新今宮小・中学校沿革   

「あいりんの教育―22年(19621984)」(19843月刊)より

前史

戦前、本地区に徳風勤労学校があったが、戦災をうけ、昭和21331日で廃校になった。

その後、街頭補導などによって、不就学児の発見と就学督励が細々と続けられていた。活動の中心となったのは315月に発足した「萩町仲よし子供会」など、永田道正氏等民間篤志家であった。

35年、府青少年補導センター・西成警察署共同で不就学児実態調査が行われた結果、その数は200名にのぼることが明らかになった。しかし、行政による不就学児対策は368月に発生した第一次釜ヶ崎事件という不幸な契機を待たなければ実現しなかった。

なお31年に行われた長欠・不就学児童生徒調査によれば、中学校全国平均長欠率2.25%に対し、大阪市は3.63%を示した。その後3.2%(32年度)2.57%(33年度)と着実に低下していく。長欠率は行政区によって大きな差異があり、32年度中学校の場合、浪速区は8.7%と天王寺区の1.4%6倍強の高率であった。なお本地区の統計は不明である。

昭和

 36 81    第一次釜ヶ崎事件発生
 1219    不就学児童生徒の実態をたしかめるため、市教育委員会主催で西成市民館講堂にてクリスマス子ども会を開催 参加児童生徒は70数名
 37 1 8    くわ入れ式挙行 同月30日パイプ校舎完成 場所は藤田安次郎市の無償提供による西成区海道町5番地 西成警察署前(744u)、工費は315万円
 112    新年子ども会開催 参加児童生徒約50名 父兄に就学を勧奨し、約50名の入学願いを受理
 2 1    就学願の出された54名の児童生徒を受け付け、授業を開始、大阪市立萩之茶屋小学校分校・大阪市立今宮中学校分校の形であいりん学園と称する小学部2学級、中学部2学級編成で、仮校舎のため小学部・中学部各1教室で授業
     同日付けで府教育委員会より特殊学級(現養護学級)として認可を受ける 職員は学園主任として指導主事(港一敏)常駐、教諭2名、嘱託(主として就学に関する事務)1名、現業員1
 217    あいりん学園(分校)としての開校式を挙行
 324    修業式及び卒業式を行なう 小学校卒業生9
 612    あいりん学園後援会設立総会開催
 88    大阪市立愛隣会館落成式、学園は会館の45階に移転
 38324    小学部16名の卒業式を兼ねて修業式を行なう 中学部1名の卒業生は315日今宮中学の卒業式に参加
 41    大阪市立あいりん小学校・大阪市立あいりん中学校として独立開校、初代校長港一敏、通称名「あいりん学園」はそのままとする 中学校3学級・小学校6学級
 41・7・     あいりん小中学校後援会が教育委員会に対し、独立新校舎建設を陳情
 11・ 
 
 4212・     大阪市があいりん総合対策を発表 Aブロック案−あいりん総合センターの建設 Bブロック案−12階は保育所・児童館・生活館 35階はあいりん小中学校 6階以上は住宅 運動場は公園を利用 以降独立校舎建設を求める運動が府市に対し積極的に進められる(全港湾建設支部西成分会・市教組市会議員団・日赤奉仕団・社会福祉協議会と協闘)
 451・     朝食欠食児童生徒に対し給食の支給予算が配当される
 46120    教育委貝会が独立校舎建設について具体的計画を発表 ・場所−西成区東入船町の元労働福祉センター元市営住宅の跡地 ・建物−4階建て、L字型2400m2 200人収容 講堂、屋上プール、運動場を備える ・事業費−26千万円 ・着工−46年度 ・完工−47年度
 471221    新校舎建設はじまる
 481222    新今宮小・中学校と改称 新校舎へ移転(新住居表示 西成区萩之茶屋1-9-24)
 4931    新校舎落成記念式典挙行 校歌校章を制定
 53831    元ケースワーカー小柳伸顕氏、「教育以前」を田畑書店から刊行
 54113    玉江・小出給食調理員、教育委貝会より職務精励によりグループ表彰を受ける
 55710    あいりん地区教育対策小委員会が発足 校長会・市教組南大阪支部・PTA協議会・解放同盟・地区諸団体を結集し、児童生徒数の激減する新今宮小・中学校の将来構想や地区内諸学校に於る「あいりん教育」のあり方について意見を交換する
 5641    新今宮小学校児童数ゼロとなる
 571130    市教育長・近藤博之氏、本校を視察
 58113    吉川・野添両管理作業員、教育委員会より職務精励によりグループ表彰を受ける
 59314    中学校最後の卒業式を挙行 卒業生3
 5941    大阪市立萩之茶屋小学校および今宮中学校の分校となり、残務を引き継ぐ

徳風学校

明治447月現在の浪速区南高岸町に誕生したものである。その頃の木津今宮の1(いまの広田町・関谷町・日東町・下寺町・高岸町・船出町等)の貧困児童に対し、学校経営費として毎月35円を久保田権四郎が醵出し、木津第二の浅井清太郎校長に委嘱し開校されたものであったが、翌年6月同区広田町に移った。

はじめは夜間校であったが、大正2年には昼間部を置き、大正113月末大阪市に移管され市立徳風尋常小学校となった。

特異な環境内にあった学校のこと故、不就学児童収容のため異常な努力が加えられ、大正2年には児童浴場の設置、同13年には歯科診療の開始、同14年には公費による昼食の給与など独特のものがあった。

そして昭和9年付近の発展と校舎の狭隘、腐朽のため146,000余円で移転改築のことが市会で認められ、大正13年当区甲岸町の現西成市民館の位置に移った。

その後昭和26月小学校のわくをはずし特に運用の自由がある勤労学校に改組、貧窮児童に対する特別保護教育に全力をあげた。

しかし昭和164月小学校が国民学校と改められた際、徳風国民学校となったが、203月釜ヶ崎の戦災とともに戦災をうけ廃校となった。

写真=西成区史所収

なお昭和11年保護者の更生を図るため、従来の保護者会のほか地域の組織として今宮報徳社が設立され地域改善に成果をあげた。(「西成区史」から)

第一次釜ケ崎事件

3681日午後915分頃、東田町派出所前でドヤ街の住人柳田豊造(62)がタクシーにはねられ、その交通事故の処理問題に端を発した。その際救急車の出動が遅れたとして「警察は何をしとる」「怪我人を早く病院へ運べ」など一部日雇労働者や住民が怒声をあげはじめ、折柄夕涼みやポロ酔きげんの若い衆が集まり来り、1030分頃には約700800名になり次第に険悪化し、派出所に投石放火し半焼半壊させるに至った。

そして群衆はさらに西成署を襲い無線自動車ならびに警察本部鑑識車を放火炎上させるに至り、完全に暴徒化した。この集団暴力事件は1日をもっておさまらず83日まで毎夜40005000名をかぞえ、行動範囲も著しく拡大され、内容も兇暴化し、警戒中の警備部隊に投石するほか阪堺線および関西線に座り込み電車に対する投石等により列車の運行を妨害し、自動車を炎上さすほか、他方ヤクザが自警と称して町をねり歩き険悪な情勢がつづいた。

かくて遂に警察は局地的早期鎮圧を図るため、3日府警最大の警備態勢をもって52箇中隊(6000余名)を投入して徹底的に悪質不法行為者の検挙を強行し、暴徒化した群衆を分断分散した結果事件は大きく好転し以後局部的に小事件はあったが、6日目には完全に平静となった。

しかしその後1ヵ月間はなお警備体制が強化され、投入警察官の数は、延105,266名におよび、第1日目からの警察の経費は7000万円、逮捕者111人におよび、戦後の暴動としてはまさに安保闘争に際しての国会デモ以来のことといわれた。(「西成区史」から)


附帯資料


参考となるもの
●「あいりんの教育 22年」 1984年3月31日 大阪市立新今中学校 大阪市立新今小学校(ファイル1pdf2pdf3pdf4pdf5)
●あいりん地区に於けるスラム対策の現状と問題点−昭和48年3月
●大阪市直営「貧民」学校の設置・廃校過程とその背景 赤塚康雄 部落解放研究 50号 1986年 kiyou_0050-10.pdf
●「どんぞこのこども−釜ヶ崎の徳風学校記」 碓井隆次著 教育タイムス社 1966年6月13日
 1968年3月1日第4版(普及版) 目次:
1.釜ヶ崎の石碑
 (学童保育会・釜ガ先?・徳風学校記念碑・福祉センターの焼失・釜ヶ崎案内、往き・釜ヶ崎案内、帰り) 
2.大阪南のドン底生活(明治時代)
 (長町貧民窟・にせの飴屋・飴屋の見た人びと・汽車長屋・コレラ大流行・大きくなった貧民窟・蜂の巣部落夜景・警察の貧民調査隊・ドン底の父子)
3.不就学のこどもたち
 (署長に石を投げたこどもたち・マッチ工場の幼年工・きらわれた工場学校・貧人小学・名護町の学校・愛染橋夜学校・語気の強い知事の訓令・一校分の不就学児童)
4.徳風学校・有隣学校の開校
 (なぜ署長が?・まず身支度・血だらけのけんか・南無阿弥陀仏の開校式・徳風学校の開校予告記事・徳風学校開校式・徳風保育所、徳風施療院・「警察の熱心」・「救済趣味」・校名の由来)
5.大正時代の歩み(私立学校時代)
 (校舎新築・特殊学校・貯金の返事・給食が出席をよくする・皆出席に月一円(有隣校)・工場法とこども(愛染校)・北の貧民校(心華校)・その他の貧児学校・好景気で減る児童(有隣校)・朝の給食、校長のお給仕・師団長と市長・簡易食堂の宴会・慈善餅さわぎ・職業事情・なぜ貧乏・芸者志望・私生児の群・かなが読めないもの5割・薬よりも飯)
6.公立勤労学校へ(大正末から昭和初期)
 (有終の美をなす・東京の特殊小学校・御内帑金・勤労学校とは?・歯科診療室・はだしの学校・補習科教室・長柄の 豊崎勤労学校・木工、給食、風呂(豊崎校)・勤労学校のモデル(豊崎校)
7.木賃宿のこども(釜ヶ崎へ)
 (通天閣を遠巻くスラム・スラム南進・木賃宿の貧客・太陽のないこども・ひろい屋、そしてコソドロ・テント張りのお伽学校・汽船三等室の長旅・釜ヶ崎の校舎新築・家庭の状況・児童の状況・鍋持ち、釜持ち)
8.生活の教育とドヤ巡視
 (学校概況・給食・生活の学校・新しい展開・清掃奉仕・日掛貯金・「鶏晨回邑」・校下巡視録1〜3)
9.今宮報徳社
 (同窓会、保護者会・今宮報徳社・スラム転落・更生の歩み・「総動員体制」の釜ヶ崎・参観者の声・国民学校へ、戦災)
10.善意の人びと
 (善意と商魂・久保田権四郎と徳風学校・新田長次郎と有隣学校・高倉藤平と心華、徳風両校・石井十次、大原孫三郎と愛染橋夜学校・鳥井信次朗と徳風学校・中山太一と徳風学校
●「ここに光を求めて−忘れられた釜ヶ崎の子等と共に」  永田道正著 文化出版社 1968年10月
●「あいりんの子どもたち−子どもセンター建設に向けて」 あいりん子ども研究会 1974年1月5日
 目次:はじめに/第1部あいりん地区(あいりん地区の概況・あいりん地区の子どもと生活・児童相談所の窓口から青空保育/第2部子どもの遊び調査報告(子どもの遊び調査の概要・あいりん地区の子どもと遊び・小さくなった遊び集団) 第3部座談会−調査を終わって/まとめ
●「教育以前−あいりん小中学校物語」 小柳伸顕著 田端書店 1978年8月30日
 目次:物語その1−入学相談・物語その2−就籍・物語その3−転校・物語その4−あいりん小中学校小史・あとがき


参考(新聞記事)




跡地のその後

新今宮小・中跡 「西成子ども教室」に 「考える会」の訴え実る

59年に廃校になった西成区・あいりん地区の市立新今宮小、中学校校舎で、市教委が15日から学童保育形式の「西成子ども教室」をスタートさせた。校舎などの跡地を「労働者と子供たちが共に利用できる“生活センター”の場にして」と、訴えてきた「新今宮小中学校跡地利用を考える会(岡林治代表)の運動が一部実った。

「西成子ども教室」は、校舎一階の元保健室やプレーホールなど4室と運動場などを活用、指導員4人が、近くの幼児から中学生までを対象に卓球やボール遊び、絵画や読書、勉強を指導している。

付近の幼稚園、保育園児から中学生までの3040人が集まってきて、放課後の時間を過ごしている。平日は午後4時−6時、土曜日は午後2時−6時、休日は午前10時−午後6時。11月から3月までは平日、土曜日の時間が30分−1時間繰り上がる(月曜休館)

新今宮小、中学校は、37年、あいりん地区の未就学児童、生徒に教育を受けさせる目的で発足した。最盛期には約200人の在校生がいて、48年には鉄筋4階建ての新校舎になったが、周辺校の未就学児らの受け入れが進むなどして児童、生徒数が減り、59年3月で廃校に。

校舎や運動場はそのまま残り、近くの市立萩之茶屋小、今宮中のクラブ活動やPTA会合などに使われていたが、市教組南大阪支部や「釜ケ崎生活センターを創る会」などが、「あいりん地区の子供たちは遊んだり、勉強したりする場が十分確保されていない」として、「考える会」を発足させ、日雇い労働者と子供たちが一緒に本を読んだり、遊んだりできる場を」と、一昨年秋、約1万8千人の署名を集めて市教委などと交渉してきた。

「西成子ども教室」のオープンで、要求の一部は実現したが、「午後9時までは開けていてほしい、という願いや、地区の労働者も利用できる施設に、という要望は受け入れられておらず、まだまだ不十分。今後も引き続き要求していく」(竹之内善久・「考える会」事務局長)としている。

1987721日 毎日新聞