122-参-外交・総合安全保障に関…-1号 平成03年11月21日

 

平成三年十一月二十一日(木曜日)

   午後一時一分開会

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    参考人

       筑波大学教授   進藤 榮一君

       静岡県立大学教授  毛里 和子君

       

       一橋大学教授   山澤 逸平君

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  本日の会議に付した案件

○理事補欠選任の件

○参考人の出席要求に関する件

○外交・総合安全保障に関する調査

 (「九〇年代の日本の役割−環境と安全保障の

 あり方このうち安全保障のあり方について)

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○参考人(進藤榮一君) 世界は非常に新しい世界に入っているというのが私の安全保障に対する基本的な考え方の前提にございます。

 恐らく、あと数年して我々が直面するであろう、我々が手にするであろう二十一世紀というのは、十九世紀的な世界とも違う、二十世紀的な世界とも違う、全く新しい世界になるだろう、そういうふうに考えます。確かに、今世界の各地でさまざまな紛争が起き、さまざまな混乱が生じております。しかし、恐らくこの紛争にしろ混乱にしろ、そういった一連のいわゆる一九八九年の東欧・ソ連革命以来続いている今日の事態というのは、国際社会における地殻変動のあらわれにほかならないというふうにとらえてよろしいかと思います。

 時間が非常に限られておりますので、なるべく簡単に申し上げたいと思いますが、大きく言って私はきょう三つのことを申し上げたいと思うんです。

 

 一つは、地殻変動の持っている意味でございますね。今の国際社会を揺るがしているさまざまな出来事、これは一体何なのかということをとらえるときに、私どもは国際社会の表層部における、表面における変化としてとらえるべきではなくて、根底から国際社会が変わり始めているそのあらわれなんである、そうとらえていきたいと思うんです。そうとらえることなくして、恐らくこの後毛里先生が御説明なさる天安門事件にしろあるいはペレストロイカにしろ、東欧革命にしろ中東危機にしろ、ここ数年立て続けに目まぐるしく起こっている一連の事態の説明は不可能であるというふうに考えます。それは先ほど申しましたように、十九世紀的、二十世紀的な近代的な世界からの離脱である、新しい世界を今我々は手にしているんだというふうに考えていいと思うんです。

 それじゃ、その新しい世界は一体何であるのかという問いかけに対して、私はこう答えることができると思います。

 

 第一に、それは帝国が終えんしつつある時代なんだろうと。帝国の終えんというのは要するに、巨大な国家が地理上の版図を広げてそこに支配権を確保し、そしてそこから利益を収奪していく、利益を手にしていくという、そういった巨大な帝国の時代がもう終わりに来ているんだろう。あるいはヘゲモニーの終えんであるというふうに申し上げてもいいと思います。その根底には何があるのかというと、やはり軍事力自体が意味を持たなくなってきたんではないのか。いや、たまさか意味を持っても、それは極めて限定的な意味しか持ち得ない時代になっているというふうにとらえていいと思います。これが一つです。

 二つは、そこに当然、なぜそれじゃ軍事力が意味を持たないのかという問いかけが出てくると思うんです。依然として軍事力を持っているというとらえ方もあると思います。そして私もまたそれに同意します。しかし、同意するにもかかわらず、やはり軍事力の持っている意味の相対的な比重というのは極めて低くなり続けているんだというふうに申し上げていいと思うんです。

 第一に、やはり諸国家間の相互依存関係が非常に密になってきているということだと思うんです。ある国がある国に対して人質をとり合う状況、これが今日の世界の現実だと思うんです。これはかって吉田茂首相が側近たちに繰り返し繰り返し語ったことで、私はその側近の方々からお聞きしているんですが、パールハーバー・アタックは、もし日本がアメリカの資本を受け入れでいたならば真珠湾攻撃はなかったろう、あるいは少なくとも日米開戦はなかったろうということを彼らは言い続けるんですね。この現実は何かといいますと、要するに、アメリカの資本が日本にあって、日本がそのアメリカの資本を人質にとっているような状況のときにアメリカは日本を攻撃することはできないだろうと。この吉田の戦後語り続けた言葉の意味というのは今日現実化しているだろう。物と金を軸にして国境の壁を越えて、例えばアメリカの資本あるいはアメリカの物が日本に次々に流入してきている。しかも、それが単に金の形態である投資に関しましても、投資の形態自体がかつてのように証券投資ではなくて直接投資になっている。丸ごとアメリカの工場が日本にやってくる、日本の日産自動車がアメリカにやっていくという事態。このこと自体が日米摩擦をいかに厳しくしても、日米摩擦がどんなに険悪になっても第二の真珠湾攻撃はあり得ないということを私どもが断言できるゆえんであります。相互依存の深まりという言葉で私どもは呼びます。

 相互依存があるいは相互依存という言葉自体がもはや不適切になるくらい国家間の壁の低さ、諸国家間の物と金と人と情報とテクノロジー、この相互交流の波を断ち切ることがリスクを伴うほどの膨大なコストを伴う事態に今日至っているんだと。それゆえに、例えばアメリカが日本に対して対日貿易赤字を減少するためとか、あるいは米開放を迫るために軍事力を行使するという、かつてだったら十分考えられた事態が今日考えられない事態になっていますね。同じことが日本に関しても言えます。フランスとドイツがかつてあれだけ仇敵の仲であって不倶戴天の敵であったにもかかわらず、今日フランスとドイツが戦争できなくなっている、戦争するということ自体が想定不可能な状況に至っているというヨーロッパの現実はそのことを示しているというふうに申し上げていいと思います。

 二つ目、軍事力の持っている役割が相対的におびただしい低下を示さざるを得なくなったということの理由は、軍事力を持てば持つほど経済力がなえていかざるを得ない、経済力が衰退していかざるを得ないという現実があるんですね。

 これはなぜなのか。一つは、軍事力の性格の変化です。軍事力自体が技術資本集約型のものに変わっているわけです。膨大な技術を食う。膨大な資本を食う。例えば技術に関して言えば、RアンドDという、リサーチ・アンド・デベロプメントという研究開発費によって軍事力に占める技術力の、技術投下の技術係数というものをはかることができるわけですけれども、一九三〇年のアメリカの全国防予算におけるRアンドDの比率というのは一%しかございませんでした。朝鮮戦争を境にしてそれが一〇%を超え、今日二〇%になっている。アメリカの全RアンドD費の七割が軍事費に向かっている。フランス、イギリスが四割から五割、西ドイツが二割内外、日本は一〇%までいっていません。このこと自体が日本の経済発展を支えた平和国家の理念であることは疑いない。低武装国家自体が日本の経済発展を支え、アメリカがどんなに頑張っても日本に勝つことができない、少なくとも経済的技術競争においては勝つことができないという現実を引き出している軍事力の質的な変化です。

 さらにつけ加えて言えば、産業構造が変わりました。長大重厚型の産業構造から軽小短薄型の産業構造に変わるわけです。第二次産業革命の軸でありました重厚長大型の産業構造からハイテク型の産業構造への変化が軍事力にも及びます。そうすると、その結果、軍事力自体が基幹産業から離脱していくという現実が出てくるわけです。そのことが再びアメリカをして基幹産業部門における衰退というものを引き出していかざるを得ない。

 そしてさらに、第三に言えることは、軍事力の持っている限界というのはやっぱりナショナリズムですね。ナショナリズムの強さというのは十九世紀、二十世紀的な世界とは全く違った状態になっているというふうに申し上げていいと思うん

です。

 

 私がこういうふうに申し上げできますと、それじゃ進藤先生、湾岸戦争はどうだという御反論が出てくると思うんです。しかし、これは現実を見誤っていますね。一つは、湾岸戦争で軍事力が、ハイテク兵器が非常に威力を持った持ったとCNNプラスNHKあたりで、あるいは日本のテレビ網が連日連夜パソコンゲームさながらの画面を茶の間に持ち込んでいるわけですけれども、現実はどうであったのかということを見てまいりますと、必ずしもあそこでハイテク兵器が威力を持ったというふうに言えないですね。

 これは、最近アメリカで明らかになり始めている。例えば私の手元にある、これはほかからの引用なんでございますが、アメリカの議会でマサチューセッツ工科大学のポストル教授がイスラエルの資料をもとにして米下院軍事委員会で明らかにしたところによると、一月十七日、十九日、イスラエルにアメリカのパトリオットミサイル、もうこの名前はテレビでおなじみだと思いますけれども、このパトリオットミサイルを配備する前と後を調べるわけです。これはイラクのスカッド、攻撃用のミサイルです。スカッドミサイルに対してアメリカは一月十九日にパトリオット、地対空ミサイルを配備するわけですけれども、この前と後で一体テルアビブにおける地上の被害はどうであったのかということの数字が出てまいっているんです。

 死者に関して言えば、配備される前はゼロ、配備された後は一人。負傷者に関しては百十五人対百六十八人。つまり配備される前は百十五人、配備された後は四割増の百六十八人。アパート損壊、これは家屋ですね、家屋損壊に関して言えば二千六百九十八戸対七千七百七十八戸。これは約三倍です。一体パトリオットミサイルがどれだけ威力を持っていたのかということの虚像がここに明らかになっているというふうに申し上げていいと思うんです。

 それじゃ、単純な質問で、なぜパトリオットが威力を持たなかったのかということになるかもしれません。テルアビブ上空でパトリオットとスカッドが撃ち合いますと、撃ち合った弾丸の残骸が下の市街地へ落ちてくるわけです。その結果、逆に負傷者が五〇%ふえ、アパート損壊率が三倍から四倍にふえたという現実を我々は手にするわけです。ハイテク兵器の威力を我々は過大評価すべきでないということが第一点です。

 第二点に関しましては、一体なぜアメリカが二月の二十八日に停戦を行ったのかという疑問でございます。地上戦を一週間そこそこしか戦っていないわけです。なぜそうなのか。それともう一つ単純な疑問は、中東でアメリカがあれだけ勝った勝ったと。確かに四月の上旬、あるいは三月から四月にかけて私もちょうどメキシコ、アメリカにおりましたけれども、あの時期アメリカは、それこそもうパレードもやりまして大変な勝利の、ユーフォリアという言葉がはやりましたが、勝利の陶酔感ですね。日本を撃退して以来の、正確に言うと八月十五日以来の勝利の陶酔感に浸っていたアメリカであったわけですけれども、それから半年たった後の中東状況はどうなのかという単純な疑問が出てくるわけです。

 何も変わっていないですね。フセインはあそこにおります、依然として。確かにクウエートからフセインの軍隊は撤退しました。しかしそれ以外は何も変わっていません。いや、変わっていないところか、逆にイラクの国内、中東状況はもっと混迷の度を深めているというふうに、あるいは紛争の度合いを深めているというふうに申し上げて差し支えないと思うんです。

 これはなぜかといいますと、一つは、あそこで地上戦を戦ったらアメリカはとてつもない泥沼へ入っていかざるを得ないという現実があるわけですね。ジャングルの戦争ではなくて砂漠の上の戦争、しかも三月十七日のラマダンを境にして中東ナショナリズムというものが燃え上がります。気候状況の変化によって地上の砂漠の上の温度が五十度を超えるという、これは軍靴が溶けてしまうんですね。第三世界、遠い世界における戦争を先進国は戦えないという現実が明らかなんです。だからこそ地上戦一週間余りで停戦したんではないのかという当然の結論が出てくる。そして、だからこそブッシュはクルド族の反乱を唆し、イラクのサダム・フセインの権力基盤を内側からそごうとしたんだという当然の結論が出てくるわけです。あるいは、だからこそシーア派の反乱を逆に唆し、イラク内に内紛状況を起こしていこうとするブッシュの対イラク戦争、湾岸戦争後戦略が出てくるわけです。

 しかし、御承知のように、湾岸戦争の事態は戦争前と後とでは逆に混乱の度を深めているとしか言いようがないと思いますね。少なくともパレスチナ問題が解決されない限りベーカーの和平交渉は失敗するでしょう。今、新聞に和平可能の記事が出ておりますけれども、私は、この条件が撤去されない限り、つまり第三世界のナショナリズムを先進国の側が積極的に容認するという、アメリカ国内におけるユダヤ票を無視してもなおかつパレスチナの独立を認めるというこの一線が貫かれない限りこれは不可能です。インポシブルヘの挑戦を行っているというふうにしか言えません。

 そう申しますと、湾岸戦争で一体アメリカは勝ったのかどうなのかという単純な疑問が出てくるわけです。逆に言うと、じゃなぜ湾岸戦争に踏み切ったのかというもう一つの疑問が出てくるわけです。これは最近さまざまな箇所で明らかになっていますし、かつて私も論文に書いたことですけれども、湾岸戦争でアメリカはもうイラクのクウエート侵攻を全部知っているわけですね、AWACSその他によって。これは当時既に開戦前からインテリジェンス・ニュースその他で報道されていることなんです。そして、グラスピー駐イラク大使がそのことを繰り返し繰り返しイラクのフセインから通告されていたにもかかわらず、自分たちは経済制裁すらイラクに対して行わないということをブッシュの言葉としてイラクのサダム・フセインに言明しているわけです。要するに、侵攻を誘ったという現実は消えませんね。

 そうなりますと、一体何のために中東戦争が戦われたのかという極めて単純な疑問が出てくるわけです。歴史文書が解禁されておりませんし、私どもの推察というのはあくまでも幾つかのアンノーンファクターを組み込んだ形での結論へと至らざるを得ないわけですけれども、ともかくただ一つはっきり言えることは、第三世界における戦争というのはハイテクによって勝つことというのはなかなか難しいだろう。恐らくアフガンでソ連が負け、ベトナムでかつてアメリカが負けたと同じょうに、中東戦争でもアメリカは勝つことができないという現実があるというふうに申し上げていいと思います。

 さて、そういった国際社会の変化というものを前提に見てまいりますと、私は今や軍拡競争の時代から軍縮競争の時代へと入ったというふうに申し上げて差し支えないと思うんです。領土を持ってそして安全保障を確保するという考え方自体がもう現実のものでなくなったのです。なぜかというと、例えば日米安保にしろNATOにしろ、その同盟体制の前提であった仮想敵国がなくなっちゃったわけですよ。ソ連という国自体がもうなくなりますね、消えつつある。もちろん、中国の脅威だって、これは毛里先生がお触れになることかもしれませんが、中国の日本に対する脅威だって考えられないです。

 この間、外務省文書が解禁されまして、一九五五年高碕達之助氏が周恩来と会見したとき、周恩来はこういうふうに高碕達之助に言うんですね。あなた方は中国を脅威としているけれども、一体高碕さん、中国に船が何隻あることを御存じですかと言うんです。船は一隻もありませんよと。軍艦という言葉じゃない、船という言葉なんです。船が一隻もないのにどうして日本を攻撃できますかと言うんですね。

 私が見るところ、日本の安全保障政策というのは基本的に架空の脅威の上につくられてきたというふうに申し上げて差し支えないと思うんです。

しかし、架空であっても、意識の上にそれが脅威と感じられている限り一定の軍事力の保障というものがなければいけないという論理が成り立つと思うんです。それは認めた上で、なおかつ脅威自体が、ソ連の脅威がなくなった、中国の脅威もなくなった、それなのになぜ日本は軍拡を続けるのかという単純な疑問が出てくるわけです。なぜ、戦闘機のF15を百七十七機も買い続けようとするのか、これは一機百億しますからね、一機百億の兵器を百七十数機買い続けるこの単純な外交における愚かさというんでしょうか、愚行というんでしょうか、その現実が見えてくると思うんです。意味ありませんね。

 NATOはもはや現実を変えて、これもまた転型期にあってもうコメコンが、ワルシャワ条約機構がなくなりましたから、NATO自体が戦略体系を変え、戦力構造を変え、そして軍縮を続け戦術核を八〇%まで削減するという方針へと転換しているわけです。しかも、恐らく私の見るところ、NATOの中にこれからソ連が入るでしょうし、旧ワルシャワ条約機構国が入ってくるという事態になってくると思うんです。ということは、敵のないNATOができ上がるだろうと。それなのになぜ日米安保にしろ何にしろ架空の敵を前提にして、虚構の敵の脅威を前提にして日本が安全保障政策を考え続けるのかという非常に時代おくれというのか、何かET的な、過去に向けてのバック・ツー・ザ・フューチャー的な発想が日本の政治、外交に強過ぎるというふうに私は思います。

 核問題というのは、これから非常に大きな問題として出てくると思います。例えば北朝鮮の核、これは非常に危険なものです。これは核開発進行中であるというふうに見て差し支えないと思うんです。ですから、これに対してさまざまな外交交渉を通じてこの核の開発をはっきりと阻止するというその一点は私は外交の基軸に据えて構わないと思うんです。にもかかわらず、それじゃ一体なぜAWACSをまた買おうとするのか、かぜ当然北朝鮮あるいは沿海州を射程に入れることのできるF15を百八十機も持ち続けるのか。湾岸戦争のときに、海部さんはこれを八機さらに買うことをアメリカ側に約束し、機種の増大へとつなげているわけですけれども、なぜそういうことをするのかということです。日本の外交、安全保障政策には哲学がないというのか、哲学がないんではなくて政策自体がないんじゃないのかというふうに思います。これはやはり憂うべきことではないかというふうに申し上げていいと思うんです。

 さまざまなことを申し上げてきましたけれども、最後に二つほどつけ加えさせていただきたいと思うんです。

 ソ連をめぐる意味づけに関していろんな見方があります。私は、もうソ連共産主義体制というのは終えんしたというふうに見ます。共産主義は終えんし、マルクス・レーニン主義型の社会主義というのは歴史の使命を終わったというふうにとらえていいと思うんです。なぜそれじゃ歴史の使命を終わったのかというと、これはやっぱりソ連社会が西側と同じような社会に変わってきたというふうに見ていいと思うんですね。私のこの小さなエッセーの中に書いてありますので、時間が限られておりますからこれをお読みいただければいいと思いますが、まあ一言で言うと、ドストエフスキーの時代は終わったんだと、あるいはかってチェーホフに我が国は西ヨーロッパに比べて二百年おくれていると言わしめたあのロシアの農民人口八割を抱え、文盲、非識字率七割、八割に達している、高等教育がほとんど普及していないおくれたロシアが過去のものになって、あすこにもまた西側社会と同じように、我々と同じような形の市民社会が登場し、そのこと自体が一党支配体制は、後衛と前衛の差がなくなるわけですから、なくなった段階にあって前衛党は役割を終えんせざるを得ない。だからソ連国旗というものは変わらざるを得ない、労農国家でなくなるわけです。

 これは、ブルーカラー層がいわゆる鉄の鎖以外失うものもないと言われた未熟労働者はもう極めて少数派になって、やはり多数派のホワイトカラー層であり熟練労働者であるという事態、農民人口が一九%を切るという事態、こういった状況の中でいわゆるかつての労農国家が終えんし、そして農村型社会から都市型社会に変わり、市民社会が登場した段階にあって一党支配は終えんし、中央指令型経済システムは終えんせざるを得ない、市場経済の導入だと。ですから、この流れというのはもはや不可逆的なものだというふうにとらえていいと思うんです。つまり、内側からする変化ですから。これが地殻変動の意味だというふうにとらえていただいていいと思うんです。

 しかし、だからといって資本主義の勝利だというふうにとらえるのは極めて皮相な見方でありまして、それじゃ資本主義の総本山であるアメリカがそれだけ栄えているのかというと、御承知のようにリセッションに入りておりますし、それから三百万のホームレスを出しておりますし、軍拡は依然として質の軍拡を続けているような状況にも一方でございます。そういったことを見ますと、私どもは総じて新しい世紀の到来に対して、新しい時代の到来に対して十分な時代の変化の読みをし切っていないんではないのかというふうに思うんです。

 この後、山澤先生がアジアNICSの話を御説明なさると思いますけれども、アジアNICSの場合も韓国を含めて内側からする市民社会の登場です。このことが技術力を強め、経済力を強め、一党独裁体制を崩壊させているんだ、崩壊させようとしているんだというふうにとらえていいと思うんです。新しい世界です。

 東西関係という、東西対立という言葉自体がなくなりました。恐らく南北関係という言葉もかつてのような形ではもう使えなくなる時代が到来しているというふうに申し上げていいと思うんです。軍事力はその役割を極めて少なく、限りなくミニマムなものにしていかざるを得ない時代へと突入している。軍拡競争の時代から軍縮競争への時代へ突入している。アメリカもソ連も、西欧諸国が軒並み軍縮を続けている状況がある。むしろ、内向きに国内体制を整備し、国内民生生活を充実させ、民衆の、市民の生活を豊かにし、本当の意味で豊かにしていく。過労死のない状況をつくり出していくという安全保障政策が内政政策としての意味を持ち始めている時代が今来ているんだというふうに申し上げていいと思うんです。ボーダーレスの時代の登場というのはそのことを意味するものだというふうに申し上げて差し支えないと思います。

 ちょうど時間が一時半になりましたので、この辺でとりあえずは終わらせていただきます。

 

○立木洋君 最後になりましたけれども、山澤参考人にお尋ねしたいんです。

 アメリカのアジアに対する経済的なかかわり方の問題ですけれども、先ほど先生がおっしゃったのでは、アメリカが今景気的には後退してきていると。確かに、景気でいえば一九九一年度国民生産は〇・三%マイナスになっています。ただ、私の考えでは構造的な矛盾があるんではないかと、ただ単なる景気の後退ではなくて。最近でも大きな問題になっていますけれども、貧困層が二二・五%ふえて三千二百五十万ですか。それから、きのうのテレビのニュースでも言っていましたけれども、ホームレスが七百万というんですね。もう大変な状態になってきている。あの湾岸戦争のときに八〇%以上も支持を集めたブッシュさんの支持がもう四割でしょう。そして、民主党の方が四三%で三%超えている。だから日本にも来られなくなったことが問題になるぐらい大変な事態になっているんです。

 このアメリカが依然として世界的に自分の役割を誇示していこうと。しかし、経済的に言えば双子の赤字ではなくていわゆる国の財政、地方財政、貿易、家計ともう四つ子の赤字だと言われるくらいの事態になっているのに、依然としてアメリカが自分の覇権的な考え方でアジアに臨もうとするならば、私はさっき話が出ましたマハティールさんじゃありませんけれども、いろいろな意味で今後問題が出てくるんじゃないかと。

 そういうときに、日本のとるべき態度として、アメリカに同調してアジアをなだめるということではなくて、近隣のアジアの中において日本が自主的な立場を持ちながらアメリカの間違っている点についてはきちっと述べられるような対応をやっていかなければ、アジアの安全保障という見地からすれば、これまでのアメリカのアジアに対するかかわりからすれば相当の批判というのがベトナム戦争の時代からありましたしね。だから、将来的な展望を持つならば、そういう日本の態度というのが必要ではないかと思うんですが、先生の御所見をお伺いしたいと思います、

 

○参考人(山澤逸平君) アメリカの経済状態が単にマクロ的な景気後退ではなくてかなり構造的にいろいろな問題をはらんでいる、これは先生のおっしゃるとおりで、私も全く同じ認識でございます。

 それもかかわらず、アメリカがアジアに対して覇権的なあれを持っておるということですが、これはちょっと私の領域と若干ずれますのであれでございますけれども、しかし、この間東京に参りましたベーカー国務長官の講演を聞きましたけれども、その中で、私の印象では、ベーカー国務長官はアメリカの経済的な困難ということを十分に認識していて、アジアの経済的な発展のためには日本の協力が不可欠である。したがって、日本と協力していかざるを得ないというふうなことをはっきり申しておりました。

 ですから、その点についてはアメリカもその必要を感じている。そして日本もその方向で私は協力するべきだと思いますけれども、おっしゃられました日本の投資は、アメリカにも行っておりますけれども、アジアにも行っておりますし、ヨーロッパにも行っております。世界第一の投資をする資金を持っている国に過去二年前にはなったわけでございまして、莫大な投資をその三地域に対してしているわけでございまして、アジアへの日本の投資がある程度アジアでの景気の過熱状況を結果したということも一部にあったぐらいでございまして、その意味ではアメリカヘの投資とアジアヘの投資が必ずしも矛盾はしない、ないしは競合はしないというふうに考えます。