問題である。

 浪速区水崎、馬淵両町は、住民の約80%ぐらいが日雇人夫、バタヤ、手伝、土工、とび職などのいわゆる下級労働者であるといわれているが、一定の住居をもたぬものはなく、掘建小屋、バラックあるいは簡易宿所、アパート等、何らかの生活根拠を構え、しかも世帯持ちがそのほとんで、最低生活とはいえ西成の釜ケ崎地域の住民とはやや趣を異にしている。

イ 衣生活

 このたびの事件でも、暴徒の多くは丸首シャツにステテコ、あるいはステテコに腹巻、女はシュミーズにゲタばきという、いわゆる釜ケ崎スタイルで登場したが、このような風体は彼らの衣生活を端的に示している。

 「ドヤ」街に住みついている労働者、公園、空地にねそべる浮浪者、道路にたむろする無職者、いずれもこのような服装の者が多く、職安、手配師を経て他地区に出かせぎにでる場合でも汗とホコリにまみれたヨレヨレのシャツやよごれた古ズボン、それに地下タビといった、いわゆる土方スタイルの者が多い。

 このような服装の入手については、従前からの着古しもあるが、南海線萩の茶屋附近や職安前広場に並んだ露店市が利用されており、ここでは、ズボン1着100円、シャツ1枚50円、古ゲタ1足30円、古軍手(片方)7円といった値がつけられ、取引されている。

 冬季は寒さをしのぐため古い、厚地の物を若干重ねる程度であり、粗末なジャンパー姿が最も多い。

 若いヤクザはアロハにマンボズボンというのがこの界わいにおける共通したユニホームになっている。

 しかし浪速区水崎、馬淵両町では、夏でも殆んどズボンにシャツ姿という一般的な服装が多く、着のみ着のままの浮浪者的姿はあまりなく、町にも衣料の汚れたものや、古びたものを売るという釜ケ崎地区のような状況はない。

ウ 食生活

 「ドヤ」居住者は周辺の簡易食堂を利用し、1ばい20円の盛り切り飯(通称大盛り)、1皿10円〜20円の副食、3円〜5円の汁などを中心に、ホルモン料理、バクダンと称するショウチュウや1杯10円という気の抜けたビールなどによって、労働のエネルギーを摂取している。バラック、アパート等に住む家族持ちにあっては、主食を中心とした最低の家庭料理によって飢をしのいでいるが、その献立は天候、当日のかせぎ高に左右されることが多く、一般サラリーマン家庭における食生活概念では、到底想像することはできない。

 要するに、この地区の食生活の実態は、生活程度の低い階層ほど全体の収入に占める食生活支出の比率が大きく、そのうちでも主食費の比率が高まるというエンゲルの法則がそのままあてはまるというところである。

 しかし、浪速区水崎、馬淵両町の住民は、バタヤでも1日の収入が200円〜300円ぐらいあるといわれているが、彼らは、いわゆる「その日暮し」で飲み食いに明け暮れしているのが実情である。しかしなかには外形上は最低貧困生活のようにみられるが、一応定職についているだけに「おやじ」は日雇をしていても、娘や息子が、それぞれ就職して、テレビもあれば電気洗濯機もあるという一般水準の生活をしているものがいるなど、釜ケ崎地区の労務者とは、およそ比較にならない生活といえる。

(3) 労働環境

 旅館、飲食店、その他の営業者、および零細な自家営業者はともあれ、「ドヤ」住まい等で一定の住居をもたない大半の者は職安、手配師を通じて日雇い労働に従事している。

 しかし、収入については悪質な手配師、暴力団等の中間搾取があり、これら日雇い労務者の生活を圧迫している。

 職安による就労あっせんは、日雇いで、普通300円〜500円で職にあぶれることもあるが、手配師を通じると健康者であれば1日1,000円ぐらい、港湾荷役のような重労働であれば1,200円〜1.500円の収入があるといわれ、そのうえ、「トラック」または、「白タク」で現場まで輸送し、ときには酒の一ぱいもふるまわれる等のことから、ピンハネされていることは承知しながらも手配師を通じて職を求める者が多数あり、職安の窓口を訪れるものは、年寄りか、体の弱いもの、あるいは婦女子というのが実情である