51-参-文教委員会-18号 昭和41年06月02日

 

昭和四十一年六月二日(木曜日)

   午前十時十九分開会

   

 

   参考人

       松竹株式会社常務取締役     香取  伝君

       歌舞伎俳優    喜熨斗倭貞君

       早稲田大学文学部教授      郡司 正勝君

       演劇評論家    菅原  卓君

       テレビタレント  松岡 壽夫君

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  本日の会議に付した案件

○国立劇場法案(内閣提出、衆議院送付)

○教育、文化及び学術に関する調査

 (私立大学に関する件)

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○参考人(喜熨斗倭貞君) 小林先生の御質問に対しまして一言申し上げますが、国立劇場ができ上がる暁に、どうして歌舞伎を保存していかなければならないかということに対しましては、私は歌舞伎俳優として一言申し上げたいのですが、歌舞伎という芸術は封建制度の徳川幕府中に発達しております。起源はもっと古いのでございますが、発達したのは徳川時代だと思います。封建時代のもとに発達しておりますから封建性のところが多分にあります。しかし、やはり歌舞伎のいいところというのは、人間の持つ正義感とか、礼節とか、あるいは先ほど香取君も言われました義理、人情、そういうものを多分に含んでおる。ですから、国立劇場が歌舞伎を保存するという意味は、やはり歌舞伎の美点、いいところを御理解なすっていらっしゃるのだろうと思うのです。ただ単に古いからいいという、ただ骨とう品であるというお考えだけではないと思う。もちろん古いものはいいものはたくさんでございますが、やはり歌舞伎を保存するという意味はその意味だと存じます。その意味でこの歌舞伎というものが、わが日本国民にいい影響を及ぼさなければ何にもならないということは、先ほどちょっと私も申し上げましたが、教育のほうの問題になっていきますが、今日歌舞伎がややもすれば敬遠されておりますというのは、私は歌舞伎の俳優の貧困にあると思っておりました。現在も思っております。われわれの責任であると思っておりましたが、そればかりではないと思うのです。最近、私は舞踊を指南しておりますが、その舞踊のけいこにくる若き男女の集まりで、君たちは石川五右衛門というのを知っているかと聞きましたら、その若き男女たちが、それはもう日本でどろぼうの大家だ、石川五右衛門はよく知っている。それでは楠木正行というのは知っているかと聞いたらば、楠木正成は知っているけれども、楠木正行は知らないというのが十代の返答でした。私はそのときほんとうにぞっとしました。そういういまの世の中であればこそ、大学の校庭で格闘が始まったり、あるいは日本の政治ということを考えずに、デモンストレーションを起こして横須賀で騒いだり、あるいは釜ケ崎でも騒動が始まったりするのではないかと思っております。これは歌舞伎を通してぜひ教育の資料にさしていただきたいと思うのはわれわれ歌舞伎俳優の願いなんであります。

 一昨日でございましたか、ジョフレとファイティング原田の拳闘を見に参りました。あの二人が、たった二人が一万五千の観衆を集めて、そうして三千五百万ですか、四千万ですか、ちょっと忘れましたが、何千万かの入場料を吸収できるということは何にあるか、私もそこでジョフレと原田の拳闘を見ながらよく考えました。二人でこれだけの観客が呼べるのに、われわれ歌舞伎俳優は何百人も集まって観客が呼べないのかと考えましたが、この拳闘はぼくは興奮だと思います。闘争であり興奮である、歌舞伎はやはり興奮もございますが、教えがあると思います。これが歌舞伎の大事なところだと思います。でありますから今後、国立劇場を少しでも早くこの法案を通過さしいただいて、早く歌舞伎の舞台に立たしていただきたいと思う次第であります。

 それからもう一つこれも最近の話ですが、私は昨晩、赤坂のあるところへ食事に参りました。そうしますと、そこに若い女の子が世話をしておりました。私は紹介されました。品のいい若い女の子でありました。君は幾つになると聞いたら十九歳だと言う、東京へいつ出て来たのだ、昨年出て来た。国はどこだと言ったら、北海道の苫小牧、そうか、君は映画か何か好きか、演劇は好きかと聞きましたら、映画はよく見る、しかし歌舞伎というものを見たことがないので、最近、歌舞伎というものを見たいからというので、さる人に連れて行ってもらって歌舞伎を見た、ということは、歌舞伎座を見た、先月ですか、「角田川」というのを見た、見てどうだったと聞きましたら、十九歳の北海道から出て来た少女が、私は「角田川」を見て感銘したと申しました。あの清元、歌右衛門君の狂女、勘三郎君の船頭、その三体が舞台にかもし出した空気、私はそのうたの文句もわからない、それから劇の主題もわからない。あれは舞踊劇でございますが、あれは純粋の歌舞伎とは言えないかもしれませんが、まあ歌舞伎舞踊劇だと存じますが、それを見て実に感銘した。こんなに歌舞伎というのはいいものかということを昨晩聞きました。それを聞いて、私は実に意を強うしまして、若き婦人にも石川五右衛門は知っているが、楠木正行を知らないものがいれば、初めて歌舞伎を見て「角田川」に感銘する若き女の子もいるんだ。そこで、結局先ほども申しましたとおり、教育というものがいかに大事であるか。ですから、この国立劇場ができましたならば、お子さんにも歌舞伎を見せ、正しき歌舞伎を見せ、青少年にも正しい歌舞伎を見せ、そうしておとなの方にも見ていただくという方法をとっていただきたいと存じております。

 以上、歌舞伎俳優としてのお答えでございます。

 

○参考人(郡司正勝君) いま中車さんが「角田川」の例をあげられましたけれども、歌舞伎にはそういう親子の情愛とか、人情にかかわるとかくいい面もありますけれども、かなりいかがわしい面もたくさんございます。したがって、いま歌舞伎の持っている思想を云々することは、ここでは論ぜられないたいへんにいろいろなむずかしい問題がございますし、また、江戸時代にできましたものが、今日の現代にすぐ影響を与えるようなものでも困ると思うので、実はこの思想の問題はまた別に論ぜられなければならない問題と思います。ただ、先ほども御質問がございましたが、保存ということにつきまして、ただ内容だけでありますれば、これは台本だけ残ればけっこうなんで、それを読み取ればいいんですが、台本だけ今日われわれ見て、決して今日の歌舞伎のあの姿を思い浮かべることができないんです。とても台本に盛られている思想はすぐれたものだということはできないのは、一般民衆の中に、常に江戸幕府のむずかしい法令の中に弾圧のもとに育ったんですから、雑草のごとくおい茂っていますので、これはなかなかむずかしい問題でございますけれども、歌舞伎が世界に冠たるゆえんは、一にしてこれは様式の美にあると思います。この様式の美は、今日の日本人がつくったものでなくて、江戸時代の民衆がつくり出したものでございます。したがって、これを今日の日本人はやっぱりそれに匹敵するだけの様式の演劇をつくり出すのが今日の日本人の義務ですから、それに当たるようなりっぱなものは現代われわれは持っておりません。江戸時代の歌舞伎の様式に匹敵するようなものは、現代の日本人はまだつくり出しておりません。そういう意味でも、またこれから歌舞伎に匹敵するような様式を外国でも日本人でもつくり出せるとは思いません。そういう意味で、これは能も同じでございます。したがって、それを民衆に退屈でないように、あくびが出ないようにわからせようというのはかなりむずかしく、それの本質の美の格調をくずす危険性がございます。むしろ伝統の歌舞伎でもって見物を教育する、つまり教養を見物にしいるのが古典芸術だと思います。これは外国のオペラでも何でもそうで、一応、教養がなければ古典がわからないのがほんとうだと思います。したがって、大衆に迎合するのは、これは商業劇場ですることですから、それが歌舞伎の本質をこわすもとになりますので、国立劇場で正しく保存をすべき問題だろうと思います。この基準と申しますのが、先ほどからも問題になりますので、歌舞伎には、これはぜひ先ほど中車さんからのお話を伺いたかったところですが、型というものがございます。その型がその様式を維持しているものでございます。今日の俳優が受け継いでおります型と申しますのは、おおよそは明治の、団、菊という名優によって集大成されたもので、今日に伝わっているものだろうと思います。したがって、それが時と場所によって、あるいは見物の多寡によってかなり変えられますので、まず団、菊の型というところで今日伝承されております。団、菊の型というものを基準に押えるべきだろうと思います。これを歌舞伎を戻せと申しましても、阿国歌舞伎の河原芝居に戻せということは、歌舞伎のプロセスを無視することになりますので、ぜひ明治のところで基準に置くべきじゃないかと思うのであります。したがって、正しい発展と、こう申しますけれども、正しいという問題と発展という問題が、むずかしいまた問題になりますけれども、古典はどこまでもそれを基準に置いてむしろ見物を訓練しているものだ。それから新しく歌舞伎の発展を考えますのは、全く歌舞伎の持っている日本人独特のエスプリと申しますか、その要素を分析して、われわれがその中からまた新した芸術をつくり出すというような発展であって、古典の型をくずすとか、変えていくということは、その時代、時代でなすべきことで、これは発展ではないと存じます。舞楽や能は現代から離れた芸能であるからこそ、りっぱに今日古典として保存されたわけでございます。したがって、歌舞伎もつまり世界に冠たる美を保存しようとすれば、その現代からはずれることが必要だろうと思います。古典としてはずれてその流れに立つことが必要だろう。そうして新しい歌舞伎の発展ということを考えるなら、いま言いました要素を持って発展さすべきだと考えます。